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闘いの歴史

闘いの記録

如己愛人(にょこあいじん)

2020-10-24
博士は自らの身体を被爆医療に捧げた。
原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉
原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉「みんな泣くな。泣いてはいかん。研究するんだ。研究してくれ。最初の原子爆弾だったから、まだ治療法がわかっていない。それで、ぼくは死ぬのだ。研究すれば、原子病を治す道が見つかるんだ。みんな泣くな。研究してくれ。そして、ぼくたちを最後の原子病患者として食い止めてくれ給え」――その言葉が私の細りゆく命にむちうって原子病研究へかり立てているのである。 さいわい、私自身が原子病患者である。これを自ら実験台にして、いま研究を続けている。わが命が終ったら、友人が解剖してくれるだろう。そのとき、この廃物となった肉体が原子病の病理究明のため、いささかでも役に立つだろう。生きていても、死んでも、天主の御栄えのためになり、人類の幸福のためになるのなら、その他に何を私は求めようか――。

自ら実験台にして

2020-10-24
「原子病の床に」 永井隆 より
八月八日朝、空襲警報が鳴っていた。私はにこにこ顔の妻に見送られて家を出た。やがて弁当を忘れたことに気がついた。そしてわが家へ引返した。そこで思いがけなくも、玄関に泣き伏している妻を見た。―― それが別れだった。その夜は防空当番で大学に泊った。あくれば八月九日。一発の原子爆弾は、私たちの頭上に破裂した。――あの機械もこなごなに砕かれて焼けた。妻も家もろともこなごなに砕かれて焼けてしまった。のっぺらぼうの原子野の、防空ごうの中に、重傷を三角巾で巻いてころがっている私、それは全く無一物となり、全く孤独となり、慢性の原子病に、さらに加えて原子爆弾の中性子による急性原子病を併発し、完全な廃人となっている私であった。 ――だが、私は参ってしまったのではなかった。私は無一物の中から、新しい力の無尽蔵にわき出るのを感じたのである。「生きるも死ぬるも天主の御栄のためにネ」といった、あの夜の妻の言葉が、いまこそ私に新しい世界をひらいてくれた。私の肉身はすでに廃物である。しかし私の霊魂は自由自在に活躍する。いや、私は霊魂のみとなって活躍するというべきであろう。 原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉「みんな泣くな。泣いてはいかん。研究するんだ。研究してくれ。最初の原子爆弾だったから、まだ治療法がわかっていない。それで、ぼくは死ぬのだ。研究すれば、原子病を治す道が見つかるんだ。みんな泣くな。研究してくれ。そして、ぼくたちを最後の原子病患者として食い止めてくれ給え」――その言葉が私の細りゆく命にむちうって原子病研究へかり立てているのである。 さいわい、私自身が原子病患者である。これを自ら実験台にして、いま研究を続けている。わが命が終ったら、友人が解剖してくれるだろう。そのとき、この廃物となった肉体が原子病の病理究明のため、いささかでも役に立つだろう。生きていても、死んでも、天主の御栄えのためになり、人類の幸福のためになるのなら、その他に何を私は求めようか――。

永井隆

2020-10-24
爆死した妻のために半年間喪に服した (昭和21年(1946) 撮影)
長崎市永井隆記念館 永井隆ストーリーより
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。
見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼け跡から拾われねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く動けない体となってしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)

宗教弾圧

2020-10-22
大本教の場合
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1935年(s10)】
◎第二次大本教弾圧事件
*1935.12.8/ 警察隊が大本教本部や別院を急襲。不敬罪・治安維持法違反容疑で幹部ら65人をいっせいに検挙する。(第二次大本教事件)
 大本事件は、新宗教「大本(おおもと)」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った宗教弾圧である。1921(大10)年に起こった第一次大本事件と、1935(昭10)年に起こった第二次大本事件の2つがある。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本を徹底的に壊滅させる目的での弾圧であった。
 「大本」(俗にいう「大本教」)は、京都府綾部の地に住む一介の老女「出口なお」が、「艮(うしとら)の金神」が神懸かりしたとして始めた土着的な新宗教であった。一方で、同じく京都府丹波地域の亀岡の農家に生まれた上田喜三郎は、さまざまな新宗教を遍歴したのち、出口なおに関心を抱くと数回に及び綾部を訪問、やがて"なお"の信任を得ると、その五女で後継となる「出口すみ」と結婚し、入り婿となり「出口王仁三郎」と改名した。
 出口なおは、国常立尊のものとされる神示が「お筆先」として伝えられるとして、元来の文盲にもかかわらず、ひらがなばかりであるが自動速記のようにして書き続けた。このような開祖としての「なお」のシャーマン的な霊性と、希代の天才的オルガナイザーであった出口王仁三郎の俗世能力とが合体して、「大本」は拡大の道を歩むことになる。
 "なお"が亡くなると、娘の出口すみが二代「教主」となり、すでに霊性を認められた夫の王仁三郎が「教主輔」となる。王仁三郎の出生の地亀岡に、もと明智光秀の居城であった亀山城の址地を買収して、綾部と並ぶ教団の本拠地に改修した。さらには、大正日日新聞を買収してマスメディアを通じての言論活動をするなど、活発な布教活動により教勢を伸ばした。
 "なお"がひらがなで記した「お筆先」を、漢字に書き直し加筆編集して『大本神諭』として発表することで、宗派としての教義を確立し、"なお"の土着性に王仁三郎が普遍性を付加して、世界宗教としての萌芽さえ見せるようになった。「おおもと」はすべて一つの神であるという一神教性と、その教義の根幹にあった黙示録的な終末論とその「立替え説」は、第一次世界大戦や米騒動、ロシア革命などで揺れる世情不安の動揺をとらえ、信者数を拡大して陸海軍や上流階級にまで影響力を持つようになった。
 1921(大10)年の第一次弾圧は、不敬罪・新聞紙法違反として80名が検挙され、王仁三郎には懲役5年という判決が下ったが、控訴審・再審と続くうちに、大正天皇の崩御があって免訴となる。不敬を理由に教団の施設破壊も行われたが、決定的な打撃とはならなかった。公判中にもかかわらず、保釈中であった出口王仁三郎は、われ関せずとモンゴルへ出向き、当地の馬賊の頭領とともに活動するありさまであった。
 1935(昭10)年12月8日に始まる第二次大本事件での大弾圧は、まさに徹底したものであった。満州事変勃発後、国内ではクーデター未遂やテロルが横行して、不安定な状況下にあった。ますます勢力を拡大し、政治的な動きを増しつつある大本は、軍部皇道派や右翼団体と連動して反政府民衆運動を惹起する懸念を当局に抱かせていた。
 1935(昭10)年12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。当局は大本側の武装を当然とし決死の覚悟で踏み込んだが、大本の施設からは竹槍一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙され、信者987人が検挙され、特高警察の拷問で起訴61人中16人が死亡したという。
 邪教撲滅のために全国の教団施設の撤去が決定すると、当局は綾部・亀岡の教団施設をダイナマイトで跡形も無く破壊し、それらの破壊費用を大本側に請求した。また王仁三郎一家の個人資産、教団の資産もすべて処分、出口なおをはじめ信者の墓あばくなど、西欧中世カトリック教会の「異端」迫害を思わせるような弾圧をおこなった。
 大本教団はほぼ壊滅させられ、王仁三郎は保釈されるも故郷亀岡で隠遁生活を送り、戦後の恩赦で解放されると教団活動を復活させたが、まもなく死去する。たとえ大本教団が狂気の集団であったとしても、それに輪を掛けた国家権力側の狂気は、まさに戦争に向う狂気の抗いがたい「空気」のもとで進められたのであった。

訃報です。

2020-10-18
3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
『Get Back! 50's / 1953年(s28)』
(スターリン死去)
○3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。東京証券市場では、軍需株を中心にダウ価が急落する。(スターリン暴落)
 1953年3月1日、スターリンは政権幹部らとの徹夜の夕食の後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。猜疑心の強いスターリンの性格も作用して、翌日の午後になるまで発見が遅れた。昏睡状態が続き意思疎通はできないまま、4日後危篤に陥り、死亡した。スターリンの死には謀略説もあり、計画的な暗殺だったとする説や、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に、死を早める措置をしたとか、意図的に放置したとかの噂があるが、真相は不明のままである。
 ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)は、帝政ロシア支配下のグルジア(現ジョージア 共和国)の貧しい職人の家庭に生まれ、神学校に進むもマルクス主義に近づき退校、やがて労働者となり、労働者の組織化や地下の革命活動に進む。ヨシフはグルジアでボリシェヴィキの活動家となるとともに、やがてレーニンと直接出会い認められるようになった。
 ロシア革命によりソビエトが成立すると、レーニンを補佐してトロツキーとスターリンは並び立つ存在になった。1924年レーニンが死去すると、ライバルのトロツキーを追い落としてレーニンの後継の地位に就いた。レーニンはその遺書で「猜疑心の強いスターリンを指導者にしてはならない」との旨を書いていたとされるが、遺書は握りつぶされた。
 ソ連を追放されたトロツキーは、各地を転々としたあとメキシコにまで逃亡したが、スターリンの派遣した暗殺者にピッケルで頭をぶち抜かれて暗殺された。スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。
 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリンに対する批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。
 近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。
*この年
1934年以来の大凶作/街頭テレビが大人気/蛍光灯が家庭に普及/映画「君の名は」空前の大ヒットでストールの真知子巻きが流行/うたごえ運動盛ん/テレビの流れ作業生産が始まる
【事物】森永スープ/噴流式の電気洗濯機/無線タクシー
【流行語】さんずい(汚職の隠語)/さいざんす/むちゃくちゃでござりまするがな
【歌】雪の降るまちを(高秀男)/君の名は(織井茂子)
【映画】ひめゆりの塔(今井正)/十代の性典(島耕二)/シェーン(米)/禁じられた遊び(仏)
【本】伊藤整「火の鳥」/山岡宗八「徳川家康」/ボーボワール「第二の性」

闘いの転機

(太平洋戦局の転換)

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
(太平洋戦局の転換)
○5.7 [南部太平洋] ニューギニア珊瑚海海戦
○6.5 [中部太平洋] ミッドウェー海戦
○8.7 [南部太平洋] ソロモン海戦・ガダルカナル島の戦い
 1942年5月8日、ニューギニア東南海域の珊瑚海で、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合国軍の空母部隊が交戦し、史上初の航空母艦同士の決戦となった。この海戦は空母艦載機による戦いとなり、両艦隊は互いに相手の艦を視界内に入れないで行われた史上最初の海戦でもあった。
 双方の損害はともに、空母1隻沈没・1隻大破でぼぼ対等であったが、総合戦力の劣る日本軍には相対的に大きなダメージであり、目標としたニューギニアの拠点ポートモレスビーの攻略作戦に海軍の支援が不可能になった。開戦以来連戦連勝を続けた日本軍は、この海戦で初めて進攻を阻まれる。
 珊瑚海海戦の海軍は、陸軍のポートモレスビー攻略作戦の補助の役割であり、しかも枝葉とされた第五航空戦隊が珊瑚海海戦で健闘したことは、むしろ真珠湾攻撃以来、一方的な勝利を収めてきた主力機動部隊である第一航空艦隊の第一、第二航空戦隊にとっては自信を深めさせた。しかも陸軍は中国大陸を最重要視し、しかもニューギニアでも無謀な陸路攻略戦で難航していた。
 そこで、陸軍の協力を宛にしないでできる海軍独自の作戦として、海軍はハワイに近い中部太平洋のミッドウェー島攻略作戦に全力を集中する作戦を立てた。連合艦隊司令長官山本五十六は、真珠湾奇襲で米の戦意をそぎ早期和平に持ち込む計画であったが、意図どおりには進まず、米海軍力の回復をおそれた。そこで海軍主力を集中して、ハワイ攻略作戦を大前提として、その布石でハワイの一歩手前にあるミッドウェー島攻略を企図した。
 ミッドウェーはアウェーの戦いであり、長期戦をさけ、米主力艦隊の空母機動部隊を誘い出して殲滅する作戦であった。ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の1942年6月5日から7日にかけて、ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で戦われた。日本海軍の機動部隊と米国の機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失うことになる。
 本来、大本営の軍令部は、ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア・フィジー・サモアの攻略作戦(FS作戦)によって、アメリカとオーストリアの分断を考えていたが、海軍連合艦隊の早期決着のミッドウェー作戦に折れた形になった。だが、そのミッドウェーの大敗北により、海軍力の大打撃でFS作戦は中止となった。
 しかし日本軍は、ラバウル以南に前身航空基地を創設して米豪分断をめざし、ガダルカナル島に飛行場を建設してソロモン海域の制空権を確保しようと考えた。一方、アメリカ軍統合参謀本部はミッドウェーの勝利を踏まえて、第1段対日反抗作戦「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」を開始し、日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島攻略でその戦端をきった。
 8月7日、米海兵隊を主力とし豪軍の支援を受けた海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下で上陸を開始し、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。奇襲を知った日本海軍は、援軍の艦隊を送り、数次にわたつて「ソロモン海戦」が戦われるとともに、陸上では半年にわたる壮絶な消耗戦が行われた。最終的に12月31日の御前会議において撤退が決定されたにもかかわらず、さらに1ヶ月を経た1943年2月1日からやっと撤退作戦が行われた。
 いわゆる「大本営発表」という粉飾戦果は、初めての劣勢戦闘となった珊瑚海海戦に始まり、大敗ごとに誇大になってゆき、このときのガダルカナル撤退では「転進」と公表された。転進とされたものの、大半の兵士は南方戦線に残されたままで、ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、戦後の1947年であったという。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎

提督死す!

2020-09-08
前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。
Facebook佐々木信雄さんコメント
『Get Back! 40's / 1943年(s18)』
(山本五十六司令長官 戦死)
○4.18 [南部太平洋] 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で、搭乗機が撃墜され戦死する。
 ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、3月中旬、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨げるべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第三艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し敵の戦線を攪乱させるという目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。4月18日、ブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。
 山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して一カ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之(阿川佐和子の父親)などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
*この年
種々の替え歌流行(見よ東條のハゲアタマ〜)/決戦料理の名のもとに野草の食用が推奨される
【事物】いも駅弁・いもパン/硫黄マッチ/貯蓄券/酒場・ビヤホールに順番券
【流行語】転進/元帥の仇は増産で/玉砕
【歌】加藤隼戦闘隊(灰田勝彦)/お使いは自転車に乗って(轟夕起子)/勘太郎月夜唄(小畑実・藤原亮子)
【映画】姿三四郎(黒沢明)/無法松の一生(稲垣浩)/花咲く港(木下恵介)
【本】島崎藤村「東方の門」(中央公論)/山本周五郎「日本婦道

開戦の背景

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
(日米開戦)
○7.25 [アメリカ] 日本の南部仏印進出への報復措置として、米政府が在米日本資産の凍結令を公布。
○8.1 [アメリカ] ルーズベルト大統領が対日石油輸出を全面禁止とする。
○11.26 [ワシントン] ハル米国務長官が日本側の提案を拒否し、日本軍の中国撤退を求める強硬な新提案を提示。27日、日米交渉は決裂する。(ハル・ノート)
○12.8 [ハワイ・東南アジア] 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸開始。午前3時19分、日本軍がハワイ真珠湾を空襲。日本が米英両国に宣戦布告する。(アジア太平洋戦争開始)
 日本側が「ABCD包囲網」(米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼んだ各国による経済封鎖は、この時期、中でも影響の大きいアメリカの主導で進められつつあった。三国同盟を結び独ソ戦が開始されると、日本軍は7月2日の御前会議で「対ソ戦準備・南部仏印進駐(南進・北進準備)」を決定、それを受けて7月7日からは、満州での「関東軍特種演習(関特演)」に向けて内地から兵員動員が開始される。
 同時に南進の準備も進める日本に対して、アメリカは7月25日「在米日本資産の凍結」を決定する。当時は金本位制であり、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には莫大な貿易決済用の金融資産があった。もちろん日本民間の在米資産も膨大であった。
 日米交渉が座礁し、7月28日、日本軍はすでに決めていた南部仏印進駐を開始すると、8月1日米政府は「対日石油輸出全面禁止」を発動した。この時点でルーズベルト米大統領は、「太平洋での戦争」を必至と考えていたもようである。日本は石油の約8割をアメリカから輸入しており、国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分とされた。早期開戦論だった陸軍のみならず、慎重だった海軍も石油欠乏は海軍力の致命傷になるとして、早期開戦論に傾いた。
 三国同盟以降から、日米の交渉は断続的に続けられていたが、6月の独ソ戦開始を契機に、アメリカ側は対日妥協から強硬路線へ舵を切ることになる。第二次近衛内閣の外相松岡洋右は、三国同盟にソ連を参加させるという四国連合案は破綻したが、対米には強硬案を主張、妥協派の近衛首相と対立した。近衛は松岡を外相から外すために、えざわざ内閣総辞職して、再度第三次近衛内閣を組閣する。
 9月6日の御前会議では、外交交渉の期限を十月上旬とし、妥結の目途がない場合直ちに対米開戦を決意すると決定された。近衛は日米首脳直接会談に唯一の期待をしたが、アメリカ側に日米首脳会談を事実上拒否された。戦争の決断を迫られた近衛は妥協策による交渉に道を求めたが、東條英機陸相に日米開戦を要求されたため内閣は瓦解、10月16日に近衛内閣は総辞職する。
 18日東條内閣が成立したが、これには本人も予想外であったらしく、内大臣木戸幸一が独断で東條を後継首班に推挙し天皇の承認を取り付けてしまった。最も強硬に開戦を主張する陸軍を抑えるには、陸軍大将でもある東条しかおらず、毒をもって毒を制する案だということで、対米戦争回避を望む天皇もこれ承諾したらしい。東條も、それまでの態度を一変し、天皇の意をくむ忠臣として2つの妥協案を用意、交渉妥結の可能性をさぐった。
 しかし対日戦不可避と判断していた米は、日本側の新規提案は両案ともに問題外であると拒否。11月26日、コーデル・ハル国務長官は、いわゆる「ハル・ノート」を駐米日本大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ハル・ノートは国務長官の「覚書」との位置付けであったが、日本政府はこれを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになった。
 日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島に上陸し、英印軍と交戦状態に入る。イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。(マレー作戦)
 並行して、日本海軍航空隊によって、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分に発進、日本時間午前3時19分から攻撃が開始された。(真珠湾攻撃)

戦争ということについて

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
(大東亜戦争のイデオローグ)

『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
○1.- 「世界史的立場と日本」座談会が、「中央公論」に4回に渡って掲載され始める。
○7.- 「近代の超克」座談会が行われ、「文学界」9・10月号に参加者による論文が掲載される。
 相次いで行われた雑誌主催の二つの座談会は、「大東亜戦争」の思想的基盤を提供したものとして、戦後痛烈な批判をあび、当時一級の知識人による戦争協力として言及される。「世界史的立場と日本」座談会の参加者は、京都帝大の西田幾多郎門下生で、「京都学派」に所属する高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高の哲学者及び歴史学者によって行われた。

陸軍における開戦

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
(南方侵攻-2)
○1942.2.15 [シンガポール] 日本軍が英領シンガポールを占領する。
 前年12月、英国への宣戦布告前にマレー作戦を開始していた日本軍は、1942年1月末には英領のマレー半島を占領、2月始めにはシンガポールを目指した。シンガポールには、大英帝国アジア支配の拠点として、東南アジア最大の植民地軍と最強といわれた要塞がおかれていた。
 前年末の「マレー沖海戦」では、英国海軍が切り札として出撃させた戦艦プリンス・オブ・ウェールズなどが撃沈されており、制海制空権は日本軍が優勢であった。さらにマレー半島を占領されてしまった英国軍は、残されたシンガポールにこもって防衛戦に徹するしかなくなっていた。兵力人員は拮抗していたが、勢いと装備にまさった日本軍は、シンガポール市街をほぼ包囲し降伏を迫った。2月15日、日本軍に最終防衛線を突破された敵将「アーサー・パーシバル」中将は、13万の残存兵と共に降伏、これは英国史上最大規模の降伏であった。
 この時、降伏交渉の席で対面したのがマレーの虎と呼ばれた猛将「山下奉文」中将であり、敵将パーシバル中将に対して、机を叩きながら「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話が報道され、一躍有名になった。実際には、通訳を交えたまどろっこしいやり取りのなか、「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という冷静に言った趣旨を、通訳がうまく伝えられないことに苛立って放った言葉であったという。
*山下/パーシバル会談 https://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI
 シンガポール占領時には「シンガポール華僑粛清事件」というものが引き起こされる。シンガポールには華僑が多く住み、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると考え、山下奉文軍司令官は、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長鈴木宗作中将、軍参謀辻政信中佐が指示し、辻参謀が作戦の監督役とされた。
 シンガポール在住の成人男子華僑は全員集められ、抗日分子かどうか選別されたが、その選別は困難なうえに期日を定められていたため、かなり雑になった。ここでも、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と檄を飛ばすなどしたため、期日に終了させるために員数合わせ的な処刑も行われたという。
 山下奉文は、その後、敗色濃厚なマニラ防衛指揮官として派遣され、終戦後、戦犯とされマニラでの軍事裁判で死刑判決を受ける。その罪状は、この「シンガポール華僑粛清事件」とマニラ市街戦中に起きた「マニラ大虐殺」の指揮官としてのもので、現地で絞首刑を執行される。シンガポールの現場で処刑をあおってまわった辻政信は、終戦時にはインドシナから中国に潜伏して、戦犯を免れた。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎」
 
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