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闘いの歴史

闘いの記録

レジスタンス

2021-01-06
2021年10月には96歳になられます。
Facebook橋本 新一さんの投稿



ナチスを苦しめた女性。
シモーヌ・セグアン 彼女のコードネーム、ニコール・ミネト 
彼女は18歳で自由フランス軍で、レジスタンス活動に参加。
シャルトルやパリ解放に参加。
中尉まで昇進しいくつかのメダルを授与され。
戦後小児科の看護師として活躍。

帝国陸軍

2021-01-03
日本機の液冷エンジンのかっこよさは異常w 日本陸軍 三式戦 II型 飛燕 涙滴風防型
Facebook森 一理さんの投稿
日本陸軍第244戦隊 戦隊長小林照彦搭乗機(昭和20年1月)飛燕1型丙

鹵獲機のB-17 、丸裸にしても、ただ驚くだけ、正に宝の持ち腐れ・・・か⁉

2021-01-01
記録によると開戦時フィリピンに在機していたB-17はD型が1機、E型が2機完全な形で日本軍に鹵獲されている。
Facebook森 一理さんの投稿

帝国海軍です。

2020-12-31
昭和15年12月31日の本日、海軍、二式大型飛行機艇試作一號が完成致しました。
昭和15年12月31日の本日、海軍、二式大型飛行機艇試作一號が完成致しました。
二式飛行艇、舊日本海軍が第二次欧州大戰中に九七式飛行艇の後継機として実用化した4發大型飛行艇。
初飛行は昭和16年。
略符號は「H8K」。
レシプロエンジン装備の飛行艇としては當時世界最高の性能を誇る傑作機とされる。
通称は二式大艇。
二式大型飛行艇とも言う。
なお、輸送型は「晴空」と呼ばれていた。
九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 
聯合軍におけるコードネームは「Emily」。
「要求性能」
1930年代の日本海軍は、華盛頓海軍軍縮條約・倫敦條約によって對米劣勢を余儀なくされた艦艇勢力を補うため、陸上基地から發進して洋上の敵艦隊を捜索・攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)を装備することを構想し、中型飛行艇(中艇)/大型飛行艇(大艇)、中型陸上攻撃機(中攻)/大型陸上攻撃機(大攻)という發動機の双發・四發、發進基地の水陸に差を設けた體系を計画した。
その一環として最初に実用化された大艇が九七式飛行艇であり、最大速度は385km/時・魚雷2發を搭載した攻撃過加重状態での航続距離は約5000kmに達した。九七式飛行艇の更新用機材として「十三試大型飛行艇」として開發が始められた二式飛行艇は、攻撃飛行艇として、當時諸外國が一般的に飛行艇に求めていた性能を上回るものが要求された。
海軍の要求性能の一部を列記する。
最高速度…240ノット(444km/h)以上 
當時の主力戰斗機九六式艦上戰斗機と同等。
同時期の英國4發飛行艇サンダーランドの最高速度336km/時と比べると100km/時以上速い。
航続距離…偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上 
いずれも一式陸上攻撃機やB-17爆撃機の5割増。
B-29爆撃機と比べても、30%近く長い。
20mm機關砲多数を装備した強力な防御砲火、防弾装甲。
雷撃を容易にするため小型機並の良好な操縦性。
1t爆弾または800kg魚雷2發搭載可能。
「開發経緯」
第一次欧州大戰が終わると列強各國は軍縮に転じ、軍艦の建造を自粛する海軍休日に入った。
日本海軍は仮想敵國の1つである亜米利加海軍に對する数的劣勢を航空戰力で補うことを企図し、海軍航空本部は昭和12年7月に「航空軍備に關する研究」をまとめる。
航続距離の長い大型陸上攻撃機を運用することを想定したが、日本が第一次欧州大戰後に國際聯合から委任統治領として託された南洋諸島の基地整備は難しく、大型飛行艇によるアウトレンジ戰法を模索するようになる。
川西航空機が開發した九七式飛行艇は、この構想を現実のものとした。
一方で4發エンジンを持つ大型陸上機を推す意見も強く、昭和13年4月18日に海軍航空本部技術部は「十三年度試製飛行機計画要求案摘要」で『十三試大型飛行艇』(川西)・中島十三試大型陸上攻撃機(深山)(中島飛行機)の計画要求案をまとめた。
中島の深山は、川西の二式大艇にとって文字通りライバルであった。
十三試大艇の正式試作發令は同年8月21日である。
飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、機體は大きくなりがちで艇底の形状も空気抵抗が大きく、速度において陸上機より不利であった。
海軍側の要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった、高速機という、當時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものであった。
製作担當の川西航空機は、九七式飛行艇を設計した菊原静男技師を設計主務者に任命し、設計制作を行った。
九七式飛行艇で自信をつけていた菊原は「よしきた」という気持ちで張り切ったという。
最重点目標は航続距離であった。
1939年(昭和14年)9月に第二次欧州大戰が勃發、日本と英吉利や亜米利加などとの緊張も高まる中、和田操航技廠長は昭和15年中に本機を完成させるよう厳命する。
同年12月29日、十三試大艇は川西鳴尾工場で完成、翌日試験飛行を行う。
方向舵の不安定さはすぐに解消されたが、過荷重重量28tで離水テストを実施したところ飛沫のためプロペラ先端が曲がり離水不能となる。
度重なる水槽実験の結果、艇體の小改造と波押さえ装置(通称かつおぶし)を装備することで飛沫を押さえることに成功。
1941年(昭和16年)3月26日に試作1號機が領収され、昭和17年2月5日に『二式飛行艇11型 H8K1』として制式採用が決定した。
先行していた本命の「深山」が失敗作となる中、二式大艇は高性能の四發大型飛行艇として完成した。
菊原は、「深山」の不運は失敗機である亜米利加のダグラスDC-4Eをベースにした事とした上で、二式飛行艇はゼロから基礎設計を行えたこと・重量管理統制が成功したことが両機の差になったと回想している。
「技術的特徴」
二式飛行艇の技術的特徴を列記する。
エンジンは當時最強だった三菱の火星シリーズと適切なプロペラ設計
細長い主翼と狭い胴體。
主翼のアスペクト比(主翼の付け根から先端までの長さ(翼長)を平均翼弦長で割った値、主翼の縦と横の比率・細長さを示す指標)は9に達し航続力と速度の調和を図った。
一般の飛行艇の胴體は、着水時の安定性を考慮し幅廣に作られていたが、本機では空氣抵抗を減らすためスリムになり、九七式飛行艇より約10%幅を抑えた一方で背の高い独特な形状となった。
軽量化と強度を両立するため波板構造や零式艦上戰斗機と同じ超々ジュラルミンの採用。
「採用」
操縦性を良くする親子フラップの採用
胴體前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)の採用 
試作機が水上滑走中に高く波飛沫を巻き上げ、プロペラや尾翼を損傷したことから採用され、滑走中に生じる波飛沫を抑えることに成功。
このほかの機内設備としては機體前後部や上部の銃座は大型の20mm機銃に合わせて動力銃座を採用、胴體や主翼の燃料タンク(全14個、合計17080ℓ)には防弾を施し、索敵や哨戒では24時間近い長距離飛行を行うことから便所や仮眠用のベッド、食品を保管する冷蔵庫も設けられ、無線室も胴體前部と後部の2か所備えた。
なお、本機は胴體を細長く設計したことから水上滑走中に機體が跳ね上がるポーポイズ現象が起こりやすく、對策として機首ピトー管に横棒(「カンザシ」と呼ばれた)を取り付け、これと風防に描かれた細い横線を基準にして機體角度を保ったまま操縦することで解決した。
ただし川西で製作したマニュアルが前線部隊では全く読まれず、事故が続發した。
昭和19年2月-5月の実験で機體を改造することなく、操縦方法の改善により事故を押さえられることが判明した。
防水塗料の粗悪さから水密は不完全で、事故豫防のためにも底に溜まった水をバケツで汲み出す作業は欠かせなかった。
戰爭終盤になると機體疲労が進み、水漏れの傾向に拍車をかけている。
「派生機」
―H8K3―
二式大艇22型。
二式大艇12型(H8K2)の翼端フロートと後部上方20㎜機銃を引き込み式にし、空気抵抗を減らして飛行性能を向上させることを意図した機體。
1943年(昭和18年)2月13日に領収飛行を行って性能実験を行ったが、重量2トン増加、性能は原型機と全く變わらない上に水上性能も低下、2機の試作のみで終わった。
2機は第八〇一航空隊で実戰任務につき、たびたびB-24リベレーター爆撃機と誤認されたという。
1945年(昭和20年)3月に2機とも夜間索敵任務にて未歸還となった。
―輸送型―
海軍は十三試大艇の開發中から輸送型の改造を計画していた。
1942年はじめに海軍から川西に試作指示があり、十三試大艇試作1號機を輸送型H8K1-Lに改造、1943年11月30日に納入した。
仮称「晴空」三二型(H8K2-L)として、1943年に11機、1944年に24機が完成した。
1945年に二式大艇二三型(H8K4)を改造した「晴空」三三型(H8K4-L)も試作されたが、量産されなかった。
二式飛行艇輸送型の総生産機は36機であった。
―陸上爆撃機型―
二式大艇開發後、川西社内では次の機體開發について3案があり、強風を陸上機化した戰斗機開發、新型艦上攻撃機開發案、本機を陸上機化した爆撃機の開發案で、結局戰斗機開發が選択された。
なお、この二式大艇陸上機化案に「海軍でG9Kの記號を豫えた」とする説があるようだが、こうしたプランは公式のものではなく、海軍の実用機試製計画にも取り上げられていない。
実用機試製計画「K-100」が与えられていたのは、護改双發の十七試陸上攻撃機だった。
「活躍」
大型高速で充分な防御火器を装備した本機は聯合國パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機體と呼ばれた(英國航空評論家ウィリアム・グリーン)。
制式採用直後の1942年(昭和17年)3月4日には、大航続力を生かして3機で真珠灣を再空襲した(K作戰)。
だが3月7日のミッドウェー島長距離偵察で、K作戰大艇隊指揮官橋爪寿雄大尉機が米軍戰斗機の迎撃で撃墜され、二式大艇最初の戰斗喪失機となった。
ミッドウェー作戰では本機が長距離偵察を行う計画であったが、米軍の妨害や天候のため実施されなかった。
その後も高速と航続力を生かしてエスピリッツサント島や濠太剌利本土、セイロン島、カルカッタといった長距離の偵察・爆撃に活躍した。
ソロモン諸島方面に投入された第八〇二航空隊の本機は、水上機母艦「秋津洲」の支援を受けて活動している。
1943年11月には、亜米利加軍のP-38ライトニング双發戰斗機3機と40分交戰した玉利義男大尉機が1機を撃退し、自機もエンジン2基停止と230箇所被弾、乗員1名負傷という状態で歸還、その後日本本土に戻された。
さらに1944年以降は、既に前線においては有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍多發機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに聯合軍にとって危険な相手だった。
B-25ミッチェルやB-17といった亜米利加軍の大型陸上機を積極的に追撃して撃墜した記録もある。
その攻撃力から「空の戰艦」などとも呼ばれた。
このように頑丈な本機であったが、1945年に入ると太平洋戰線においては聯合國軍に對して戰況が悪化して制空権が奪われ、敵戰斗機の攻撃が増えると足の遅さに加え重防御も耐え切れず、消耗していった。
機體を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま聯合國軍機の空襲で破壊されたものもあった。
さらに川西航空機の生産力が局地戰斗機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産であった。
製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされる。
また1945年3月の第二次丹作戰(銀河による長距離特攻作戰)に代表される長距離の索敵・誘導任務、トラックやラバウルといった孤立した基地への強行輸送・搭乗員救出などを行ったこともあって、成果を挙げると同時に損害も出している。
補充も望めない中、第五航空艦隊(宇垣纏司令長官)所属の二式大艇はレーダーを搭載して夜間索敵に活躍したが、亜米利加軍や英吉利軍らの夜間戰斗機・哨戒機の迎撃により少なからず被害を出している。
例えば前述の丹作戰・梓隊で特攻機を誘導した二式大艇3機のうち、生田中尉機は生還、杉田中尉機はPB4Y-2(B-24の哨戒機型)に撃墜され、長峯飛行兵曹長機はメレヨン島に不時着して水没処理され搭乗員は潜水艦で歸投した。
五航艦の二式大艇隊は、2月10日から終戰まで27機・約250名を失った。
終戰時に完全な状態で残っていたのは二式大艇5機、晴空6機のわずか11機であり、うち8機は終戰から数日で処分、もしくは移動中の事故で失われたため、進駐してきた聯合國軍から機體の引き渡しが通達されたときは詫間基地に残された3機を残すのみとなっていた。
また、海軍甲事件で戰死した山本五十六のあとを継いで聯合艦隊司令長官となった古賀峯一海軍大将が移動中に遭難し殉職した時には二式飛行艇の輸送機型「晴空」に乗っていた(海軍乙事件)。
古賀長官の1番機は燃料7割、福留繁聯合艦隊参謀長の2番機は燃料8割の時点で空襲警報があったため離陸、熱帯低氣圧に遭遇して墜落したのである。
なお、空襲警報は誤報であった。
通信科・暗號・氣象關係員が搭乗した3番機は無事に到着した。
「諸元」
正式名称       二式飛行艇一二型
略符號         H8K2
全幅           38.00m
全長           28.13m
全高           9.15m
翼面積         160m²
自重           18,400kg
正規全備重量     24,500kg
最大重量        32,500kg
發動機         三菱火星22型(離昇1,850馬力)
最高速度       465km/h(高度5,000m)
一一型433km/h
一二型470km
航続距離        7,153km(偵察過荷)
一二型8223km(同)
武装           20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門(3門は予備)
爆装           爆弾最大2t(60kg×16または250kg×8または800kg×2)
または航空魚雷×2
乗員          10 - 13名
「設計主務者について」
設計主務者である菊原静男技師は、その後海軍局地戰斗機「紫電」「紫電改」の設計を担當。
終戰後、川西航空機の後身である新明和工業で、再度國産飛行艇PS-1の制作に携わった。
(ウィキペディア参照。)

易々と死んでもらう訳にはいかないのでありました。

2020-12-29
東条元首相逮捕の顛末
1945年(昭和20年)9月11日:戦犯として逮捕される直前に拳銃自殺を図るも未遂に終わった東条英機・元陸軍大臣および参謀総長。
自殺を予測していたアメリカ軍はあらかじめ救急車を用意しておくという用意周到さで、
銃声が聞こえると一斉に踏み込んで治療を施し、
東條氏は奇跡的に九死に一生を得ることとなります。
後に東京裁判でA級戦犯として起訴され、
絞首刑が執行されています。 

闘いの転機

無理を重ねた挙句の結果は、不戦沈没でした。

2021-01-21
信濃もえっちらと作成 未だ軍艦旗掲揚前の艤装中の在りし日の信濃イメージ
Facebook森 一理さんより
基準排水量62,000英トン
公試排水量68,059トン
または68,060トン、69,100トン
満載排水量71,890トン
全長266.0m(艦首より後部機銃フラット後端まで
水線長256.0m
垂線間長244m
最大幅38.90m(水線下)または38.0m
水線幅36.30mまたは36.9m
深さ18.915m
24.81m(飛行甲板側線まで)
飛行甲板256.00 x 40.00m、または256.000x39.400m
エレベーター2基
吃水10.312m
10.3m(T.W.L)、10.4m(1.W.L.)
ボイラーロ号艦本式缶(空気余熱器付)12基
主機艦本式タービン(高低圧2組)4基
推進4軸x 225rpm、直径5.100m
出力150,000hp
または160,000shp
速力27.0ノット(予定) または 27.3ノット
燃料8,900トン(満載) または 9,000トン または7,350トン
航続距離10,000カイリ / 18ノット
乗員2,400名
1944年10月1日付定員 2,515人
兵装12.7cm連装高角砲8基16門
25mm3連装機銃 37基または35基
同単装機銃40基
12cm28連装噴進砲12基(後日装備)
装甲飛行甲板 20mmDS+75mmCNC鋼
舷側 160-270mmNVNC鋼(傾斜20度)
甲板 190mmNVNC鋼
軽質油タンク舷側25mmDS鋼2枚、

同甲板25mmDS+70mm鋼
レーダー21号電探2基
13号電探2基

:元帥ということ

2021-01-21
画像は、元帥徽章。
Facebook英霊の本日の出来事より

明治31年1月19日の本日、元帥府が設置されました。
明治31年1月19日元帥府設置ノ詔
朕中興ノ盛運ニ膺リ開國ノ規模ヲ定メ祖宗ノ偉業ヲ紹述シ臣民ノ幸福ヲ増進シ以テ國家ノ隆昌ヲ圖ラントス茲ニ朕カ軍務ヲ輔翼セシムル爲メ特ニ元帥府ヲ設ケ陸海軍大將ノ中ニ於テ老功卓拔ナル者ヲ簡選シ朕カ軍務ノ顧問タラシメントス其所掌ノ事項ハ朕カ別ニ定ムル所ニ依ラシム
御名御璽
明治三十一年一月十九日
内閣總理大臣侯爵伊藤博文
條例全文
第一條 元帥府ニ列セラルル陸海軍大将ニハ特ニ元帥ノ称號ヲ賜フ
第二條 元帥府ハ軍事上ニ於テ最高顧問トス
第三條 元帥ハ勅ヲ奉シ陸海軍ノ検閲ヲ行フコトアルヘシ
第四條 元帥ニハ別ニ定ムル所ニ依リ元帥佩刀及元帥徽章ヲ賜フ
第五條 元帥ニハ副官トシテ佐尉官各一人ヲ附属セシム
(明治31年勅令第5號制定・大正7年勅令第330號改正)
(ウィキペディア参照。)

浅間丸事件

2021-01-21
Facebook英霊の本日の出来事より

昭和15年1月21日の本日、浅間丸事件が起きました。
昭和15年1月21日、房総半島野崎岬沖40キロの太平洋(公海)上で、英吉利海軍軍艦が日本郵船所属の客船「浅間丸」に對して、独逸人乗客中の戰時禁制人の發見のために行った臨検と、臨検により独逸人男性21人が戰時捕虜の名目で逮捕聯行されたこと。
及び、日英の外交交渉により独逸人船客9名が開放されるまでの一聯の國際的事件。
「背景」
昭和14年9月3日に英仏が第二次欧州大戰に於いて独逸に宣戰を布告し、9月4日には英吉利客船が独逸潜水艦に無警告で撃沈され多くの乗客が犠牲になるなど開戰當初より大西洋では熾烈な戰斗が繰り広げられました。
強力な海軍力を持つ英國は独逸商船隊を全世界の公海上で制圧して行動不能にし、自沈や中立國での係船を余儀なくするにいたらせた。 
併し、日本や亜米利加合衆國は昭和16年12月まで第二次欧州大戰には参加せず、また太平洋で独逸海軍による戰斗は發生しなかったことから、太平洋を挟んだ日米間では商船會社による定期運航が、戰爭當事國に関係する物資や人員の輸送に制約をもうけながらも平穏に行われていました。
「臨検と拉致」
英独開戰後、英國海軍省と日本各商船會社の間では戰時禁制となる人や物の輸送中止の紳士協定が結ばれていました。
併し、日本大使館の強い要請により日本郵船の「浅間丸」船長らは、ニュー・ジャージー州メイ岬沖で英國駆逐艦の追跡のため自沈した、独逸客船コロンブスの船員など51人を乗客に加え、昭和14年12月に桑港よりホノルルを経由して横浜港に向けて出航しました。
ところが、浅間丸は昭和15年1月21日に、千葉縣房総半島沖の公海上(東経140度31分、北緯34度34分)で英吉利海軍の軽巡洋艦「リヴァプール」より空砲で停船を命じられ臨検を強制されました。 
臨検は士官3名と武装水兵9名により行われ、独逸人乗客51名のみが1等サロンに集合させられ、英軍が所持する名簿と照会の上「國際公法上の権利」として51名の聯行を通告した。
船長は當初拒絶したが、文字通り砲口を向ける英吉利軍艦の前で、ヘルマン・グロース船長など戰時禁制人と看做された21名の民間人男性乗客を「戰時捕虜」の名目で船内より逮捕聯行を認めた。
「事件後」
この事件で、1月16日に成立したばかりの米内光政(首相・予備役海軍大将)率いる米内内閣はいきなり難題を背負う事になった。
英吉利海軍側の「浅間丸」に対する公海上に於ける臨検と独逸人乗客に對する措置は、戰時國際法上適切なものであった。
これに對し、日本政府は明治42年の倫敦宣言47條「中立國船上から拉致できる者は既に軍籍にある交戰國人に限る」を原則としており、ロバート・クレーギー駐日英吉利特命全権大使を外務省に招致して正式に抗議した。
日本のマスコミ(各新聞)と國民も「帝國の面目に泥を塗った」などと一斉に英吉利海軍を非難したほか、友邦の独逸人を「無抵抗で引き渡した」船長・渡部喜貞に對しても激烈な批判を行った。
写真週報では「浅間丸独逸船客拉致事件」というタイトルをつけ、報知新聞は「國民の感情を無視するな」と訴えている。
だが21人の独逸人引渡しを拒んだ場合は、それが「浅間丸」の敵對行動とみなされた場合は、船體は拿捕の對象となり、乗客全員も一時的とはいえ抑留される危険をはらんでいた。
日本海軍首脳は、英吉利海軍の行動に関して自軍も同様の行動をとりうるとして特に問題とは考えず、船長の判断も妥當との認識であった(但し日本郵船は世論に考慮して1月24日には船長を交代させている)。
問題は戰時禁制人(軍属や徴兵可能な人間)をどこまで認めるかが焦点であった。
この点を米内光政内閣の有田八郎外務大臣はクレーギー大使を通じて英吉利政府に對して交渉を行い、英吉利政府もハリファックス外相を通じて行き過ぎがあったことを認める。
2月5日に以下の公式發表があった。
1.日本政府は、英艦の行為は遺憾とする英國政府の表明を了承する。
2.英國政府は、比較的に兵役勤務が難しい9名の解放に応じるが、12名の引渡し権利は放棄しない。
3.日英両政府は、この種の事件の再發防止に努める。
日本政府は、交戰國軍人(疑いある者含む)の乗船引受けを禁止する。
政治的解決を受けて、同年2月29日に9人が横浜の独逸領事館前で解放された。この事件は、當時関係が懸念された日本と英吉利の國際問題に發展したのみならず、國内では米内内閣を米英に對する「弱腰」とみなし日独伊三國同盟締結への材料の一つに使用された。
宇垣一成は1月26日の日記に、類似の事件を日本は沿岸封鎖中の香港やハイフォンの沖で起こしていることを指摘して、沸騰する日本の世論について恥の上塗りをしないような注意が必要だと書き残している。
(ウィキペディア参照。)

首相暗殺 2題

2021-01-18
Facebook亀山 紘さんより
東京駅には総理大臣の暗殺現場が2つある。
かつて日本では総理大臣が一般市民の前で暗殺・襲撃された事がある。
その舞台となったのが東京駅で、今でも暗殺の現場と分かる場所が2ヵ所ある。
通勤や観光など東京駅を利用する時、誰でも見られる場所にその痕跡が残されている。
1つ目は現在の東京駅の丸の内南口で、
1921年(大正10年)11月4日に当時の首相だった原敬(はら たかし、1856~1921年)が
当時の山手線大塚駅の駅員であった中岡良一により刺殺された。
原首相は短刀で右胸を刺され、その傷は右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態だったという。
現在、東京駅のその場所には原首相遭難現場のプレートと床面には円の内部に六角形という形をした印が埋め込まれている。
もう1つの場所は、東京駅丸の内中央口から入った所にある中央通路の階段手前であり、こちらも床面に印が埋め込まれている。1930年(昭和5年)11月14日、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた濱口雄幸(はまぐち おさち、1870~1931年)が銃撃された。
床面に埋め込まれた印の真上が現在の10番線乗り場・東海道本線のホームで、当時は特急つばめで濱口首相は神戸に行く予定だったが、そこをホームで愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から撃たれた。
銃撃された首相は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていたが、弾丸は骨盤を砕いていた。その後、東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた。しかし、その翌年にこの怪我がもとで死去した。このように東京駅には戦前の激動の中で起きた2つの暗殺現場が残されている。

首相暗殺

2021-01-18
台湾の統治について
Facebook畠山 紘さんより



100年前・・・東京駅で原敬は暗殺されました。
台湾統治初期の政策・…後藤新平と原敬
1898年(明治31年)、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚だった後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。
また、1902年(明治35年)末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義を採用することとなった。
日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していた。
第1が後藤新平などに代表される特別統治主義である。これは英国政府の植民地政策(=イギリス帝国)を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものである。
当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は生物学の観点から、文化・文明的に立ち遅れている植民地の急な同化は困難であると考えていた。
後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針を採った。
これに対し原敬などは、台湾を内地の一部とし、内地法を適用する『内地延長主義』を提唱した。フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能であると主張した。
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