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闘いの歴史

闘いの記録

訃報です。

2020-10-18
3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
『Get Back! 50's / 1953年(s28)』
(スターリン死去)
○3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。東京証券市場では、軍需株を中心にダウ価が急落する。(スターリン暴落)
 1953年3月1日、スターリンは政権幹部らとの徹夜の夕食の後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。猜疑心の強いスターリンの性格も作用して、翌日の午後になるまで発見が遅れた。昏睡状態が続き意思疎通はできないまま、4日後危篤に陥り、死亡した。スターリンの死には謀略説もあり、計画的な暗殺だったとする説や、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に、死を早める措置をしたとか、意図的に放置したとかの噂があるが、真相は不明のままである。
 ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)は、帝政ロシア支配下のグルジア(現ジョージア 共和国)の貧しい職人の家庭に生まれ、神学校に進むもマルクス主義に近づき退校、やがて労働者となり、労働者の組織化や地下の革命活動に進む。ヨシフはグルジアでボリシェヴィキの活動家となるとともに、やがてレーニンと直接出会い認められるようになった。
 ロシア革命によりソビエトが成立すると、レーニンを補佐してトロツキーとスターリンは並び立つ存在になった。1924年レーニンが死去すると、ライバルのトロツキーを追い落としてレーニンの後継の地位に就いた。レーニンはその遺書で「猜疑心の強いスターリンを指導者にしてはならない」との旨を書いていたとされるが、遺書は握りつぶされた。
 ソ連を追放されたトロツキーは、各地を転々としたあとメキシコにまで逃亡したが、スターリンの派遣した暗殺者にピッケルで頭をぶち抜かれて暗殺された。スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。
 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリンに対する批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。
 近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。
*この年
1934年以来の大凶作/街頭テレビが大人気/蛍光灯が家庭に普及/映画「君の名は」空前の大ヒットでストールの真知子巻きが流行/うたごえ運動盛ん/テレビの流れ作業生産が始まる
【事物】森永スープ/噴流式の電気洗濯機/無線タクシー
【流行語】さんずい(汚職の隠語)/さいざんす/むちゃくちゃでござりまするがな
【歌】雪の降るまちを(高秀男)/君の名は(織井茂子)
【映画】ひめゆりの塔(今井正)/十代の性典(島耕二)/シェーン(米)/禁じられた遊び(仏)
【本】伊藤整「火の鳥」/山岡宗八「徳川家康」/ボーボワール「第二の性」

陸軍です。

2020-10-19
因みに、帝国皇軍には、空軍は存在しませんでした。
加藤隼戦闘隊の搭乗機です。
 中島 キ43 一式戦闘機 隼 (昭和14年 - 昭和20年) 
- 全長 : 8.92 m
- 全高 : 3.27 m
- 全幅 : 10.84 m
- 空虚重量 : 1 910 kg
- 最大離陸重量 : 2 925 kg
- 最大速度 : 530 km/h

零戦

2020-10-18
FacebookHiroshi Hosonoさんの投稿より
零式艦上戦闘機。日本海軍が1940年から1945年にかけて運用していた戦闘機です。開発は三菱重工業。連合国側からはゼロファイター、ジーク(Zeke)とも呼ばれていました。投入された太平洋戦争勃発前の日中戦争(支那事変)から太平洋戦争初期にかけ、3,000 kmの長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた運動性能で、米英の戦闘機に対し優勢でしたが、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となりました。しかし後継機「烈風」の開発が遅れたことにより終戦まで日本海軍航空隊の主力でした。
 開発は1937年(昭和12年)10月5日に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発します。十二試艦戦は、主力艦同士の砲撃戦を有利に進めるため、敵の弾着観測機を追い払うことが主な任務と想定されていました。日本海軍は要求仕様として高度4000mで速力270ノット(時速500km)、巡航速度で6時間以上滞空できる航続力、強力な20mm機銃の搭載などを挙げ、三菱重工業も持てる技術力をすべて投入し、それを実現しました。十二試艦戦は試作機のまま実戦に投入され、その実力を証明すると、1940(昭和15)年7月に零式艦上戦闘機として制式採用。太平洋戦争の敗戦までに1万機余りが製造され、日本の航空機史上、最大の生産機数を記録しました 。
 特に、日中戦争及び太平洋戦争前半はその運動性能と航続距離を生かし、敵戦闘機を圧倒したといわれます。操縦性もいいことから初級者にも扱いやすい機体でした。しかし、戦争半ばになると、米軍のF6FやF4U、P-38やP-47などが登場したほか、後継機の開発は致命的なまでに遅延しました。零戦自体も改良を重ねたものの装甲の薄さや、エンジンの出力限界にともなう速力不足、搭乗員の技量低下、工作精度の著しい悪化、それによる稼働率低下などもあいまって、戦闘機として急速に色褪せていきました。また一部の機体が米軍に鹵獲されたことによって機体特性が明らかになり、弱点を徹底的に突かれる戦い方が浸透したことが大きな原因でもありました。米軍は日本陸海軍に比して、こういった新戦術を誰でも分かるよう、様々なマニュアルで浸透させることが巧みであり、日本軍はソフトウェアの側面でも大幅に劣後していたのです。しかしF6Fヘルキャット等、敵新型機に全く通用しないわけではなく、1945年2月の関東防空戦では改めて零戦の格闘能力の脅威が報告されました。ポートダーウィン戦(1942年2月19日)ではイギリス軍のスピットファイアを一蹴もしています。
 マリアナ沖海戦(1944年6月19日〜20日)ではレーダーにより管制された多数の戦闘機と新兵器近接信管(VT信管)(ただし近年ではこの海戦でのVT信管の効果は疑問視されている)を配備した対空砲(VT信管使用率20%)に阻まれ大きな戦果がなく、アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島などから日本本土に襲来する新型爆撃機、ボーイングB-29の迎撃戦においては零戦の高高度性能不足で撃墜困難のため、他の戦闘機で迎撃がほとんどでした。登場時こそ高性能を誇った零戦でしたが、後継機の開発が順調に進んだ陸軍に比べ、海軍は後継機の開発がうまくいかず、零戦は終戦まで主力機として使用され、性能でもアメリカやイギリスの新鋭機に敵わなくなりました。ちなみに後継機として「烈風」が開発中でした。もっとも開発はエンジンの選定や開発チームメンバーの病気なども相まって戦時中には間に合わず、水上戦闘機から改造された局地戦闘機である「紫電改」などが後継機の代替とされました。
 日本の降伏による終戦に伴い、残存していた零戦のほとんどは破棄されましたが、破壊を免れた機体やレプリカが、日本やアメリカの各地の航空博物館や基地などで見る事ができます。一部には現在も飛行可能なレプリカもあります。

戦争と平和のモニュメントだそうです。

2020-10-17
Facebook戦艦ミズーリ記念館の投稿です。
浮かぶ戦艦ミズーリと沈んだままの戦艦アリゾナin 真珠湾

人見絹枝という生き方

2020-10-17
アムステルダム大会の思い出
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎アムステルダム 第9回オリンピック大会
*1928.7.28/ アムステルダムで第9回オリンピック大会が開催される。
 第9回夏季オリンピックは、1928年7月28日から8月12日まで、オランダのアムステルダムで開催された。日本は第5回スウェーデンのストックホルム大会で初参加、第7回ベルギーのアントワープ大会、第8回パリ大会と(第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のため中止)、参加経費などの工面に苦労しながらも参加を続けてきたが、その成果はこのアムステルダム大会で発揮された。
 陸上競技三段跳びで織田幹雄、競泳200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得。また、この大会から初めて女子の陸上競技への参加が認められ、日本から女子選手として唯一人参加した人見絹枝は、800m走で女子初めて銀メダルを獲得した。最終的に日本選手団は、金2、銀2、銅1、入賞者合計では11名と大活躍をみせた。
 この大会から初めて女性の参加が認められたほか、聖火が大会を通じて継続して燃やされた最初の大会でもあった。またコカ・コーラ社が初の大会スポンサーとなって、コカ・コーラが参加関係者に支給されるなどした。しかし、この時期の大会ではアマチュアリズムが徹底され、トップ選手のプロ化が進みつつあったテニスは実施競技から除外された。またこの大会で通算9個目の金メダルを獲得したフィンランドの中長距離陸上選手パーヴォ・ヌルミは、後の賞金大会に出たという理由から、以降の五輪参加を認められず最後の金となった。
 女子でたった一人日本から参加した人見絹枝は、100m走、200m走、走幅跳びで世界記録を出すなど、日本女子アスリートの先駆者であった。アムステルダム五輪では得意の走り幅跳びや200m走は実施されず、事実上100m走に絞って出場したが準決勝4位で敗退してしまう。そこで人見は、それまで走ったことのない800m走への出場を急遽決め、決勝ではドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
 アムステルダム五輪後も、人見は競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面などに忙殺された。1930年には、国際女子オリンピック大会への遠征費捻出のために、幾つもの国内の競技に出場しながら募金活動に駆けずり回り、さらに一ヵ月以上かけての船便で欧州に向うと、女子選手団を率いて、プラハでの国際女子競技大会をメインに欧州を転戦。半月の内に5つの大会が集中するなどして、肉体的精神的に疲労困憊、人見は体調を崩しながらも競技に出場し奮闘した。
 帰りの海路ですでに体調は悪化していたが、年末に帰国した後も遠征報告や募金へのお礼などで走り回り、その過労がたたり翌3月に喀血、結核性肋膜炎で阪大病院に入院、8月2日結核からくる肺炎を併発して死去、享年24。奇しくも、アムステルダム800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であったという。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。

闘いの転機

(太平洋戦局の転換)

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
(太平洋戦局の転換)
○5.7 [南部太平洋] ニューギニア珊瑚海海戦
○6.5 [中部太平洋] ミッドウェー海戦
○8.7 [南部太平洋] ソロモン海戦・ガダルカナル島の戦い
 1942年5月8日、ニューギニア東南海域の珊瑚海で、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合国軍の空母部隊が交戦し、史上初の航空母艦同士の決戦となった。この海戦は空母艦載機による戦いとなり、両艦隊は互いに相手の艦を視界内に入れないで行われた史上最初の海戦でもあった。
 双方の損害はともに、空母1隻沈没・1隻大破でぼぼ対等であったが、総合戦力の劣る日本軍には相対的に大きなダメージであり、目標としたニューギニアの拠点ポートモレスビーの攻略作戦に海軍の支援が不可能になった。開戦以来連戦連勝を続けた日本軍は、この海戦で初めて進攻を阻まれる。
 珊瑚海海戦の海軍は、陸軍のポートモレスビー攻略作戦の補助の役割であり、しかも枝葉とされた第五航空戦隊が珊瑚海海戦で健闘したことは、むしろ真珠湾攻撃以来、一方的な勝利を収めてきた主力機動部隊である第一航空艦隊の第一、第二航空戦隊にとっては自信を深めさせた。しかも陸軍は中国大陸を最重要視し、しかもニューギニアでも無謀な陸路攻略戦で難航していた。
 そこで、陸軍の協力を宛にしないでできる海軍独自の作戦として、海軍はハワイに近い中部太平洋のミッドウェー島攻略作戦に全力を集中する作戦を立てた。連合艦隊司令長官山本五十六は、真珠湾奇襲で米の戦意をそぎ早期和平に持ち込む計画であったが、意図どおりには進まず、米海軍力の回復をおそれた。そこで海軍主力を集中して、ハワイ攻略作戦を大前提として、その布石でハワイの一歩手前にあるミッドウェー島攻略を企図した。
 ミッドウェーはアウェーの戦いであり、長期戦をさけ、米主力艦隊の空母機動部隊を誘い出して殲滅する作戦であった。ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の1942年6月5日から7日にかけて、ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で戦われた。日本海軍の機動部隊と米国の機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失うことになる。
 本来、大本営の軍令部は、ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア・フィジー・サモアの攻略作戦(FS作戦)によって、アメリカとオーストリアの分断を考えていたが、海軍連合艦隊の早期決着のミッドウェー作戦に折れた形になった。だが、そのミッドウェーの大敗北により、海軍力の大打撃でFS作戦は中止となった。
 しかし日本軍は、ラバウル以南に前身航空基地を創設して米豪分断をめざし、ガダルカナル島に飛行場を建設してソロモン海域の制空権を確保しようと考えた。一方、アメリカ軍統合参謀本部はミッドウェーの勝利を踏まえて、第1段対日反抗作戦「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」を開始し、日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島攻略でその戦端をきった。
 8月7日、米海兵隊を主力とし豪軍の支援を受けた海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下で上陸を開始し、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。奇襲を知った日本海軍は、援軍の艦隊を送り、数次にわたつて「ソロモン海戦」が戦われるとともに、陸上では半年にわたる壮絶な消耗戦が行われた。最終的に12月31日の御前会議において撤退が決定されたにもかかわらず、さらに1ヶ月を経た1943年2月1日からやっと撤退作戦が行われた。
 いわゆる「大本営発表」という粉飾戦果は、初めての劣勢戦闘となった珊瑚海海戦に始まり、大敗ごとに誇大になってゆき、このときのガダルカナル撤退では「転進」と公表された。転進とされたものの、大半の兵士は南方戦線に残されたままで、ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、戦後の1947年であったという。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎

提督死す!

2020-09-08
前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。
Facebook佐々木信雄さんコメント
『Get Back! 40's / 1943年(s18)』
(山本五十六司令長官 戦死)
○4.18 [南部太平洋] 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で、搭乗機が撃墜され戦死する。
 ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、3月中旬、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨げるべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第三艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し敵の戦線を攪乱させるという目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。4月18日、ブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。
 山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して一カ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之(阿川佐和子の父親)などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
*この年
種々の替え歌流行(見よ東條のハゲアタマ〜)/決戦料理の名のもとに野草の食用が推奨される
【事物】いも駅弁・いもパン/硫黄マッチ/貯蓄券/酒場・ビヤホールに順番券
【流行語】転進/元帥の仇は増産で/玉砕
【歌】加藤隼戦闘隊(灰田勝彦)/お使いは自転車に乗って(轟夕起子)/勘太郎月夜唄(小畑実・藤原亮子)
【映画】姿三四郎(黒沢明)/無法松の一生(稲垣浩)/花咲く港(木下恵介)
【本】島崎藤村「東方の門」(中央公論)/山本周五郎「日本婦道

開戦の背景

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
(日米開戦)
○7.25 [アメリカ] 日本の南部仏印進出への報復措置として、米政府が在米日本資産の凍結令を公布。
○8.1 [アメリカ] ルーズベルト大統領が対日石油輸出を全面禁止とする。
○11.26 [ワシントン] ハル米国務長官が日本側の提案を拒否し、日本軍の中国撤退を求める強硬な新提案を提示。27日、日米交渉は決裂する。(ハル・ノート)
○12.8 [ハワイ・東南アジア] 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸開始。午前3時19分、日本軍がハワイ真珠湾を空襲。日本が米英両国に宣戦布告する。(アジア太平洋戦争開始)
 日本側が「ABCD包囲網」(米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼んだ各国による経済封鎖は、この時期、中でも影響の大きいアメリカの主導で進められつつあった。三国同盟を結び独ソ戦が開始されると、日本軍は7月2日の御前会議で「対ソ戦準備・南部仏印進駐(南進・北進準備)」を決定、それを受けて7月7日からは、満州での「関東軍特種演習(関特演)」に向けて内地から兵員動員が開始される。
 同時に南進の準備も進める日本に対して、アメリカは7月25日「在米日本資産の凍結」を決定する。当時は金本位制であり、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には莫大な貿易決済用の金融資産があった。もちろん日本民間の在米資産も膨大であった。
 日米交渉が座礁し、7月28日、日本軍はすでに決めていた南部仏印進駐を開始すると、8月1日米政府は「対日石油輸出全面禁止」を発動した。この時点でルーズベルト米大統領は、「太平洋での戦争」を必至と考えていたもようである。日本は石油の約8割をアメリカから輸入しており、国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分とされた。早期開戦論だった陸軍のみならず、慎重だった海軍も石油欠乏は海軍力の致命傷になるとして、早期開戦論に傾いた。
 三国同盟以降から、日米の交渉は断続的に続けられていたが、6月の独ソ戦開始を契機に、アメリカ側は対日妥協から強硬路線へ舵を切ることになる。第二次近衛内閣の外相松岡洋右は、三国同盟にソ連を参加させるという四国連合案は破綻したが、対米には強硬案を主張、妥協派の近衛首相と対立した。近衛は松岡を外相から外すために、えざわざ内閣総辞職して、再度第三次近衛内閣を組閣する。
 9月6日の御前会議では、外交交渉の期限を十月上旬とし、妥結の目途がない場合直ちに対米開戦を決意すると決定された。近衛は日米首脳直接会談に唯一の期待をしたが、アメリカ側に日米首脳会談を事実上拒否された。戦争の決断を迫られた近衛は妥協策による交渉に道を求めたが、東條英機陸相に日米開戦を要求されたため内閣は瓦解、10月16日に近衛内閣は総辞職する。
 18日東條内閣が成立したが、これには本人も予想外であったらしく、内大臣木戸幸一が独断で東條を後継首班に推挙し天皇の承認を取り付けてしまった。最も強硬に開戦を主張する陸軍を抑えるには、陸軍大将でもある東条しかおらず、毒をもって毒を制する案だということで、対米戦争回避を望む天皇もこれ承諾したらしい。東條も、それまでの態度を一変し、天皇の意をくむ忠臣として2つの妥協案を用意、交渉妥結の可能性をさぐった。
 しかし対日戦不可避と判断していた米は、日本側の新規提案は両案ともに問題外であると拒否。11月26日、コーデル・ハル国務長官は、いわゆる「ハル・ノート」を駐米日本大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ハル・ノートは国務長官の「覚書」との位置付けであったが、日本政府はこれを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになった。
 日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島に上陸し、英印軍と交戦状態に入る。イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。(マレー作戦)
 並行して、日本海軍航空隊によって、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分に発進、日本時間午前3時19分から攻撃が開始された。(真珠湾攻撃)

戦争ということについて

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
(大東亜戦争のイデオローグ)

『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
○1.- 「世界史的立場と日本」座談会が、「中央公論」に4回に渡って掲載され始める。
○7.- 「近代の超克」座談会が行われ、「文学界」9・10月号に参加者による論文が掲載される。
 相次いで行われた雑誌主催の二つの座談会は、「大東亜戦争」の思想的基盤を提供したものとして、戦後痛烈な批判をあび、当時一級の知識人による戦争協力として言及される。「世界史的立場と日本」座談会の参加者は、京都帝大の西田幾多郎門下生で、「京都学派」に所属する高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高の哲学者及び歴史学者によって行われた。

陸軍における開戦

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
(南方侵攻-2)
○1942.2.15 [シンガポール] 日本軍が英領シンガポールを占領する。
 前年12月、英国への宣戦布告前にマレー作戦を開始していた日本軍は、1942年1月末には英領のマレー半島を占領、2月始めにはシンガポールを目指した。シンガポールには、大英帝国アジア支配の拠点として、東南アジア最大の植民地軍と最強といわれた要塞がおかれていた。
 前年末の「マレー沖海戦」では、英国海軍が切り札として出撃させた戦艦プリンス・オブ・ウェールズなどが撃沈されており、制海制空権は日本軍が優勢であった。さらにマレー半島を占領されてしまった英国軍は、残されたシンガポールにこもって防衛戦に徹するしかなくなっていた。兵力人員は拮抗していたが、勢いと装備にまさった日本軍は、シンガポール市街をほぼ包囲し降伏を迫った。2月15日、日本軍に最終防衛線を突破された敵将「アーサー・パーシバル」中将は、13万の残存兵と共に降伏、これは英国史上最大規模の降伏であった。
 この時、降伏交渉の席で対面したのがマレーの虎と呼ばれた猛将「山下奉文」中将であり、敵将パーシバル中将に対して、机を叩きながら「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話が報道され、一躍有名になった。実際には、通訳を交えたまどろっこしいやり取りのなか、「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という冷静に言った趣旨を、通訳がうまく伝えられないことに苛立って放った言葉であったという。
*山下/パーシバル会談 https://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI
 シンガポール占領時には「シンガポール華僑粛清事件」というものが引き起こされる。シンガポールには華僑が多く住み、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると考え、山下奉文軍司令官は、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長鈴木宗作中将、軍参謀辻政信中佐が指示し、辻参謀が作戦の監督役とされた。
 シンガポール在住の成人男子華僑は全員集められ、抗日分子かどうか選別されたが、その選別は困難なうえに期日を定められていたため、かなり雑になった。ここでも、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と檄を飛ばすなどしたため、期日に終了させるために員数合わせ的な処刑も行われたという。
 山下奉文は、その後、敗色濃厚なマニラ防衛指揮官として派遣され、終戦後、戦犯とされマニラでの軍事裁判で死刑判決を受ける。その罪状は、この「シンガポール華僑粛清事件」とマニラ市街戦中に起きた「マニラ大虐殺」の指揮官としてのもので、現地で絞首刑を執行される。シンガポールの現場で処刑をあおってまわった辻政信は、終戦時にはインドシナから中国に潜伏して、戦犯を免れた。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎」
 
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