闘いの歴史
闘いの記録
本日は、2月26日です。
松平容保
闘いの転機
長期政権ということ
【20th Century Chronicle 1964年(s39)】
◎佐藤長期政権 始まる
*1964.11.9/ 佐藤内閣が発足する。
1964(s39)年11月9日、退陣を表明した池田勇人内閣に代わって、佐藤栄作が指名され、内閣総理大臣に就任した。「所得倍増計画」を旗印に経済成長を推進してきた池田首相は、倍増10ヵ年計画の半分にも満たない時期に、ほぼその達成の目途が立ち、日本の高度成長のシンボルともなった64年東京オリンピックが成功裏に閉会した翌日、病にたおれ退陣を表明した。
その3ヵ月前の8月、佐藤栄作は池田勇人との熾烈な自民党総裁選挙に惜敗したところであったが、病床の池田の指名をうけて佐藤内閣が誕生した。名神高速・新幹線・東京五輪などの大プロジェクトを剛腕で仕切った河野一郎が、後継の筆頭候補であったが、吉田茂、岸信介など重鎮の意向で佐藤にお鉢が回って来たと言われる。河野はその翌年、突発死してしまう。
佐藤内閣は、結果的に7年8ヵ月におよぶ長期政権となり、その在任中には、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准・日韓基本条約の批准・国民祝日法改正による敬老の日 体育の日 建国記念の日の制定・公害対策基本法の制定・小笠原諸島および沖縄の返還実現・日米安全保障条約(70年安保)自動延長・日米繊維摩擦の解決・内閣総理大臣顕彰制定など、多くの実績を残した。
また、1967年12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。佐藤は退陣後の1974(s49)年に、これらの非核三原則の制定などが評価されてノーベル平和賞を受賞している。
しかし後年になってから、沖縄への核持ち込みに関する密約が明らかになったし、また佐藤内閣下で、極秘に核保有は可能か検討が行われていたこと明るみに出るなど、平和賞受賞の根拠が疑われる事態が判明し、後年にノルウェーのノーベル平和賞委員会が刊行した記念誌のなかでも、「佐藤氏は核武装に反対ではなく、佐藤氏を選んだことは最大の誤り」と批判されている。
佐藤栄作首相は、実兄の岸信介元首相とは対照的に、「待ちの政治」と呼ばれたスタイルで、ひたすら事態が成熟するのを待つ我慢の政治で、憲法改正を懸案としていた兄の岸が、一向に憲法問題に触れようとしない佐藤に、いらだっていたという話しもある。
ライバルであった河野一郎のような剛腕で、政治世界を仕切っていくような華やかさもなく、一方で、政権は「黒い霧事件」といったスキャンダルに見舞われながら、必ずしも政権支持率は高かったわけでもないのに、まれにみる7年8ヵ月もの長期政権を続けた。
吉田門下で一番のライバルであった池田勇人は、佐藤に先んじて首相になったが、病にたおれて佐藤に政権をゆずる。党人派の大物、大野伴睦や河野一郎も、相次いで死去。ライバル不在のもと、次世代の田中角栄・福田赳夫・三木武夫・大平正芳などを、互いに競わせ育成するという、佐藤流人事掌握術で政権の求心力を維持し続けた。
そして何よりも長期の安定政権を支えたものは、「昭和元禄」などと呼ばれた、高度経済成長であった。池田の経済重視路線を批判していたにもかかわらず、自身の政権期には、皮肉にも池田時代以上に経済は拡大したのだった。極端な言い方をすれば、「何もしない」でもうまくいく時代背景でもあったのである。
(この年の出来事)
*1964.3.24/ ライシャワー駐日米大使が、大使館前で少年に刺される。輸血がもとで血清肝炎に感染、「黄色い血」が問題となる。
*1964.4.5/ 米海軍ジェット機が町田市の商店街に墜落、市民4名が死亡。
*1964.8.2/ 北ベトナム軍がトンキン湾で米軍間を攻撃、米空軍が報復爆撃に出動、ベトナム戦争が急拡大する。(トンキン湾事件)
*1964.9.23/ 巨人軍の王貞治選手が、年間本塁打55本の日本新記録を樹立する。
*1964.1014/ ソ連最高会議とソ連共産党中央委員会が、フルシチョフ首相兼党第1書記を解任する。
*1964.1016/ 中国が、初の原爆実験に成功する。
*1964.11.12/ 米原子力潜水艦の佐世保入港し、13日反対デモが警官隊と衝突。
遺された者
ある鑑識課員は、総監室へ通じる廊下の中程に、呆然とたたずむ石原慎太郎を目撃している。
「ひとり、ぼうっと立っているんだよ。
あれは、裕次郎じゃない、慎太郎だったよ。
総監室に入ることもできずに、そこにぽつんと立っているしかできなかったんだろう」
さらに鑑識作業中には、階下の玄関ホールのあたりから、男性の叫び声が総監室まで聞こえてきたという。
川端康成だった。
事件が報じられて駆けつけたのだろう。
とにかく、なにかを叫んでいたという。
狭山事件ということ
安保賛成 何が何でもやりぬきます!
安保の今と昔
1951(s26)年のサンフランシスコ講和条約の成立(日本主権回復)と同時に、吉田首相が単独で署名した旧日米安保条約は、日本に片務的で臨時的なものであった。日本の主権回復とともに駐留軍が撤退するため、日本の軍事的空白を防ぐために、引き続き米軍の駐留を認める必要があった。ただしそれは、米国の「駐留権」を認めるという形で、日本の防衛や駐留自体は、もっぱら米国の都合次第という条約であった。
岸信介は、1957(s32)年2月、病に倒れた石橋湛山首相の後継に指名され、石橋内閣を引き継ぐと、1958(s33)年5月の総選挙で政権としての信任を得て、第2次岸内閣を組閣する。選挙を経て自身を得た岸首相は、アジア重視の自主外交を進めながら、一方で対米尊重の基本枠は譲らず、日米安保条約の改定に向けて、着々と条件を整えていった。