明治34年4月29日 - 昭和64年1月7日は、日本の第124代天皇(在位:1926年(大正15年)12月25日 - 1989年(昭和64年)1月7日)。
幼少時の称號は迪宮(みちのみや)、お印は若竹(わかたけ)。
歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)、最も長寿(宝算87)だった。
大日本帝國憲法の下では「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬」する立憲君主制における天皇として、終戰の國策決定などに深く關豫した。
1947年(昭和22年)に施行された日本國憲法の下では「日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」である天皇として「國政に關する権能を有しない」ものとされた。
しかし占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの會見などにより、独自の政治的影響力を保持した。
また、天皇としての公務の傍らヒドロ虫(ヒドロゾア)・變形菌(粘菌)などを、生物學研究者として研究した。
1901年(明治34年)4月29日、東京府東京市赤坂區青山(現、東京都港區元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と節子妃(後に立后して貞明皇后)の第一皇子として誕生。
産まれたとき、身長は1尺6寸8分(51cm)、體重600匁(3000g)であったという。
その後、翌年の7月末に匐行し、8月初めに摑まり立ち、11月中旬には自分で立ち、同月末には数歩踏み出す、という發育を示した。
5月5日、称號を迪宮(みちのみや)、諱は裕仁(ひろひと)と命名された。
これらの名は明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に選定を進めさせていたもので、称號は「迪宮」「謙宮」の二候補のなかから、諱は「裕仁」「雍仁」「穆仁」の三候補のなかからそれぞれ選ばれたもので、「迪」は『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧(允(まことに)に厥(そ)の徳を迪(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ)」「恵迪吉従逆凶(迪に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり)」に、「裕」は『易経』の「益徳之裕也(益は徳の裕なり)」、『詩経』の「此令兄弟綽綽有裕(これ、兄弟の綽綽にして裕あり)」、『書経』の「好問則裕自用則小(問ふを好めば則ち裕に、自ら用(こころ)みれば則ち小なり)」、『礼記』の「寛裕者仁之作也(寛裕であらば仁の作すなり)」に取材している。
同じ日には宮中賢所、皇霊殿、神殿において「御命名の祭典」が營まれ、続いて豊明殿を會場として祝宴も催された。
この折、出席していた皇族、大臣らによって「萬歳」が唱えられたが、これは宮中の祝宴において初めて唱えられた「萬歳」であったといわれる。
生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。
1904年(明治37年)11月9日、川村伯の死去により、弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に移った。
1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には學習院初等科に入學し、學習院院長・乃木希典(陸軍大将)の教育を受けた。
1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。
大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1聯隊附および第一艦隊附となった。
翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ移る。
1914年(大正3年)3月に學習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御學問所に入る。
1916年(大正5年)年10月には陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子禮を行い、正式に皇太子となった。
1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王を皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われると共に、貴族院皇族議員となった。
1920年(大正9年)10月に陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。
1921年(大正10年)2月28日、東宮御學問所修了式が行われる。
大正天皇の病状悪化の中で、3月3日から9月3日まで、戰艦「香取」で英吉利をはじめ、仏蘭西・白耳義・阿蘭陀・伊太利亜の欧羅巴5か國を歴訪。
同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した。
1923年(大正12年)4月、戰艦「金剛」で臺灣を視察する。
9月1日には関東大震災が發生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。
10月31日に陸海軍中佐に昇任した。12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。
1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物學御學問所を設置。
1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元。
1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。
同年11月9日に行われた名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴を受けた(北原二等卒直訴事件)。
1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。
1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖國神社親拝。
1931年(昭和6年)1月、天皇・皇后の御真影を全國の公私立學校へ下賜する。
1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。
1933年(昭和8年)12月23日、待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し祝賀を受ける。
1935年(昭和10年)11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。
1937年(昭和12年)11月30日、宮中に大本營を設置。
1938年(昭和13年)1月11日、御前會議で「支那事變処理根本方針」を決定する。
1939年(昭和14年)3月2日、第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。
1941年(昭和16年)12月1日に御前會議で對米英開戰を決定し、12月8日に「米國及英國ニ對スル宣戰ノ布告」を出した。
1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月31日には御前會議を開いた。
1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に移住した。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、3月18日に東京都内の被災地を視察した。
5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。
ポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前會議にていわゆる「終戰の聖断」を披瀝した。
8月14日の御前會議でポツダム宣言の無條件受諾を決定し、終戰の詔書を出した。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送により國民に終戰を伝えた(玉音放送)。
9月27日に、聯合國軍最高司令官のダグラス・マッカーサーとの會見の為、中日亜米利加合衆國大使館を初めて訪問。
11月13日に、伊勢神宮へ終戰の報告親拝を行った。
また同年には、神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵にも親拝して終戰を報告した。
1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。
2月19日、戰災地復興視察のため横濱へ行幸(1949年(昭和29年)まで全國各地を巡幸した)。11月3日、日本國憲法を公布した。
1947年(昭和22年)5月3日、日本國憲法が施行され、天皇は「日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」(第1條)と位置づけられた。
6月23日、第1回國會(特別會)の開會式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。
1950年(昭和25年)7月13日、第8回國會(臨時會)の開會式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。
1952年(昭和27年)4月28日に日本國との平和條約(桑港講和條約)が發効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた主権回復記念式典で天皇退位説を否定する。
また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、日本の國家主権回復を報告した。
10月16日、初めて天皇・皇后がそろって靖國神社に親拝した。
1971年(昭和46年)、皇后と共に英吉利・阿蘭陀など欧羅巴各國を歴訪。
1975年(昭和50年)、皇后と共に亜米利加合衆國を訪問した。
歸國後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者會見が行われた。
1976年(昭和51年)には、在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に國營昭和記念公園が建設された。
記念硬貨が12月23日から發行され、發行枚数は7,000万枚に上った。
1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。
1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。
1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴を體調不良から中座する。
以後、體調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化し9月19日には吐血するに至ったため、9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。
同年12月には公務に復歸し、回復したかに見えたが體重は急速に減少しており、1988年(昭和63年)9月以後、容態は再び悪化した。
8月15日、全國戰没者追悼式が最後の公式行事出席となり、日本各地では「自粛」の動きが廣がった(後述)。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)により崩御(宝算87)。
崩御後、政府は宮内廰長官・藤森昭一が「天皇陛下におかせられましては、本日、午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました。」と發表した。
同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元號から採り昭和天皇と追號した。
2月24日、新宿御苑において大喪の禮が行われ、武蔵野陵に埋葬された。
愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。
1901年(明治34年)4月29日午後10時10分、青山の東宮御所で生まれる。
生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。
1908年(明治41年)學習院初等科に入學。學習院院長・乃木希典(陸軍大将)から教育を受ける。
1912年(大正元年)7月30日、父・大正天皇の践祚に伴い、皇太子となる。9月、陸海軍少尉 近衛歩兵第一聯隊・第一艦隊附となる。
1914年(大正3年)3月、學習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。
1916年(大正5年)、陸海軍大尉昇任。11月3日、立太子禮。
1919年(大正8年)、成年式。陸海軍少佐に昇任。
3月3日から9月3日まで、英吉利をはじめ欧羅巴諸國を歴訪する。
倫敦において、ロバート・ベーデン=パウエル卿と謁見し、ボーイスカウト英吉利聯盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。
11月25日、20歳で摂政に就任する(摂政宮と称される)。
1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める(虎ノ門事件)。
1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。
1925年(大正14年)12月6日、第1皇女照宮成子内親王生まれる。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御を受け、葉山御用邸において剣璽渡御の儀を行い、践祚して第124代天皇となる。昭和と改元。陸海軍大将、陸海軍の最高指揮官たる大元帥となる。
1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大禮を行う。12月、御大典記念観兵式。
1929年(昭和4年)神島(和歌山縣田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに關する進講を受ける。
1933年(昭和8年)12月23日、第1皇子継宮明仁親王生まれる。
1935年(昭和10年)4月、来日した満洲國皇帝愛新覚羅溥儀を東京駅に迎える。
1940年(昭和15年)皇居前廣場における皇紀2600年奉祝式典に出席。
1941年(昭和16年)12月8日、對英米開戰(以降大東亞戰爭)
1945年(昭和20年)8月15日正午、國民に對してラジオ放送を通じて「戰爭終結」を告げた(玉音放送)。
1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に關する詔書を渙發する。
1952年(昭和27年)4月28日、桑港講和條約發効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山陵、靖國神社をそれぞれ親拝。
1958年(昭和33年)慶應義塾大學創立100年記念式典にて、「おことば」を述べる。
1959年(昭和34年)皇太子明仁親王と正田美智子が成婚。
1962年(昭和37年)南紀白濱にて、30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌「雨にけふる神島を見て紀伊の國の生みし南方熊楠を思ふ」を詠んだ。
1971年(昭和46年)9月27日より、香淳皇后とともに英吉利、阿蘭陀などを歴訪する。
1975年(昭和50年)9月30日から10月14日まで、皇后とともに亜米利加を訪問する。
1981年(昭和56年)皇居新年一般参賀において、参集した國民に對して初めて「お言葉」を述べる。
1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。
1988年(昭和63年)8月15日、全國戦没者追悼式に出席、これが公の場への最後の出席となる。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御、宝算87歳。
1989年(平成元年)1月31日、追號が「昭和天皇」と定められ、皇居で奉告の儀が行われる。
1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の禮が行われ、武蔵野陵に埋葬される。日本國憲法と(現行の)皇室典範を経て葬られた最初の天皇となった。
2014年(平成26年)8月21日、宮内廰が24年の歳月を経て昭和天皇の生涯の公式記録となる「昭和天皇実録」を完成させ、天皇、皇后両陛下に奉呈した。
本文60冊、目次・凡例1冊の計61冊で構成され、9月中旬に同廰が全ての内容を公表した後、2015年(平成27年)から5年計画で全巻が公刊される。
1912年(明治45年)7月30日の明治天皇の崩御後、陸軍大将・乃木希典が夫人とともに殉死し、波紋を呼んだ。
晩年の乃木は學習院院長を務め、少年時代の昭和天皇(迪宮裕仁親王)にも影響を豫えた。
乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは、迪宮に深い感銘を豫え、天皇になった後も、記者會見の中で度々紹介している。
迪宮はこの他にも乃木の教えを守り、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通學し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった。
ある人が「乃木大将」と乃木を敬称をつけなかったのに對し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。
1912年(大正元年)9月9日(他説あり)、乃木は皇太子となった裕仁親王に勉學上の注意とともに、自ら写本した『中朝事実』を豫えた。
乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉學に励まれるように」との訓戒に對し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問したという。
9月13日、明治天皇の大喪の禮當日、乃木は殉死した。
皇太子はその翌日に、養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、彼の辞世の歌にも接して涙を流した。
1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が、皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。
しかし11月に、元老・山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。
山縣は西園寺公望や首相の原敬と聯携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。
當初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意志が尊重され、1921年(大正10年)2月に宮内省から「婚約に變更なし」と發表された。
事件の責任を取って、宮内大臣・中村雄次郎は辞任し、山縣は枢密院議長など一切の官職の辞表を提出した。
しかし、同年5月に山縣の辞表は詔により却下された。
この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。
1923年(大正12年)の關東大震災では霞関離宮が修理中であったために箱根(大きな震災を被った)へ行く豫定であったが、當時の内閣総理大臣・加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が發生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。
天皇は、1973年(昭和48年)9月の記者會見で「加藤が守ってくれた」と語っている。
地震に於ける東京の惨状を視察した裕仁親王(當時摂政)は大變心を痛め、自らの婚禮の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して、翌年1月に延期した。
後年、1981年(昭和56年)の記者會見で、昭和天皇は關東大震災について「その惨憺たる様子に對して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。
満洲某重大事件の責任者処分に關して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の叛對もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。
その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその後間もなく死去)。
田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導の下、選挙目當てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治關豫を見せていた。
そのため、軍人や右翼・國粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが廣がった。
天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。
この事件で、天皇はその後の政治的關豫について慎重になったという。
なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、當時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせると、そこまで踏み込んだ發言はなかった可能性もある。
昭和天皇が積極的な政治關豫を行った理由について、伊藤之雄は牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため、原武史は地方視察や即位後続發した直訴へ接した體験の影響によると論じている。
1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法學説である天皇機關説が政治問題化した天皇機關説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機關説で良い」と言った。
昭和天皇が帝王學を受けた頃には憲法學の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。
ただ、機關説事件や一聯の「國體明徴」運動を巡って昭和天皇が具體的な行動をとった形跡はない。
機關説に關しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。
1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りも露に「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あると言うのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師團を率ゐこれが鎮圧に當らん」と發言したとされる。
この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたとも言える。
この天皇の意向ははっきりと軍首脳に伝わり、決起部隊を叛乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。
この時の發言について、戰爭終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。
この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に皇太子明仁親王が満10歳になり、皇族身位令の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、任官を取りやめさせている。
また、皇太子の教育係として陸軍の軍人をつけることを特に拒否している。
なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子で外務省や宮内廰で勤務した真崎秀樹が昭和天皇の通訳を務めた。