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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

“Baddest Man in the 761st” He Went Full On Berserker Destroying Everything In His Path

2021-11-03

「君たちには、死ぬ権利はない」

2021-11-03
Facebook ジーク ノブオさん曰く
太平洋戦争終結後も任務解除の命令を受けられず、フィリピン・ルバング島で孤独な日々を過ごし、約30年後の1974年に51歳で日本に帰還した小野田寛郎旧陸軍少尉の物語を、フランスの新鋭アルチュール・アラリ監督が映画化。終戦間近の1944年、陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の特殊訓練を受けていた小野田寛郎は、劣勢のフィリピン・ルバング島で援軍部隊が戻るまでゲリラ戦を指揮するよう命じられる。出発前、教官からは「君たちには、死ぬ権利はない」と言い渡され、玉砕の許されない小野田たちは、何が起きても必ず生き延びなくてはならなかった。ルバング島の過酷なジャングルの中で食糧も不足し、仲間たちは飢えや病気で次々と倒れていく。それでも小野田は、いつか必ず救援がくると信じて仲間を鼓舞し続けるが……。主人公・小野田の青年期を遠藤雄弥、成年期を津田寛治が演じ、仲野太賀、井之脇海、イッセー尾形らが共演。2021年・第74回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品。

ダニエル・イノウエ上院議員は1963年から2012年に死去するまで、米国上院議員を務めた。

2021-10-31

ダニエル・イノウエ上院議員は1963年から2012年に死去するまで、米国上院議員を務めた。彼の死の時、彼はアメリカで2番目に長く座っている上院議員で、彼は簡単に第二次世界大戦で最も殺すのが最も難しい男の一人と考えることができると考えると、全く驚くべきことではありません。


差別と人種差別に直面したこの日系アメリカ人は、苦い心で選んだならば、この戦争に座るあらゆる理由がありました。しかし、彼が彼のアカウントに参加したときに彼に次のように言った父親によって育てられたと考えてください:「私の父はちょうどまっすぐ前を見て、私はまっすぐ前を見て、彼は喉をクリアし、彼は「アメリカは私たちに良かったです。それは私に2つの仕事を与えました。

それはあなたとあなたの姉妹と兄弟の教育を与えました。私たちは皆、この国が大好きです。あなたが何をするにしても、あなたの国を不名誉にしないでください。覚えておいてください - あなたの家族を不名誉にしないでください。そして、自分の命を与えなければならないなら、名誉をもってそうしてください。

太平洋の翼 予告編

2021-10-31
Facebook 春 九千さん曰く

今日は昨日に続き円谷英二特技監督が特撮を担当した映画『太平洋の翼』を尼損ビデオで観ていました。
第二次世界大戦末期に日本海軍としては最新鋭の局地戦闘機紫電改を装備し、エースパイロットを集めて、本土防空のために結成された松山の三四三航空隊を舞台にした作品です。
円谷英二特技監督はパイロットを目指していたと言うこともあり、空中戦の場面はかなりの迫力です。
この映画の飛行機の場面は良く言われる吊りだけではなく、ラジコン機や合成なども用いて絶妙に再現されています。

【あらすじ】
 昭和十九年六月、無敵を誇った零式艦上戦闘機も敵新鋭機の前に衰えをみせ、 制空権を失った日本海軍の前途は暗澹たるものがあった。 大本営では特攻攻撃以外にすべはないという意見が圧倒的だったが、 一人千田航空参謀は新鋭機“紫電改”の完成とともに精鋭をすぐって制空権を奪い返し、 それを突破口として戦局を打開すべきであると主張した。 意見は容れられ優秀な三人の搭乗員、安宅大尉矢野大尉、 滝大尉を四国松山基地へ集結させるよう太平洋各地へ打電された。 すでに敵の艦隊に取り巻かれてぃる硫黄島から、 安宅は魚雷艇の追跡をかわしながら命からがら味方の潜水艦に救助された。 続いてラバウルにある矢野は、 もって生れた機智と度胸で米軍の魚雷艇をぶんどって。 比島の滝は燃料も少ない丸腰の輸送機を駆って帰遷した。 はためく幟に大書した第三四三航空隊。 紫電改七二機を背に三飛行隊各二四名が勢揃いした。 司令千田は、最後まで生き抜いて戦うこそ戦闘であると特攻を許さなかった。 昭和二十年三月十八日、敵は四国九州地区へ向け艦載機の大群を放った。 七二機の一斉離陸。 紫電改は雲間をついて一挙に狼狽する敵機に襲いかかった。 落下炎上する敵機の数は紫電改の数倍に及び、 三四三航空隊の勇名はとどろいた。 軍令部は直に受持区域の拡大を強制してきた。 可動機数が減少している今、それは無謀だった。 三本の矢も一本になったら--。 豪放に出発していった矢野は劣勢をかって遂に散った。 時を同じくして、片道燃料だけで戦艦大和出撃の報が伝わった。 大和に限りない愛着をもつ安宅らは千田の命令をも無視して、 大和護衛のため沖縄へと向った。そして大和と共に永久に姿を消した。 唯一人生き残った滝は、 何かに憑かれたかのようにB29二百機の編隊めがけてまっしぐらに突き進んでいた。 その頃、基地では、千田司令が滝に帰還命令をだしていた。 そして、美也子も彼の生還を祈っていた。 だが、滝は無線電話を引きちぎり、B29へ体当り攻撃をかけていった。 

【日本海大海戦】 1969

2021-10-31
Facebook 春 九千さん曰く
本日は円谷英二特技監督の遺作とされる映画『日本海大海戦』を尼損ビデオで観ていました。
海戦の場面の特撮は本編部分との融合も良く、飛行機登場前の時代の海戦を描くにあたって円谷英二特技監督が他の戦争映画で多用した飛行機からの視点が無く、当時の軍艦のブリッジの高さまでの視点で海戦を描いています。
本当に特殊効果の完成度が高い作品で、映画が産業としてまだ隆盛だった頃の遺産です。

【日本海大海戦
1969 『東宝8・15シリーズ』の第3作とされるが、前2作と異なり日露戦争を題材としている。日露戦争開戦から、乃木希典による旅順攻略、日本海海戦における東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃破するまでを描く。 本作は、円谷英二が実質的に特技監督として参加した最後の映画作品となった。 艦船のミニチュアは美術スタッフ60人を動員して107隻が用意された。また、戦艦三笠のミニチュアは13メートルにおよぶ巨大なものが造られた。 海戦シーンでは、日露戦争当時では太平洋戦争当時よりも砲弾の威力が弱いことを考慮し、フロンガスによって水柱を表現している。 義和団の乱の後、出兵した英、米、仏、独、日、伊、墺の各国は兵を引き揚げたが、ロシアだけは満州に5万の兵を留め、さらに増強していた。日本の再三再四の抗議も成果がなく、ついに交渉は途絶した。1904年1月12日、宮中の御前会議で日露開戦に傾いたことを受け、明治天皇は「国交断絶は両国の不幸である」とロシア皇帝に直接電報を打つ旨を述べた。だが、ロシア政府からの返事は無かった。 海軍大臣・山本権兵衛は海軍の即時行動を伊藤博文に進言した。2月5日、日露の国交は断絶し、連合艦隊司令長官・東郷平八郎はバルト海より来るバルチック艦隊との対決に備え、旅順の攻略に取りかかった。

闘いの転機(戦いの前と後)

「零式艦上戦闘機(零戦)」(画像一枚目)の主任設計者

2021-01-11
堀越二郎
堀越二郎
十二試艦上戦闘機の設計チーム
Facebook都築清高さんより



本日は、
日本海軍機の代名詞「零式艦上戦闘機(零戦)」(画像右下)の主任設計者、
堀越二郎の命日。
航空畑を歩み、当時の欧州や米国の航空技術水準の高さに衝撃を受けた堀越に、転機が訪れるのは1930年代中盤。
複葉機がまだ主流の時代に、単葉機の設計・試作を繰り返していた堀越は、
1935年、九試単座戦闘機の二号機が「九六式艦上戦闘機」として海軍に採用される。
続けて次期主力艦上戦闘機の試作を海軍より提示された三菱は、
引き続き、堀越をリーダーとしたチーム(写真二枚目)に設計・開発を指示。
1937年、十二試艦上戦闘機の設計を開始。
海軍との会議で提示された高い要求に悩みつつ、
1940年7月、栄12型エンジンを装備した試作三号機が、零戦11型として採用された。
戦後は、YS-11の設計に参加。
東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学教授、日本大学生産工学部教授を歴任。
1982年の今日、東京にて死去。
享年78歳。

史上最低の作戦、昭和19年1月7日の本日、大本營がウ號作戰を決定しました。

2021-01-07
イパール作戦、責任者は、この方です。
Facebook英霊の本日の出来事より

ウ號作戰(インパール作戰)は、昭和19年3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戰略目的として印度北東部の都市インパール攻略を目指した作戰。
補給線を軽視した杜撰な作戰により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戰の代名詞として現代でもしばしば引用される。
「日本軍作戰立案の経緯」
―二十一號作戰―
印度への侵攻作戰という構想は、緬甸攻略戰が豫想外に早く終わった直後から存在した。
印度北東部アッサム地方に位置し、緬甸から近いインパールは、印度に駐留する英吉利軍の主要拠点であった。
緬甸-印度間の要衝にあって、聯合國から支那への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば支那國民黨軍)を著しく弱体化できると考えられた。
日本の南方軍は、「二十一號作戰」と称して東部印度への侵攻作戰を上申した。
昭和17年8月下旬、戰争の早期終結につながることを期待した大本營は、この意見に同調して作戰準備を命じた。
参加兵力は第15軍の第18師團を主力とする2個師團弱とされた。
英吉利軍の豫想兵力10個師團に對して著しく少ないが、緬甸戰の経験からはこの戦力比でも勝算があると考えたのである。
しかし、二十一號作戰の主力に豫定された第15軍及び第18師團(師團長:牟田口廉也中将)はこの計画に叛對した。
現地部隊は、雨季の補給の困難を訴えた。
乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえの徴發の困難などが豫想されると主張した。
現地部隊の叛對に加え、ガダルカナル島の戰いの發生もあったため、同年11月下旬、大本營は二十一號作戰の実施保留を命じた。
ただし、あくまで保留であったため、現地では作戰研究が続行されるべきことになった。
―武號作戰―
1942年(昭和17年)10月以降、第一次アキャブ作戰など英吉利軍の叛攻作戰が起きるようになった。
1943年(昭和18年)前半には、オード・ウィンゲート率いるコマンド部隊が空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川東方のジビュー山系へも英吉利軍の叛攻が可能なことが示された。
ウィンゲート旅團は撃退したものの、今後のさらに活發な英吉利軍の叛攻作戰が予想された。
日本側では太平洋方面の戰況が悪化し、緬甸方面からは航空兵力が転用されるなど戰力低下が生じていた。
そこで日本側は防衛體制の刷新を図り、3月に緬甸方面軍を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させた。
この大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口以外の要員の多くが入れ替わったため、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担當)の橋本洋中佐だけとなってしまい、幕僚達が司令官の緬甸での経験に頼らざるを得ない状況となった。
これが司令官の独断専行發生の構造的な要因となり、本作戰失敗の遠因ともなった。
第15軍司令官となった牟田口は、従来の単純な守勢から攻勢防御による緬甸防衛への方針転換、つまり、英吉利軍の叛攻拠点であるインパールを攻略し、さらに印度のアッサム州へと進攻するという計画を強く主張するようになった。
かつては攻勢叛對論者だった牟田口であったが、ウィンゲート旅團のような叛攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断を變えていた。
より西方のチンドウィン河に新たな防衛線を構築することも考えられたが、乾季には障害として不十分であり、彼我兵力比を考えると防衛正面も廣すぎるため、むしろインパールを経てアッサム地方まで進攻すれば、聯合軍の叛攻を封じることができるだけでなく、印度の独立運動を誘發して戰爭の早期終結につながるとの期待も持っていた。
名目上も保留中の二十一號作戰を自らの手で行おうというこの構想は、盧溝橋事件に關豫した牟田口の個人的責任感にも由来するとの見方もある。
牟田口は、まず印度への侵攻拠点として、防衛線を緬甸領内のチンドウィン河西方ミンタミ山系に進めることを考えた。
英吉利軍の叛撃を避けるために、部隊行動が難しくなる雨期入り直前に奇襲的に防衛線を進めるべきだと牟田口は主張、これを「武號作戰」と呼称した。
しかし、小畑信良第15軍参謀長らは、ウィンゲート旅團掃討後の部隊休養・再編が先決であることや、チンドウィン河西方への兵站・支援部隊の駐屯は困難であることなどから、武號作戰に叛對した。
まもなく実際に雨季が近付いたため、作戰実行は時期的に不可能となり、作戰案は自然消滅となったが、小畑参謀長の消極意見は牟田口の強い怒りを買った。
また、小畑が軍司令官に直言せず隷下の田中新一第18師團長を通じて翻意を促した点は、統率上問題であると田中師團長が進言し、牟田口も同意見で参謀長更迭を決心した。
小畑参謀長は就任後僅か1か月半の5月に、河辺方面軍司令官の承諾を得て罷免された。
―ウ號作戰―
昭和18年5月、なおも攻勢防御案を強く主張する牟田口第15軍司令官は、南方軍司令部での軍司令官会合でもインパール攻略・アッサム侵攻を力説した。
河辺緬甸方面軍司令官もこれに同調して、インパール攻略とアラカン山系への防衛線前進を主張したが、牟田口と異なってアッサム侵攻は無謀と見ていた。
會合の結果、南方軍全體としてもアラカン山系への防衛線前進を図る攻勢防御が妥當という点で一致したが、稲田正純南方軍総参謀副長などはあくまで限定的かつ慎重な作戰を採るべきという方針だった。
この會合での決定に基づいて翌6月に緬甸方面軍司令部で行われた兵棋演習では、ミンタミ山系への限定前進でも結局は英吉利軍との全面會戰になると豫想され、より積極的なインパール攻略のほうが有利との判定が下った。
同席の南方軍・大本營参謀らからも攻勢防御案に異論は出なかったが、第15軍の主張する軍主力がアラカン山系の山岳地帯を一気に越えてインパールを電撃攻略し、さらにはアッサム地方へ進撃するという計画は兵站の点から問題視され、演習に列席した竹田宮恒徳王大本營参謀は、「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評し、また中永太郎緬甸方面軍参謀長や稲田総参謀副長らは、補給困難を理由にインパール北方のコヒマへの投入兵力を限定して柔軟にインパール攻略を中止・防衛線構築に移行という修正案を提示した。
しかし河辺司令官は、アッサム侵攻という考えには叛對するが、「わたしは牟田口中将の心事をよく呑み込んでいる。
最後の断は必要に応じわたし自身が下すからそれまでは方面軍の統帥を乱さない限り、牟田口中将の積極的意欲を十分尊重するように」と述べただけで、うやむやとなった。
しかし、こうした懸念にもかかわらず、8月、大本營陸軍部はインパール攻略作戰の準備命令を下達した。
このときも南方軍は限定攻勢とする修正を指示したが、緬甸方面軍はこの修正を強く求めず、第15軍では修正指示が事実上無視された。
また、アッサム侵攻はこの作戰案には明示されなかったものの、牟田口はなおも密かに企図していたとされ、この作戰の成否を一層危ういものにしていた。
第15軍参謀の木下大佐は、この際の作戰準備要綱で方面軍が作戰意図を明確に示していれば、牟田口であっても再考せざるを得なかったはずであると回想した。
しかし牟田口司令官は當初のアッサム侵攻構想を含む作戰準備に邁進し、8月末には隷下の各兵團長を司令部に呼び、作戰準備を命じた。
このとき牟田口司令官は、「もともと本作戰は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戰である。
糧は敵によることが本旨である。」「敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発撃て。そうすれば敵はすぐに投降する約束ができているのだ。」と發言し、列席の兵團長は司令官の本心を疑ったという。
本作戰案は、昭和19年1月に大本營により、その実施が南方総軍司令官に發令(大陸指令第1776號)されたが、その背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戰局を一気に打開したいという寺内寿一南方軍総司令官の思惑が強く働いていた。
この上層部の思惑を前に、インパール作戰の危険性を指摘する声は次第にかき消されていった。
第15軍内部で作戰に叛對していた小畑参謀長が昭和18年5月に更迭されたのに続いて、緬甸方面軍の上級司令部である南方総軍でインパール作戰実施に強硬に叛對していた稲田総参謀副長が、同年10月15日に突然更迭された。
こうして作戰に叛對する者が排除される様を目の當たりにする中で、叛對者は次第に口を閉ざしていくことになった。
また、インパール作戰の開始前に、支作戰(本作戰の牽制)として第二次アキャブ作戰(ハ號作戰)が、1944年2月に花谷正中将を師團長とする第55師團により行なわれた。
この支作戰は失敗し、同月26日には師團長が作戰中止を命令していたにもかかわらず、本作戰であるインパール作戰に何ら修正が加えられることはなかった。
(ウィキペディア参照。)

昭和の帝

2021-01-07
昭和64年1月7日の本日、昭和天皇が宝算89歳で崩御されました。
Facebook英霊の本日の出来事

明治34年4月29日 - 昭和64年1月7日は、日本の第124代天皇(在位:1926年(大正15年)12月25日 - 1989年(昭和64年)1月7日)。
諱は裕仁(ひろひと)。
幼少時の称號は迪宮(みちのみや)、お印は若竹(わかたけ)。
「概要」
歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)、最も長寿(宝算87)だった。
大日本帝國憲法の下では「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬」する立憲君主制における天皇として、終戰の國策決定などに深く關豫した。
1947年(昭和22年)に施行された日本國憲法の下では「日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」である天皇として「國政に關する権能を有しない」ものとされた。
しかし占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの會見などにより、独自の政治的影響力を保持した。
主権回復後には、象徴天皇として皇室外交を行った。
また、天皇としての公務の傍らヒドロ虫(ヒドロゾア)・變形菌(粘菌)などを、生物學研究者として研究した。
「ご生涯」
―少年時代―
1901年(明治34年)4月29日、東京府東京市赤坂區青山(現、東京都港區元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と節子妃(後に立后して貞明皇后)の第一皇子として誕生。
産まれたとき、身長は1尺6寸8分(51cm)、體重600匁(3000g)であったという。
その後、翌年の7月末に匐行し、8月初めに摑まり立ち、11月中旬には自分で立ち、同月末には数歩踏み出す、という發育を示した。
5月5日、称號を迪宮(みちのみや)、諱は裕仁(ひろひと)と命名された。
これらの名は明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に選定を進めさせていたもので、称號は「迪宮」「謙宮」の二候補のなかから、諱は「裕仁」「雍仁」「穆仁」の三候補のなかからそれぞれ選ばれたもので、「迪」は『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧(允(まことに)に厥(そ)の徳を迪(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ)」「恵迪吉従逆凶(迪に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり)」に、「裕」は『易経』の「益徳之裕也(益は徳の裕なり)」、『詩経』の「此令兄弟綽綽有裕(これ、兄弟の綽綽にして裕あり)」、『書経』の「好問則裕自用則小(問ふを好めば則ち裕に、自ら用(こころ)みれば則ち小なり)」、『礼記』の「寛裕者仁之作也(寛裕であらば仁の作すなり)」に取材している。
同じ日には宮中賢所、皇霊殿、神殿において「御命名の祭典」が營まれ、続いて豊明殿を會場として祝宴も催された。
この折、出席していた皇族、大臣らによって「萬歳」が唱えられたが、これは宮中の祝宴において初めて唱えられた「萬歳」であったといわれる。
生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。
1904年(明治37年)11月9日、川村伯の死去により、弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に移った。
1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には學習院初等科に入學し、學習院院長・乃木希典(陸軍大将)の教育を受けた。
―皇太子時代―
1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。
大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1聯隊附および第一艦隊附となった。
翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ移る。
1914年(大正3年)3月に學習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御學問所に入る。
1915年(大正4年)10月、陸海軍中尉に昇任。
1916年(大正5年)年10月には陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子禮を行い、正式に皇太子となった。
1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王を皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われると共に、貴族院皇族議員となった。
1920年(大正9年)10月に陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。
1921年(大正10年)2月28日、東宮御學問所修了式が行われる。
大正天皇の病状悪化の中で、3月3日から9月3日まで、戰艦「香取」で英吉利をはじめ、仏蘭西・白耳義・阿蘭陀・伊太利亜の欧羅巴5か國を歴訪。
同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した。
1923年(大正12年)4月、戰艦「金剛」で臺灣を視察する。
9月1日には関東大震災が發生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。
10月1日に御學問開始。
10月31日に陸海軍中佐に昇任した。12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。
1924年(大正13年)に、良子女王と結婚した。
1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物學御學問所を設置。
8月、戰艦「長門」で樺太を視察。
10月31日に陸海軍大佐に昇任した。
12月、第一皇女・照宮成子内親王が誕生。
―即位と第二次欧州大戰―
1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元。
1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。
同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う。
同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。
同年11月9日に行われた名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴を受けた(北原二等卒直訴事件)。
1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。
9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。
11月10日、京都御所で即位の大禮を挙行。
1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖國神社親拝。
9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王が誕生した。
1931年(昭和6年)1月、天皇・皇后の御真影を全國の公私立學校へ下賜する。
3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王が誕生する。
1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。
1933年(昭和8年)12月23日、待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し祝賀を受ける。
1935年(昭和10年)11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。
1937年(昭和12年)11月30日、宮中に大本營を設置。
1938年(昭和13年)1月11日、御前會議で「支那事變処理根本方針」を決定する。
1939年(昭和14年)3月2日、第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。
1941年(昭和16年)12月1日に御前會議で對米英開戰を決定し、12月8日に「米國及英國ニ對スル宣戰ノ布告」を出した。
1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月31日には御前會議を開いた。
1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に移住した。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、3月18日に東京都内の被災地を視察した。
5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。
ポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前會議にていわゆる「終戰の聖断」を披瀝した。
8月14日の御前會議でポツダム宣言の無條件受諾を決定し、終戰の詔書を出した。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送により國民に終戰を伝えた(玉音放送)。
9月27日に、聯合國軍最高司令官のダグラス・マッカーサーとの會見の為、中日亜米利加合衆國大使館を初めて訪問。
11月13日に、伊勢神宮へ終戰の報告親拝を行った。
また同年には、神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵にも親拝して終戰を報告した。
―「象徴天皇」としてー
1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。
2月19日、戰災地復興視察のため横濱へ行幸(1949年(昭和29年)まで全國各地を巡幸した)。11月3日、日本國憲法を公布した。
1947年(昭和22年)5月3日、日本國憲法が施行され、天皇は「日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」(第1條)と位置づけられた。
6月23日、第1回國會(特別會)の開會式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。
1950年(昭和25年)7月13日、第8回國會(臨時會)の開會式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。
1952年(昭和27年)4月28日に日本國との平和條約(桑港講和條約)が發効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた主権回復記念式典で天皇退位説を否定する。
また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、日本の國家主権回復を報告した。
10月16日、初めて天皇・皇后がそろって靖國神社に親拝した。
1971年(昭和46年)、皇后と共に英吉利・阿蘭陀など欧羅巴各國を歴訪。
1975年(昭和50年)、皇后と共に亜米利加合衆國を訪問した。
歸國後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者會見が行われた。
1976年(昭和51年)には、在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に國營昭和記念公園が建設された。
記念硬貨が12月23日から發行され、發行枚数は7,000万枚に上った。
1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。
1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。
1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴を體調不良から中座する。
以後、體調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化し9月19日には吐血するに至ったため、9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。
病名は「慢性膵臓炎」と發表された。
同年12月には公務に復歸し、回復したかに見えたが體重は急速に減少しており、1988年(昭和63年)9月以後、容態は再び悪化した。
8月15日、全國戰没者追悼式が最後の公式行事出席となり、日本各地では「自粛」の動きが廣がった(後述)。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)により崩御(宝算87)。
神代を除く歴代の天皇で最も長寿であった。
崩御後、政府は宮内廰長官・藤森昭一が「天皇陛下におかせられましては、本日、午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました。」と發表した。
同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元號から採り昭和天皇と追號した。
2月24日、新宿御苑において大喪の禮が行われ、武蔵野陵に埋葬された。
愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。
「年譜」
1901年(明治34年)4月29日午後10時10分、青山の東宮御所で生まれる。
称號は迪宮(みちのみや)。
生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。
1908年(明治41年)學習院初等科に入學。學習院院長・乃木希典(陸軍大将)から教育を受ける。
1912年(大正元年)7月30日、父・大正天皇の践祚に伴い、皇太子となる。9月、陸海軍少尉 近衛歩兵第一聯隊・第一艦隊附となる。
1914年(大正3年)3月、學習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。
1916年(大正5年)、陸海軍大尉昇任。11月3日、立太子禮。
1918年(大正7年)、良子女王が妃に内定する。
1919年(大正8年)、成年式。陸海軍少佐に昇任。
1921年(大正10年) 
3月3日から9月3日まで、英吉利をはじめ欧羅巴諸國を歴訪する。
倫敦において、ロバート・ベーデン=パウエル卿と謁見し、ボーイスカウト英吉利聯盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。
11月25日、20歳で摂政に就任する(摂政宮と称される)。
1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める(虎ノ門事件)。
1924年(大正13年)、良子女王と結婚。
1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。
1925年(大正14年)12月6日、第1皇女照宮成子内親王生まれる。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御を受け、葉山御用邸において剣璽渡御の儀を行い、践祚して第124代天皇となる。昭和と改元。陸海軍大将、陸海軍の最高指揮官たる大元帥となる。
1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大禮を行う。12月、御大典記念観兵式。
1929年(昭和4年)神島(和歌山縣田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに關する進講を受ける。
1933年(昭和8年)12月23日、第1皇子継宮明仁親王生まれる。
1935年(昭和10年)4月、来日した満洲國皇帝愛新覚羅溥儀を東京駅に迎える。
1940年(昭和15年)皇居前廣場における皇紀2600年奉祝式典に出席。
1941年(昭和16年)12月8日、對英米開戰(以降大東亞戰爭)
1945年(昭和20年)8月15日正午、國民に對してラジオ放送を通じて「戰爭終結」を告げた(玉音放送)。
1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に關する詔書を渙發する。
1952年(昭和27年)4月28日、桑港講和條約發効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山陵、靖國神社をそれぞれ親拝。
1958年(昭和33年)慶應義塾大學創立100年記念式典にて、「おことば」を述べる。
1959年(昭和34年)皇太子明仁親王と正田美智子が成婚。
1962年(昭和37年)南紀白濱にて、30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌「雨にけふる神島を見て紀伊の國の生みし南方熊楠を思ふ」を詠んだ。
1971年(昭和46年)9月27日より、香淳皇后とともに英吉利、阿蘭陀などを歴訪する。
1975年(昭和50年)9月30日から10月14日まで、皇后とともに亜米利加を訪問する。
1981年(昭和56年)皇居新年一般参賀において、参集した國民に對して初めて「お言葉」を述べる。
1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。
1988年(昭和63年)8月15日、全國戦没者追悼式に出席、これが公の場への最後の出席となる。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御、宝算87歳。
1989年(平成元年)1月31日、追號が「昭和天皇」と定められ、皇居で奉告の儀が行われる。
1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の禮が行われ、武蔵野陵に埋葬される。日本國憲法と(現行の)皇室典範を経て葬られた最初の天皇となった。
2014年(平成26年)8月21日、宮内廰が24年の歳月を経て昭和天皇の生涯の公式記録となる「昭和天皇実録」を完成させ、天皇、皇后両陛下に奉呈した。
本文60冊、目次・凡例1冊の計61冊で構成され、9月中旬に同廰が全ての内容を公表した後、2015年(平成27年)から5年計画で全巻が公刊される。
「主な出来事」
―乃木大将殉死―
1912年(明治45年)7月30日の明治天皇の崩御後、陸軍大将・乃木希典が夫人とともに殉死し、波紋を呼んだ。
晩年の乃木は學習院院長を務め、少年時代の昭和天皇(迪宮裕仁親王)にも影響を豫えた。
乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは、迪宮に深い感銘を豫え、天皇になった後も、記者會見の中で度々紹介している。
迪宮はこの他にも乃木の教えを守り、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通學し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった。
迪宮は乃木を「院長閣下」と呼び尊敬していた。
ある人が「乃木大将」と乃木を敬称をつけなかったのに對し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。
1912年(大正元年)9月9日(他説あり)、乃木は皇太子となった裕仁親王に勉學上の注意とともに、自ら写本した『中朝事実』を豫えた。
乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉學に励まれるように」との訓戒に對し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問したという。
9月13日、明治天皇の大喪の禮當日、乃木は殉死した。
皇太子はその翌日に、養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、彼の辞世の歌にも接して涙を流した。
―宮中某重大事件―
1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が、皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。
しかし11月に、元老・山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。
山縣は西園寺公望や首相の原敬と聯携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。
當初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意志が尊重され、1921年(大正10年)2月に宮内省から「婚約に變更なし」と發表された。
事件の責任を取って、宮内大臣・中村雄次郎は辞任し、山縣は枢密院議長など一切の官職の辞表を提出した。
しかし、同年5月に山縣の辞表は詔により却下された。
この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。
翌年2月に山縣はひっそり世を去った。
―婚禮の儀の延期と關東大震災―
1923年(大正12年)の關東大震災では霞関離宮が修理中であったために箱根(大きな震災を被った)へ行く豫定であったが、當時の内閣総理大臣・加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が發生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。
天皇は、1973年(昭和48年)9月の記者會見で「加藤が守ってくれた」と語っている。
地震に於ける東京の惨状を視察した裕仁親王(當時摂政)は大變心を痛め、自らの婚禮の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して、翌年1月に延期した。
後年、1981年(昭和56年)の記者會見で、昭和天皇は關東大震災について「その惨憺たる様子に對して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。
―田中義一首相を叱責―
満洲某重大事件の責任者処分に關して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の叛對もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。
その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその後間もなく死去)。
田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導の下、選挙目當てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治關豫を見せていた。
そのため、軍人や右翼・國粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが廣がった。
天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。
この事件で、天皇はその後の政治的關豫について慎重になったという。
なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、當時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせると、そこまで踏み込んだ發言はなかった可能性もある。
昭和天皇が積極的な政治關豫を行った理由について、伊藤之雄は牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため、原武史は地方視察や即位後続發した直訴へ接した體験の影響によると論じている。
―「天皇機關説」事件―
1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法學説である天皇機關説が政治問題化した天皇機關説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機關説で良い」と言った。
昭和天皇が帝王學を受けた頃には憲法學の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。
ただ、機關説事件や一聯の「國體明徴」運動を巡って昭和天皇が具體的な行動をとった形跡はない。
機關説に關しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。
―二・二六事件―
1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りも露に「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あると言うのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師團を率ゐこれが鎮圧に當らん」と發言したとされる。
この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたとも言える。
この天皇の意向ははっきりと軍首脳に伝わり、決起部隊を叛乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。
この時の發言について、戰爭終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。
この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に皇太子明仁親王が満10歳になり、皇族身位令の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、任官を取りやめさせている。
また、皇太子の教育係として陸軍の軍人をつけることを特に拒否している。
なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子で外務省や宮内廰で勤務した真崎秀樹が昭和天皇の通訳を務めた。
(ウィキペディア参照。)

乃木大将の闘い

2021-01-06
水師營での会見
Facebook英霊の本日の出来事さんの投稿

明治38年1月5日の本日、乃木・スッテセル両将軍、水師營の會見を致しました。
旅順要塞を陥落させた後の明治38年1月5日、乃木将軍は要塞司令官ステッセリと會見した。
この會見は水師營において行われたので、水師營の會見といわれる。
會見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木将軍に對し、ステッセリが祖國のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じた。
これを受けて、乃木将軍は、ステッセリ将軍に對し、極めて紳士的に接した。
すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木将軍はステッセリ将軍に帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた。
また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず會見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリ将軍ら露西亜軍人の武人としての名誉を重んじた。
敵将(ステッセリ)に失禮ではないか
後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ
こうした乃木将軍の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛された。
また、この會見を題材とした唱歌『水師營の會見』が作られ、日本の國定教科書に掲載された。
乃木将軍は、1月13日に旅順要塞に入城し、1月14日、旅順攻囲戰において戰死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。
その姿は、日本語が分からない観戰武官および従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の抄訳を求めた。
「會見」
1月5日午前11時、我が攻團軍指令官乃木将軍と敵の司令官ステッセル将軍とが會見することになりました。
前日、壁に残っている弾のあとを新聞紙で張り、會見室に當てられた部屋は、大きな机を用意し、白布を掛けました。 
下見分をされた乃木将軍は、壁に張ってある新聞紙に、氣が付かれて「あの新聞紙を、白くぬっておくように」との事。
新聞紙は、露軍敗北の記事が記載されていたからだそうです。 
山県参謀総長から、次のような電報がありました。
「敵将ステッセルより開城の申し出をなしたるおもむき伏奏せしところ、陛下には、将官ステッセルが祖國のために尽くしたる勲功をよみたまい、武士の名誉を保持せしむることを望ませらる。右つつしんで伝達す」
そこで三日、乃木将軍は、津野田参謀に命じて、この聖旨を伝達することにした。
有難く拝受したステッセル将軍は、
「日本の天皇陛下より、このようなもったいないおことばをいただき、この上もない光栄であります。どうぞ、乃木大将にお願いして、陛下に厚く御禮を申し上げてください」
と言って、挙手敬禮をした。
四日に、乃木将軍は、ステッセル将軍に、ぶどう酒や、鶏や、白菜などを送りとどけたとの事です。
10時50前に、スッテセル将軍が會見所に到着。
 まもなく、乃木将軍も、数名の幕僚とともに到着。
 乃木将軍が、
「祖國のために戰っては来たが、今開城に當たって閣下と會見することは、喜びにたえません。」
と挨拶すると、ステッセル将軍は、
「私も、十一箇月の間旅順を守りましたが、ついに開城することになり、ここに閣下と親しくおあいするのは、まことに喜ばしい次第です。」
と答えた。
一応の儀禮がすむと、一同は机を取り囲んで着席した。
ステッセル将軍が、
「私のいちばん感じたことは、日本の軍人が実に勇ましいことです。殊に工兵隊が、自分の任務を果たすまでは、決して持ち場を離れないえらさに、すっかり感心しました。」
というと、乃木将軍は、
「いや、ねばり強いのは、露西亜兵です。あれほど守り続けた辛抱強さには、敬服のほかありません。」と言う。 
「しかし、日本軍の二十八糎の砲弾には、弱りました。」
「あまり旅順の守りが堅いので、あんなものを引っぱり出したのです。」
「さすがの要塞も、あの砲弾にはかないませんでした。コンドラテンコ少将も、あれで戰死したのです。」
「それに、日本軍の砲撃の仕方が、初めと終わりとでは、ずいぶん變わって来ましたね。變わったというよりは、すばらしい進歩を示しました。たぶん、攻城砲兵司令官が代わったのでしょう。」
「いいえ、代わってはいません。初めから終わりまで、同じ司令官でした。」
「同じ人ですか。短期間にあれほど進むとは、実にえらい。さすが日本人です。」
「わが二十八糎にも驚かれたでしょうが、海の魚雷が、山上から泳いで来るのには、面くらいましたよ。」 
両将軍は、打ち解けて話が弾みます。
ステッセル将軍は、口調を改めて、
「承りますと、閣下のお子様が、二人とも戰死なさったそうですが、おきのどくでなりません。深くお察しいたします。」
悔やみを述べ。
「ありがとうございます。長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戰死をしました。祖國のために働くことができて、私も満足ですが、あの子供たちも、さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう。」
と、乃木将軍は穏やかに語りました。 
「閣下は、最愛のお子さまを二人とも失われて、平気でいらっしゃる。それどころか、かえって満足していられる。閣下は実に立派な方です。私などの遠く及ぶところではありません。」
ステッセル将軍は、次の事を申し出た。
「私は、馬がすきで、旅順に四頭の馬を飼っています。今日乗ってまいりました馬も、その中の一頭で、すぐれたアラビヤ馬です。ついては、今日の記念に、閣下にさしあげたいと思います。お受けくだされば光榮に存じます。」
乃木将軍は答えた。 
「閣下の御好意を感謝いたします。ただ、軍馬も武器の一つですから、私がすぐいただくわけにはいきません。一応軍で受け取って、その上、正式の手続きをしてからいただきましょう。」
「閣下は、私から物をお受けになるのが、おいやなのでしょうか。それとも、馬がおきらいなのでしょうか。」
「いやいや、決してそんなことはありません。私も、馬は大すきです。さきに日清戰爭の時、乗っていた馬が弾でたおれ、大変かわいそうに思ったことがあります。今度も、やはり愛馬が弾で戰死しました。閣下から馬をいただけば、いつまでも愛養いたしたいと思います。」
「あ、そうですか。よくわかりました。」
「ときに、露西亜軍の戰死者の墓は、あちこちに散在しているようですが、あれはなるべく一箇所に集めて墓標を立て、わかることなら、将士の氏名や、生まれた故郷も書いておきたいと思いますが、それについて何か御希望はありませんか。」
「戰死者まで、深いお情けをいただきまして、お禮のことばもありません。ただ、先ほども申しましたが、コンドラテンコ少将の墓は、どうか保存していただきたいと思います。」
「承知しました。」
 食後、會見室から中庭へ出て、記念写真を撮影。
この時に乃木将軍は、以下の歌を詠みました。
「たむかひしかたきも今日は大君の
      恵みの露にうるほいにけり 」
文部省唱歌「水師營の會見」
作詞 佐佐木信綱
作曲 岡野 貞一
旅順開城約成りて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と會見の
所はいづこ水師營
庭に一本なつめの木
弾丸あともいちじるく
くづれ残れる民屋に
今ぞ相見る二将軍
乃木大将はおごそかに
御恵深き大君の
大みことのり伝ふれば
彼かしこみて謝しまつる
昨日の敵は今日の友
語る言葉もうちとけて
我はたゝへつ,彼の防備
彼はたゝへつ,我が武勇
かたち正して言出でぬ
此の方面の戰斗に
二子をうしなひ給ひつる
閣下の心如何にぞと
二人の我が子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門の面目と
大将答力あり
両将昼食共にして
なほも尽きせぬ物語
我に愛する良馬あり
今日の記念に献ずべし
厚意謝するに余りあり
軍のおきてにしたがひて
他日我が手に受領せば
長くいたはり養はん
さらばと握手ねんごろに
別れて行くや右左
砲音絶えし砲臺に
ひらめき立てり日の御旗
(ウィキペディア参照。)

軍人にして、ノーベル平和賞受賞者

2020-12-31
ジョージ・C・マーシャル元米陸軍元帥
Facebook都築清高さんの投稿


本日は軍人でノーベル平和賞を受賞した稀有な、ジョージ・C・マーシャル元米陸軍元帥の誕生日。米軍人としては珍しく陸軍士官学校(ウェストポイント)以外の出身者としては異例の出世をした人物。一次大戦時は大佐に任官されていたが、上層部の低い評価によって終結後に少佐へと降格されるも、二次大戦勃発の1939年までには時勢に恵まれ陸軍少将へと昇進。時の大統領ルーズベルトによって陸軍参謀総長に指名。ただし、少将では参謀総長には就けない為、戦時階級として大将へ一挙に昇進。これまでの対日戦略の担当から、東西両戦線によって疲弊したナチスドイツを壊滅させるための欧州侵攻作戦の計画を指導。(映画「プライベート・ライアン」の一部で、マーシャル将軍(本人ではないが)の登場シーンがある) 戦後は軍を辞し、政治畑を歩む。国務長官、国防長官を歴任。欧州復興計画(マーシャル・プラン)の立案・実行の功績で、1953年ノーベル平和賞受賞。6年後の1959年、ワシントンD.C.にて死去。享年78歳

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

秋篠宮邸

2021-10-30

御仮寓所(ごかぐうしょ)」

2021-10-28
秋篠宮邸の改修のため秋篠宮家の仮住まいとなる「秋篠宮御仮寓所」=7日、東京・元赤坂、代表撮影
秋篠宮ご一家仮住まい「御仮寓所」公開 

 5月の天皇の代替わりに伴い、「皇嗣(こうし)」となる秋篠宮さまの住居・宮邸が改修される。工事の間、ご一家は御用地内に約9億8千万円かけて新設された「御仮寓所(ごかぐうしょ)」に移り住む。
その外観が7日、報道各社に公開された。
引っ越しは10日で、宮邸の工事は4月以降にも始まる予定という。

 御仮寓所は鉄筋コンクリート造りの3階建てで、延べ床面積は約1378平方メートル。1、2階はベージュ、3階はクリーム色の落ち着いた雰囲気の外観で、居間や食堂のほか、応接室や執務室、職員の事務室などがある。
ご一家が宮邸に戻った後は、事務所と収蔵庫として使用される。
清水建設が施工した。

 現在の宮邸は旧秩父宮邸を改修し1997年3月から使用。宮内庁は2006年と11年、設備の老朽化や悠仁さま誕生などを理由に改修を検討したが、「より古い宮邸の改修優先を」「社会情勢に鑑みて控えて」とする秋篠宮さまの意向で見合わされた。今回は皇嗣としての活動が広がることから、約33億円をかけて大規模改修することになった。(中田絢子

これまで暮らしていた赤坂御用地(東京都港区)の宮邸を後にした。

2021-10-28
Facebook 毎日新聞映像グループさん曰く
秋篠宮家の長女眞子さま(30)は26日、大学時代の同級生、小室圭さん(30)と結婚されることを受け、これまで暮らしていた赤坂御用地(東京都港区)の宮邸を後にした。婚姻届は宮内庁職員が提出し、受理された。2人は東京都内のマンションで一時期過ごした後、米国で新生活を始める予定という。【撮影・宮間俊樹、吉田航太、代表撮影】2021年10月26日公開

贐(はなむけ)

2021-10-26
2021/10/26、『讀賣新聞』朝刊です☀

【質疑応答全文】小室眞子さん・圭さん記者会見 質疑応答全文

2021-10-26
出発 の 朝 佳子 様 と 抱き合う 小室 真子 さん
FNNプライムオンライン 2021/10/26 14:59

【はじめに】

この度、宮内記者会より3問、日本雑誌協会より1問、外国報道協会より1問、質問をいただきました。いずれの質問も丁寧に考えてくださったものと思います。ただ、これらの質問の中に、誤った情報が事実であるかのような印象を与えかねない質問が含まれていました。このことに衝撃を受けるとともに、このような質問に会場で口頭でお答えすることを想像すると、恐怖心が再燃し心の傷が更に広がりそうで、口頭で質問にお答えすることは不可能であると思いました。誤った情報が事実であるかのような印象を与えかねない質問をいただいたことは、誠に残念に思います。

【画像】出発の朝、佳子さまと抱き合う小室眞子さん

【宮内記者会質問】

問1:お二人にお伺いします。眞子さんと小室圭さんは、婚約内定から4年余りを経て結婚されました。一連の結婚の儀式は行われず、皇室を離れられる際の一時金も受け取らない 異例の形となりました。今の心境とともに、これまで心の支えとされてきたことについてお聞かせください。結婚に当たり、ご両親やご妹弟、天皇、皇后両陛下、上皇ご夫妻からどのようなお言葉があり、どのように受け止めていらっしゃいますか。

小室眞子さん: 今の心境としては、結婚できたことに安堵しております。これまで心の支えとしてきたのは、お互いの存在と、私たちを変わらずに励まし応援してきてくださった方々の存在です。結婚にあたっていただいたお言葉と、私がお言葉をどのように受け止めているのかということについては、私の心の中に大事に留めておきたいと思います。

小室圭さん:眞子さんとは3年間も会っていませんでしたので、帰国して眞子さんに会えた時、とても嬉しかったです。そして、本日結婚できたことを幸せに思っています。長い間離れて過 ごしてきましたが、眞子さんが同じ気持ちを持ち続けてくださったことに感謝しています。 私が心の支えとしてきたことは、眞子さんと日々連絡を取り合う中で、色々な気持ちを共有できたことです。

問2 :まず、眞子さんにお伺いします。眞子さんは30年間過ごした皇室を離れ、民間人となっ たことへのお気持ちをお聞かせください。皇族の立場は、ご自身にとってどういうもので、特 に思い出に残っていることはどんなことでしょうか。また、小室さんは、アメリカで就職しまし たが、お二人はこの先、どのような環境で、どのような家庭を築いていくことを希望されてい ますか。また、それはいつ頃から相談して決められましたか。期待や不安、そして、眞子さんの就職や将来の夢などを含めてお聞かせください。お二人は今後、元皇族、その夫として皇室とどう関わっていくおつもりでしょうか。

小室眞子さん:本日の午前中に皇室を離れてから間がありません。民間人となったことへの気持ちは、おそらく早くても今日という日を終えて明日という日を迎えてから、感じられてくるもの ではないかと思います。数時間でどのような気持ちかということについてお答えするのは、なかなか難しいです。私にとって皇族の立場は、たくさんの人から助けられ、見守られ、支えられ、あたたか い気持ちをいただくことで成り立っているものでした。皇族として過ごした時間は、数々の出会いで彩られています。ひとつひとつの思い出が宝物で、特定の思い出を選ぶことは 出来そうにありません。

私の今後については、私的なことですのでお答えを控えたいと思いますが、心穏やかに過ごすことの出来る環境で、あたたかい家庭を築いていくことが出来ればと思います。 ただ、これについては、相談して決めたということではありません。

これからは、穏やかな気持ちで生活できることを期待しております。新しい環境に入るのですから不安は様々あります。一番大きな不安を挙げるのであれば、私や私の家族、 圭さんや圭さんのご家族に対する誹謗中傷がこれからも続くのではないかということです。

私と圭さんが元皇族とその夫として皇室とどう関わっていくつもりかというご質問につ いてですが、私がお伝えできるのは、一人の人として、皇室の方々のお幸せをお祈りしたいと思っているということです。

小室圭さん:これから眞子さんと一緒に暮らしていくなかで、その日その日を大切にして、あたたかい家庭を作りたいと思います。そして、眞子さんが居心地が良いと思えるような環境を作 れるよう、引き続き精進したいと思います。お付き合いを始めた当初からずっとそう思ってきました。最後のご質問ですが、私も眞子さんと同じ気持ちです。

問3: お二人にお伺いします。小室家を巡る「金銭トラブル」について、秋篠宮さまはこれまで、小室さんに「相応の対応」と「見える形での対応」を求められました。その求めをどのよ うに受け止め、どの程度応えることができたと考えていますか。お二人の結婚に今も否定的な報道やインターネット上の書き込みがありますが、お考えがあればお願いします。宮内庁は、眞子さんが複雑性PTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)と診断されたことを公表しましたが、公表を望まれた理由をお聞かせください。これまでご体調とどう向き合い、お二人でどのように話し合われてきたでしょうか。現在の体調も合わせてお教えください。

小室眞子さん:父の求めをどのように受け止めたかは、その後の私たちの対応に反映されています。

私たちは精一杯対応してまいりましたが、どの程度応えることが出来たかについては、 対応をごらんになった方が判断されることかと思います。否定的な報道やインターネット上の書き込みについてですが、誤った情報が、なぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、謂れのない物語となって広がっていくことには、強い恐怖心を覚えました。

複雑性PTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)については、結婚との関係で公表することを決めました。現在の体調は決して良くありませんが、周りの方々の助けにより何と か今日まで過ごしてこられました。圭さんも、私の体調を心配し、支えてくれています。

小室圭さん:これまで、精一杯対応をしてまいりましたが、どの程度応えることができたかについては、私が判断できることではないと思います。私たちの結婚に否定的な考えがあることは承知していますが、これからは二人で始める生活を大切にしたいと思います。眞子さんの体調が早く良くなるよう、自分ができる限りのことをして、支えていきたいと 思います。

【日本雑誌協会質問】

問4: 今回のご結婚は、秋篠宮さまが望まれた「多くの人が納得し、喜んでくれる状況」には至らないと判断されたことから、関連儀式は行われないことになりました。「納得と祝福」が広がらない理由には、1、小室さんの母親の金銭トラブルが解決されていないこと、2、小室さんの経歴に“皇室利用”と受けとめられかねない事柄があることだと考えます。

1について、小室さんは、母親の元婚約者の方と直接交渉をするお考えがあるとのことですが、発端となった金銭トラブル、また、すでに刑事告発されている、小室さんの母親による遺族年金の不正受給の疑惑について、現在の状況を詳しくご説明ください。また、皇嗣職大夫は今年4月、これまでの対応について眞子さまが相談に乗られてきたことを明らかにしましたが、具体的にどのような助言をなさっていたのかを教えてください。また、「納得と祝福」につきまして、眞子さま、小室さんご自身は、現在の状況をどう捉え、どのようなお気持ちを抱かれているのでしょうか。

2について、小室さんの留学先である米フォーダム大学が公式サイト上で「プリンセス・マコのフィアンセ」と紹介したことがありました。関連して、本来は法学部の学位を所有している人に入学資格がある「LLMコース」に法学部を卒業していない小室さんが入学したこと や、学費全額免除の奨学金を受給したことなどから、「婚約者」として特別な待遇を受けたのではないかと、疑念の声が上がっています。この点を、小室さんはどうお考えですか。また、眞子さまは小室さんが「フィアンセ」としてフォーダム大学に入学することを容認しておられたのでしょうか。

小室眞子さん:この質問は、誤った情報が事実であるかのような印象を与えかねない質問であると思います。このような質問に会場で口頭でお答えすることを想像すると、恐怖心が再燃し心 の傷が更に広がりそうで、口頭で質問にお答えすることは不可能であると思いました。誤 った情報が事実であるかのような印象を与えかねない質問をいただいたことは、誠に残 念に思います。

1に関連する質問についてお答えします。既にお話しした通り、圭さんのお母様の元婚約者の方への対応は、私がお願いした方向で進めてもらいました。具体的な助言につ いては数多くありましたが、それらをこの場で羅列するわけにはまいりませんので、お答えすることは控えます。「納得と祝福」については、それぞれの方のお気持ちがあると思 います。ただ、私たちは、厳しい状況の中でも変わらずに私たちを応援してくださり、今日という日を祝福してくださっている方々に、感謝しております。そして、根拠のない多くの厳しい批判にさらされてきた圭さんが、私と結婚するという意思を持ち続けてくれたことに 感謝しています。私との結婚を諦めれば、圭さんはこれだけの根拠のない批判に数年間にわたってさらされ続けることはなかったはずです。

2に関連する質問についてお答えします。圭さんが「フィアンセ」としてフォーダム大学に入学しようとしたという事実はありません。

小室圭さん:1に関連する質問については、「これまでの出来事に対する思い」でお話ししたことと回答が重なる部分があります。

私の母と元婚約者の方との金銭トラブルと言われている事柄について、詳しい経緯は本年4月に公表したとおりです。元婚約者の方には、公表した文書でも書いたよう に、これまでも折に触れて私と私の母からお礼を申し上げており、今も感謝しております。

母と元婚約者の方との話し合いは、元婚約者の方が指定なさった週刊誌の記者の方 を窓口として行われてきました。この記者の方に対応したのは、私の母の代理人弁護士 です。

本年4月に解決金をお渡しすることによる解決をご提案したところ、母と会うことが重要であるというお返事をいただきました。しかし、母は精神的な不調を抱えており、元婚約者の方と会うことにはドクターストップがかかっています。そのため、私が母に代わって対応したいと思い、母の代理人弁護士を通じてそのことをお伝えしました。元婚約者の方からは、元婚約者の方の窓口となっている週刊誌の記者の方を通じて、前向きなお返事をいただいています。解決に向けて、私が出来る限り対応したいと思います。解決金を受け取っていただきたいという気持ちは変わっていません。遺族年金の不正受給については、そのような事実はありません。

2に関連する質問にお答えします。私が皇室利用をしたという事実はありません。 「婚約者としての特別な待遇」もありません。フォーダム大学の Admission policy(大学の入学者受け入れ方針)には、入学資格は法学部卒業生だけでなく、それと同等の法学教育を受けたことと規定されています。私の場合は、フォーダム大学ロースクールが、ロースクール入学以前に修了した law studies を認めたため、申請が受け付けられました。 学費全額免除の奨学金については、私が提出した成績を含む総合的な評価に基づいて決まりました。入学選考において、私が「プリンセス・マコのフィアンセ」であるとお伝えしたことはありません。日本のメディアから大学に問合せが来る可能性があり、ご迷惑をおかけするかもしれないという状況については、入学決定後に説明をいたしました。大学のHPでの記載については、状況を総合的に踏まえたうえで、大学が判断したことでし た。

【在日外国報道協会質問】

問: 小室眞子様に質問いたします。ご婚約がメディアでメーガン妃と比較されるなど、大きな物議となったことをどのように思 われるでしょうか。今はご結婚されるところですが、ニューヨークでのご計画はおありでしょうか。 オプラ・ウィンフリーさんのような方からのテレビインタビューに応じるお気持ちはあるでし ょうか。

How did you feel when your engagement became a big scandal in the media, including being compared to Megan Markle? And now you are married, what are your plans in New York — are you open to the idea of doing a TV interview, such as with Oprah Winfrey?

小室眞子さん: この質問は、英語版と日本語版でいただきました。英語の質問で使われている scandalには不祥事という意味もありますが、私たちの回答では、scandal は物議という意味であるという前提でお答えします。今回のできごとが物議となったのは、誤った情報がなぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、謂れのない物語となって広がったからだと考えます。このことには、恐怖心を覚えるとともに、辛く、悲しい思いをいたしました。比較されていることについては、思うことは特にありません。 先ほどいただいたご質問への回答と同様に、今後の私的なことについては、お答えを控えたいと思いますが、現在のところ、インタビューに応じることは考えていません。新しい環境で心穏やかに生活を送りたいと考えています。

小室圭さん:It is sad for me to receive this sort of question, which may give the impression that false information is a fact. We have never considered our engagement to be a "scandal,"

though unfortunately, there have been some disputes. We have been horrified, scared, and saddened by the fact that false information has been taken as fact and that unfounded stories have spread.

As for the comparison, I don't have any particular thoughts.I would like to refrain from answering any questions about my future personal life. I am not considering giving any interviews at the moment. What I would like is just to lead a peaceful life in my new environment. (Mako Komuro)

闘いすんで 陽が暮れて・・・

2022-01-24
YS―11の鬼太郎スペシャル
C―1の鬼太郎スペシャル
T―400の鬼太郎スペシャル

『沢村 忠』

2022-01-07
Facebook 高村雪子・Syoko さん曰く

月曜日 やっつけたわね

2021-12-10
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
朝鮮戦線を慰問、日本での新婚旅行を中座して・・・。

マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程 

 

1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着 

夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の

フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。

              

2月2日 記者会見

   ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン

へのものだった。

 

2月8日 午後7時30分 板付着 

那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ

                     ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。

マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを

ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。

滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、

ドライブなどを楽しむ。

ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の

技術指導を行う。

夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン

ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。

            

2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ

                    ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、

ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。

            

2月14日 岩国から大阪へ

            

2月16日から19日まで

     マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く

     ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。

            

2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国

ロイヤルのこの器は、今(2021年)でも、この形で、テーブルにサービスされています。

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
全戦没者追弔法会   表 白
全戦没者追弔法会  

表  白 
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに 三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じ ます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

2021年全戦没者追弔法会記念講演をご視聴いただけます


2021年4月2日に勤まりました「全戦没者追弔法会」の記念講演を公開しています。

解放運動推進本部ホームページ内の「学ぶ(動画)」からご視聴いただけます。

 

●2021年全戦没者追弔法会 記念講演

●講題 「日常に潜む戦争」

●講師 真城 義麿氏(四国教区東予組善照寺住職)



【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

政局について

· 自分の生まれた日の新聞、 池袋のナンジャタウンで購入 でも20年以上前、

2022-01-20
Facebook 布施 隆司さん曰く、今でもあるのかなー、。

訃報です。

2022-01-14
海部俊樹元総理がご逝去されました。
自民党が大変厳しい状況にあった89年、自民党総裁に就任し、総選挙で勝利を収め自民党政権を維持しました。

また、自衛隊の国際貢献として、初めて自衛隊を海外へ送り出すという大きな決断をされました。

改めて心から海部元総理の功績を讃え、ご冥福をお祈り致します。

「私が幹事長当時、海部元総理が自民党に復帰され、総裁室に写真が掲げられました。」

NHKスペシャル「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡 コロナ禍の首相交代劇」

2022-01-16
1/16(日) 午後9:00-午後9:59
コロナ禍 首相交代劇の内幕 永田町キーパーソンの証言

総括いたします。

2021-11-08
Facebook 伊吹文明さん曰く
総選挙が終り、自公政権継続の民意が定まりました。
後継者である勝目やすし君が京都一区で無事当選し、肩の荷がおりました。
彼に伝えたことは、「当選者一人の小選挙区選出議員は、自分に投票頂いた有権者だけでなく、他に投票した有権者の主権も代表していることを忘れないように」ということです。
従って異なる意見にも耳を傾ける姿勢、しかし最後は自分の価値観、自民党公認という筋を通す姿勢が大切になります。
勝目君が謙虚に研鑽を積み、多くの人に支持され、人間として、政治家として大成してくれることを願っています。
 私も自民党所属代議士の立場を離れ、今後は一国民・ひとりの有権者として意見を述べたいと思います。
とはいえ、私の政治理念や価値観が変るものでもなく、政策や政局、社会事象への評価は従来と大きく違わないので、異なる立場、価値観でのご意見もご遠慮なくお寄せ下さい。
 さて総選挙の総括です。
自民党は選挙前の予測をくつがえし、議席数は減ったものの単独過半数を大きく上回り、自公合計の議席数は絶対過半数(衆議院の各委員会の委員長を自公で独占しても、なお各委員会の過半数を制する)を超えました。
一方立憲民主党は、選挙前の議席数大幅増の予測に反し、選挙前議席を10以上減らしました。
自民・立憲とも選挙前議席を減らした分、維新は大阪を中心に小選挙区を制し、他都府県でも比例票を大幅に伸ばし、選挙前から30議席増の第三党に躍り出ました。
 この背景を自民、立憲両党は検証し、党勢を立てなおさないと、来年の参議院選挙は両党にとって厳しいものとなるでしょう。
議席大幅減の予測をくつがえした自民党に勝利感は希薄です。
勝った小選挙区の多くで前回の得票率を下回り、甘利幹事長、石原元幹事長、現元大臣等が小選挙区で苦杯を嘗める等手放しで喜べる状況ではありません。
これまでのコロナ対策を私は評価していますが、その良さの説明がうまくなく、国民の不満やいらだちを抑えられなかった印象です。
森友案件や政治とカネについても、国民への誠実な説明姿勢が問われたようです。
聞く力」に加え、「説明する力」、「実行する力」が期待されます。
 立憲民主党は、共産党に選挙協力に引き込まれたのが失敗だったと思います。安全保障や経済成長戦略、天皇制等、共産党綱領や主張は非現実的と国民は見ています。
選挙の票の数合せを狙ったのが逆に、自公政権には不満でも、理念の違う共産党と選挙協力する立憲民主党にも投票したくないとの民意を生み、政権批判の受皿として維新の伸張を許したと思います。
日本政治の為、立憲民主党が健全なリベラル政党としての成長することを願っています。

茂木新幹事長のあだ名は「モテキング」、政官とも恐れる王様起用3つの理由

2021-11-06
© ダイヤモンド・オンライン 提供 自民党幹事長への就任の記者会見をする茂木敏充氏(11月4日) Photo:JIJI
小倉健一 2021/11/06 06:00

自民党幹事長に茂木敏充前外相が就いた。
トランプ前大統領に「タフネゴシエーター」と言わせしめた高い実務能力を持つ一方で、「とにかく怒りっぽい」と毀誉褒貶が激しい。
永田町・霞が関では期待と不安が交錯するが、岸田文雄首相の茂木氏起用には、三つの深謀遠慮が透けて見える。(イトモス研究所所長 小倉健一)
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