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闘いの歴史

闘いの記録

戦国の終わりと泰平の始まり

2021-02-18
Facebook佐々木信雄さんより
【17th Century Chronicle 1611-1615年】
◎大坂冬・夏の陣(豊臣氏滅亡)
*1611.3.28/ 豊臣秀頼が上洛し、二条城で大御所家康と会見する。
*1611.11.-/ 豊臣家の威信をかけた方広寺の大仏殿が完成する。
*1614.7.26/ 大御所家康が京都方広寺大仏開眼供養を目前にして、鐘楼の銅鐘に刻まれた「国家安康」という銘文に異議をとなえる。(鐘銘事件)
*1614.11.15/ 20万の徳川軍が大阪城攻撃に出陣し、大坂を包囲する。(大坂冬の陣)
*1615.4.4/ 京都所司代から豊臣方再挙計画を聞いた家康は、大阪攻めのたに駿府を出、再度の大坂征討の命を諸大名に下す。
*1615.5.8/ 徳川方が大阪城を総攻撃、豊臣秀頼とその母淀君が自害し、豊臣氏が滅亡する。(大坂夏の陣)
 1600(慶長)5年、徳川家康は関ヶ原の戦いに東軍の将として西軍に圧勝したが、この戦いは必ずしも豊臣対徳川という構図で戦われたものではなかった。秀吉のもとで五大老筆頭として実力を蓄えた家康に対して、文治派官僚の筆頭であった石田三成が、他の大老や奉行を引き込んで対抗しようとしたものであり、いわば豊臣政権内での主導権争いであった。
 したがって、事実上の実権は掌握した家康であるが、公的には豊臣政権に代わって徳川の政権を樹立したとは認証されない。現に、65万石にまで領地を削られたとはいえ、大坂城には秀吉の嫡子秀頼が幼少ではあるが豊臣当主として、淀君の後見のもとで健在であり、合戦で東軍についた豊臣恩顧の武将や、戦いに加わらなかった秀吉の遺臣などが、依然として隠然たる勢力を保持していた。秀頼元服の節には、家康が政権を豊臣に返上するとの期待も、まだ残っていたのである。
 1603(慶長8)年2月、家康は完成したばかりの京都二条城で征夷大将軍に就任すると、諸大名に命じて江戸城などの天下普請事業を担わさせ、その威光を知らしめすとともに、戦後の論功行賞を行い、大名の転封を実施して、安定した政権作りを始める。そして同年、継嗣秀忠の娘千姫を豊臣秀頼に嫁がせて懐柔をはかるとともに、1605(慶長10)年には、わずか2年で将軍を辞して秀忠に将軍職を譲る。
 これにより将軍職は、以後、徳川氏が世襲していくことを天下に示し、豊臣の世には戻らないことを知らしめた。秀忠の将軍就任時には、秀吉の正妻北政所(高台院)を通じて豊臣秀頼に上洛を求め、臣下の礼を取ることを求めたが、秀頼と淀君はこれを拒絶する。しかしここは、家康は事を荒立てずに自重した。
 1611(慶長16)年3月、後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。加藤清正・浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現した(二条城会見)。翌4月には、家康は在京の大名22名を二条城に招集、幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17(1612)年には、それ以外の東北・関東などの大名から同様の誓詞をとって、名実ともに徳川の政権を裏付けた。
 二条城の会見以後、浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正・池田輝政・浅野幸長・前田利長ら豊臣家ゆかりの大名が次々と亡くなり、豊臣家の孤立は深まった。それにともない、豊臣方と徳川方の対決姿勢は強まっていった。こうしたなかで、方広寺鐘銘事件が発生し、両家の対立は決定的となる。
 1614(慶長19)年、豊臣家が再建していた京の方広寺大仏殿がほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。この方広寺大仏殿の梵鐘の銘文に「国家安康」とあり、これは家康の二文字を分断して呪詛しているという言いがかりが付けられた。事の当否はともかく、これが大坂の陣の切っ掛けになったのは間違いない。豊臣重臣で方広寺再建の総奉行方であった片桐且元は、責任者として弁明を尽くすが取り合ってもらえず、返って徳川寄りの裏切りとさえ疑われた。
<大坂冬の陣>
 1614(慶長19)年10月、もはや関係修復不可能と考えた豊臣方は、旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手したが、かつて豊臣恩顧の諸大名には呼応するものが無かった。それでも秀吉の遺した莫大な金銀で浪人衆をかき集め、豊臣方の総兵力は約10万人となり、明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永ら五人衆がかき集められた部隊の指揮をとった。
 一方、幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結した。11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向い、先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行った。大坂の処方面に豊臣方が築いた砦は打ち破られ、豊臣方は大坂城に撤収して籠城策に収斂したが、その大坂城は徳川方20万の軍勢に完全に包囲された。
 真田幸村が主導する真田丸の戦い(12月3日・4日)では豊臣軍が徳川軍を撃退する事態が起こり、秀忠は総攻撃を提案するも、家康は慎重に事を運び、じわじわと大坂城のまわりに仕寄(塹壕の事)の構築を進めさせた。徳川全軍より一斉砲撃が始められると、豊臣方は近づいてくる徳川勢に火縄銃で対抗する。
 徳川方にも兵糧不足があり真冬の陣でもあったため、和議を提案するが、条件が折り合わず豊臣方は拒否する。しかし長期の籠城戦で疲労が蓄積するところへ、本丸の淀殿の近くに一発の砲弾が命中すると、一転して和議に応ずる事を決めた。以後、和議の交渉は徳川の一方的主導で進められた。
 12月20日に講和条件が合意し誓書が交換された。講和内容は豊臣家側の条件として「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊、南堀、西堀、東堀を埋めること」などで、これに対し徳川家が「秀頼の身の安全と本領の安堵、城中諸士についての不問」を約束した。
 和議に従って堀の埋立が始められたが、このとき徳川方は外堀だけでなく内堀まで勝手に埋め尽くしたとされる。ただし、これは和議での合意に基づくものであったという説もある。いずれにせよ、難攻不落の大坂城は天守を残して、ほぼ無防備にされたことになった。
<大坂夏の陣>
 1615(慶長20)年4月、大坂や京での浪人の乱暴・狼藉など不穏な動きの知らせが京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇や豊臣家の移封を要求する。 豊臣家が移封を拒否すると、徳川方は諸大名を鳥羽・伏見に集結させ、家康と秀忠がそれぞれ京に入り、各武将を集めて二条城で軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。
 山崎など北方の要所の警備を固めた上で、徳川軍勢は南方の河内路及び大和路から大坂に向かった。豊臣方も開戦準備を固めたが、形勢不利と見た浪人たちは大坂城を去るものが出て、豊臣家の戦力は7万8000に減少した。もはや大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いとし、野戦にて打って出て徳川軍との決戦を挑む事が決定された。
 戦端が開かれ、樫井の戦い、道明寺・誉田合戦、八尾・若江合戦、八尾・若江合戦、天王寺・岡山合戦などで、いずれも徳川方に打ち破られた。大坂城内に押し込められた豊臣勢には、堀を埋められて裸同然となった大坂城で、もはや殺到する徳川方を防ぐ術はなかった。城内でもあちこちで寝返りが発生し、城内に火を放って逃亡する者が出るなどして、火の手が上がった大坂城天守は、遂に灰燼に帰し落城した。
 秀忠の娘千姫は徳川の手で救出されたが、秀頼は淀殿らとともに自害し、ここに豊臣家は滅亡する。落城後の大坂城下では、豊臣残党のみならず、一般民衆まで斬殺・略奪の被害にさらされ無残であったという。
(この時期の出来事)
*1611.3.27/ 後陽成天皇が政仁親王(後水尾天皇)に譲位し、院政を復活させる。幕府の干渉への抗議の為とされる
*1611.11.-/ 貿易商角倉了以が、鴨川を分流して高瀬川の開削工事を開始する。
*1612.3.21/ 幕府は京都所司代と長崎奉行に命じて、キリスト教の禁止と南蛮寺破却を命じる。本多正純家臣でキリシタン岡本大八は、詐欺事件で火炙りの刑となった。
*1612.7.-/ 幕府は、風紀を乱す不良若者「かぶき者」の取り締まりに出て、その首領大鳥居逸兵衛ら多数を処刑する。 
*1612.9.27/ オランダ商館長が家康に、ポルトガルに領土の野心ありと告知する。
*1613.8.4/ イギリス東インド会社司令官ジョン・セーリスが家康に謁見し、英国王の国書を提出、通商を求める。
*1613.9.15/ 仙台藩主伊達政宗の命を受けて、遣欧使節支倉常長が、イスパニア国王に通商をもとめて月の浦港を出港する。
*1613.12.23/ 幕府が全国に向けて、金地院崇伝の起草によるキリシタン禁教令を発令する。
*1614.10.-/ キリシタン大名高山右近ら、キリシタン148名がマニラやマカオに追放される。
*1615.7.7/ 将軍秀忠が伏見城に諸大名を集め、武家諸法度13ヵ条を布告する。これには従来の徳川氏と諸大名の関係を、江戸幕府としての公的な政治体制に再編成する狙いがあった。

御名御璽、近代日本の旗印です。

2021-02-06
大日本日本帝国憲法の場合

109 日本国憲法(官報号外)【入江俊郎関係文書46】

2021-02-06

109 日本国憲法(官報号外)【入江俊郎関係文書46】

昭和21(1946)年11月3日の日本国憲法を公布する官報の号外。憲法公布の記念とするために、当時法制局長官であった入江俊郎いりえとしおが主要な関係者から署名を集めたものと推測される。


[署名した人物と当時の役職]
  • 吉田茂 内閣総理大臣兼外務大臣
  • 金森徳次郎かなもりとくじろう 国務大臣(憲法担当) ※のちの当館初代館長
  • 芦田均 衆議院帝国憲法改正案委員会委員長
  • 入江俊郎 法制局長官
  • 幣原喜重郎しではらきじゅうろう 国務大臣・復員庁総裁[前内閣総理大臣]
  • 林譲治はやしじょうじ 内閣書記官長
  • 木村篤太郎きむらとくたろう 司法大臣
  • 安倍能成あべよししげ 貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長
  • 山崎猛やまざきたけし 衆議院議長
  • 徳川家正とくがわいえまさ 貴族院議長
  • 清水澄しみずとおる 枢密院議長
  • 潮恵之輔うしおしげのすけ 枢密院副議長

1942年の大日本帝国の国防圏

2021-01-30
Facebook上島嘉郎さんより

航空母艦について  facebook鴨打 豊さんより

2021-01-30
備忘録:レキシントンって電気駆動、最高速力最強、20cm砲(後に5インチ砲に換装)装甲甲板とあの広さってあの当時としてはチート空母じゃね??って本当に思う。

闘いの転機

無理を重ねた挙句の結果は、不戦沈没でした。

2021-01-21
信濃もえっちらと作成 未だ軍艦旗掲揚前の艤装中の在りし日の信濃イメージ
Facebook森 一理さんより
基準排水量62,000英トン
公試排水量68,059トン
または68,060トン、69,100トン
満載排水量71,890トン
全長266.0m(艦首より後部機銃フラット後端まで
水線長256.0m
垂線間長244m
最大幅38.90m(水線下)または38.0m
水線幅36.30mまたは36.9m
深さ18.915m
24.81m(飛行甲板側線まで)
飛行甲板256.00 x 40.00m、または256.000x39.400m
エレベーター2基
吃水10.312m
10.3m(T.W.L)、10.4m(1.W.L.)
ボイラーロ号艦本式缶(空気余熱器付)12基
主機艦本式タービン(高低圧2組)4基
推進4軸x 225rpm、直径5.100m
出力150,000hp
または160,000shp
速力27.0ノット(予定) または 27.3ノット
燃料8,900トン(満載) または 9,000トン または7,350トン
航続距離10,000カイリ / 18ノット
乗員2,400名
1944年10月1日付定員 2,515人
兵装12.7cm連装高角砲8基16門
25mm3連装機銃 37基または35基
同単装機銃40基
12cm28連装噴進砲12基(後日装備)
装甲飛行甲板 20mmDS+75mmCNC鋼
舷側 160-270mmNVNC鋼(傾斜20度)
甲板 190mmNVNC鋼
軽質油タンク舷側25mmDS鋼2枚、

同甲板25mmDS+70mm鋼
レーダー21号電探2基
13号電探2基

:元帥ということ

2021-01-21
画像は、元帥徽章。
Facebook英霊の本日の出来事より

明治31年1月19日の本日、元帥府が設置されました。
明治31年1月19日元帥府設置ノ詔
朕中興ノ盛運ニ膺リ開國ノ規模ヲ定メ祖宗ノ偉業ヲ紹述シ臣民ノ幸福ヲ増進シ以テ國家ノ隆昌ヲ圖ラントス茲ニ朕カ軍務ヲ輔翼セシムル爲メ特ニ元帥府ヲ設ケ陸海軍大將ノ中ニ於テ老功卓拔ナル者ヲ簡選シ朕カ軍務ノ顧問タラシメントス其所掌ノ事項ハ朕カ別ニ定ムル所ニ依ラシム
御名御璽
明治三十一年一月十九日
内閣總理大臣侯爵伊藤博文
條例全文
第一條 元帥府ニ列セラルル陸海軍大将ニハ特ニ元帥ノ称號ヲ賜フ
第二條 元帥府ハ軍事上ニ於テ最高顧問トス
第三條 元帥ハ勅ヲ奉シ陸海軍ノ検閲ヲ行フコトアルヘシ
第四條 元帥ニハ別ニ定ムル所ニ依リ元帥佩刀及元帥徽章ヲ賜フ
第五條 元帥ニハ副官トシテ佐尉官各一人ヲ附属セシム
(明治31年勅令第5號制定・大正7年勅令第330號改正)
(ウィキペディア参照。)

浅間丸事件

2021-01-21
Facebook英霊の本日の出来事より

昭和15年1月21日の本日、浅間丸事件が起きました。
昭和15年1月21日、房総半島野崎岬沖40キロの太平洋(公海)上で、英吉利海軍軍艦が日本郵船所属の客船「浅間丸」に對して、独逸人乗客中の戰時禁制人の發見のために行った臨検と、臨検により独逸人男性21人が戰時捕虜の名目で逮捕聯行されたこと。
及び、日英の外交交渉により独逸人船客9名が開放されるまでの一聯の國際的事件。
「背景」
昭和14年9月3日に英仏が第二次欧州大戰に於いて独逸に宣戰を布告し、9月4日には英吉利客船が独逸潜水艦に無警告で撃沈され多くの乗客が犠牲になるなど開戰當初より大西洋では熾烈な戰斗が繰り広げられました。
強力な海軍力を持つ英國は独逸商船隊を全世界の公海上で制圧して行動不能にし、自沈や中立國での係船を余儀なくするにいたらせた。 
併し、日本や亜米利加合衆國は昭和16年12月まで第二次欧州大戰には参加せず、また太平洋で独逸海軍による戰斗は發生しなかったことから、太平洋を挟んだ日米間では商船會社による定期運航が、戰爭當事國に関係する物資や人員の輸送に制約をもうけながらも平穏に行われていました。
「臨検と拉致」
英独開戰後、英國海軍省と日本各商船會社の間では戰時禁制となる人や物の輸送中止の紳士協定が結ばれていました。
併し、日本大使館の強い要請により日本郵船の「浅間丸」船長らは、ニュー・ジャージー州メイ岬沖で英國駆逐艦の追跡のため自沈した、独逸客船コロンブスの船員など51人を乗客に加え、昭和14年12月に桑港よりホノルルを経由して横浜港に向けて出航しました。
ところが、浅間丸は昭和15年1月21日に、千葉縣房総半島沖の公海上(東経140度31分、北緯34度34分)で英吉利海軍の軽巡洋艦「リヴァプール」より空砲で停船を命じられ臨検を強制されました。 
臨検は士官3名と武装水兵9名により行われ、独逸人乗客51名のみが1等サロンに集合させられ、英軍が所持する名簿と照会の上「國際公法上の権利」として51名の聯行を通告した。
船長は當初拒絶したが、文字通り砲口を向ける英吉利軍艦の前で、ヘルマン・グロース船長など戰時禁制人と看做された21名の民間人男性乗客を「戰時捕虜」の名目で船内より逮捕聯行を認めた。
「事件後」
この事件で、1月16日に成立したばかりの米内光政(首相・予備役海軍大将)率いる米内内閣はいきなり難題を背負う事になった。
英吉利海軍側の「浅間丸」に対する公海上に於ける臨検と独逸人乗客に對する措置は、戰時國際法上適切なものであった。
これに對し、日本政府は明治42年の倫敦宣言47條「中立國船上から拉致できる者は既に軍籍にある交戰國人に限る」を原則としており、ロバート・クレーギー駐日英吉利特命全権大使を外務省に招致して正式に抗議した。
日本のマスコミ(各新聞)と國民も「帝國の面目に泥を塗った」などと一斉に英吉利海軍を非難したほか、友邦の独逸人を「無抵抗で引き渡した」船長・渡部喜貞に對しても激烈な批判を行った。
写真週報では「浅間丸独逸船客拉致事件」というタイトルをつけ、報知新聞は「國民の感情を無視するな」と訴えている。
だが21人の独逸人引渡しを拒んだ場合は、それが「浅間丸」の敵對行動とみなされた場合は、船體は拿捕の對象となり、乗客全員も一時的とはいえ抑留される危険をはらんでいた。
日本海軍首脳は、英吉利海軍の行動に関して自軍も同様の行動をとりうるとして特に問題とは考えず、船長の判断も妥當との認識であった(但し日本郵船は世論に考慮して1月24日には船長を交代させている)。
問題は戰時禁制人(軍属や徴兵可能な人間)をどこまで認めるかが焦点であった。
この点を米内光政内閣の有田八郎外務大臣はクレーギー大使を通じて英吉利政府に對して交渉を行い、英吉利政府もハリファックス外相を通じて行き過ぎがあったことを認める。
2月5日に以下の公式發表があった。
1.日本政府は、英艦の行為は遺憾とする英國政府の表明を了承する。
2.英國政府は、比較的に兵役勤務が難しい9名の解放に応じるが、12名の引渡し権利は放棄しない。
3.日英両政府は、この種の事件の再發防止に努める。
日本政府は、交戰國軍人(疑いある者含む)の乗船引受けを禁止する。
政治的解決を受けて、同年2月29日に9人が横浜の独逸領事館前で解放された。この事件は、當時関係が懸念された日本と英吉利の國際問題に發展したのみならず、國内では米内内閣を米英に對する「弱腰」とみなし日独伊三國同盟締結への材料の一つに使用された。
宇垣一成は1月26日の日記に、類似の事件を日本は沿岸封鎖中の香港やハイフォンの沖で起こしていることを指摘して、沸騰する日本の世論について恥の上塗りをしないような注意が必要だと書き残している。
(ウィキペディア参照。)

首相暗殺 2題

2021-01-18
Facebook亀山 紘さんより
東京駅には総理大臣の暗殺現場が2つある。
かつて日本では総理大臣が一般市民の前で暗殺・襲撃された事がある。
その舞台となったのが東京駅で、今でも暗殺の現場と分かる場所が2ヵ所ある。
通勤や観光など東京駅を利用する時、誰でも見られる場所にその痕跡が残されている。
1つ目は現在の東京駅の丸の内南口で、
1921年(大正10年)11月4日に当時の首相だった原敬(はら たかし、1856~1921年)が
当時の山手線大塚駅の駅員であった中岡良一により刺殺された。
原首相は短刀で右胸を刺され、その傷は右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態だったという。
現在、東京駅のその場所には原首相遭難現場のプレートと床面には円の内部に六角形という形をした印が埋め込まれている。
もう1つの場所は、東京駅丸の内中央口から入った所にある中央通路の階段手前であり、こちらも床面に印が埋め込まれている。1930年(昭和5年)11月14日、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた濱口雄幸(はまぐち おさち、1870~1931年)が銃撃された。
床面に埋め込まれた印の真上が現在の10番線乗り場・東海道本線のホームで、当時は特急つばめで濱口首相は神戸に行く予定だったが、そこをホームで愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から撃たれた。
銃撃された首相は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていたが、弾丸は骨盤を砕いていた。その後、東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた。しかし、その翌年にこの怪我がもとで死去した。このように東京駅には戦前の激動の中で起きた2つの暗殺現場が残されている。

首相暗殺

2021-01-18
台湾の統治について
Facebook畠山 紘さんより



100年前・・・東京駅で原敬は暗殺されました。
台湾統治初期の政策・…後藤新平と原敬
1898年(明治31年)、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚だった後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。
また、1902年(明治35年)末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義を採用することとなった。
日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していた。
第1が後藤新平などに代表される特別統治主義である。これは英国政府の植民地政策(=イギリス帝国)を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものである。
当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は生物学の観点から、文化・文明的に立ち遅れている植民地の急な同化は困難であると考えていた。
後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針を採った。
これに対し原敬などは、台湾を内地の一部とし、内地法を適用する『内地延長主義』を提唱した。フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能であると主張した。
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