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闘いの歴史

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【徳川慶喜という不可解な将軍】

2021-08-27
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【徳川慶喜という不可解な将軍】
 「鳥羽伏見の戦い」で、大坂城から不可解な退却をしてしまい、続く戊辰戦争の帰趨を方向付けてしまった総指揮官として、徳川慶喜という人物に興味を感じた。将軍職にあったのはたった一年余りであり、その間、「大政奉還」を奏上し、徳川幕府の消滅に立ち会った「最後の将軍」としてのみ、記憶に残されている。
 徳川慶喜は、天保8年(1837年)9月水戸藩第9代藩主「徳川斉昭」の七男として生まれ、幼名は松平七郎麻呂(以後も改名があるが「慶喜」で統一する)とされた。慶喜の聡明さは幼時から注目され、斉昭は、継嗣慶篤の控えとして、慶喜を他家の養子に出さず手許に置く考えもあったという。
 弘化4年(1847年)8月、十歳のとき、御三卿(御三家に次ぐ家格の徳川家)の一つ、一橋家の養子となり相続、「一橋慶喜」となる。嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に12代将軍家慶が病死、跡を継いだ第13代将軍徳川家定も病弱で、将軍継嗣問題が浮上する。
 「一橋慶喜」を推す実父で水戸藩主の斉昭や阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬らの「一橋派」と、紀州藩主「徳川慶福」を推す彦根藩主「井伊直弼」や大奥で家定の生母本寿院などの「南紀派」が対立した。まもなく阿部正弘・島津斉彬の死で一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に井伊直弼が大老となると、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。井伊直弼がすすめた「安政の大獄」では、慶喜も隠居謹慎処分とされた。
 安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、謹慎を解除され、島津久光らの後押しを受け、慶喜が将軍後見職に、松平春嶽は政事総裁職に任命され、両者は手を組んで幕府中枢に関与し、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などの幕政改革を行う。
 慶喜本人は、将軍継嗣に乗り気ではないというような主旨の手紙を、実父斉昭に送ったりしているが、どこまでが本音でどこまでが建前なのか、いずれとも取れる行動を取っている。将軍後見職についたあたりから、否応なく慶喜の意向が表面に出て来ることになるが、同時に、時代の流れに沿って、その方向が微妙に揺らぎをみせる。
 文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、将軍徳川家茂が上洛することとなったが、慶喜は将軍の名代として先行して上洛、朝廷との交渉にあたった。朝廷側の国政に対する態度は曖昧なまま、一方で幕府に攘夷の実行を命じるなど、交渉は不成功に終わった。
 そんな中、強力な攘夷主義者であった孝明天皇が、石清水八幡宮へ攘夷祈願に行幸することになった。随行した将軍が天皇から節刀拝受すれば、攘夷決行が必須となるので、急遽、風邪発熱との仮病で、家茂の拝謁を取りやめさるといった策略も用いている。
 江戸に戻った慶喜は、横浜港鎖港による攘夷実行という方針を策定し、公武合体派諸候幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛する。ここで横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立すると、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席の伊達宗城、春嶽、久光や中川宮に対し暴言を吐くなどして、参預会議を解体させ、手段を選ばぬ交渉を行なった。
 参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。同年7月に起こった「禁門の変」においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、歴代の徳川将軍の中で唯一、長州兵と切り結ぶなど、武勇をも示した。
 禁門の変を機に、慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄、会津藩・桑名藩らとの提携を強化していった。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐で、慶喜が長州征伐の勅命を得て出陣する。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫する中、7月20日、将軍家茂が大坂城で薨去する。慶喜は急遽、休戦の協定の締結する。
 家茂の後継として、慶喜が次期将軍に推されたが、慶喜はこれを固辞し続け、12月5日にようやく第15代将軍に就任した。この就任固辞も、恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていくという「政略」だったという説もある。この時期の慶喜は、明確に開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった。
 慶喜は、将軍在職中一度も畿内を離れず、会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携をとり、実質的に政権の畿内への移転が推進された。さらに慶喜は、幕府を支持するフランスからの援助を受け、近代的な製鉄所や造船所を設立し、フランス軍事顧問団を招いて軍制改革を行うなど、幕府軍の近代化を推進した。
 しかし、先に近代化を進め力をつけた薩長が連合し、武力での倒幕路線に突き進むことを必至と見た将軍慶喜は、慶応3年(1867年)10月14日、薩長の機先を制して政権返上を明治天皇に奏上した(大政奉還)。慶喜は、当時の朝廷には行政能力が無いと判断し、合議制の「列侯会議」を主導する形で、徳川政権存続を模索していたとされる。外憂に加えて内乱の危機が逼迫する状況下で、慶喜は窮余の一策を講じたのであった。
 大政奉還後、慶喜主導での諸侯会議で雄藩連合政府を目指したが、12月、薩摩藩ら討幕派は朝廷クーデターを起こし、制圧した朝廷からは、慶喜ら幕府方勢力を排除した新政府樹立宣言(王政復古の大号令)が発せられた。辞官納地を求められた慶喜は、衝突を避けるべく、恭順の意を示して一旦大坂城へ退去する。
 しかし、翌慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、京都に向け進軍の命令を出し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る(鳥羽・伏見の戦)。勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、少数の近辺者とともに「謎の退却」を為し、幕府軍艦開陽丸で江戸に帰ってしまう。
 以降、戊辰戦争が進展し、「江戸城開場」とともに、慶喜はすべての官職を解かれ、水戸に蟄居、さらに駿府に移封され謹慎する。戊辰戦争の終結とともに謹慎を解除され、引き続き静岡(駿府)で余生を送った。隠居後は、政治的野心は全く持たず、潤沢な手当をもとに写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送った。維新後の旧家臣達の困窮にも無関心で、大正2年(1913年)11月急性肺炎で死去するまで悠々自適であったという。享年77。
 このような生涯を送った徳川慶喜を、どのような人物として見るか。将軍としては、英明ではあるが自ら行動の人ではなかった。祖先徳川家康のような策略家では毛頭なく、その場をしのぐ策を弄したという程度であり、ある意味、冷静沈着ではあるが、節目では大政奉還のような、周辺を驚かすような奇策を発することもある。
 周囲に人望があったのかなかったのか、それを窺わせるようエピソードも見当たらない。むしろ冷淡な人物で、周囲も遠巻きで接していたのではないかと思われる。晩年の徹底した趣味人としての生き方こそ、徳川慶喜の生来の姿を示しているのではないか。いずれにせよ、徳川将軍には、全く不向きな人物だったのではないだろうか。
$『徳川慶喜 最後の将軍』(司馬遼太郎/1997年/文春文庫)

特別展示“広岡浅子と五代友厚・渋沢栄一”

2021-08-25
Facebook 大同生命保険株式会社さん曰く
◎特別展示“広岡浅子と五代友厚・渋沢栄一”の開催
 <大阪企業家ミュージアム、9月7日(火)~
  11月30日(火)>
大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区)にて、特別展示“広岡浅子と五代友厚・渋沢栄一~近代化へのビジョンと現代へのメッセージ~”を開催します。
明治維新により存亡の危機に陥った豪商・加島屋を立て直し、大同生命の創業に関わった「女性実業家のさきがけ」広岡浅子、「大阪の恩人」五代友厚、「近代日本資本主義の父」渋沢栄一。
同じ時代を生きた3人の関わり合いやめざした未来、いまを生きるわれわれに残したメッセージなどを、実業や社会貢献活動の視点から探ります。
ご都合がよろしければ、ぜひお立ち寄りください。
・日時  9月7日(火)~11月30日(火)
     火曜~土曜 10:00~17:00
     (入館は16:30まで)
・休館日 日曜日、月曜日、祝休日
・場所  大阪企業家ミュージアム
     大阪市中央区本町1-4-5
     (大阪産業創造館地下1階)
・見学料 大人300円

NHK特集 85歳の執念 行革の顔・土光敏夫

2021-08-22

2007年度の国債発行残高は680兆円を超えている。
発行残高が82兆円を超え「国家財政は危機に瀕している」といわれた1981年(昭和56年)、この局面を打開するため「第二次臨時行政調査会」、通称「第二臨調」が生まれた。
会長は「増税なき財政再建」を目指す、土光敏夫氏。
番組では土光氏の日常に密着し、行政改革に執念を燃やす男の姿を追った。

あの人に会いたい 「技術者 本田宗一郎」

2021-08-22

山口淑子(李香蘭) 中国での思い出を語る 

2021-08-22

山口淑子(李香蘭) 中国での思い出を語る vol.1 奉天(瀋陽)での淡谷のり子さんとの出遭いも語る 1991年8月 ★山口淑子さん 71歳時 (国会議員引退の1年前)

山口淑子(李香蘭) 中国での思い出を語る vol.2 北京飯店での記者会見で "中国人としての誇りは何処にあるのですか!"と詰問される 1991年8月 ★山口淑子さん 71歳時

闘いの記録 (戦争と人間)

昭和17年(1942年) [日系人強制収容所]米国ワイオミング州、 彩色でなくカラーフィルム写真

2021-11-26
Facebook 手塚健二さん曰く、お盆を迎え盆踊りの着物の女性
昭和24年(1949年) 神奈川県三崎町 [正月 晴れ着の少女たち]
アメリカ人 駐留者の撮影

「被爆者・坪井直さんのメッセージ▽家族が語った最期の言葉

2021-11-15
クローズアップ現代+
長年、核兵器廃絶を訴えてきた坪井直さんが先月、96歳で亡くなった。爆心地から1.2キロで被爆。40日間生死をさまよい、目覚めたとき口にしたのは、アメリカへの憎しみだった。しかし、5年前、オバマ大統領が広島を訪れた際には、「我々は未来に行かにゃいけん」と前向きな言葉を語りかけた。憎しみをどう乗り越え、どんな未来を見ていたのか。NHKの独自映像と、家族や薫陶を受けた若者たちへの取材から、一人の被爆者が、未来に遺そうとしたメッセージを伝える。

91歳 「オバマと会った被爆者」が伝えた思い

2016年、坪井さん91歳のとき。アメリカのオバマ大統領(当時)が、現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪問。坪井さんは被爆者代表として、その場に参列しました。

原爆を投下した国・アメリカの大統領に、被爆者代表は何を語るのか。謝罪を求めるのか否か。世界中のメディアが注目する中、坪井さんはオバマ大統領の手を取り、笑みを浮かべながら語りました。


「被爆者の坪井直と申します。被爆者としては、そのこと(原爆投下)は人類の間違ったことの一つ。それを乗り越えて、我々は未来に行かにゃいけん。オバマさんがプラハで言った、『核兵器のない世界』、私たちも行きますよ」

核兵器廃絶へ「ネバーギブアップ」

原爆によって多くの命が失われてから、76年。坪井さんは自らも度重なる病で生死の境をさまよい、アメリカへの憎しみを抱えて生きてきました。それでも、憎しみを乗り越えて理性で「核兵器廃絶」を訴え続けました。そして貧血による不整脈のため、96歳で亡くなりました。

その功績は、世界で評価されています。

長崎です。

2021-11-14
『読売新聞』、2021.11.14朝刊

◎明治六年政変/征韓論政変

2021-11-13
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1873(m6)年】-3
◎明治六年政変/征韓論政変
*1873.10.23/ 明治天皇が、岩倉具視の奏上をいれて、西郷隆盛の朝鮮派遣中止を決定する。西郷は、参議・近衛都督を辞任する。これをうけて、副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の各参議も辞表提出。(明治六年政変/征韓論政変)
 「明治六年政変」(1873年)は、征韓論に端を発した一大政変であり「征韓論政変」とも言われる。征韓論の対立に関しては「岩倉使節団」(1871年)で触れたが、単純化すれば、征韓論を推進した西郷ら「留守政府派」に対して、帰還した大久保・木戸らの「使節団派」が中止させたということになる。
 ロシア・清の潜在的脅威をふまえて、防波堤として押さえておきたい朝鮮を従属させようという「征韓論」に対して、近代化を為し遂げた欧米を視察した使節団は、その前に国力を充実させるべきだと対立した、というのが教科書的な説明になるが、これだけでは何か腑に落ちないものが残る。
 西郷隆盛は必ずしも武力による征韓論ではなく、自らが全権大使となって訪韓するという「遣韓論」であって、直接派兵派の板垣退助、江藤新平らも最終的にこれに同意し、一旦は西郷の使節派遣に決まった。しかし、帰国した大久保利通らはこれに反対し、結局は岩倉具視に諮って覆してしまった。
 派遣中止決定会議の当日、西郷は参議を辞任、同調した板垣、後藤、江藤、副島の参議も翌24日に辞表を提出し、参議半数の5人が下野した。さらに、西郷に同調する薩摩出身者らを始め、政府高官・官吏、将校・軍人など約600名が辞職帰郷する事態に発展、まさに政府・官僚を真っ二つに割る大政変となった。
 この政変で下野し帰郷した要人らに率いられて、佐賀の乱(江藤新平)、萩の乱(前原一誠)、西南戦争(西郷隆盛)など一連の「不平士族の乱」が引き起こされることになり、それらが完全鎮圧され武力による反乱不可能となると、今度は言論による「自由民権運動」(板垣退助ら)へと、政府批判の運動が継がれていった。
 大久保利通の反対論には、表に出ない要因や感情的な反発などもあっただろうが、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が多数存在するという主張には一理があった。まずは内政を充実させることが優先し、その上で、清との琉球帰属問題、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正など、明治新政府が片付けていかねばならない国際問題は山積していたのである。
一方で、留守政府を仕切った西郷隆盛は、強兵で国力を高めることが第一と考えていたことは間違いない。その過程で、徴兵制が施行されたあとの旧藩士の処遇に頭を痛めていたことと考えられる。そのような士族の一種の失業対策として、朝鮮半島へ向けるという考えもあったのであろう。
 西郷は幕末・維新の節々で重要な役割を果たしたが、いったん事が落ち着くとすぐに身を引いたりしており、一貫して内政実務を遂行したという印象が薄い。軍政には長じていても、内政実務は苦手だったのではないだろうか。薩摩藩の藩政改革に携わるうちに、幕府は駄目だと見切るに至り倒幕に踏み切ったが、必ずしも、明瞭な近代国家像を思い描いていたわけではなかったと思われる。 
 そのため内政の判断においては「情」に流されることも多く、勝海舟との江戸無血開城談義は、むしろそれが良い方向に働いた例、一方で征韓論では、下級士族への情的配慮が先行したのではなかっただろうか。かくして下野して薩摩に戻ると、不平士族に取り巻かれて、やがて西南戦争へと引き込まれることとなった。
 征韓論問題とは、はたして時の政府を二分してしまうほどの緊喫な課題であったかどうか。その裏には、使節外遊派と留守政府派との対立が基調にあり、さらに旧藩閥間の勢力争いなどもうごめいていた。留守政府では、西郷のもとで、後藤象二郎・江藤新平・大木喬任が参議に新任され、薩摩に加えて佐賀、土佐出身者の重用が目立ちだした。
 それに対して長州派は、山縣有朋や井上馨が汚職問題に絡んで要職を辞任することになり、留守政府での立場を弱めていたため、外遊から帰国した伊藤博文たちは、大久保と西郷を対立させるなどの工作を行った。なかでも司法卿江藤新平は、疑獄に絡んだ山縣や井上を厳しく追及し、辞任に追い込んだ宿敵と見なされた。
 江藤新平は、いち早く三権分立(特に司法の自立)と議会制を基本とした君主国家を構想し、郡県制(廃藩置県)により中央集権を図り、封建的身分制度を排して四民平等を称えるなど、英仏を範とする法制度を中心にした法治国家を目指した。それゆえ、情実で利権を貪る薩長藩閥高官などには、厳しい方針で対したため、敵も多くかかえた。
 行政権を掌握して、プロイセン風の強権的近代化を推進する大久保利通とも、対立するようになっていたが、その時に征韓論問題が起こった。留守政府の一員として、征韓論には賛成派となったが、これは大久保、伊藤など反対派による、江藤追い落としの格好の材料となった。このように、「征韓論政変」の裏側では、さまざまな力学が働いていたと考えられる。
 江藤新平は下野すると、板垣・後藤らが主導した「民撰議院設立建白書」に署名したあと、佐賀に帰郷する。佐賀で不平士族らに担がれて、最初の大規模不平士族の反乱と言われる「佐賀の乱」を引き起こすも、大久保利通内務卿の手配のもと、政府軍部隊によって鎮圧され、捕縛された江藤は「梟首刑(晒し首)」とされた。
 江戸時代の刑罰で、当時の規定には無い「梟首刑」は大久保の指示で、反乱の見せしめとして、即断実行された。皮肉にも、江藤が目指した司法による公平な裁判でなく、旧制度のもとで極刑に処せられたのであった。
『明治六年政変』(毛利敏彦著/中公新書/1979)
(追補)
 征韓論政変は、外交問題での対立というより、岩倉使節団外遊中に、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助ら、肥前・土佐藩勢力が増して、一方、山縣有朋が汚職で追い落とされたり、内政重視派の大蔵大輔井上馨が孤立するなどで、勢力が下降した長州藩勢力第2世代の伊藤博文らが、江藤・板垣ら肥前・土佐勢追い落としに仕掛けた内政クーデターだと思われる。
 江藤・板垣らが下野して反政府勢力となるのは織り込み済みだったが、西郷までもが政府を去るのには、さすがの大久保利通も驚いただろう。西郷は、ごたごたした新政府の内政は苦手で、維新後の自分の役割は済んだとも認識していただろうし、引き際をうかがっていたので、この機会に降りることにしたのだろうと思われる。

「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)
織田信長と摂津国石山本願寺に拠る本願寺第 11世顕如との間で元亀1 (1570) 年から天正8 (80) 年までの 11年間にわたって続けられた合戦。室町時代中期以降,浄土真宗 (一向宗) 教団の伸張は著しく,一向一揆は,領主,守護大名などに対する戦いを広範囲に展開した。本願寺第 10世証如は,第8世蓮如の建立した石山道場を同宗の本寺とし,寺域を広げ,防備を固め,門前に新興商工業者を集め,やがて同寺は一大領主勢力に発展した。浅井,朝倉両氏を討って全国統一を目指す織田信長は元亀1年,本願寺打倒に立上がり,本願寺はその興廃をかけて全国門徒を対信長戦に駆りたてた。以来,天正8年3月,顕如が信長と和して本願寺を信長に渡し,同年4月,紀伊雑賀 (さいが) に退くまで合戦は続けられた。この間,信長は一向宗門徒を近江,長島,雑賀に討ち,浅井,朝倉両氏を滅ぼし,武田氏を長篠に討ち,さらに伊勢に北畠氏を滅ぼし,一方,中国征伐の軍を起すなど,本願寺を孤立させていった。石山本願寺の降伏は,信長の畿内および周辺に対する政権の確立を意味する(百科事典マイペディア「石山合戦」)。

闘いの転機(戦いの前と後)

北朝鮮、新型巡航ミサイルの発射「成功」 朝鮮中央通信

2021-09-14
北朝鮮が11日、12日に実施した新型長距離巡航ミサイルの発射実験(朝鮮通信)
2021年9月13日 7:04 (2021年9月13日 12:40更新)

【ソウル=恩地洋介】北朝鮮の朝鮮中央通信は13日、兵器の開発機関である「国防科学院」が11、12両日に新型長距離巡航ミサイルの発射実験に成功したと伝えた。ミサイルは上空に設定した「楕円および8の字形の軌道」に沿って2時間6分20秒間にわたり1500キロメートル飛行し、目標に命中したとしている。

北朝鮮のミサイル発射が確認されたのは約6カ月ぶり。今年3月21日に巡航ミサイル、25日に短距離弾道ミサイルをそれぞれ発射した。

「遂に一線越え?」韓国最高裁、三菱重工業の国内商標権・特許権の差し押さえを確定=韓国報道

2021-09-14
韓国最高裁、三菱重工業の国内商標権・特許権の差し押さえを確定(画像提供:wowkorea)
2021/09/13 20:07配信 Copyrights(C) Edaily wowkorea.jp 99最終更新:2021/09/13 21:46
「遂に一線越え?」韓国最高裁、三菱重工業の国内商標権・特許権の差し押さえを確定=韓国報道(WoW!Korea) - Yahoo!ニュース

韓国最高裁は日本統治時代の元徴用工・元朝鮮女子勤労挺身隊員らに対する賠償命令を履行していない日本の三菱重工業の差し押さえ命令の再抗告を棄却した。

最高裁第1部は10日、三菱重工業が元徴用工・元朝鮮女子勤労挺身隊員ヤン・グムドク氏などを相手に出していた韓国内の特許権および商標権の差し押さえ命令に対する再抗告を棄却したと、13日に明らかにした。

2018年に元徴用工とその遺族らは三菱重工業を相手に損害賠償を請求して勝訴が確定した。裁判所は被害者1人当たり1億~1億5000万ウォン(約940~1400万円)を支給するよう命令したが、三菱重工業はこれを履行しなかった。

しかし、元徴用工と遺族らはテジョン(大田)地裁を通じて三菱重工業が所有する韓国内商標権2種類と特許6件の差し押さえを申請し、裁判所がこれを認めた。三菱重工業はこれに反発して再び抗告したが、最高裁が最終棄却した。

この判決に対して日本側は遂に「実害発生」や「一線越え」と受け止めるのか注目される。

アーチャーフィッシュ:72,000トンの空母信濃を沈める

2021-09-13
東京湾での海上試験中に進行中の信濃

アーチャーフィッシュ(SS-311)はトキストイド魚にちなんで名付けられたバラオ級潜水艦でした。射手魚は、獲物をスタンするために水の高圧流れを撃つ熟練した捕食者です。第二次世界大戦中、その名前は太平洋の脅威でしたが、潜水艦は1944年に日本の空母信濃に何をしたかで最も注目に値します。

アーチャーフィッシュの物語は、彼女のキールがポーツマス海軍工廠で1943年1月22日に敷設されたときに始まりました。建設後、彼女は5月28日に打ち上げられ、洗礼を受けました。アーチャーフィッシュの打ち上げは、当時エレノア・ルーズベルト夫人の個人的な秘書だったマルビナ・C・トンプソン氏によって後援されました。

ジョージ・W・カール中尉は、1943年9月4日にポーツマスで就役した後、ボートの最初の指揮官となった。


アトゥとキスカのあまり知られていない戦い

2021-09-13
第二次世界大戦中に失われた唯一の米国の土壌を取り返す

942年にアラスカ近郊の寒さで荒涼とした北極で、日本軍は静かに侵略し、北米の土壌と考えられているアリューシャン諸島の2つを引き継ぎました。まず、6月6日、彼らはキスカ島の海軍気象台で9人のアメリカ人囚人を連れて行き、翌日、アトゥ島で45人のネイティブアリューツとオハイオ州からアメリカ人カップルを捕らえました。


考古学者によると、これらの2つの島は非常に遠く、不毛なので、Attuは、より最近のロシアの毛皮のトレーダーによる発見の前に、数百年で最大5000人の住民しか持っていませんでした。彼らが到着したときでさえ、1人の立ち往生したロシア人は、他の船が到着する前に7年待ち、彼は去ることができました。

第二次世界大戦が起こるたびに、島々はまばらに住んでいましたが、太平洋で日本人に対する恐怖の高まりは、悲しいことにアメリカの領土当局にネイティブのアリュートの住民をアラスカの強制収容所に移すよう促しました。880人のうち、75人が2年間の抑留中に感染症のためにキャンプで死亡した。悲しいことに、被害を受けたのは避難者だけではありませんでした。アメリカ合衆国は、島からすべての民間人を避難させなかった - 43ネイティブアリューツとアメリカのカップルはまだアトゥにいた。

途中:6分間の怒り

2021-09-14
ミッドウェイ海戦中の米海軍空母USSヨークタウン(CV-5)に搭乗したシーン、1942年6月4日に3つの日本の爆弾に襲われた直後

それは1942年6月4日の午前10時過ぎ、ミッドウェイ上空であり、航空グループの司令官C.ウェイドマクラスキージュニアは彼の手に厳しい決断を下しました。彼の急降下爆撃機のグループは、近くにあることが知られている日本の大規模な空母グループを探していましたが、すでに燃料が不足していましたが、敵がどこにいるかはまだわかりませんでした。

その後、太平洋の雲が一瞬離れ、マクルスキーは敵の駆逐艦が高速で走り去った後流を発見しました。それは嵐であり、マクルスキーはそれが日本艦隊に戻ると推定した。彼の危険な燃料状況にもかかわらず、彼は追いかけることに決めました。それは太平洋戦争全体の中で最も重要な決定だったのかもしれません。

4月18日の東京でのドーリットル空襲以来、真珠湾のアメリカの諜報機関ハイポは、日本人が彼らの防御境界をさらに東、北にアリューシャン列島、そして南にある地点に押しやることによってドゥーリトル攻撃に対応するつもりであるという明確な感覚を持っていた太平洋中部のどこか。その中点(傍受された日本の通信ではAFと呼ばれる)は、ハワイの西約1300マイルにある小さな環礁であるミッドウェイであると考えられていましたが、誰も確信していませんでした。

戦いの数ヶ月前のミッドウェー環礁。東の島(飛行場がある)が前景にあり、より大きな砂の島が西の背景にあります。

その後、5月下旬、太平洋艦隊司令官のチェスターニミッツ提督が巧妙な策略を行い、ミッドウェーのアメリカ軍基地が蒸発ユニットが故障したことを示すメッセージを送信しました。その後まもなく、新たに傍受された日本の通信は、AFの水分蒸発ユニットが壊れたと述べた。ビンゴ。

日本の計画は、ミッドウェーを脅かし、アメリカ艦隊に対応を強要し、接近した艦隊を待ち伏せして、アメリカ海軍を太平洋戦争から完全に追い出すことでした。同時攻撃は、アラスカ準州の一部であるアリューシャン列島のアッタ島とキスカ島に対して開始され、これはアメリカ領土への足がかりを得るためでした。それは野心的な計画でした。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

政局について

日米豪印首脳会合、訪米の様子を動画にまとめました。

2021-09-27
Facebook 首相官邸さん曰く、ご覧ください。
菅政権1年間の軌跡 令和2年9月16日~

菅政権1年間の軌跡をまとめました。
最後の一日まで国民のために働く内閣として全力を尽くします。

老兵の願い・・・。

2021-09-27
読売新聞(2021.09.27)朝刊さん曰く

【自民党総裁選】国民の声に応える政策討論会④

2021-09-27
Facebook 自由民主党さん曰く、 4日目のテーマは「憲法改正、少子化・人口減少対策、地方創生、スポーツ文化振興、 教育・人への投資」です。

国民の皆さまから寄せられた質問に自民党総裁選候補者が直接お応えする政策討論会を、オンラインで4日間連続で開催します。
4日目のテーマは「憲法改正、少子化・人口減少対策、地方創生、スポーツ文化振興、 教育・人への投資」です。ぜひご覧ください。

【総裁選CafeSta】河野太郎候補特番

2021-09-27
Facebook自由民主党さん曰く、#02 河野太郎の素顔に迫る

【総裁選CafeSta】野田聖子候補特番#02 こどもまんなか政治(2021.9.25)

2021-09-25
Facebook 自由民主党さん曰く、#02 こどもまんなか政治(2021.9.25)
【総裁選CafeSta】野田聖子候補特番#02 こどもまんなか政治(2021.9.25)
自民党総裁選が9月17日告示、9月29日開票で実施されます。
選挙期間中は、候補者もしくは応援団がカフェスタを使い独自の番組を放送します。ぜひご覧ください!
※各候補に割り当てられた総放送時間は90分です。
【番組詳細】
タイトル:こどもまんなか政治                             
内  容:社会全体でこどもの誕生や成長を支え、虐待や貧困などに対する持続可能で誰一人取り残すことがない育成環境の整備の必要性について
出  者:野田聖子 候補、三原じゅん子 参議院議員
■野田聖子候補の情報はこちら

闘いすんで 陽が暮れて・・・

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

勝新太郎さんと田宮二郎さんというより、「悪名」の二人・・・。

2021-11-22
Facebook 石山 裕子さん曰く、勝さんお若いです。田宮さんカッコいいです。

ジョニーという生き方

2021-11-25
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

日曜日も 終わりそうね

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。
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