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闘いの歴史

闘いの記録

カーチスP40

2021-01-20
FacebookWally Warrenより
Zeroの敵ではなかったけれど・・・

雷電 Facebook亀山 紘さんより

2021-01-20
江戸時代の伝説的力士・雷電はとある飲み比べで一斗を飲み干し、相手が酔い潰れた後も更に一斗飲み続けたという。
一升(1.8リットル)✕10=一斗(18リットル)。
つまり一升瓶20本(36リットル)空けて千鳥足にもならなかったフィジカルモンスター。

最後の殿様

2021-01-19
その殿様は、2年間、家族と琉球で生活した。

琉球処分から日が浅い沖縄に県令として赴いた茂憲。
宮古・石垣両島まで及んだ視察で目撃したのは、困窮にあえぐ庶民の姿でした。

再三の改革意見は政府から黙殺され、茂憲は志半ばで解任されます。
ですが、情熱を傾けた人材教育は後年になって実を結びます。

家族を連れ、沖縄に尽くそうと決意した男の
2年にわたる奮闘

川中島の両雄

2021-01-19
信玄と謙信
Facebook亀山 紘さんより

中島 C6N 彩雲

2021-01-18
「我ニ追イツクグラマン無シ」偵察を行っているその際、追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した電文。
Facebook橋本 新一さんより

闘いの転機

バンドンでの会議

2020-11-13
アンチ大国主義
Facebook佐々木信雄さんの投稿

20th Century Chronicle 1955年(s30)】

◎アジア・アフリカ会議(バンドン会議)

*1955.4.18/ アジア・アフリカ会議(AAバンドン会議)が開かれる。24日、平和10原則を採択する。(〜4.24)

 1855(s30)年4月、インドネシアのジャワ島バンドンで第1回アジア・アフリカ会議(AA会議/バンドン会議)が開催された。議長国インドネシアのスカルノ大統領は、この会議を「世界人口の約半数を占める有色人種の代表による、世界最初の国際会議」と意義付け、第三世界の存在を世界に誇示する会議とした。4月18日から24日まで開催され29ヵ国が参加、日本もオブザーバーとして参加した。

 

 先立つ1954年印中首脳会談でネルーと周恩来が平和五原則を発表、さらに同年4月28日から南アジアの5ヵ国により、スリランカ(当時セイロン)コロンボでコロンボ会議が開催され、アジア・アフリカ会議を開催する構想が生まれた。AA会議は、これらの首脳を中心に、インドのネルー首相、インドネシア大統領スカルノ、中華人民共和国首相周恩来、エジプト大統領ナセルなど、新興国の当時の卓越した指導者たちのリードで実現したが、その後の中印の対立などから第2回以降は実現しなかった。

 

 バンドン会議では、「反帝国主義・反植民主義・民族自決の精神」が強調された。これは第二次大戦後のアジア・アフリカ諸国の民族自立の希望をうたい上げたものである。次にバンドン会議は、戦後の米ソ2極による冷戦構造下で、いずれにも与しない「第三世界」の存在を世界にアピールし、米ソの対立を緩和する立場(バランシング・ブロック)を作る契機を提供した。

 

 会議は「世界平和と協力の推進に関する宣言(バンドン十原則)」を採択して終了したが、参加諸国の経済的政治的安定はバラバラで、会議を主導したリーダーの死去や失脚もあい次ぎ、その理念の実現は遠いものとなった。結局第2回の会議は開かれず、その理念の一部が第1回「非同盟諸国首脳会議」に引き継がれる流れとなった。その後、バンドン会議50周年記念会議が開催され、定例化が決定され理念は継承されることになっている。

 

 インドネシア初代大統領スカルノは、この時期絶頂期でインドネシア建国の父と称えられた。スカルノはその後、容共路線を取り自由主義諸国と疎遠になったが、日本とだけは良好な関係を保ち、何度も来日した。日本からインドネシアへの莫大な戦後開発援助は、日本からそれに対応した輸入をするという紐付き多く、その裁量権はスカルノが握っていたため、それをあてにした日本の商社が、スカルノ来日時の夜の接待をすることが多かった。

 

 そのような流れの中で、赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で働く根本七保子を、貿易商社「東日貿易」の社員が斡旋して、スカルノ大統領のもとに送り込んだと言われている。それがのちの「デヴィ・スカルノ」第三夫人ということである。ちなみにインドネシアはイスラム教国で、複数の妻が認められており、スカルノも「正妻多数」となっている。

 

(この年の出来事)

*1955.1.28/ 炭労・私鉄総連などが、春季賃上げ共闘会議総決起大会を開き、春闘共闘方式の始まりとなる。

*1955.5.8/ 東京都下の砂川町で、米軍立川基地拡張反対の総決起集会が開催され、「砂川闘争」が始まる。9.13には強制測量が始まり、住民と警察隊が衝突、重軽傷者90余人。

*1955.5.11/ 岡山県宇部と四国高松を結ぶ宇高連絡船紫雲丸が、濃霧中で貨物船と衝突し、修学旅行中の小学生など168人が死亡する。(紫雲丸事故)

*1955.5.14/ ソ連と東欧8ヵ国が、NATOに対抗する「ワルシャワ条約機構」に調印する。

万年二位の果ては・・・。

2020-11-12
ひたすら「護憲と反安保」を掲げ続けた日本社会党は、まもなく、旗終い・・・か?

保守合同の果てには・・・。

2020-11-12
派閥の形成

55年体制について

2020-11-12
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1955年(s30)】

◎「55年体制」成立

*1955.11.13/ 社会党統一大会が開かれ、左派と右派に分裂していた4年間に終止符を打つ。(衆議院156、参議院118)(社会党再統一)

*1955.11.15/ 自由民主党(自民党)が結成され、衆議院298、参議院115の単一保守党が成立する。(保守合同)

 

 サンフランシスコ講和条約をめぐって左右両派に分裂していた社会党が、優勢となった左派に右派が合流する形で4年ぶりに再統一された。一方保守系は、戦後のGHQによる公職追放などで弱体化していたが、社会党の再統一に危機を感じ、日本自由党と日本民主党の2つの保守政党が合同して自由民主党が結成された。この「保守合同」と「社会党再統一」により、いわゆる「55年体制」が確立された。

 

 まがりなりにも二大政党制が出現したとされるが、英米のように二大政党が交代で政権を担当するのではなく、日本においては、常に与党第1党は自由民主党が占め政権を維持し、野党第1党を日本社会党が占めるという変則体制であった。国会の議席数では自由民主党と日本社会党の勢力比はおおむね2:1であったため、「一と二分の一政党制」などと呼ばれた。

 

 ひたすら「護憲と反安保」を掲げ続けた日本社会党は、戦後一定の期間が過ぎ新憲法が定着してくるとともに、日米安全保障条約で国防は米にゆだね、経済政策に重点に置いた政策で安定した高度成長が続くと、その支持基盤を失い長期低落傾向に陥った。1975(s50)年ごろに民社党、公明党、日本共産党らの野党が分立伸長すると、社会党はもはや一党で自民に対抗しうる野党ではなくなり、「75体制」などと呼ばれた。

 

 55年体制下で長期政権を維持し続けた自民党は、その内部に「派閥」と呼ばれる対抗グループを持ち、各派閥が切磋琢磨し随時交代で政権主流派になるなど、疑似的な政権交代をすることで、長期的に政治活力を確保したと言われる。しかしさしもの自民党も、ロッキード事件などを契機に、長期政権下での汚職や政治不信などが重なり、保守サイドからの新党分立などで弱体化し、1993(h5)年には日本新党を中心とする細川連立内閣が成立するとともに下野することになる。

 

 国内だけをみれば、自民党による一党長期政権というだけのことだが、実際は米ソ冷戦対立世界の中での、それに対応した日本の政治状況であったと言える。実際にソ連が崩壊し米ソ冷戦が終わると、すでに55年体制は意味を持たなくなっていた。古代ローマ史を知り尽くした作家塩野七生は、55年体制をローマ共和国の元老院に例えて評価したとされるが、ならば今は「帝政」に向かっているのであろうか(笑)

 

(この年の出来事)

*1955.1.28/ 炭労・私鉄総連などが、春季賃上げ共闘会議総決起大会を開き、春闘共闘方式の始まりとなる。

*1955.5.8/ 東京都下の砂川町で、米軍立川基地拡張反対の総決起集会が開催され、「砂川闘争」が始まる。9.13には強制測量が始まり、住民と警察隊が衝突、重軽傷者90余人。

*1955.5.11/ 岡山県宇部と四国高松を結ぶ宇高連絡船紫雲丸が、濃霧中で貨物船と衝突し、修学旅行中の小学生など168人が死亡する。(紫雲丸事故)

*1955.5.14/ ソ連と東欧8ヵ国が、NATOに対抗する「ワルシャワ条約機構」に調印する。

森永ヒ素ミルク事件

2020-11-12
当代の生まれた頃の出来事でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1955年(s30)】

◎森永 ヒ素ミルク事件

*1955.8.-/ 森永ミルクに混入されたヒ素が原因で、人工栄養児4人が死亡する。12月9日までに患者は全国で1万人以上、113人が亡くなる。

 1955(s30)年6月頃から西日本を中心に、森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の中毒患者が発生し、多くの死者を出す事件が起こった。当初は奇病扱いされたが、8月24日岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止められ、事件として発覚した。

 

 森永乳業では、安定剤として第二燐酸ソーダ(Na^2HPO4)を粉ミルクに添加していたが、安価であるという理由から純度の低い工業用を利用した。森永乳業徳島工場が製造した「森永ドライミルク」では、製造過程で用いられた低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が含まれおり、これを飲んだ乳児にヒ素中毒による多数の被害者が出た。

 

 当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名である。しかし当時は、日本の産業育成が最優先される時代であり、政府も森永側に立って収束を図り、被害者の救済は後手にまわり、被害者の運動は抑え込まれてしまった。

 

 かくして日本最初の大規模食品被害事件はうやむやに放置されたが、その14年後、被害者の後遺症問題などが告発され、事件は再燃し始めた。被害者の親たちは再結集し、森永ミルク中毒のこどもを守る会は活動を再開する。被害者の会は森永製品の不買運動と裁判闘争で闘うが、刑事裁判は1973年まで続き、やっと製造者側に実刑判決が下される。

 

 さらに民事裁判が続けられるが、森永側は製造者責任を否定し続ける。森永側の不誠実な対応に、守る会は不買運動を国民に呼びかけ、その運動は大きく拡がり、日本の不売買運動で史上最大のものとなった。森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過してからであり、不買運動に音を上げて責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明するまでに20年近くを要した。

 

(この年の出来事)

*1955.1.28/ 炭労・私鉄総連などが、春季賃上げ共闘会議総決起大会を開き、春闘共闘方式の始まりとなる。

*1955.5.8/ 東京都下の砂川町で、米軍立川基地拡張反対の総決起集会が開催され、「砂川闘争」が始まる。9.13には強制測量が始まり、住民と警察隊が衝突、重軽傷者90余人。

*1955.5.11/ 岡山県宇部と四国高松を結ぶ宇高連絡船紫雲丸が、濃霧中で貨物船と衝突し、修学旅行中の小学生など168人が死亡する。(紫雲丸事故)

*1955.5.14/ ソ連と東欧8ヵ国が、NATOに対抗する「ワルシャワ条約機構」に調印する。

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