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闘いの歴史

闘いの記録

鍾馗

2020-11-23
陸軍です。
二式戦闘機「鍾馗」。連合軍のコードネームは"Tojo"。キ番号(試作名称)はキ44。開発は中島飛行機。大馬力エンジンに小さい主翼など、一撃離脱戦法に特化した設計がなされています。速力、上昇力を最優先にした設計で、航続距離や着陸性能は犠牲にされました。特に、離着陸に長い滑走路を必要とすることから、前線の狭い飛行場が使えず、航続力の不足もあって、広い太平洋戦域で地上部隊を援護する役目は果たせませんでした。戦中実用化された陸海両軍機のなかでも、アメリカ軍からは「迎撃戦なら最適の戦闘機」という評価を得ました。
 1937年、帝國陸軍は新たな戦闘機の開発に着手しました。日本軍にとって従来の運動性に優れた設計の軽戦闘機と、欧州で出現し始めている重戦闘機(ドイツのメッサーシュミットBf109やイギリスのスピットファイア等)を参考した全く新しい戦闘機を造り上げようとしました。前者が後の一式戦闘機に、後者が二式単座戦闘機となりました。当初重戦闘機の研究開発は難航し、同一の経緯で実用化された軽戦である一式戦闘機に対して制式採用年式で一年の遅れを見ています。日本軍は古くから、格闘性能を重視する軽戦闘機至上主義の気風があったため、運用経験のなかった重戦の基本仕様をまとめることすらままなりませんでした。軽戦主導者からの不要論がありましたが、同時期のノモンハン事件(後期ノモンハン航空戦)においてソ連赤色空軍戦闘機が一撃離脱戦法を駆使していた戦訓、つまりI-16などの高速機に対して一撃離脱攻撃や追撃の行える新鋭戦闘機の必要性が認められ、停滞していた開発を活発化しました。
 開戦時は正式採用前とはいえ、増加試作機によって部隊が編制されており南方戦線へ進出していますが、二式戦闘機一型自体は元々少ない数に加え元々対ソ連を念頭にしていたので、南方作戦で使うには航続距離が短い故に、一式戦闘機ほど出番は無かったですが、機会があれば米英機相手に優位に戦っています。懸念であった格闘戦闘も米英機相手に優越していました。その後、主要な量産機となった二型は中国大陸、ビルマ、タイ、フィリピンに進出しましたが、陸軍初の重武装高速機体は着陸が難しいとしてベテランパイロットに嫌われました。整備に難がある三式戦闘機を装備している部隊から、一式か二式を寄越せと要請がある事もありましたが、基本的には二式戦のハ109エンジンは整備員からの評価も芳しくありませんでした。また二型も航続距離がやや増したものの短い為、出番に恵まれずくすぶる毎日を送りました。主に本土防空戦闘機として運用され、敵地攻撃にはあまり用いられませんでした。 
 二式戦闘機がもっとも輝いたのは、戦争末期の本土防空戦でした。本土の空を守るため東南アジアから呼び戻され、対B-29の迎撃に充てられました。二型乙の40mm機関砲を装備した特別仕様の機体はまさにB-29戦の切り札でした。数発命中すればB-29ですら撃墜が可能で、多くの敵爆撃機を撃墜しました。しかし、元々エンジンは高高度性能に劣っており、40mm機関砲も極めて癖のある機関砲であり楽な戦いではありませんでした。そして硫黄島が失陥し、護衛にP-51が付随してくると、もう手柄を挙げる事は出来なくなりました。それでも残存する機体は終戦まで使用され、本土の空を守り続けました。
 二式戦の生産自体は1944年末に終了し、総生産機数は各型合計1,225機でした。

1947年12月18日 これ、インフレ真っ最中の日銀の金庫の内部。箱のなかにはお札がつまっているんですって

2020-11-18
Facebook永井由紀夫さんの投稿

ナセル、アラブの大統領

2020-11-12
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1956年(s31)】

◎スエズ動乱/第二次中東戦争

*1956.10.29/ イスラエル軍がエジプトに侵攻。スエズ戦争始まる。(スエズ動乱/第二次中東戦争)

 1869年、スエズ運河は、フランスの外交官だったフェルディナンド・マリー・レセップスの尽力により開通した。運河が開通すれば、ヨーロッパからアジアへ渡る航路は、これまでのインド航路(アフリカ南端の喜望峰を迂回)より40%も短縮され、ヨーロッパ諸国にとってきわめて利益の大きい運河計画であった。しかし、インド植民政策でもっとも利益を受けるはずのイギリスは、従来の独占的なインド航路の利益が脅かされるとして、反対し妨害工作さえした。

 

 レセップスは、エジプト太守の認可を受けて、万国スエズ運河株式会社(国際運河会社)を設立、スエズ運河はフランスおよびエジプト政府による資金援助で1869年に開通した。しかし、この建設費負担の為にエジプトは財政破綻し、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡され、エジプトはイギリスの保護国となった。運河はイギリスにとってインド、北アフリカおよび中東全体への戦略上重要な地点となり、その重要性は後の2つの世界大戦によっても証明された。

 

 スエズ運河はイギリス管轄下の中立地帯と定められ、イギリス軍はスエズ運河に軍隊を駐留させ、運河を実質的な管理下においた。一方エジプトでは、軍事クーデターが起こり共和制に移行、さらにナセルが大統領になると第三世界のリーダーの一人として、植民地主義を捨てられない西側に対抗するため東側ソ連に近づく。こうした中、7月26日にスエズ運河の国有化を宣言して、スエズ運河に利権を持つ英仏と対立することになった。

 

 スエズ運河に深く利害を持つ英仏は、シナイ半島やスエズに食い込むことを狙うイスラエルを巻き込み、10月29日、イスラエルがシナイ半島に侵攻、英仏が空軍で支援する形で戦端は開かれた。圧倒的な近代化部隊で英仏イスラエル連合はスエズ運河直前にまで迫り、エジプトの降伏が間近に迫ったとき、両陣営の背後で冷戦で対立する米ソが、互いに前面に出ることをさけるために調停に乗り出し、国連総会で即時停戦を求める決議が採択された。

 

 結果、得ることのなかった英仏及びイスラエルに対して、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した上に、ナセルは英仏イスラエルと正面から戦ったことから、中東での発言力を確固たるものとした。さらにナセルは、国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し、エジプト主権のもとスエズ運河の通航を再開した。

 

 なおこの時、当方は小学2年生、世界の出来事には無縁な学童に過ぎなかったが、「スエズ動乱」という言葉はかすかに記憶されている。朝鮮戦争はまったく記憶にないので、遠くの世界では戦争というものが起きているのだなと思った最初の経験であった。

 

(この年の出来事)

*1956.1.31/ イタリアのコルチナダンペッツォで開かれた第7回冬季オリンピックで、猪谷千春が日本人初のメダル(男子回転・銀)を獲得する。

*1956.5.9/ 日本登山隊が、ヒマラヤの未踏峰マナスルの初登頂に成功する。

*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。

*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)

*1956.11.22/ オーストラリアのメルボルンで、第16回オリンピックが開催され、日本選手は117人が参加、4種目で金メダルを獲得する。

*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。

ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)

2020-11-09
その功罪について
Facebook佐々木信雄さんの投稿
近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。

ニキタ・フルシチョフ

2020-11-09
スターリン批判
Facebook佐々木信雄さんの投稿
スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。
 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリン批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。

闘いの転機

戦後は、お上の人間宣言で始まりました。

2020-10-21
15歳の上皇様
Facebook永井由紀夫さんの投稿
初々しさを残しつつも、すっと背筋を伸ばしたたたずまいからは気品が漂う。
学生服姿で写真左に立つのは、皇太子時代の上皇様。1949(昭和24年)4月2~4日、初めて岡山県を訪問された際のひとこまだ。
当時15歳。
学習院中等科卒業後の春休みを利用し、岡山、広島県など山陽路を巡った。

戦後という時代の始まりは、再び銃を手にすることでした。

2020-10-21
6.9 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 50's / 1954年(s29)』
◎陸海空自衛隊が発足
○6.9 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
 日本を占領した連合国軍は、当初日本の軍事力を完全に無力化する予定であった。しかしソ連が核保有国となり冷戦構造が顕著になるとともに、大陸では中国人民共和国が成立し、さらに1950年に朝鮮半島で戦争が勃発すると、全く状況が変わってきた。日本に駐留の米軍は、その主力を朝鮮半島に向けざるを得ず、空白となる日本の治安維持は、日本自体が担う必要に迫られ「警察予備隊」を組織させた。
 1951年、サンフランシスコ講和条約が成立すると、同時に(旧)日米安全保障条約も締結される。これは、占領軍が撤退すると同時に、米軍の継続駐留や基地の存続を認め、日本の防衛は日本自身が主体となり、米軍はこれを援助するというものであった。その趣旨を明確にするために翌1952年、警察予備隊は「保安隊」と改組された。
 1954年、安保条約を具体的に補完するため「日米相互防衛援助協定」が結ばれ、米国は日本に駐留するとともに日本に軍事支援を与え、その支援を受けて、日本は自国の防衛のために軍備を整えることが義務付けられた。これにより日本は、防衛の目的に限り再軍備する事を認められ、それに対応して保安隊は「自衛隊」と改組され、事実上の自国防衛軍となった。
 とはいえ自衛隊は、設立当初から現在に至るまで、論議の的になり続けてきた。詳細には立ち入らないが、憲法九条との関係で、自衛隊は軍隊であるとかないとか、無意味な空論が続けられてきた。自衛隊は名実ともに自衛軍であり軍隊である。問題は、それが憲法で認められ得る軍隊なのかどうか。もし認められないなら、憲法を変更するかどうか、それだけの問題だろう。
 とここまで書いて、50年前の高校生の時に、こっそりローカル新聞に投稿した内容と全く同じなのに気付いた。クラスの女子に気付かれて恥ずかしい思いをしたが、とにかく50年間自分の見解が変わっていないことよりも、50年間政治状況が全く変わっていないことの方に驚かされた(笑)
*この年
朝鮮特需による好景気が終わる/電気洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビ(or掃除機)が「三種の神器」となる/ヘップバーン・カット大流行/東映娯楽映画シリーズで中村(萬家)錦之助・東千代之介などのアイドル誕生
【事物】短波放送/パートタイマー/ラジオの深夜放送
【流行語】死の灰/スポンサー/水爆マグロ/ロマンスグレー
【歌】お富さん(春日八郎)/岸壁の母(菊池章子)/原爆許すまじ
【映画】七人の侍(黒沢明)/二十四の瞳(木下恵介)/ローマの休日(米)
【本】伊藤整「女性に関する12章」/三島由紀夫「潮騒」/ローゼンバーグ夫妻「愛は死を越えて」

この選択は、誰が何と言おうと、間違いでした!

2020-10-21
学徒出陣壮行会が行われました。
Facebook英霊の本日の出来事9l
昭和18年10月21日の本日、明治神宮外苑競技場で出陣學徒壮行式を挙行致しました。
第二次欧州大戰終盤の昭和18年に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農學部農業経済學科などの一部の理系學部の)學生を在學途中で徴兵し出征させたことである。
日本國内の學生だけでなく、當時日本國籍であった臺灣人や朝鮮人、満洲國や日本軍占領地、日系二世の學生も對象とされた。
學徒動員と表記されることもある。
「概要」
日本は昭和12年以来、當初は中華民國との支那事變、続いて昭和16年からは亜米利加・英吉利など聯合國との大東亞戰爭を続けていた。
特に亜細亜・太平洋地域に及ぶ廣大な戰線の維持や昭和17年以降の戰局悪化で戰死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった。
従来、兵役法などの規定により大學・高等學校・専門學校(いずれも舊制)などの學生は26歳まで徴兵を猶豫されていた。
しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶豫の對象は狭くされていった。
まず昭和16年10月、大學、専門學校などの修業年限を3ヶ月短縮することを定め同年の卒業生を對象に12月臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌昭和17年2月に入隊させた。
この昭和17年には、さらに豫科と高等學校も對象として修業年限を6ヶ月間短縮し、9月卒業、10月入隊の措置をとった。
そして、さらなる戰局悪化により翌昭和18年10月1日、當時の東條内閣は在學徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755號)を公布した。
これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸學校の在學生の徴兵延期措置を撤廃するものである。
この特例の公布・施行と同時に昭和十八年臨時徴兵検査規則(昭和18年陸軍省令第40號)が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとした。
この第1回學徒兵入隊を前にした昭和18年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省學校報國團本部の主催による出陣學徒壮行會が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊學生を中心に7万人が集まった。
出陣學徒壮行會は、各地でも開かれた。
しかし翌年の第2回出陣以降、壮行會は行われなかった。
學徒出陣によって陸海軍に入隊することになった多くの學生は、高學歴者であるという理由から、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特别甲種幹部候補生や、海軍の豫備學生・豫備生徒として、不足していた野戰指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。
昭和18年10月には教育ニ関スル戰時非常措置方策が閣議決定され、文科系の高等教育諸學校の縮小と理科系への転換、在學入隊者の卒業資格の特例なども定められた。
さらに翌昭和19年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、學徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。
「對象」
昭和18年の徴兵對象者拡大の際、學徒出陣の對象となったのは主に帝國大學令及び大學令による大學(舊制大學)・高等學校令による高等學校(舊制高等學校)・専門學校令による専門學校(舊制専門學校)などの高等教育機関に在籍する文科系學生であった。
彼らは各學校に籍を置いたまま休學とされ、徴兵検査を受け入隊した。
これに對して理科系學生は兵器開發など、戰爭継続に不可欠として徴兵猶豫が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員された。
ただし、農學部の一部學科(農業経済學科や農學科)は「文系」とみなされて徴兵對象となった。
また、教員養成系學校(師範學校)の理系學科(数學、理科)に在籍する者も猶豫の制度が継続された。
「學徒出陣の実施」
昭和18年10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣學徒壮行會」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。壮行會の様子は社團法人日本放送協會(NHK)が2時間半にわたり実況中継(アナウンサー:志村正順)を行い(外部リンク参照)、また映画「學徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われた。
秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵猶豫された理工系學部生、中等學校(舊制)生徒、女學徒などが計96校、約5万名が學校ごとに集められた)の前で東京都・神奈川縣・千葉縣・埼玉縣の各大學・専門學校からの出陣學徒(東京帝國大學以下計77校)の入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山學校軍楽隊)、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戰詔書の奉読、東條首相による訓辞、東京帝國大學文學部學生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされる。
出陣學徒は學校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた學校旗を掲げ、學生帽・學生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。
壮行會を終えた學生は徴兵検査を受け、昭和18年12月に陸軍へ入營あるいは海軍へ入團した。
入營時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戰況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戰地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戰死者を出した。
昭和19年末から昭和20年8月15日の敗戰にかけて、戰局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戰死する學徒兵も多数現れた。
全國で學徒兵として出征した對象者の総数は日本政府による公式の数字が發表されておらず、大學や専門學校の資料も戦災や戰後の學制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。
出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。
ただし、當時の文部省の資料によれば當時の高等教育機関就學率(大學・専門學校・舊制高等學校などの総計)は5%以下であり、さらに理工系學生は引き続き徴兵猶豫されたため學徒兵の実数は決して多くなかった。
しかしその多くが富裕層の出身であり、将来社會の支配層となる豫定の男子であった大學生が「生等もとより生還を期せず」(江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戰場に向かった意味は大きく、日本國民全體に総力戰への覚悟を迫る象徴的出来事となった。
(ウィキペディア参照。)

敗戦のつけ

2020-10-19
戦災孤児、この数は120000人を超えました・・・。
貧しいからと言って、人間は腐るものではない。 戦争で親をなくした数十万の子供たちは、その多くが戦後日本の復興の礎となった。むしろその多くは、お互いに寄り添い、肌の温もりを分かち合い、助け合いながら逞しく、人間らしく生き抜いてきた。

鐘の鳴る丘』(かねのなるおか)は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマ、またそれを原作とした映画菊田一夫作。ラジオドラマの放送回数は790回に及ぶ。1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)には松竹映画化もされている。
 

放送開始のきっかけは、1947年(昭和22年)4月のエドワード・ジョゼフ・フラナガンの来日である。6月にフラナガンが離日した後に、CIEはNHKに対し、フラナガンの精神を踏まえた戦争孤児救済のためのキャンペーンドラマを制作するように指示した。

脚本担当の菊田、音楽担当の古関、巖金四郎をはじめとするNHK東京放送劇団の面々の出演が決定したが、当時はプロの児童劇団もないため、主役となる子役を決めるのに苦労した。ところが、当時練馬区に在住していた巖が、東京都の演劇大会で優勝するくらいに演劇活動が盛んであった練馬区立豊玉第二小学校を紹介したことで、その小学校に在籍する10人前後の児童が出演することになった。当初は土日の週2回の放送だったので、出演者である小学校の児童たちが、教師の引率によって毎週練馬からNHK東京放送会館へ通い、生放送を行っていた。


 

負けました!

2020-10-16
接収、身包み剥がれます。
伊号400潜水艦  Facebook金敷瑞貴さんの投稿より
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