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闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-04-09
とうじょう‐けんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。
五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

闘いの記録

【5,500億円の新型エアフォースワン】デザインを一新!? 空飛ぶホワイトハウス "VC-25B"

2021-04-11
アメリカ合衆国大統領専用機エアフォースワン
ボーイング747-8インターコンチネンタルをベース機に開発中の新型エアフォースワンVC-25B 伝統のデザインを一新し、新たな塗装に変更されるのか? 空飛ぶホワイトハウスとして様々な改造が施されるVC-25Bの総予算は5,500億円以上

海上自衛隊 "US-2飛行艇"の機内映像 in グアム (2020)

2021-04-11
2020年2月25日、グアム :海上自衛隊のUS-2飛行艇によるコープ・ノース20共同救助演習中のデモンストレーション飛行。
コープ・ノース20演習は、主にグアム・アンダーセン空軍基地で行われる、米空軍、米海軍、米海兵隊、日本航空自衛隊、オーストラリア空軍による3ヶ国合同演習です。 今年は初めて海上自衛隊が新明和US-2水陸両用機を持ち込んで人員救助訓練が行われました。

「密着!国産輸送機C-2」航空祭飛行展示機内・空撮シーン【本編DVD&BD&オンライン配信中】

2021-04-11
ドキュメンタリー「密着!国産輸送機C-2」より航空祭飛行展示の冒頭シーンを限定公開。
C-2輸送機の離陸から編隊飛行までを機内から撮影した映像です。手前に映るのはC-2輸送機初の女性パイロット。

ワシントンハウスです。

2021-04-11
東京のど真ん中にアメリカがあった時代がありました。

Fcebook 福田 晋也さん曰く


ワシントンハウスです。
東京のど真ん中にアメリカがあった時代がありました。
其処に住んでいた一人にジャニー喜多川さんがいました。
ジャニーさんは子供たちを集めて野球チームを作ります。
それが後のジャニーズになりました。

沖縄返還は嬉しいビッグ二ュースでしたよね。

2021-04-10
Facebook オオシロ ヒデナガさん曰く
車は右から左へ!

闘いの転機

世代交代です。

2021-03-16
Facebook原 孝司さん曰く 本日の岐阜基地。 春本番を思わせる温かさ。
間もなく退役を迎えるF4が、フックランディング。 そして、F15は迫力のハイレート。

昭和21年、上野駅の浮浪児。

2021-03-16
Facebook永井由紀夫さん曰く、赤十字の女性からお菓子をもらい、涙を拭いてもらっている

闘いの島は、今・・・。 

2021-03-15
外洋練習航海中の護衛艦「ゆうぎり」、練習艦「せとゆき」「はたかぜ」は、硫黄島付近を航行した際、硫黄島の海自隊員に激励されました。各艦の乗員は、熱いエールに応え、今後の訓練に一層励むことを誓いました。
Facebook防衛省 海上自衛隊 (Japan Maritime Self-Defense Force)

◎ベルサイユ講和条約 *1919.6.28/ 「ベルサイユ講和条約」が調印される。

2021-03-15
Facebook佐々木信雄さん曰く
◎ベルサイユ講和条約
*1919.6.28/ 「ベルサイユ講和条約」が調印される。
 ベルサイユ条約は、1919年6月28日にフランスのベルサイユで調印された、第1次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称である。第1次世界大戦の終結を受けて、1919年1月18日から、フランスのパリで世界各国の首脳が集まり「パリ講和会議」が開始され、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際協調体制構築についても討議された。
 パリ講和会議の結果、連合国とドイツの間で締結された講和条約は、パリ郊外のベルサイユ宮殿で調印されたため「ベルサイユ条約」と呼ばれる。そして、この条約や関連諸講和条約によってもたらされた国際秩序を、「ベルサイユ体制」という。パリ講和会議は、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの理想主義を基調に進められ、「国際連盟」の成立など、平和秩序の維持を希求したが、それを支える現実的な制度が、各国の意向で整えられず、その崩壊が第2次世界大戦へと流れ込んでいった。
 パリ講和会議は、参戦国でもあったが仲介役的立場の米大統領ウィルソンと、英首相ロイド=ジョージ、フランス首相クレマンソーを中心として進められた。ウィルソンは、「十四ヵ条の平和原則」を発表し、「公正な講和」をアピールして、講和後の融和的な各国の関係を重視したが、直接に戦闘を交え甚大な被害を被った英仏両国は、ドイツに巨額の賠償や領土割譲を含め、懲罰的な負担を科する強硬意見であった。
 当初、ドイツやオーストリアの政体が不安定な状況もあり、まず連合国間で講和条件を話し合うことになった。戦勝五大国(英・仏・米・伊・日)の全権代表で構成される「十人委員会」で、重要課題は検討されることになったが、その後、情報遺漏問題もあって、実質は、英仏米三首脳にイタリアのオルランド首相を加えた「四人会議」が中心となった。
 フランスは、直接国境を接し、過去何度も戦争をしてきた隣国ドイツに対する不信感は強く、潜在的脅威を完全に取り除くべく、莫大な賠償や領土割譲など、強硬に懲罰的な条件を求めた。一方のアメリカは、理想主義者ウィルソンの意向もあり、「公正な講和」と「戦後の協調体制構築」で、行き過ぎた懲罰要求を緩和すべきとした。イギリスは、仏に立場は近いが、妥協的に対応した。
 講和案がまとめられると、ドイツ代表がパリ会議に招かれ通知された。ドイツ側は、国民からの大反発もあり、講和案を拒絶するが、ドイツ側からの提案を出し、若干の修正の後、再度講和案が提示された。連合国側は、返答期限を切り、受諾亡き場合は戦闘再開も辞せずという断固たる姿勢で臨んだため、ドイツはしぶしぶ講和案を受諾、ベルサイユ条約が締結されることになった。
 ベルサイユ条約は、米ウィルソンの提唱した「国際連盟」条項を包含するなど、平和的な協調体制理念が盛り込まれていたが、一方で仏クレマンソーを代表とする、ドイツに対する復讐懲罰的な苛酷要求との妥協の産物であった。その結果、国際連盟は米国で議会の反対で批准されないなど、具体的な平和維持機構ととしては機能せず、一方で、敗戦国ドイツへの苛酷な賠償負荷は、それに耐えきれないドイツ国民の疲弊を招き、やがてナチス台頭など、第2次大戦への導火線ともなった。
(この年の出来事) 
*1919.1.18/ 第1次大戦の終結を受け、パリ講和会議が始まる。
*1919.2.6/ ワイマールでドイツ共和国国民会議開催。民主共和派が大勢をしめ、大統領にエーベルトを選出。
*1919.5.4/ 中国で、日本が引き継いだ旧ドイツ山東省権益の、中国への返還を要求する「五・四運動」が起こる。

◎ロシア二月革命

2021-03-15
Facebook佐々木信雄さん曰く
アレクサンドラ皇妃とラスプーチン
黒海艦隊の戦艦ポチョムキンでは水兵らの反乱
【20th Century Chronicle 1917年(t6)】
◎ロシア二月革命
*1917.3.15/ 帝政ロシアの首都ペテルグラードで「ロシア二月革命」が勃発、ニコライ2世が退位してロマノフ王朝滅亡。
*1917.7.21/ ケレンスキー内閣が成立する。
(注)現行の西暦表記はグレゴリオ暦にもとづくが、当時のロシアではユリウス暦(ロシア旧暦)が用いられており、現行暦より13日前にさかのぼる。よって、例えば新暦3月の出来事が「二月革命」などになる。
 日露戦争での苦戦が続く1905年1月、サンクトペテルブルクに発生した「血の日曜日事件」が、「ロシア第一革命」と呼ばれることがある。ロシア正教の一神父が指導したゼネラル・ストライキに続いて、サンクトペテルブルクでデモ行進があり、それにツァーリの軍隊が発砲し1,000人前後の死傷者が出た。
 組織化された革命事件ではなかったが、この事件を契機に革命運動が活発化し、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンでは水兵らの反乱も起った。皇帝ニコライ2世は改革を認めず保守的な体制維持を望んだが、首相に就任したストルイピンは、改革を図るとした。しかし、その前に反乱の徹底鎮圧を最優先し、一旦混乱は押さえつけられた。
 その後、改革の効果もみられないままストルイピンの暗殺、そして第1次世界大戦への参戦などで、社会の不満は残されたままであった。大戦での戦況も不利に展開し、ニコライ2世が前線へ向かうと、内政を任されたアレクサンドラ皇妃とラスプーチンの、恣意的な政務は不興をかこった。ラスプーチンは保守派ユスポフらに暗殺されたが、国政の立て直しはならず、ロマノフ王朝は末期的症状を呈した。
 国際婦人デーであった1917年3月4日、ロシアの首都サンクトペテルブルク(当時ペトログラード)で、食料配給の改善を求めるデモが行われた。当初は穏健なものであったデモは、数日のうちに全市に広がり、要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大していった。
 ニコライ2世は軍にデモの鎮圧を命じたが、鎮圧に向かった兵士たちが次々と反乱を起こし、労働者側についていった。労働者や兵士はペトログラード・ソビエト(労働者評議会)を結成し、一方で、ドゥーマ(議会)の議員は臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。
 ペトログラード・ソビエトとドゥーマ臨時委員会は、革命の混乱過程で二重政権状態であったが、臨時委員会は臨時政府を設立し、ペトログラード・ソビエトを指導するメンシェビキも、この臨時政府を支持する方針を示した。臨時政府には、社会革命党(エスエル党)右派からケレンスキーが参加したものの、その中心は大半が自由主義者が占め、革命の性格は「ブルジョワ革命」の様相を示した。
 3月15日、臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は、弟ミハイル大公へ皇位の移譲をめざしたが、これも拒否され、ここにロマノフ朝は崩壊した。(ロシア二月革命)
(追補)
 「二段階革命論」では、まずツァーリと封建領主による支配の封建制・絶対君主制を打ち破る「ブルジョア民主主義革命」が必要であり、その下で資本主義が発展した後に「プロレタリア社会主義革命」を行われる、というものであった。
 しかし実際には、自然発生的な暴動から「二月革命」が実現され、これがブルジョア革命だとされるが、その後の資本主義的発展をまたず、半年あまりで「十月革命」が起こった。
 本来なら、資本家との階級闘争として、成熟したプロレタリアートが革命に立ち上がるはずが、今だ期の熟さないうちに、レーニン率いるボルシェビキが、厭戦気分の兵士や都市住民を糾合して一気に「ブルジョア臨時政府」を倒したわけで、これは「革命」などではなくて「クーデター」にすぎなかった。
 その後に成立した他地域での共産主義国家も、すべて封建制か植民地という資本制未発達の地域で達成されたもので、逆に、発達成熟した先進資本主義の地域で「プロレタリアート革命」が起こされた例は皆無である。これらの先進地域では、せいぜいが議会制を通じて改革を進める「社会民主主義」政党となる。
(この年の出来事) 
*1917.2.1/ ドイツ、「無制限潜水艦作戦」を再開。アメリカの参戦のきっかけとなる。
*1917.4.6/ アメリカ、ドイツに対し宣戦布告。第1次世界大戦の趨勢は、大きな転機を迎える。
*1917.9.12/ 大蔵省令で事実上の金輸出を禁止する。金解禁は1930年になる。
*1917.11.2/ イギリスが「パルフォア宣言」を発表。パレスチナにユダヤ人国家の建設を支援。
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