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闘いの歴史

闘いの記録

帝国の崩壊

2020-10-03
ハプスブルク家帝国消滅
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1918年(t7)】
◎ハプスブルク家帝国消滅
*1918.11.13/ オーストリア皇帝カール1世退位。ハプスブルク家帝国崩壊。
 マルクス=エンゲルスによる『共産党宣言』は、「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という妖怪が」として始まる。そして「旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪にたいする神聖な討伐の同盟をむすんでいる」と続けられる。その「神聖な討伐の同盟」の一端を担っていたのが、「神聖ローマ帝国」を継承する「オーストリア=ハンガリー帝国」であり、その最後の皇帝「カール1世」が、第一次大戦の敗戦を受け退位した。
 ここに、中世以来、「ヨーロッパに徘徊した」ハプスブルグ家宗家の帝位は消滅した。ハプスブルク家はスイス地方の一諸侯に過ぎなかったが、ルードルフ1世が神聖ローマ帝国の君主に選出されることで、ヨーロッパにおける権威を継承した。神聖ローマ帝国は、古代ローマ帝国の皇位を継承する正統性を称え、ヨーロッパの名誉盟主的な立場であった。
 ヨーロッパ王朝の多くが、強大な武力で国家を築き支配することで、王朝を成立させてきたが、ハプスブルグ家にはそういうイメージが希薄で、まさしく「ヨーロッパに徘徊する妖怪」のごとく、婚姻関係で血族を広げることで、その勢力を拡大していった。皇帝カール5世のときに、スペインはじめ多くのヨーロッパに領地を広げ、その弟フェルディナント1世が神聖ローマ帝国を継承し、その子フェリペ2世がスペイン皇帝を受け継いだ。
 大航海時代に新世界に乗出したスペインは、フェリペ2世がポルトガル王も兼ねて、南米の植民地を拡大し「日の沈まぬ帝国」を築いた。しかし、「アルマダの海戦」で無敵艦隊がイギリスに破れたのを契機に、その勢力は下降をたどった。さらにオーストリア・ハプスブルグ家との繰り返された近親婚で、子孫に病弱者が相次ぎ、虚弱なカルロス2世で後継者が絶え、フランス・ブルボン家のルイ14世が、孫をフェリペ5世として引き継がせたため、「スペイン系ハプスブルク家(アブスブルゴ家)」は断絶した。
 「オーストリア系ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)」は、その後、新興のプロシアの圧力などを受け、一時、ハプスブルク家の権威の根拠であった神聖ローマ帝国の帝位を失うなどしたが、マリア・テレジアの時に帝位を奪回した。マリア・テレジアもまた、ハプスブルグ家の専売特許とも言える婚姻政策を展開し、プロシアに対抗するためににフランスに接近、娘のマリー・アントアネットを仏ブルボン家ルイ16世に嫁がせたのも、その一貫であった。
 19世紀初頭、神聖ローマ帝国は、フランス皇帝ナポレオン1世の攻勢の前に解体し、ハプスブルク家のフランツ2世は1806年に退位するが、オーストリア皇帝フランツ1世としては継続しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続する。そして、ナポレオン戦争終焉後のウィーン会議では、旧体制護持の神聖同盟の中核としてふるまった。
 以後、何度もの戦争に敗れ、国力を低下させる中、オーストリア=ハンガリー帝国へ再編された。しかし多民族国家としての地域を抱える帝国は、民族対立の下で、1914年、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されるサラエボ事件が発生し、それが第一次大戦を勃発させることになった。戦争では形勢不利の中、いくつもの民族が分離独立してゆき、オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国は1918年に崩壊した。
参考書籍『ハプスブルク家の女たち』 (講談社現代新書/江村洋著/1993年) http://nagisa20080402.blog27.fc2.com/blog-entry-253.html
映画『マリー・アントワネット』(2007年/米/ソフィア・コッポラ)音楽の選曲はよかったが・・・ http://eiga.com/movie/28927/
(この年の出来事) 
*1918.1.8/ ウィルソン米大統領が、議会で「平和のための14ヵ条」をしめし、第一次大戦の終結を提唱。
*1918.5.1/ ゼネラル・モータース社(GM)がシボレー社を合併、フォード社に対抗してシェアを一気に高める。
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
*1918.11.3/ キール軍港で水平が反乱を起こす。それをきっかけに、ドイツ各地に労兵協議会成立。続いてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ革命が成立する。
*1918.11.11/ ドイツ政府が連合国との休戦条約に調印、第一次世界大戦が終わる。

暁に祈る事件

2020-10-03
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 40's / 1949年(s24)』
(暁に祈る事件)
○3.15 [ウランバートル] モンゴルのウランバートルにある日本人捕虜収容所で、ソ連人に迎合した自称吉村隊長(池田重喜)が同胞を酷使・虐殺したリンチ事件が、朝日新聞で報道される。
 第二次大戦終結後、ソ連軍のモンゴル・ウランバートルの収容所において、抑留されていた日本人捕虜の間で引き起こされた組織的リンチ事件。ソ連軍から日本人捕虜の隊長に任じられた池田重善元曹長は、労働ノルマを果たせなかった隊員などにリンチを加え、多数の隊員を死亡させていたとされる。暴行のあと裸にして一晩中木に縛り付けておくと、明け方には失神したり息が絶えたりして、首をうなだれている姿が祈りを捧げているように見え、仲間の隊員たちは「暁に祈る」と呼んだという。池田は収容所内で吉村久佳の変名を名乗っていたため、「吉村隊事件」とも呼ばれる。
 この事件は抑留から帰国後の1949年3月に、朝日新聞がスクープしたことから世間に知られることになり、池田元曹長は逮捕起訴され、懲役3年の有罪となった。物証など無く元捕虜の証言だけに基づき下された判決のため、池田は無罪だとして再審の申し立てを行ったが、請求は棄却されたまま1988年に亡くなった。
 各地の収容所では、多かれ少なかれ似たような事件があったようである。ソ連軍の収容所では、指示に従わせるために赤化(共産主義化)教育して、思想に忠実な者を日本人捕虜のリーダーに抜擢する。リーダーになったり帰還を早めたいため、積極的に思想を学んだり、それに染まった振りをしてリーダーの立場を得ようとする者もいたようだ。そのような者にかぎって、同胞の抑留者に対しては権力を振るうことになる。
 抑留から帰還の船の中では、抑留中のリーダーに対して、仕返しの逆リンチなどもあったと言われる。戦争の悲惨に加えて、その後にも多くの悲惨を生んだということである。
*この年
アメリカンファッション全盛/ビアホール復活
【事物】成人学校/香料入り広告/お年玉付年賀ハガキ/JISマーク
【流行語】厳粛な事実(労農党代議士松谷天光光と民主党代議士園田直の結婚)/ノルマ/ワンマン
【歌】銀座カンカン娘(高峰秀子)/悲しき口笛(美空ひばり)
【映画】晩春(小津安二郎)/野良犬(黒沢明)/戦火のかなた(伊)
【本】日本戦没学生手記編纂委員会「きけわだつみのこえ」/三島由紀夫「仮面の告白」/チャーチル「第2次大戦回顧録」

軍靴の足音・・・

2020-10-03
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1918年(t7)
◎初の本格的政党内閣 政友会原敬首相が誕生
*1918.9.29/ 初の政党内閣、政友会原敬首相が誕生。「平民宰相」と呼ばれる。
 米騒動で寺内内閣が退陣すると、元老たちはもはや官僚内閣では世論の支持を得ることができないと考え、衆議院の第一党である立憲政友会総裁の「原敬」を後継の首相に推薦し、1918(大7)年9月29日、原内閣が成立した。原は爵位をもたず、藩閥政治家でもなく、最初の衆議院に議席をおく内閣総理大臣だったので、平民宰相と呼ばれた。しかも原内閣は、大半の全閣僚が立憲政友会会員からなる本格的「政党内閣」だったので、国民から歓迎された。
 原敬首相は世論の追い風をうけて、指導力を発揮して党内の統制をはかり、教育施設の拡充・交通機関の整備・産業の振興・国防の充実という積極政策を推進した。さらに、1919(大8)年、選挙法を改正、選挙資格を直接国税3円以上にまで広げ、大選挙区制から小選挙区制に改め、翌年の総選挙で立憲政友会は衆議院の圧倒的多数の議席を制した。
 「平民宰相」は原の代名詞ともなって国民から人気を集めたが、実はかつて、爵位授与を何度も得ようと動いた痕跡もある。しかし明治から大正になり時代の風潮も変ると、原自身が「平民政治家」であることを意識するようになり、政友会幹部として自信を深めるにつれて、爵位辞退を一貫して表明するようになったとのことである。
 しかし、1920(大9)年の恐慌によって原内閣の積極政策は行き詰まった。そして、政友会の党勢拡張により、利権をめぐって汚職事件が発生するなど、多数党の腐敗と横暴を非難する声が盛んになり、納税資格を撤廃した「普通選挙」(男性のみ)の実現を要求する運動がしだいに活発になった。
 議会では、護憲運動の闘士 尾崎行雄や犬養毅らが普選実施を政府に迫り、普選実施の主張は野党である憲政会や国民党のスローガンにも取り入れられていった。しかし、原首相と立憲政友会は、すぐに普通選挙を実施するのは時期尚早であるとして反対、社会運動にも冷淡な態度をとったため、原の平民宰相というイメージを損なわれていった。
 1921(大10)年11月4日、原敬は、関西に向かうため東京駅に到着した直後、国鉄の転轍手に襲われ、ほぼ即死する(原敬暗殺事件)。犯人によると、原首相が政商や財閥中心の政治を行い一連の疑獄事件が起きたと考え、普通選挙法に反対したことなど、反動的な政治家と見なしたのが原因だという。
 なお、選挙結果をへた衆議院第一党の党首が内閣総理大臣に指名されるのは、1924(大13)年の憲政会の「加藤高明」内閣からである。実際には選挙結果をみて元老西園寺公望が指名したのであり、憲法で議院内閣制が規定されてはいないが、以降は「憲政の常道」として、慣行的に議院内閣制が行われた。加藤は内閣を組織すると、選挙公約であった「普通選挙法」を成立させた。
(この年の出来事) 
*1918.1.8/ ウィルソン米大統領が、議会で「平和のための14ヵ条」をしめし、第一次大戦の終結を提唱。
*1918.5.1/ ゼネラル・モータース社(GM)がシボレー社を合併、フォード社に対抗してシェアを一気に高める。
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
*1918.11.3/ キール軍港で水平が反乱を起こす。それをきっかけに、ドイツ各地に労兵協議会成立。続いてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ革命が成立する。
*1918.11.11/ ドイツ政府が連合国との休戦条約に調印、第一次世界大戦が終わる。

ジミー・ドゥリットル

2020-09-30
日本本土に爆弾落っことして、中国大陸まで飛んでった人だけれど、その後ヨーロッパで第八空軍の司令官やってます。
ロッキードの「高価過ぎる戦闘機」で形作った戦爆連合を「より安価でより優れた戦闘機」で完成させた御仁

75年経ち、建物は風化が進んでいます。

2020-09-30
只今、修復・現況保全中です。
その惨禍は、絶対繰り返してはなりません!

闘いの転機

無理を重ねた挙句の結果は、不戦沈没でした。

2021-01-21
信濃もえっちらと作成 未だ軍艦旗掲揚前の艤装中の在りし日の信濃イメージ
Facebook森 一理さんより
基準排水量62,000英トン
公試排水量68,059トン
または68,060トン、69,100トン
満載排水量71,890トン
全長266.0m(艦首より後部機銃フラット後端まで
水線長256.0m
垂線間長244m
最大幅38.90m(水線下)または38.0m
水線幅36.30mまたは36.9m
深さ18.915m
24.81m(飛行甲板側線まで)
飛行甲板256.00 x 40.00m、または256.000x39.400m
エレベーター2基
吃水10.312m
10.3m(T.W.L)、10.4m(1.W.L.)
ボイラーロ号艦本式缶(空気余熱器付)12基
主機艦本式タービン(高低圧2組)4基
推進4軸x 225rpm、直径5.100m
出力150,000hp
または160,000shp
速力27.0ノット(予定) または 27.3ノット
燃料8,900トン(満載) または 9,000トン または7,350トン
航続距離10,000カイリ / 18ノット
乗員2,400名
1944年10月1日付定員 2,515人
兵装12.7cm連装高角砲8基16門
25mm3連装機銃 37基または35基
同単装機銃40基
12cm28連装噴進砲12基(後日装備)
装甲飛行甲板 20mmDS+75mmCNC鋼
舷側 160-270mmNVNC鋼(傾斜20度)
甲板 190mmNVNC鋼
軽質油タンク舷側25mmDS鋼2枚、

同甲板25mmDS+70mm鋼
レーダー21号電探2基
13号電探2基

:元帥ということ

2021-01-21
画像は、元帥徽章。
Facebook英霊の本日の出来事より

明治31年1月19日の本日、元帥府が設置されました。
明治31年1月19日元帥府設置ノ詔
朕中興ノ盛運ニ膺リ開國ノ規模ヲ定メ祖宗ノ偉業ヲ紹述シ臣民ノ幸福ヲ増進シ以テ國家ノ隆昌ヲ圖ラントス茲ニ朕カ軍務ヲ輔翼セシムル爲メ特ニ元帥府ヲ設ケ陸海軍大將ノ中ニ於テ老功卓拔ナル者ヲ簡選シ朕カ軍務ノ顧問タラシメントス其所掌ノ事項ハ朕カ別ニ定ムル所ニ依ラシム
御名御璽
明治三十一年一月十九日
内閣總理大臣侯爵伊藤博文
條例全文
第一條 元帥府ニ列セラルル陸海軍大将ニハ特ニ元帥ノ称號ヲ賜フ
第二條 元帥府ハ軍事上ニ於テ最高顧問トス
第三條 元帥ハ勅ヲ奉シ陸海軍ノ検閲ヲ行フコトアルヘシ
第四條 元帥ニハ別ニ定ムル所ニ依リ元帥佩刀及元帥徽章ヲ賜フ
第五條 元帥ニハ副官トシテ佐尉官各一人ヲ附属セシム
(明治31年勅令第5號制定・大正7年勅令第330號改正)
(ウィキペディア参照。)

浅間丸事件

2021-01-21
Facebook英霊の本日の出来事より

昭和15年1月21日の本日、浅間丸事件が起きました。
昭和15年1月21日、房総半島野崎岬沖40キロの太平洋(公海)上で、英吉利海軍軍艦が日本郵船所属の客船「浅間丸」に對して、独逸人乗客中の戰時禁制人の發見のために行った臨検と、臨検により独逸人男性21人が戰時捕虜の名目で逮捕聯行されたこと。
及び、日英の外交交渉により独逸人船客9名が開放されるまでの一聯の國際的事件。
「背景」
昭和14年9月3日に英仏が第二次欧州大戰に於いて独逸に宣戰を布告し、9月4日には英吉利客船が独逸潜水艦に無警告で撃沈され多くの乗客が犠牲になるなど開戰當初より大西洋では熾烈な戰斗が繰り広げられました。
強力な海軍力を持つ英國は独逸商船隊を全世界の公海上で制圧して行動不能にし、自沈や中立國での係船を余儀なくするにいたらせた。 
併し、日本や亜米利加合衆國は昭和16年12月まで第二次欧州大戰には参加せず、また太平洋で独逸海軍による戰斗は發生しなかったことから、太平洋を挟んだ日米間では商船會社による定期運航が、戰爭當事國に関係する物資や人員の輸送に制約をもうけながらも平穏に行われていました。
「臨検と拉致」
英独開戰後、英國海軍省と日本各商船會社の間では戰時禁制となる人や物の輸送中止の紳士協定が結ばれていました。
併し、日本大使館の強い要請により日本郵船の「浅間丸」船長らは、ニュー・ジャージー州メイ岬沖で英國駆逐艦の追跡のため自沈した、独逸客船コロンブスの船員など51人を乗客に加え、昭和14年12月に桑港よりホノルルを経由して横浜港に向けて出航しました。
ところが、浅間丸は昭和15年1月21日に、千葉縣房総半島沖の公海上(東経140度31分、北緯34度34分)で英吉利海軍の軽巡洋艦「リヴァプール」より空砲で停船を命じられ臨検を強制されました。 
臨検は士官3名と武装水兵9名により行われ、独逸人乗客51名のみが1等サロンに集合させられ、英軍が所持する名簿と照会の上「國際公法上の権利」として51名の聯行を通告した。
船長は當初拒絶したが、文字通り砲口を向ける英吉利軍艦の前で、ヘルマン・グロース船長など戰時禁制人と看做された21名の民間人男性乗客を「戰時捕虜」の名目で船内より逮捕聯行を認めた。
「事件後」
この事件で、1月16日に成立したばかりの米内光政(首相・予備役海軍大将)率いる米内内閣はいきなり難題を背負う事になった。
英吉利海軍側の「浅間丸」に対する公海上に於ける臨検と独逸人乗客に對する措置は、戰時國際法上適切なものであった。
これに對し、日本政府は明治42年の倫敦宣言47條「中立國船上から拉致できる者は既に軍籍にある交戰國人に限る」を原則としており、ロバート・クレーギー駐日英吉利特命全権大使を外務省に招致して正式に抗議した。
日本のマスコミ(各新聞)と國民も「帝國の面目に泥を塗った」などと一斉に英吉利海軍を非難したほか、友邦の独逸人を「無抵抗で引き渡した」船長・渡部喜貞に對しても激烈な批判を行った。
写真週報では「浅間丸独逸船客拉致事件」というタイトルをつけ、報知新聞は「國民の感情を無視するな」と訴えている。
だが21人の独逸人引渡しを拒んだ場合は、それが「浅間丸」の敵對行動とみなされた場合は、船體は拿捕の對象となり、乗客全員も一時的とはいえ抑留される危険をはらんでいた。
日本海軍首脳は、英吉利海軍の行動に関して自軍も同様の行動をとりうるとして特に問題とは考えず、船長の判断も妥當との認識であった(但し日本郵船は世論に考慮して1月24日には船長を交代させている)。
問題は戰時禁制人(軍属や徴兵可能な人間)をどこまで認めるかが焦点であった。
この点を米内光政内閣の有田八郎外務大臣はクレーギー大使を通じて英吉利政府に對して交渉を行い、英吉利政府もハリファックス外相を通じて行き過ぎがあったことを認める。
2月5日に以下の公式發表があった。
1.日本政府は、英艦の行為は遺憾とする英國政府の表明を了承する。
2.英國政府は、比較的に兵役勤務が難しい9名の解放に応じるが、12名の引渡し権利は放棄しない。
3.日英両政府は、この種の事件の再發防止に努める。
日本政府は、交戰國軍人(疑いある者含む)の乗船引受けを禁止する。
政治的解決を受けて、同年2月29日に9人が横浜の独逸領事館前で解放された。この事件は、當時関係が懸念された日本と英吉利の國際問題に發展したのみならず、國内では米内内閣を米英に對する「弱腰」とみなし日独伊三國同盟締結への材料の一つに使用された。
宇垣一成は1月26日の日記に、類似の事件を日本は沿岸封鎖中の香港やハイフォンの沖で起こしていることを指摘して、沸騰する日本の世論について恥の上塗りをしないような注意が必要だと書き残している。
(ウィキペディア参照。)

首相暗殺 2題

2021-01-18
Facebook亀山 紘さんより
東京駅には総理大臣の暗殺現場が2つある。
かつて日本では総理大臣が一般市民の前で暗殺・襲撃された事がある。
その舞台となったのが東京駅で、今でも暗殺の現場と分かる場所が2ヵ所ある。
通勤や観光など東京駅を利用する時、誰でも見られる場所にその痕跡が残されている。
1つ目は現在の東京駅の丸の内南口で、
1921年(大正10年)11月4日に当時の首相だった原敬(はら たかし、1856~1921年)が
当時の山手線大塚駅の駅員であった中岡良一により刺殺された。
原首相は短刀で右胸を刺され、その傷は右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態だったという。
現在、東京駅のその場所には原首相遭難現場のプレートと床面には円の内部に六角形という形をした印が埋め込まれている。
もう1つの場所は、東京駅丸の内中央口から入った所にある中央通路の階段手前であり、こちらも床面に印が埋め込まれている。1930年(昭和5年)11月14日、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた濱口雄幸(はまぐち おさち、1870~1931年)が銃撃された。
床面に埋め込まれた印の真上が現在の10番線乗り場・東海道本線のホームで、当時は特急つばめで濱口首相は神戸に行く予定だったが、そこをホームで愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から撃たれた。
銃撃された首相は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていたが、弾丸は骨盤を砕いていた。その後、東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた。しかし、その翌年にこの怪我がもとで死去した。このように東京駅には戦前の激動の中で起きた2つの暗殺現場が残されている。

首相暗殺

2021-01-18
台湾の統治について
Facebook畠山 紘さんより



100年前・・・東京駅で原敬は暗殺されました。
台湾統治初期の政策・…後藤新平と原敬
1898年(明治31年)、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚だった後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。
また、1902年(明治35年)末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義を採用することとなった。
日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していた。
第1が後藤新平などに代表される特別統治主義である。これは英国政府の植民地政策(=イギリス帝国)を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものである。
当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は生物学の観点から、文化・文明的に立ち遅れている植民地の急な同化は困難であると考えていた。
後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針を採った。
これに対し原敬などは、台湾を内地の一部とし、内地法を適用する『内地延長主義』を提唱した。フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能であると主張した。
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