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闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-04-09
とうじょう‐けんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。
五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

闘いの記録

◎大韓航空機爆破事件

2021-04-09
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1987.12.8/ ワシントンでレーガンとゴルバチョフの米ソ首脳が会談、INF(中距離核戦力)全廃条約に調印する。
【20th Century Chronicle 1987年(s62)】
◎大韓航空機爆破事件
*1987.11.29/ ビルマ(ミャンマー)沖で、大韓航空機がバンコク空港と交信後、消息を絶つ。12月1日、偽造旅券の男女2人がバーレーンで警察に拘束される。(大韓航空機爆破事件)
 1987年11月29日、バクダット発アブタビ―バンコク経由ソウル行きの大韓航空858便ボーイング707型機(乗員乗客115人)が、ビルマ(ミャンマー)の南方海上で消息を絶った。当初、事故による山中墜落説や海中墜落説など様々な憶測が飛び交ったが、12月1日、バーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていた2人の男女が、日本人のパスポートを偽造所持していたのが判明、乗り込む直前に取り押さえた。
 取調べ中に男は用意していた毒薬を飲み込み服毒自殺、同様に飲み込んだ女は、すぐに吐き出させたため一命を取り留めた。2人は日本人親子を装った北朝鮮の秘密工作員で、死亡した蜂谷真一名義の男は「金勝一」、生き残った蜂谷真由美は「金賢姫(キムヒョンヒ)」であることが判明した。
 金賢姫の自供によると、爆破目的は翌年開催予定のソウル・オリンピックの妨害・阻止であったこと、命令指示は金正日の親筆であったとされる。韓国の安全性に疑いを抱かせ、ソ連や東欧共産圏諸国のボイコットを狙ったが、当時西側との関係修復過程にあったソ連は北による謀略があったとし、東欧諸国にも卑劣なテロ国家として認識がひろがり、ソウル五輪は無事に行われることになった。
 金賢姫は、韓国で起訴され死刑判決が確定した。しかし盧泰愚大統領は、「事件の生き証人」という政治的な配慮で特赦した。そのあとの記者会見で、自己批判と北朝鮮の体制批判をしたが、この時、日本人拉致被害者とされる「李恩恵」こと田口八重子の話が飛び出し、一躍日本でも、拉致問題の有力な証言者として注目されるようになった。
(この年の出来事)
*1987.5.3/ 西宮市の朝日新聞阪神支局で、覆面の男が侵入し散弾銃を発射、記者1人が死亡、1人が重傷を負う。(朝日新聞阪神支局襲撃事件)
*1987.11.20/ 全日本民間労働組合連合会(連合)が発足する。
*1987.12.8/ ワシントンでレーガンとゴルバチョフの米ソ首脳が会談、INF(中距離核戦力)全廃条約に調印する。

◎山一抗争

2021-04-07
Facebook 佐々木信雄さん曰く
*1985.1.26/ 大阪府吹田市で、山口組の竹中正久組長ら最高幹部3人が、一和会系の組員に短銃で撃たれ、死亡する。(山一抗争勃発)
【20th Century Chronicle 1985年(s60)】
◎山一抗争
*1985.1.26/ 大阪府吹田市で、山口組の竹中正久組長ら最高幹部3人が、一和会系の組員に短銃で撃たれ、死亡する。(山一抗争勃発)
 「山口組」三代目田岡組長が亡くなり、後継決定に際して三代目の妻田岡フミ子の意向により、竹中正久が四代目組長に就任する。山口組組長代行を務めていた山本広の山広派は、これに反発して山口組を脱退して「一和会」を結成、いわゆる「山一抗争」へと発展することとなる。
 当初こそ一和会が数的優位と思われたが、武闘派で名を馳せた四代目竹中の怒濤の切り崩しで、一和会は徐々に弱体化し劣勢に立たされてゆく。逆転を狙った一和会は竹中暗殺を計画、少数幹部とともに竹中が愛人のマンションに立ち寄るところを待ち伏せ、竹中組長と若頭というトップ二人を射殺した。かくして2年あまりに及ぶ、日本最大暴力組織の内紛「山一抗争」が勃発する。
 それに対する山口組側からの報復は熾烈をきわめ、一和会は追い詰められる一方で、山本広会長宅に山口組会系組員が大型ダンプカーで突っ込んだりするありさまだった。やがて、稲川会や会津小鉄会の仲裁もあり、山口組側から抗争集結宣言が出されて収束した。抗争を通じて300件を超える大小抗争事件が発生、一和会側に死者19人負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人、警察官・市民に負傷者4人を出したとされ、抗争の直接の逮捕者は560人に及んだ。
 抗争終結後も一和会への締め付けは厳しく、構成員数200人にまで衰退した結果、山本広会長は引退し一和会の解散を表明した。竹中組長射殺以降、各地の暴力団の武装化が進んだとされるが、山一抗争がのちの暴対法制定の切っ掛けにもなったとされる。
(この年の出来事)
*1985.3.16/ 科学万博「つくば'85」が開催される。(~9.16)
*1985.7.10/ 京都市が古都保存協力税を実施、これに反対する金閣寺などが拝観停止で対抗ストライキ。
*1985.9.22/ 米・英・仏・日・西独の5ヵ国蔵相会議で、ドル高修正のため、為替市場への協調介入強化が合意され(プラザ合意)、円高時代に入る。

◎インデラ・ガンジー首相暗殺

2021-04-06
1984年10月31、インド首相インデラ・ガンジーは、首相官邸での執務に向かう途中、2人のシーク教徒の警護警官により射殺された。
*1984.9.6/ チョン・ドファン(全斗煥)大統領が、韓国の国家元首として初来日する。
Facebook佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1984年(s59)】
◎インデラ・ガンジー首相暗殺
*1984.10.31/ インドのインデラ・ガンジー首相(66)が暗殺される。
 1984年10月31、インド首相インデラ・ガンジーは、首相官邸での執務に向かう途中、2人のシーク教徒の警護警官により射殺された。シーク教分離主義者への弾圧に対する報復であると言われている。シーク教は我が国ではあまり知られないが、キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・仏教に次いで、信徒数は世界第5位とされる。宗教・言語・民族・文化さらにカーストという、複雑に入り組んだインドの内部事情がひき起こした事件といえる。
 インデラ・ガンジーは、インド独立運動の指導者でインド初代首相となったジャワハルラール・ネルーの実の娘であった。なお独立の父マハトマ・ガンジーとは血縁関係はなく、夫がインデラとの婚姻の都合で、ガンジー家の養子となったため同姓となったという。暗殺の後、インデラの長男のラジーヴ・ガンディーが後任に就いたが、彼も1991年に暗殺され、「ガンジー家の悲劇」とも呼ばれる(マハトマ・ガンジーも暗殺されている)。それとともに、ネルー・インデラ・ラジーヴと三代続いた政権を、「王朝支配」という批判があったことも知っておくべきである。
 インデラ・ガンジーは父ネルーの政策を継承、米ソ対立から距離をおく「非同盟・中立」「第三世界」重視政策をめざすが、宿命のライバル隣国のパキスタンとの関係悪化で、パキスタン支援の米と距離をおくようになり、ソ連側に近付いて社会主義的計画経済政策を進めた。さらに東パキスタンの独立運動に武力介入、「第3次印パ戦争」をひき起こしたが、結果、東パキスタンは「バングラデシュ」として独立した。
 父ネルーは戦後日本との関係も良好に保ち、象が見たいという日本の子供たちの希望にこたえて、1947年、上野動物園に一頭のインド象を贈った。当時上野動物園では、戦時中に「かわいそうなぞう」で描かれた象の花子の結末のように、象は1頭もいなくなっていた。この象は、ネルーの娘と同じ「インデラ」と名付けられた。なお娘インデラ・ガンジーは、1957年、父ネール首相の訪日に随行し、上野動物園で直接、象のインディラと対面している。
(この年の出来事)
*1984.2.12/ 冒険家植村直己さんが世界初のマッキンリー冬季単独登頂に成功するが、帰途で消息を絶つ。
*1984.3.1/ 大阪の泉州銀行難波支店で逮捕された強盗が、現職の兵庫県警警部補と判明する。4.24には、池田市の幸福相互銀行で、また同県警の警官が強盗に入る。
*1984.9.6/ チョン・ドファン(全斗煥)大統領が、韓国の国家元首として初来日する。

◎成田空港管制塔占拠事件

2021-04-05
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1978.12.7/ 自民党総裁選で福田赳夫に勝った大平正芳が、第1次大平内閣を組閣する。
【20th Century Chronicle 1978年(s53)】
◎成田空港管制塔占拠事件
*1978.3.26/ 開港反対派ゲリラが成田空港管制塔を破壊。開港が大幅に遅延する。
*1978.5.20/ 新東京国際空港(現「成田国際空港」)の開港式が行われる。
 '62年に新国際空港の建設が閣議決定されてから16年、やっと開港が目前にせまった3月26日、ほぼ完成した成田空港に空港反対派4千人が突入、一部別動隊が管制塔を占拠し準備完了していた管制塔通信機器を破壊した。これにより開港は2ヵ月以上遅れることになり、やっと5月20日に開港式典がとり行われるはこびとなった。
 当初の反対運動は地元農民たちが主であり、それを支援する社会党や共産党などの既成政党は、反対運動を党勢拡張に利用しようとしたりして、反対同盟から追出される形で脱落した。その隙間へ新左翼が参入してきて、反対運動は過激さを増してゆくことになった。
 70年安保問題が自動更新で決着して以降、新左翼運動は大きな活動テーマを見失う形になり、世間の関心の外におかれるようになった。赤軍派のような過激武装路線をとった急進派は、有力幹部らが国外に脱出して海外テロやハイジャックを連発した。日本残留組は、指揮系統の弱体化をともなって、内部分裂や身内リンチ事件をひき起こし、浅間山荘事件などで自滅していった。
 別の新左翼セクトらは、農民大衆との共闘を訴えられる成田の空港反対運動に目をつけた。国家権力側も、赤軍派のような民衆から遊離した跳ね返りなら実力行使で鎮圧できるが、地元農民・住民を巻き込んだ反対運動は、おいそれと鎮圧行動には出られないため、その沈静に多くの時間と犠牲を払うことになった。
 やっとのことで開港にこぎつけた「成田国際空港」であるが、その後の拡張工事など残された問題も多く、いまだ反対運動さえある。当初、東・東南アジアのハブ空港を期待されたが、開港までの長期におよぶ工事遅延の上に、空港自体の機能制限(滑走路・離着陸時間制限・利用料金の高さなど)、さらには首都圏中心部からの遠さ及び移動料金の高さなどの問題をかかえ、シンガポールのチャンギ国際空港や韓国の仁川(インチョン)国際空港などに遅れをとっている。
 さらに、羽田空港(東京国際空港)への国際線乗り入れや、首都圏第3の空港としての茨城空港の開港、さらには関西国際空港との競合により、相対的な地盤沈下さえ心配される。近年増加一方の LCCなど格安航空への対応など、さらに一層の競争にさらされることになるであろう。
(この年の出来事)
*1978.7.16/ 西ドイツのボンで、第4回主要先進国首脳会談(サミット)が開かれ、日本は福田赳夫首相が参加する。
*1978.11.11/ 無限連鎖講(ネズミ講)防止法が公布される。(1979.5.11施行)
*1978.12.7/ 自民党総裁選で福田赳夫に勝った大平正芳が、第1次大平内閣を組閣する。

川端康成

2021-04-04
川端康成 | NHK人物録 | NHKアーカイブス

川端康成未公開カラー映像!雪国でノーベル文学賞をとった川端康成が生前CMにでたときの写真!?貴重コマーシャル

【朗読】太宰治『川端康成へ』

闘いの転機

◎「私はカモメ」 初の女性宇宙飛行士テレシコワ

2021-03-31
Facebook佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1963年(s38)】
◎「私はカモメ」 初の女性宇宙飛行士テレシコワ
*1963.6.16/ ソ連の宇宙飛行士テレシコワが、宇宙船ボストーク6号に搭乗し、女性として世界初の宇宙飛行を行う。
 1963年6月16日、ソ連の宇宙船ボストーク6号が打ち上げられ、女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワが単独搭乗し、70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士となった。最初に飛び込んできた第一声「ヤー、チャイカ」は、チェーホフの戯曲「かもめ」を想起させる「私はカモメ」と訳され、女性初の宇宙飛行はきわめて文学的なイメージで印象づけられた。
 しかし実際には、ソ連では宇宙ミッション中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワには「チャイカ」(カモメ)が与えられていた。打上げ後の成功を知らせる「ヤー・チャイカ(こちらチャイカの意)」という応答が、女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉となり、日本では「私はカモメ」と訳されて、テレシコワの代名詞となった。
(この年の出来事)
*1963.3.31/ 東京都台東区で4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、7月に容疑者が犯行を自供し、遺体が見つかる。 
*1963.9.5/ 東京の地下鉄銀座線京橋駅で時限爆弾が爆発、「草加次郎」の犯行とされる。 
*1963.11.9/ 横浜市鶴見区の東海道本線で、列車の2重衝突事故が起こり、死者161人を出す大惨事となる。(鶴見事故)
*1963.11.9/ 福岡大牟田市の三井三池炭鉱で、炭塵爆発が起こり死者458人を出す。

◎怪獣「ゴジラ」誕生

2021-03-29
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1954.12.6/ 左右社会党など野党共同で吉田内閣不信任案を提出、7日、吉田内閣が総辞職して長期政権に幕。10日、鳩山一郎内閣が成立する。
【20th Century Chronicle 1954年(s29)】
◎怪獣「ゴジラ」誕生
*1954.11.3/ 東宝映画「ゴジラ」が封切られる。以後、怪獣モスラ、ラドンなど怪獣映画が一世を風靡する。
 この年、米国によるビキニ環礁の核実験と第五福竜丸の被爆という事件があり、そこから着想を得て製作された第1作「ゴジラ」は、“水爆大怪獣映画”というサブタイトルが付けられている。実際には、海底深く冬眠していた太古の怪獣が、水爆実験で安住の地から追い出され現れたという設定だった。
 体長50メートルと想定されたゴジラは、東京湾から品川方面に上陸し、新橋から銀座に向かい、銀座和光ビルの時計台や国会議事堂を破壊し、上野、浅草から隅田川に至り、勝鬨橋から東京湾に消えてゆく。精密に作られたミニチュアセットを踏みにじりながら、ゴジラは東京名所めぐりのようなコースをたどる。いまだ東京タワーも新幹線もなく、ゴジラは特徴ある和光ビルや議事堂の建物を毀し、山の手線の電車を食いちぎって暴れた。
 数々の東宝特撮映画を撮った本多猪四郎本編監督と、特撮の神様と呼ばれた円谷英二特撮監督のコンビで始められた「ゴジラ」の制作は、戦後初の特撮怪獣映画で、様々な未経験の困難に遭遇する。欧米では「キングコング」など人形アニメによる特撮が主流だったが、スケジュールの都合で着ぐるみ方式を採用した。最初のゴジラの着ぐるみは100キロ近い重さで、大部屋役者でスタントも手掛けていた中島春雄が最初のゴジラ俳優に選ばれた。中島は動物園などでゴジラの歩き方を工夫し、のちのテレビ特撮映画「ウルトラQ」や「ウルトラマン」などでも怪獣を演じている。
 初代「ゴジラ」は、観客動員数961万人を記録する空前の大ヒットとなった。この成功を受けすぐに続編が準備され、翌1955(s30)年、第2作「ゴジラの逆襲」が公開された。前回東京で暴れたゴジラは、今回は紀伊水道を遡り大阪に上陸する。そしてゴジラと同時代に生息した凶暴な肉食恐竜「アンギラス」もゴジラを追い、大阪の街を破壊し尽くし、大阪城を舞台に世紀の対決を行う。この「怪獣同士の対決」は、以後のゴジラ映画の基本フォーマットとなり、次作ではアメリカからキングコングを迎え「キングコング対ゴジラ」という夢の対決が演じられる。
 この「ゴジラの逆襲」は、小学校に入学したばかりの私も観ている。父の友人グループの家族同伴リクレーションの帰り、映画館に直行して観ることになる。真っ暗な館内でのゴジラの迫力で、危うく失禁しそうになった記憶がある。北極海にゴジラを追い込む場面だったと思うが、放射能の火を吐いて暴れくるうゴジラを指さして、防衛隊の誰かが「北極の氷が融けて海水面が上がり、日本が海中に沈む!」というシーンがあった。数年後、中学校の理科実験で、「コップに浮かべた氷が融けても水面は上がらない」ということを知った。あれは映画用のウソだったのだろうか。
(この年の出来事)
*1954.1.2/ 皇居の一般参賀で、二重橋上で群衆が折り重なって倒れ、16人が死亡、65人が重軽傷を負う。(二重橋事故)
*1954.4.21/ 犬養健法相が、検事総長へ指揮権を発動して、造船汚職容疑の佐藤栄作自由党幹事長への逮捕請求を阻止する。
*1954.12.6/ 左右社会党など野党共同で吉田内閣不信任案を提出、7日、吉田内閣が総辞職して長期政権に幕。10日、鳩山一郎内閣が成立する。

俳優 宝田明氏 「戦後70年 語る・問う」(29) 2015.8.6

2021-03-28
Akira Takarada, Actor 
満州(現中国東北部)で育ち、引き揚げ経験がある俳優の宝田明さんが、満州での経験や戦後の歩みなどについて語り、記者の質問に答えた。

 司会 川村晃司 日本記者クラブ企画委員(テレビ朝日)
 http://www.jnpc.or.jp/activities/news...
 記者による会見リポート(日本記者クラブ会報2015年9月号に掲載) 「戦争は憎悪しか生まない」 81歳にもかかわらず、相変わらずのダンディー。壇上の宝田明氏は往年の二枚目俳優のオーラを放っている。
「ゴジラ」の主役をはじめとする銀幕のスター、そして華やかなミュージカルの舞台でライトを浴びて歌い踊るエンターテイナーのイメージは健在だ。
その宝田氏の「憎悪」という感情に翻弄された自らの戦争体験の話は衝撃的だった。
 満州鉄道の技師だった父と共に旧満州のハルビンに移り住んだ宝田氏が小学5年生で迎えた終戦。
そして、日ソ中立条約を一方的に破って満州に侵攻したソ連軍によって生活を一変させられた。
ソ連兵の略奪、凌辱、惨殺を目の当たりにし、自身も腹部に銃撃された経験は、今でもロシアという国に対する憎悪の元になっていると語る。
「戦争とはそういうもの。憎悪しか生まない」 また、兄が戦争によって人生を狂わされたことも、宝田氏の安保法制をめぐる今の政治状況に対する強い姿勢に通ずる。
「憲法9条は死守しなければならない。戦争は絶対してはならない」と強調する宝田氏に、「歴史を語り継ぐ」姿勢が感じられた。 

日本BS放送報道局プロデューサー 三舟 小文

銀座四丁目、服部時計店周辺です。

2021-03-28
1945年の頃です。

帝都繁華街

2021-03-28
Facebook永井由紀夫さん曰く、昭和13年(1938年)の東京・数寄屋橋付近
1945年2月、何もかも、焼き尽くされました。
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