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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

SP

2022-06-26
Facebook Isao Sotoyama  さん曰く

参議院選挙のある候補者街頭演説で
国務大臣が応援演説にて
この小柄なスーツ姿の女性
大きなカバンを携えて 襟のバッヂ
初めて見ました!
警護のプロ

サイゴン陥落

2022-06-25

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1975(s50)年】-2
◎サイゴン陥落
*1975.4.30/ 解放勢力軍がサイゴンに無血入城する。(ベトナム戦争終結)
 1973年1月に「パリ和平協定」が結ばれたが、これはアメリカ軍の「名誉ある撤退」のための一時停戦に過ぎず、ニクソンの後をついだフォード政権は南ベトナムを防御する何の方策ももち得なかった。南ベトナムは、いわば関ヶ原の合戦後の大阪城のようなもので、最終決着のタイミングを待つばかりであった。
 北ベトナム軍および南ベトナム解放勢力は、一気に南の首都サイゴン(現ホーチミン市)に迫り、ほとんど抵抗もなくサイゴンは陥落した。ここにおいてベトナム戦争は、北ベトナムの南解放という形で統一され、完全終結した。
 写真は、解放勢力のサイゴン入城を歓迎するサイゴン市民の様子と、一方、最後の米軍の救出ヘリコプターにわれ先と乗り込もうとする人々。歓迎する人々の心中も様々であろうし、逃げようとする市民たちは、米軍・南ベトナム関係の仕事をしてたり、南政府支持をするなど、残れば殺されるような人とその家族たちであったと思われる。この二枚の写真の中にも、当時の南ベトナム住人たちの複雑な状況がうかがえる。
 このジョン・レノンの手になる曲は、ジョンとヨーコそれぞれの子供たちのためのクリスマスを祝うために作られた。"War Is Over" と歌われているが、実際にはベトナム戦争の泥沼化の最中の1971年に発表されている。ベトナム戦争が念頭にあるのは間違いないが、ジョンやヨーコが、世界中の娘・息子たちの世代が戦争のない平和な社会を生きられるようにと願ったもので、普遍的な平和ソングとして残るものであろう。
”John Lennon - Happy Xmas (War Is Over)” https://www.youtube.com/watch?v=flA5ndOyZbI
(この年の出来事)
*1975.5.19/ 前年来の三菱重工ビルを始めとする連続企業爆破事件で、警視庁は容疑者8人を逮捕する。
*1975.7.17/ 皇太子夫妻が沖縄を訪問し「ひめゆりの塔」の参拝中、過激派から火炎瓶を投げつけられる。
*1975.7.19/ 沖縄国際海洋博覧会が開催される。
*1975.11.15/ フランスのランブイエで、第1回主要先進国首脳会議(サミット)が開催される。

大統領が辞めさせられました。

2022-06-24

Facebook 佐々木 信雄さん曰く



【20th Century Chronicle 1974(s49)年】-3
◎ウォーターゲート事件 ニクソン米大統領辞任
*1974.8.8/ ウォーターゲート事件で、ニクソン米大統領が辞任を発表。9日、フォード副大統領が第38代大統領に就任する。
 1972年に発覚した「ウォーターゲート事件」は、その後驚くべき展開をみせる。セックス・スキャンダルなどものともしないアメリカ政界も、盗聴・侵入・もみ消し・司法妨害・証拠隠滅など、ありとあらゆる権力側の裏工作が露顕し、最高権力者 ニクソン大統領までもが深く関わっている事実と証拠が表面化した。
 具体的には、ワシントンのウォーターゲートビルの民主党本部への侵入事件が発端だが、ニクソン大統領が薄汚い言葉で、もみ消し工作などを直接指示するテープが提出されると、大統領への信頼は地に落ちて辞任するしかなくなった。
 そもそもこの時のニクソンは、ベトナム戦争の収拾、ドル防衛策の発表、中国との電撃的国交締結など、迅速な行動で圧倒的な人気を誇っており、選挙戦でも民主党などものともしない状況だった。たいした情報もない民主党本部に、えざわざ工作員を侵入させる必要などまったく無かったわけである。
 そこにはCIAとFBIの主導権争いなど、さまざまな流れがあり、本来の目的もまったく別のところにあったとの情報もある。ニクソン辞任の後、副大統領のフォードが就任したが、もはや政権運営できる背景は無くなってしまった。いわゆる「強いアメリカ」の復活は、ロナルド・レーガンの登場を待つしかなかった。
(この年の出来事)
*1974.1.31/ 日本赤軍とPFLPのゲリラがシンガポールにあるシェルの製油所を爆破、2.6には別のゲリラがクウェートの日本大使館を占拠、日本政府が要求を受け入れ用意した脱出機で、南イエメン経由で逃亡する。
*1974.8.15/ 韓国の光復節記念式典で、朴大統領が狙撃され、夫人が死亡する。
*1974.10.8/ 佐藤栄作前首相が、ノーベル平和賞を受賞。

とうとう塀の向こうへ堕ちました。

2022-06-24

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1974(s49)年】-5
◎田中角栄金脈問題で田中首相が辞任
*1974.10.10/ 立花隆「田中角栄研究ーその金脈と人脈」を掲載した「文芸春秋」11月号が発売される。
*1974.11.26/ 金脈問題を追及されていた田中首相が、辞意を表明する。
 立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」が文芸春秋に掲載され、田中ファミリー企業群などによる土地転がしなどによる金脈疑惑が報じられた。当初、完全無視を通していたが、やがて欧米メディアでも報じられると、プレスクラブで外国人記者会見に応じた。
 海外に潔白を示すという思惑ははずれ、外国人記者たちの追及にあくせくする様子などが報じられると、一気に国内で政治問題化し、11月には退陣表明、12月には内閣総辞職と、たった2ヵ月足らずのうちに総理の座から引きずり下ろされることになった。
 フリージャーナリストであった立花隆の緻密な調査報道は、政権トップでさえもみ消し出来ない正確さを備えていた。近年のマスメディアはほとんどこのような調査報道がなく、政治家のリップサービスや政府広報の受け流しに堕している。
 田中角栄は首相辞任後も、その人脈と金脈を維持し、政界の黒幕として支配力を発揮しつづけ「目白の闇将軍」と呼ばれた。その2年後、アメリカ議会で「ロッキード事件」が告発され、角栄内閣崩壊前後からすでに、金銭授受に深く関わっていたことが徐々に明らかになった。やがてその後の公判で実刑判決を受け(1983/s58)、さらに控訴中に脳梗塞で倒れる(1985/s60)など、さしもの田中角栄も政治的命脈を絶たれた。
(この年の出来事)
*1974.1.31/ 日本赤軍とPFLPのゲリラがシンガポールにあるシェルの製油所を爆破、2.6には別のゲリラがクウェートの日本大使館を占拠、日本政府が要求を受け入れ用意した脱出機で、南イエメン経由で逃亡する。
*1974.8.15/ 韓国の光復節記念式典で、朴大統領が狙撃され、夫人が死亡する。
*1974.10.8/ 佐藤栄作前首相が、ノーベル平和賞を受賞。

【皇室コラム】天皇陛下 沖縄とベルリンでかみしめた平和の貴さ

2022-06-24
© 日テレNEWS 1987年9月19日 沖縄・那覇空港/初めて沖縄に入られた天皇陛下(当時 浩宮さま) 日テレNEWS

沖縄戦が終結した慰霊の6月23日が今年も巡ってきました。その日に黙とうを欠かさない天皇陛下が、沖縄を初めて訪問されたのは1987(昭和62)年9月、27歳の時です。偶然にもその旅は、昭和天皇の病気が明らかになった日に始まって手術の当日に終わり、訪問がかなわなかった昭和天皇の無念さに重なる記憶でしょう。1か月半後には当時の西ドイツで冷戦の象徴「ベルリンの壁」も目にされ、その年は、戦争を知らない世代の陛下が世界的な視野で「平和の貴さ」をかみしめた注目すべき年でした。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)

【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第18回〈天皇陛下 沖縄とベルリンでかみしめた平和の貴さ〉

© 日テレNEWS 提供・読売新聞社/1975年7月 ひめゆりの塔/上皇ご夫妻(当時 皇太子ご夫妻)に向かって火炎瓶が投げつけられる 日テレNEWS
© 日テレNEWS 1987年9月19日 ひめゆりの塔/生存者から話を聞かれる天皇陛下(当時 浩宮さま) 日テレNEWS
© 日テレNEWS 1987年11月 西ドイツ(当時)・ベルリン/東西ベルリンの境にあるブランデンブルク門を視察 日テレNEWS
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