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闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-04-09
とうじょう‐けんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。
五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

闘いの記録

1991年2月23日、31歳となった日に立太子宣明の儀が執り行われた。

2021-04-14
徳仁さまは1989年、昭和天皇の崩御に伴い今上天皇が即位されたことにより、皇位継承順位1位の皇太子となった。
立太子宣明の儀は、皇位継承者としての徳仁親王の地位を天皇陛下(当時)が内外の代表の前で披露される立太子の礼のなかでも中心となる儀式。

Everything you need to know about Japan's Emperor Naruhito | Hello

2021-04-14

From his childhood through to his love story with Masako and to his recent ascension to the Chrysanthemum Throne

明仁親王と美智子さまは、3人の子どもたちの子育ては乳母を付けずに家族で同居を通した。

2021-04-14
浩宮さまは、天皇家では初めて父親の皇太子明仁親王(現在の上皇陛下)、母親の美智子さま(上皇后)が子育てにあたられた。

上皇陛下がチェロを弾かれ、美智子さまがピアノを演奏。天皇陛下はもともと学んでいたヴァイオリンのほかに、大学時代からはヴィオラの演奏も始められた。

大学時代は音楽部管弦楽団に所属。チャリティーコンサートでビオラの独奏を披露されることもある。

平成天皇の時代

2021-04-14
皇太子ご成婚
愛子内親王誕生

Emperor Akihito and Empress Michiko "Romance of the Tennis Court"

2021-04-14

His Majesty Emperor Akihito, 82 years old, and 81-year-old Empress Michiko got married in April 1959. The two met during a tennis tournament at Karuizawa in 1957, where the then commoner Michiko emerged victorious against Akihito’s team. Their meeting was dubbed as a real fairytale and a “romance of the tennis court”. Akihito (明仁, born 23 December 1933)  is the reigning Emperor of Japan. He is the 125th emperor of his line according to Japan's traditional order of succession. In August 1957, he met Michiko Shōda on a tennis court at Karuizawa near Nagano. The Imperial Household Council formally approved the engagement of the Crown Prince to Michiko Shōda on 27 November 1958. At that time, the media presented their encounter as a real "fairy tale", or the "romance of the tennis court". It was the first time a commoner would marry into the Imperial Family. The engagement ceremony took place on 14 January 1959, and the marriage on 10 April 1959. The Emperor and Empress have three children: sons Naruhito, Crown Prince of Japan (born 23 February 1960, formerly The Prince Hiro) and Fumihito, Prince Akishino (born 30 November 1965, formerly The Prince Aya) and daughter Mrs. Sayako Kuroda (born 18 April 1969, formerly The Princess Nori).

闘いの転機

◎水俣病の原因は、新日本窒素肥料(現チッソ[株])の廃液

2021-03-31
Facebook佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1963年(s38)】
◎水俣病の原因は、新日本窒素肥料(現チッソ[株])の廃液
*1963.2.16/ 熊本大学水俣病研究班が、水俣病の原因が「新日本窒素肥料」の排水にあると結論する。
 水俣病は、有機水銀(メチル水銀化合物)による中毒性中枢神経系疾患だと特定されているが、当初はまったく原因が不明だった。1956(s31)年5月に熊本県水俣市にて公式発見され、1957(s32)年に発生地から命名された。
 1953(s28)年ごろから、水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐのが観察されていたが、1956(s31)年に「チッソ」水俣工場付属病院に入院した女児の症状から、水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として公表、それが後に水俣病の「公式確認」となる。
 1957(s32)年、水俣保健所が、水俣湾内で獲れた魚介類を与えたネコに奇病発生するのを発見し、翌年から水俣湾海域内での漁獲が禁止されたが、1963(s38)年2月16日、熊大研究班が、「チッソ」水俣工場の排水から有機水銀塩を検出し、初めて「チッソ」と水俣病が結び付けられた。
 1964(s39)年、白木博次東大医学部教授が、熊大の研究結果を論拠に、水俣病の原因がメチル水銀であることを論文に発表、これが1968(s43)年9月の厚生省による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がることとなった。
 1959年に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、「チッソ」は、工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係と主張し、有機水銀説に異を唱えた。当時は無機水銀から有機水銀の発生過程が理論的に説明されていなかったが、1967年になり、ようやく「チッソ」工場の反応器を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的に証明された。
 しかし、チッソ水俣工場と同じ製法でアセトアルデヒドを製造していた工場が当時国内に何ヵ所もあったが、大きな被害を起こしたのは水俣のみ、かつ終戦後になってから、という事実があり、これが発生メカニズムの特定を遅らせることとなった。長期にわたってその原因が不明とされてきたが、「チッソ」が1951年に行った生産方法の一部(助触媒)変更が、水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がることとなった。
 政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968(s43)年である。政府統一見解後の1969(s44)年6月14日には、熊本水俣病患者・家族のうち112人が「チッソ」を被告として、熊本地裁に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第1次訴訟)を提起した。
 裁判は「チッソ」側の反論などで遅々として進まなかったが、熊本水俣病に関わる刑事事件は、「チッソ」吉岡元社長と西田元工場長に有罪判決、1988年3月の上告が棄却され、禁固2年・執行猶予3年の判決が確定した。患者の公式確認以来では32年ぶりの決着であった。
 国や原因企業による患者認定と補償問題はさらに煩雑を極める。現在の認定基準は、1977(s52)年に「後天性水俣病の判断条件」として公表された判断条件(昭和52年判断条件とも言われる)では、汚染地区の魚介類の摂取などメチル水銀への曝露歴があって感覚障害が認められることに加え、運動障害・平衡機能障害・求心性視野狭窄・中枢性の眼科または耳鼻科の症状などの一部が組み合わさって出現することとされている。
 しかし初期の認定基準が、最強度の障害を基準にしたため、中程度や軽度の障害は認定から外される傾向が強く、わずかの補償金で一括和解で解決されてしまうことが多い。認定患者には、1973年に患者と原因企業間で締結された補償協定により、一時金一人1,600万~ 1,800万円、年金、医療費の支給などが支払われ、認定患者の数は死者を含み約3,000人となっている。
(この年の出来事)
*1963.3.31/ 東京都台東区で4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、7月に容疑者が犯行を自供し、遺体が見つかる。 
*1963.9.5/ 東京の地下鉄銀座線京橋駅で時限爆弾が爆発、「草加次郎」の犯行とされる。 
*1963.11.9/ 横浜市鶴見区の東海道本線で、列車の2重衝突事故が起こり、死者161人を出す大惨事となる。(鶴見事故)
*1963.11.9/ 福岡大牟田市の三井三池炭鉱で、炭塵爆発が起こり死者458人を出す。

◎正義の味方力道山、刺されて死ぬ

2021-03-31
Facebook佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1963年(s38)】
◎正義の味方力道山、刺されて死ぬ
*1963.12.8/ プロレスラー力道山(39)が、赤坂のキャバレーで暴力団員に刺され、15日死亡する。
 戦後日本の大衆に夢を与えたプロレスラー力道山が、キャバレーでヤクザとの些細な喧嘩から、腹部を刺されあっけなく死亡した。テレビ映画「スーパーマン」の役者が自殺したり、「コンバット」のサンダース軍曹 ヴィック・モローが撮影中のヘリコプター墜落で事故死したりと、まさにダイ・ハードに思われたタフガイが、いとも簡単に消えていった。それこそ、ブラウン管の世界から肩すかしをくらうような欠落感に襲われたものだった。
 1963(s38)年12月8日夜、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、力道山は暴力団大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まないで口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。しかし、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり、警察沙汰にはせず、知り合いの医師の勤める山王病院に入院。手術は無事に成功するが、その後、体調悪化し12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。享年39。
 力道山は体力に自信があるせいか、かなり横暴な性格で、日ごろからあちこちでトラブルを起こしていた。この日も酩酊して、通路に足を出してイタズラしていたという説もある。言いがかりをつけられ、パンチでぶっ飛ばされた村田は、馬乗りになられ「殺される」と感じ、忍ばせていた登山ナイフでとっさに刺したという。
 応急手当を受け帰宅したが、翌日症状が悪化、入院して2度の手術を受けた。手術は成功したとされたが、7日目の夜、穿孔性化膿性腹膜炎で死去する。腸壁が敗れた場合、術後は絶対安静で飲食はご法度のはずだが、一説によると、最初の術後、寿司や酒を飲食した結果、症状を悪化させたともいわれる。
(この年の出来事)
*1963.3.31/ 東京都台東区で4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、7月に容疑者が犯行を自供し、遺体が見つかる。 
*1963.9.5/ 東京の地下鉄銀座線京橋駅で時限爆弾が爆発、「草加次郎」の犯行とされる。 
*1963.11.9/ 横浜市鶴見区の東海道本線で、列車の2重衝突事故が起こり、死者161人を出す大惨事となる。(鶴見事故)
*1963.11.9/ 福岡大牟田市の三井三池炭鉱で、炭塵爆発が起こり死者458人を出す。

◎ケネディ大統領 暗殺

2021-03-31
Facebook佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1963年(s38)】
◎ケネディ大統領 暗殺
*1963.11.22/ ケネディ大統領が、遊説先のテキサス州ダラスで暗殺される。
*1963.11.23/ 初の日米間宇宙中継実験が成功、最初に飛び込んで来たのがケネディ大統領暗殺のニュースだった。
 日本時間11月23日早朝、最初の日米間衛星テレビ中継として太平洋越しに映し出されたのは、J・F・ケネディ大統領暗殺の臨時ニュースであった。さまざまな疑惑が残されたままの暗殺事件は、その後も何度か映画化されている。颯爽と登場し、多くの話題を提供した青年大統領だが、在任期間わずか2年10ヵ月で幕を閉じることとなった。
 1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分に、J・F・ケネディ大統領はテキサス州ダラスを遊説パレード中、突然、何者かに銃撃され死亡した。1時間後にリー・ハーヴェイ・オズワルドが逮捕されたが、その2日後、ダラス警察署で移動中にジャック・ルビーに銃撃されて死亡、オズワルドは犯行は否定したままで、法廷に立つことはなかった。
 翌1964年には、ウォーレン委員会が公式調査報告が公開され、事件をオズワルドの単独犯行として、大統領は後方から撃たれたと結論づけた。しかしこの調査報告に対して、数々の疑惑や反証になるライフル銃の軌道や周囲の状況証拠や証言が出るなど、長年にわたって真相についての議論が続いている。
 テキサス州の州都ダラスで白昼に、多数の人々が見守る前で起こった、衝撃的な銃撃による現職大統領の死、しかも日をおかず警察署内で犯人が銃殺されるという有り得ない展開、その後に暗殺の動機も背後関係にも多くの謎を残したまま捜査が終了されたことから、数々の陰謀説が語られ続けている。
 J・F・ケネディは、共和党の対立候補リチャード・ニクソンを破り、1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。就任時の年齢は43歳で、選挙で選ばれた大統領としてはもっとも若い大統領、カトリック教徒としてもアイルランド系アメリカ人としても、最初の大統領となった。
 暗殺されるまでの2年10ヵ月の在任中に、ピッグス湾事件・キューバ危機・ベルリンの壁の建設・米ソの宇宙開発競争・公民権運動の高まり・ベトナム情勢の悪化など多くの歴史的事件が発生しているが、特にキューバ危機の対応では「第3次世界大戦」「米ソ全面核戦争」の危機を回避したと評価されている。
 ケネディは清新なイメージで、就任時からアメリカ国民に期待され、アメリカ人に最も愛された大統領として記憶されているが、その一方で、大統領選挙における陣営の不正・マフィアとの関係・マリリン モンローなど何人もとの浮き名・ピッグス湾事件やベトナム戦争における優柔不断な態度・ラテンアメリカ諸国に対する政治的軍事的干渉・就任以前の人種差別や保守的思想など、多くの批判も存在する。
(この年の出来事)
*1963.3.31/ 東京都台東区で4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、7月に容疑者が犯行を自供し、遺体が見つかる。 
*1963.9.5/ 東京の地下鉄銀座線京橋駅で時限爆弾が爆発、「草加次郎」の犯行とされる。 
*1963.11.9/ 横浜市鶴見区の東海道本線で、列車の2重衝突事故が起こり、死者161人を出す大惨事となる。(鶴見事故)
*1963.11.9/ 福岡大牟田市の三井三池炭鉱で、炭塵爆発が起こり死者458人を出す。

◎ジョン・F・ケネディ アメリカ大統領誕生(JFK)

2021-03-31
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1961.10.26/ 文部省が全国一律学力テストを実施、日教組は、教育統制だとしてボイコットなど反対運動を展開する。
【20th Century Chronicle 1961年(s36)】
◎ジョン・F・ケネディ アメリカ大統領誕生(JFK) 
*1961.1.20/ ジョン・F・ケネディが、第35代アメリカ合衆国大統領に就任し、有名な大統領就任演説を行う。
 ジョン・F・ケネディは、1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。ケネディは43歳8ヵ月と、もっとも若くして選挙で選ばれた大統領であり、また初めてのアイルランド系でカトリックの大統領でもあった。ケネディは就任宣誓式で、大統領の職務を遂行し合衆国憲法を守ることを宣誓し、そのあと大統領就任演説を行った。
 就任演説では、冷戦で東西対立が厳しい時代に、断固として自由社会を守る決意を明らかにした。さらに「人類の共通の敵」である暴政、差別、貧困、疾病そして戦争との戦いにともに参加するように訴えた。就任演説はその多くが「自由」の価値と、自由を守り発展させるために人々がなすべき行動をアメリカ国民および世界の人々に問うものであった。
 就任演説の末尾は、次のような有名な一節で締めくくった。
 My fellow Americans, ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country. My fellow citizens of the world; ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.
 我が友アメリカ人よ、国があなたに何をしてくれるかを問うなかれ。あなたが国のために何ができるかを問いたまえ。世界中の我が友よ、アメリカがあなたに何をしてくれるかを問うのではなく、人類の自由のためにいっしょに何ができるかを問おうではないか。
 JFケネディは、提唱する「ニューフロンティア精神」に基づき、7つの項目にわたる「ニューフロンティア政策」を提言し、これを具体化する66にのぼる特別教書をもって、議会に立法措置を勧告した。それは、教育への連邦政府支出拡大、住宅施策の促進、高齢者医療の拡充、都市の再建、そして黒人や少数民族の地位向上や公民権法の制定など、野心的な公約であった。
 そして1年目には不況対策、最低賃金引き上げ、平和部隊創設および軍縮協の創設、2年目には通商拡大法を成立させ、また人種差別についての取り組みは高く評価された。しかしこれら斬新な進歩的政策は、議会の保守勢力の前に難航し、ケネディが力を入れた「公民権法」も、彼の在任中は議会を通過しなかった。
 しかしそれは、就任後わずか2年10ヵ月でケネディが暗殺されたためでもあり、代わって昇格したジョンソン大統領の時期に、公民権法や老齢健康保険法、住宅都市局の設置などが次々と可決された。また、ソ連に圧倒的な差を見せつけられた宇宙開発で、ケネディは「10年以内にアメリカは人間を月に送り、無事帰還させる」と宣言し、1969年アポロ11号でそれは達成された。
 JFケネディは、その3年に満たない在任期間中に、2度の米ソ直接対決の危機に直面している。この時期はソ連の軍事的優位が明らかになり、それを背景にソ連のフルシチョフ首相はきわめて強気であった。一方、ケネディは就任早々に、カストロ政権の転覆を狙いCIAなどが計画を進めた「ピッグス湾事件」の失敗で、その責を負わされていた。
 1961年6月にウィーンで、ケネディはフルシチョフを相手に、一対一の首脳会談に臨んだ。議題は東西関係やキューバ、ラオス、核実験禁止、そしてベルリン問題に関してだったが、両者の対立関係を際立たせただけで、ほとんど成果なく終わった。
 そしてウィーン会談から2ヵ月後の1961年8月、「ベルリン危機 (1961年)」が勃発する。その前の7月、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説で、国防費増額・陸海空三軍の増員など、西ベルリンを守り抜く決意を表明していた。
 それに対してフルシチョフは、ウィーン会談から2ヵ月後の1961年8月13日、いきなり「ベルリンの壁」を建設するという強硬手段に打って出た。それまで自由に東西を往来することができたが、この日から往来が不可能となって、東西ベルリン市民は完全に分断された。
 一方ケネディは、8月20日、西ドイツから陸路で東ドイツを通過してアメリカ陸軍の精鋭部隊1,600人を西ベルリンに送り込んだ。これによりケネディは、西ベルリンを断固としてに防衛する決意を示した。これには、ソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険があったが、その後の1963年6月26日、ケネディ自身が西ベルリンを訪問し、有名な演説を”Ich bin ein Berliner”(私はベルリン市民だ)とドイツ語ではじめて、西ベルリン市民を安心させることに成功した。
 また、1962年10月には、さらに緊迫した一触即発の「キューバ危機」が勃発した。アメリカの喉元ともいえるカリブ海のキューバに、建設中の核ミサイル基地が発見された。10月14日、アメリカ空軍のU-2偵察機が、ソ連が核ミサイルのサイロを建設中の写真を撮影したのだった。ケネディは、16日朝に報告を受けると、緊急に国家安全保障会議を招集した。
 会議は連日続けられ、いくつかあった対応の選択肢は「空爆」と「海上封鎖」に絞られた。軍関係者は「空爆」を主張したが、ケネディ大統領は「海上封鎖」を選択し決断した。10月22日午後7時、ケネディは国民に向けて演説を行い、キューバにミサイルが持ち込まれた事実とキューバ海上封鎖措置を取ることを発表した。
 この演説の2日後に海上封鎖が発効し、翌10月25日、潜水艦に守られてキューバに近づいていたソ連船16隻は、急遽Uターンした。しかし、キューバ国内では、すでに持ち込まれた資材をもとにミサイル基地建設が急ピッチで進んでいた。この間、フルシチョフ首相の書簡が届き、米がキューバに侵攻しない約束のもと、ミサイルを撤去する旨の内容であり、ケネディ大統領もこれに応諾して、キューバ危機は、1962年10月27日、暴発直前に回避された。
 ウィーン会談などで、フルシチョフはケネディを扱い易い若造とみていたようだが、キューバ危機では、一歩も引かない毅然とした対応をみせたケネディに、フルシチョフは怯むかたちで撤退した。ケネディとフルシチョフの両首脳は、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避したことにより、世界中からの尊敬を集めることとなった。
 キューバ危機の経験から、米ソ両国の首脳は核戦争を回避するための道を模索し始め、1963年6月、危機管理のためのホットラインを両国間に設置し、8月には米英ソの間で部分的核実験禁止条約(PTBT)を締結するなど、平和共存に一歩を踏み出した。しかしケネディはその年1963年11月に凶弾に斃れ、さらに翌1964年10月にはフルシチョフが失脚、両者の直接外交は長くは続かなかった。
(この年の出来事)
*1961.2.1/ 右翼の17歳の少年小森一孝が、中央公論社の嶋中鵬二社長宅を襲い、婦人に重傷、止めようとした家政婦を刺殺する。(嶋中事件/風流夢譚事件)
*1961.3.15/ 有田八郎元外相が、三島由紀夫の小説「宴のあと」がプライバシー侵害として、作者三島と新潮社を告訴する。(1964.9.28原告勝訴)
*1961.10.26/ 文部省が全国一律学力テストを実施、日教組は、教育統制だとしてボイコットなど反対運動を展開する。
*1961.12.12/ 旧軍人らによるクーデター計画が発覚、政府要人らの暗殺を計画したとして13人が逮捕される。(三無事件)

◎「私はカモメ」 初の女性宇宙飛行士テレシコワ

2021-03-31
Facebook佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1963年(s38)】
◎「私はカモメ」 初の女性宇宙飛行士テレシコワ
*1963.6.16/ ソ連の宇宙飛行士テレシコワが、宇宙船ボストーク6号に搭乗し、女性として世界初の宇宙飛行を行う。
 1963年6月16日、ソ連の宇宙船ボストーク6号が打ち上げられ、女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワが単独搭乗し、70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士となった。最初に飛び込んできた第一声「ヤー、チャイカ」は、チェーホフの戯曲「かもめ」を想起させる「私はカモメ」と訳され、女性初の宇宙飛行はきわめて文学的なイメージで印象づけられた。
 しかし実際には、ソ連では宇宙ミッション中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワには「チャイカ」(カモメ)が与えられていた。打上げ後の成功を知らせる「ヤー・チャイカ(こちらチャイカの意)」という応答が、女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉となり、日本では「私はカモメ」と訳されて、テレシコワの代名詞となった。
(この年の出来事)
*1963.3.31/ 東京都台東区で4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、7月に容疑者が犯行を自供し、遺体が見つかる。 
*1963.9.5/ 東京の地下鉄銀座線京橋駅で時限爆弾が爆発、「草加次郎」の犯行とされる。 
*1963.11.9/ 横浜市鶴見区の東海道本線で、列車の2重衝突事故が起こり、死者161人を出す大惨事となる。(鶴見事故)
*1963.11.9/ 福岡大牟田市の三井三池炭鉱で、炭塵爆発が起こり死者458人を出す。
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