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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

私はカモメ・・・。

2022-05-19
*1963.6.16/ ソ連の宇宙飛行士テレシコワが、宇宙船ボストーク6号に搭乗し、女性として世界初の宇宙飛行を行う。

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1963(s38)年】-4
◎「私はカモメ」 初の女性宇宙飛行士テレシコワ
*1963.6.16/ ソ連の宇宙飛行士テレシコワが、宇宙船ボストーク6号に搭乗し、女性として世界初の宇宙飛行を行う。
 1963年6月16日、ソ連の宇宙船ボストーク6号が打ち上げられ、女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワが単独搭乗し、70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士となった。最初に飛び込んできた第一声「ヤー、チャイカ」は、チェーホフの戯曲「かもめ」を想起させる「私はカモメ」と訳され、女性初の宇宙飛行はきわめて文学的なイメージで印象づけられた。
 しかし実際には、ソ連では宇宙ミッション中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワには「チャイカ」(カモメ)が与えられていた。打上げ後の成功を知らせる「ヤー・チャイカ(こちらチャイカの意)」という応答が、女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉となり、日本では「私はカモメ」と訳されて、テレシコワの代名詞となった。
 テレシコワの乗った宇宙船は、飛行ミッションの終盤に操作が困難となることがあり、地上に帰還できない可能性が生じた。パニック状態のテレシコワは、地上基地へコールサイン「私はカモメ」を送信したが、間違って一般的に使われている無線バンド帯域で送ったために、全世界で多くの人が受信できて、「私はカモメ」が広く知られるようになった。ちなみに、初の宇宙飛行士ガガーリンのコールサインは「ヒマラヤスギ」だったが、こちらはさっぱり有名にはならなかった。
 パニックの原因は、のちに宇宙酔いであることが判明したが、当時はテレシコワが女性のためにパニックに陥ったとされたことにより、ソ連では2人目の女性が宇宙に行くのに、以後19年かかったと言われる。
 テレシコワは、ソ連邦英雄として空軍少将にまで昇進した。宇宙飛行士引退後には政界にも進出し、2011年のロシア下院選挙では、プーチン率いる政権与党統一ロシアから出馬・当選を果たし、2020年には、4期目のプーチン大統領が、続けて5期目に立候補できる修正案を提案するなど、忠実なプーチン支持者の姿勢を示した。
(この年の出来事)
*1963.3.31/ 東京都台東区で4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、7月に容疑者が犯行を自供し、遺体が見つかる。 
*1963.9.5/ 東京の地下鉄銀座線京橋駅で時限爆弾が爆発、「草加次郎」の犯行とされる。 
*1963.11.9/ 横浜市鶴見区の東海道本線で、列車の2重衝突事故が起こり、死者161人を出す大惨事となる。(鶴見事故)
*1963.11.9/ 福岡大牟田市の三井三池炭鉱で、炭塵爆発が起こり死者458人を出す。

総理就任後、初めて

2022-05-15
国立戦没者墓苑や島守の塔などに参拝・献花し、戦没者の御霊に哀悼の誠を捧げました。

Facebook 首相官邸さん曰く


総理就任後、初めて国立戦没者墓苑や島守の塔などに参拝・献花し、戦没者の御霊に哀悼の誠を捧げました。
沖縄は先の大戦で悲惨な地上戦の舞台となり、また、戦後も復帰まで長い年月を要し、県民の皆様は筆舌に尽くし難い苦難を経験しました。このような歴史は決して忘れてはなりません。
首里城公園では、首里城復元の現場を視察するとともに、伝統文化と観光振興に関わる皆さんからお話を伺いました。沖縄県との調整を踏まえつつ、首里城正殿の起工式を11月3日に挙行いたします。

◎ガガーリン少佐 人類最初の宇宙飛行

2022-05-13
フルシチョフは「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように」と命じた。
 1961年4月12日、ボストーク1号によって、ガガーリン少佐(中尉が宇宙周回中に2階級特進)が、初めて宇宙周回飛行に成功する。

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1961(s36)年】-2
◎ガガーリン少佐 人類最初の宇宙飛行
*1961.4.12/ ソ連がボストーク1号を打ち上げ、ガガーリン少佐は人類最初の地球1周有人飛行に成功する。
 1961年4月12日、ボストーク1号によって、ガガーリン少佐(中尉が宇宙周回中に2階級特進)が、初めて宇宙周回飛行に成功する。ユーリ・ガガーリンは、宇宙から帰還した後の会見で「地球は青かった」と述べ、これはあらためて水の惑星地球を客体視した言葉として、思想への影響も大きかった。この有人宇宙飛行の成功により、ソ連は宇宙開発においてさらにアメリカを引き離す事になる。
 アメリカは、宇宙開発競争で圧倒的に遅れをとった事実とともに、軍事的にもソ連が優位に立ったと考えられた。就任したばかりのジョン・F・ケネディは、ソ連に対抗して、60年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表し、1969年アポロ11号でそれを達成させた。この間、アメリカの危機感は相当なものであった。
 宇宙からの帰還後、ガガーリンはソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅した。その後、ガガーリンは飛行指揮官となるため、訓練の一環として飛行訓練を再開する。しかし1968年3月27日、訓練飛行中のMiG-15UTIで墜落事故を起こし、死亡する。享年34。
 鉄のカーテンの内側の事故なので、正確な原因は長らく不明であり、政治的思惑が絡んだ人為的な事故説などの陰謀論も噂された。ソ連崩壊後に公開された情報によると、どうやら事故であったことは間違いないが、事故原因には諸説ある。
 「地球は青かった」ともう一つ、ガガーリンが語った言葉には「神はいなかった」というのがある。しかしこれは、ガガーリンが語ったという痕跡が見当たらない。どうやら、次のような風刺のロシアンジョークが、噂のもとなったようだ。
 宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティの場で、ロシア正教総主教とフルシチョフ首相とが、個別にガガーリンに問いかけた。
 総主教が「宇宙で神の姿を見たか」と尋ねるとガガーリンは「見えませんでした」と答えた。神の司祭として総主教は「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように」と告げた。
 そのあと、フルシチョフ首相がガガーリンに同じことを尋ねた。ガガーリンはさっきと逆に「見えました」と答えた。神を否定しているマルクス=レーニン主義ソ連のトップとして、フルシチョフは「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように」と命じた。
(この年の出来事)
*1961.2.1/ 右翼の17歳の少年小森一孝が、中央公論社の嶋中鵬二社長宅を襲い、婦人に重傷、止めようとした家政婦を刺殺する。(嶋中事件/風流夢譚事件)
*1961.3.15/ 有田八郎元外相が、三島由紀夫の小説「宴のあと」がプライバシー侵害として、作者三島と新潮社を告訴する。(1964.9.28原告勝訴)
*1961.10.26/ 文部省が全国一律学力テストを実施、日教組は、教育統制だとしてボイコットなど反対運動を展開する。
*1961.12.12/ 旧軍人らによるクーデター計画が発覚、政府要人らの暗殺を計画したとして13人が逮捕される。(三無事件)

◎社会党 浅沼委員長暗殺

2022-05-12

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1960(s35)年】-4
◎社会党 浅沼委員長暗殺
*1960.10.12/ 浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂での党首演説会で、右翼少年に刺殺される。
 1960(s35)年10月12日、東京都千代田区の日比谷公会堂で、解散・総選挙が行われる情勢のもと、自民・社会・民社の3党首立会演説会が開かれた。民社党委員長西尾末広の演説が済んだあと、午後3時頃、社会党の浅沼稲次郎委員長が演壇に立ち、「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。会場には右翼団体が多く集まっており、激しい野次を飛ばして会場は異様な雰囲気が立ち込めた。
 司会が静粛を求めいったん野次が収まると、それを見計らって浅沼は、自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。その時、暴漢が壇上に駆け上り、刃渡り30cmほどの脇差で浅沼の左脇腹を深く突き刺し、浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れた。浅沼はただちに病院に運ばれたが、ほぼ即死状態だった。ニュースなどで、事件の生々しい様子の映像が流され、日本中にショックを与えた。
 取り押さえられた犯人は、17歳の右翼少年山口二矢であった。山口は、赤尾敏率いる右翼団体「大日本愛国党」の青年本部員であったが、この年の5月に脱会している。逮捕後の供述で、赤尾の関与を完全否定し、迷惑を掛けない為に脱会し、一人で実行したと証言している。山口は取調べに対し理路整然と受け答えしていたが、11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、シーツで首を吊って自殺した。
 大日本愛国党関連では、翌1961(36)年2月1日の「嶋中事件(風流夢譚事件)」でも、同党に所属していた17歳の少年小森一孝が、中央公論社社長宅を襲い、社長夫人と家政婦に死傷を負わすテロ事件を起こしている。少年は党に累を及ぼさないため、事件当日に離党届を出して犯行に及んだ。大日本愛国党の党首赤尾敏は、両事件で事情聴取を受けたが、嫌疑不十分で釈放されている。
(この年の出来事)
*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。
*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)
*1960.8.25/ 第17回オリンピック・ローマ大会が開催される。 
*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する。

◎スエズ動乱/第2次中東戦争

2022-04-30

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1956(s31)年】-4
◎スエズ動乱/第2次中東戦争
*1956.10.29/ イスラエル軍がエジプトに侵攻し、スエズ戦争始まる。(スエズ動乱/第2次中東戦争)
 1869年、スエズ運河は、フランスの外交官だったフェルディナンド・マリー・レセップスの尽力により開通した。運河が開通すれば、ヨーロッパからアジアへいたる航路は、これまでのインド航路(アフリカ南端の喜望峰を回る)より40%も短縮され、ヨーロッパ諸国にとってきわめて利益の大きい運河計画であった。しかし、インド植民政策でもっとも利益を受けるはずのイギリスは、従来の独占的なインド航路の利益が脅かされるとして、反対し妨害工作さえした。
 レセップスは、エジプト太守の認可を受けて、万国スエズ運河株式会社(国際運河会社)を設立、スエズ運河はフランスおよびエジプト政府による資金援助で1869年に開通した。しかし、この建設費負担の為にエジプトは財政破綻し、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡され、エジプトはイギリスの保護国となった。そして、運河はイギリスにとってインド、北アフリカおよび中東全体への戦略上重要な地点となり、その重要性は後の2つの世界大戦によっても証明された。
 スエズ運河はイギリス管轄下の中立地帯と定められ、イギリス軍はスエズ運河に軍隊を駐留させ、運河を実質的な管理下においた。一方エジプトでは、軍事クーデターが起こり共和制に移行、さらにナセルが大統領になると第三世界のリーダーの一人として、植民地主義を捨てられない西側に対抗するため、東側ソ連に近づく。こうした中、7月26日に、ナセルはスエズ運河の国有化を宣言して、スエズ運河に利権を持つ英仏と対立することになった。
 スエズ運河に深く利害を持つ英仏は、シナイ半島やスエズに食い込むことを狙うイスラエルを巻き込み、10月29日、イスラエルがシナイ半島に侵攻、英仏が空軍で支援する形で戦端は開かれた。圧倒的な近代化部隊で、英仏イスラエル連合はスエズ運河直前にまで迫り、エジプトの降伏が間近に迫ったとき、両陣営の背後で冷戦で対立する米ソが、互いに前面に出ることをさけるために調停に乗り出し、国連総会で即時停戦を求める決議が採択された。
 結果、得ることのなかった英仏及びイスラエルに対して、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した上に、ナセルは英仏イスラエルと正面から戦ったことから、中東での発言力を確固たるものとした。さらにナセルは、国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し、エジプト主権のもとスエズ運河の通航を再開した。
 なおこの時、当方は小学2年生、世界の出来事には無縁な学童に過ぎなかったが、「スエズ動乱」という言葉はかすかに記憶されている。朝鮮戦争はまったく記憶にないので、遠くの世界では戦争というものが起きているのだなと思った最初の経験であった。
(この年の出来事)
*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。
*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)
*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。
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