本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録

訃報です。

2020-10-18
3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
『Get Back! 50's / 1953年(s28)』
(スターリン死去)
○3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。東京証券市場では、軍需株を中心にダウ価が急落する。(スターリン暴落)
 1953年3月1日、スターリンは政権幹部らとの徹夜の夕食の後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。猜疑心の強いスターリンの性格も作用して、翌日の午後になるまで発見が遅れた。昏睡状態が続き意思疎通はできないまま、4日後危篤に陥り、死亡した。スターリンの死には謀略説もあり、計画的な暗殺だったとする説や、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に、死を早める措置をしたとか、意図的に放置したとかの噂があるが、真相は不明のままである。
 ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)は、帝政ロシア支配下のグルジア(現ジョージア 共和国)の貧しい職人の家庭に生まれ、神学校に進むもマルクス主義に近づき退校、やがて労働者となり、労働者の組織化や地下の革命活動に進む。ヨシフはグルジアでボリシェヴィキの活動家となるとともに、やがてレーニンと直接出会い認められるようになった。
 ロシア革命によりソビエトが成立すると、レーニンを補佐してトロツキーとスターリンは並び立つ存在になった。1924年レーニンが死去すると、ライバルのトロツキーを追い落としてレーニンの後継の地位に就いた。レーニンはその遺書で「猜疑心の強いスターリンを指導者にしてはならない」との旨を書いていたとされるが、遺書は握りつぶされた。
 ソ連を追放されたトロツキーは、各地を転々としたあとメキシコにまで逃亡したが、スターリンの派遣した暗殺者にピッケルで頭をぶち抜かれて暗殺された。スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。
 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリンに対する批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。
 近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。
*この年
1934年以来の大凶作/街頭テレビが大人気/蛍光灯が家庭に普及/映画「君の名は」空前の大ヒットでストールの真知子巻きが流行/うたごえ運動盛ん/テレビの流れ作業生産が始まる
【事物】森永スープ/噴流式の電気洗濯機/無線タクシー
【流行語】さんずい(汚職の隠語)/さいざんす/むちゃくちゃでござりまするがな
【歌】雪の降るまちを(高秀男)/君の名は(織井茂子)
【映画】ひめゆりの塔(今井正)/十代の性典(島耕二)/シェーン(米)/禁じられた遊び(仏)
【本】伊藤整「火の鳥」/山岡宗八「徳川家康」/ボーボワール「第二の性」

陸軍です。

2020-10-19
因みに、帝国皇軍には、空軍は存在しませんでした。
加藤隼戦闘隊の搭乗機です。
 中島 キ43 一式戦闘機 隼 (昭和14年 - 昭和20年) 
- 全長 : 8.92 m
- 全高 : 3.27 m
- 全幅 : 10.84 m
- 空虚重量 : 1 910 kg
- 最大離陸重量 : 2 925 kg
- 最大速度 : 530 km/h

零戦

2020-10-18
FacebookHiroshi Hosonoさんの投稿より
零式艦上戦闘機。日本海軍が1940年から1945年にかけて運用していた戦闘機です。開発は三菱重工業。連合国側からはゼロファイター、ジーク(Zeke)とも呼ばれていました。投入された太平洋戦争勃発前の日中戦争(支那事変)から太平洋戦争初期にかけ、3,000 kmの長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた運動性能で、米英の戦闘機に対し優勢でしたが、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となりました。しかし後継機「烈風」の開発が遅れたことにより終戦まで日本海軍航空隊の主力でした。
 開発は1937年(昭和12年)10月5日に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発します。十二試艦戦は、主力艦同士の砲撃戦を有利に進めるため、敵の弾着観測機を追い払うことが主な任務と想定されていました。日本海軍は要求仕様として高度4000mで速力270ノット(時速500km)、巡航速度で6時間以上滞空できる航続力、強力な20mm機銃の搭載などを挙げ、三菱重工業も持てる技術力をすべて投入し、それを実現しました。十二試艦戦は試作機のまま実戦に投入され、その実力を証明すると、1940(昭和15)年7月に零式艦上戦闘機として制式採用。太平洋戦争の敗戦までに1万機余りが製造され、日本の航空機史上、最大の生産機数を記録しました 。
 特に、日中戦争及び太平洋戦争前半はその運動性能と航続距離を生かし、敵戦闘機を圧倒したといわれます。操縦性もいいことから初級者にも扱いやすい機体でした。しかし、戦争半ばになると、米軍のF6FやF4U、P-38やP-47などが登場したほか、後継機の開発は致命的なまでに遅延しました。零戦自体も改良を重ねたものの装甲の薄さや、エンジンの出力限界にともなう速力不足、搭乗員の技量低下、工作精度の著しい悪化、それによる稼働率低下などもあいまって、戦闘機として急速に色褪せていきました。また一部の機体が米軍に鹵獲されたことによって機体特性が明らかになり、弱点を徹底的に突かれる戦い方が浸透したことが大きな原因でもありました。米軍は日本陸海軍に比して、こういった新戦術を誰でも分かるよう、様々なマニュアルで浸透させることが巧みであり、日本軍はソフトウェアの側面でも大幅に劣後していたのです。しかしF6Fヘルキャット等、敵新型機に全く通用しないわけではなく、1945年2月の関東防空戦では改めて零戦の格闘能力の脅威が報告されました。ポートダーウィン戦(1942年2月19日)ではイギリス軍のスピットファイアを一蹴もしています。
 マリアナ沖海戦(1944年6月19日〜20日)ではレーダーにより管制された多数の戦闘機と新兵器近接信管(VT信管)(ただし近年ではこの海戦でのVT信管の効果は疑問視されている)を配備した対空砲(VT信管使用率20%)に阻まれ大きな戦果がなく、アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島などから日本本土に襲来する新型爆撃機、ボーイングB-29の迎撃戦においては零戦の高高度性能不足で撃墜困難のため、他の戦闘機で迎撃がほとんどでした。登場時こそ高性能を誇った零戦でしたが、後継機の開発が順調に進んだ陸軍に比べ、海軍は後継機の開発がうまくいかず、零戦は終戦まで主力機として使用され、性能でもアメリカやイギリスの新鋭機に敵わなくなりました。ちなみに後継機として「烈風」が開発中でした。もっとも開発はエンジンの選定や開発チームメンバーの病気なども相まって戦時中には間に合わず、水上戦闘機から改造された局地戦闘機である「紫電改」などが後継機の代替とされました。
 日本の降伏による終戦に伴い、残存していた零戦のほとんどは破棄されましたが、破壊を免れた機体やレプリカが、日本やアメリカの各地の航空博物館や基地などで見る事ができます。一部には現在も飛行可能なレプリカもあります。

戦争と平和のモニュメントだそうです。

2020-10-17
Facebook戦艦ミズーリ記念館の投稿です。
浮かぶ戦艦ミズーリと沈んだままの戦艦アリゾナin 真珠湾

人見絹枝という生き方

2020-10-17
アムステルダム大会の思い出
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎アムステルダム 第9回オリンピック大会
*1928.7.28/ アムステルダムで第9回オリンピック大会が開催される。
 第9回夏季オリンピックは、1928年7月28日から8月12日まで、オランダのアムステルダムで開催された。日本は第5回スウェーデンのストックホルム大会で初参加、第7回ベルギーのアントワープ大会、第8回パリ大会と(第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のため中止)、参加経費などの工面に苦労しながらも参加を続けてきたが、その成果はこのアムステルダム大会で発揮された。
 陸上競技三段跳びで織田幹雄、競泳200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得。また、この大会から初めて女子の陸上競技への参加が認められ、日本から女子選手として唯一人参加した人見絹枝は、800m走で女子初めて銀メダルを獲得した。最終的に日本選手団は、金2、銀2、銅1、入賞者合計では11名と大活躍をみせた。
 この大会から初めて女性の参加が認められたほか、聖火が大会を通じて継続して燃やされた最初の大会でもあった。またコカ・コーラ社が初の大会スポンサーとなって、コカ・コーラが参加関係者に支給されるなどした。しかし、この時期の大会ではアマチュアリズムが徹底され、トップ選手のプロ化が進みつつあったテニスは実施競技から除外された。またこの大会で通算9個目の金メダルを獲得したフィンランドの中長距離陸上選手パーヴォ・ヌルミは、後の賞金大会に出たという理由から、以降の五輪参加を認められず最後の金となった。
 女子でたった一人日本から参加した人見絹枝は、100m走、200m走、走幅跳びで世界記録を出すなど、日本女子アスリートの先駆者であった。アムステルダム五輪では得意の走り幅跳びや200m走は実施されず、事実上100m走に絞って出場したが準決勝4位で敗退してしまう。そこで人見は、それまで走ったことのない800m走への出場を急遽決め、決勝ではドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
 アムステルダム五輪後も、人見は競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面などに忙殺された。1930年には、国際女子オリンピック大会への遠征費捻出のために、幾つもの国内の競技に出場しながら募金活動に駆けずり回り、さらに一ヵ月以上かけての船便で欧州に向うと、女子選手団を率いて、プラハでの国際女子競技大会をメインに欧州を転戦。半月の内に5つの大会が集中するなどして、肉体的精神的に疲労困憊、人見は体調を崩しながらも競技に出場し奮闘した。
 帰りの海路ですでに体調は悪化していたが、年末に帰国した後も遠征報告や募金へのお礼などで走り回り、その過労がたたり翌3月に喀血、結核性肋膜炎で阪大病院に入院、8月2日結核からくる肺炎を併発して死去、享年24。奇しくも、アムステルダム800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であったという。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。

闘いの転機

大将の自刃

2020-09-13
大正元年9月13日、乃木は明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった。
當時警視廰警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺體の状況などについて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している。
1.乃木は、大正元年9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に當てて、氣道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。

東京ローズ

2020-09-07
○4.1 日本放送協会が、米軍兵士向けに「ゼロ・アワー」の放送を開始する。女性ディスクジョッキーが人気を集め「東京ローズ」と呼ばれる。
 太平洋戦争中、日本放送協会は「ラジオ・トウキョウ放送」として、連合国軍向けプロパガンダ放送を行っていた。当初「日の丸アワー」として、連合国軍の捕虜に軍部が用意した原稿を読ませるといった稚拙なものだったが、やがて捕虜の中でもアナウンサー経験のあるものを選んで、「ゼロ・アワー」と名称変更し、音楽と語りをとり合わせたディスクジョッキー風の放送を流し始めた。
 やがて「ゼロ・アワー」は、英語を話す女性MCを前面に出して、太平洋前線の米軍兵士に評判となり、終戦の前日まで放送された。甘く魅了する声や口調で語りかけながら、「今ごろ故郷の奥さんや恋人は他の男性と宜しくやっているでしょうね、兵役ごくろうさま」などと棘のある内容を話す声の主に、アメリカ兵たちはいつしか「東京ローズ」との愛称で呼ぶようになった。
 ゼロ・アワーに参加した女性アナウンサーは複数存在したが、声だけしか聴いていない米軍兵士の証言はまちまちで、誰が「東京ローズ」に該当するのかは特定されていない。戦後、日本を占領したアメリカ軍は、ゼロ・アワーの関係者を捕らえるべく探しはじめたが、戦後の混乱の中で関係者を見つけるのは困難であった。
 そこである従軍記者が、東京ローズが取材に応じたら破格のギャラを出すとの告知をして、唯一申し出たのが「アイバ・戸栗・ダキノ」という日系二世であった。彼女は1943年11月からアナウンサーに加わって、自ら「孤児のアン」(Orphan Anne)という愛称を名乗っていたという。米国生まれの二世で、開戦直前に日本の叔母の見舞いのために訪日したが、すぐに日米開戦により帰国できなくなった。
"Tokyo Rose", Tokyo, Japan, 09/20/1945> https://www.youtube.com/watch?v=Cdqiky9WJHU
 東京ローズ現るとの報が駆け巡ると、かつて彼女の声に魅了された元兵士たちは色めき立った。しかしその容姿はともかく、彼女の声は兵士たちの聴いた東京ローズの声とはかけ離れていたようだ。たしかに彼女は「東京ローズの一人」であることは間違いなかったが、兵士たちの耳にはそれぞれ別々の「東京ローズ」が存在したというわけであろう。
 独占取材契約に反したとしてギャラは支払われず、その上、勧められても日本国籍の取得を拒み米国籍を維持したゆえに、米国に送還され米国籍者としての国家反逆罪、禁錮10年の上にアメリカ市民権を剥奪されることになる。かつての同僚たちの評によると、自己主張が強くかなり我儘な性格だとされるが、これも米人として育った個人主義的な性格ゆえともいえるかもしれない。1977年になってやっと、むしろ敵国で「米国籍を守り続けた愛国的市民」として、大統領特赦によりアメリカの国籍と名誉を回復した。
 これと同じく「ドイツ版トウキョウローズ」も存在した。ナチスドイツの謀略放送に従事したアメリカ人女性で、ミルドレッド・エリザベスと言い、女優を夢見てドイツに渡るもベルリン放送局にアナウンサーとして採用され、結果的にナチの宣伝放送に従事した女性であった。連合国軍兵士からの愛称は「枢軸サリー」であったという。
 さらにヨーロッパ戦線では、数奇な運命をたどった「リリー・マルレーン」という曲がある。ドイツのララ・アンデルセンの曲だが、レコードはまったく売れずヒットもしなかった。しかしそのレコードが、たまたま東欧のドイツ前線放送局にあり、それを流したところ、故郷の恋人を懐かしむ兵士たちが涙を流して聴いたという。ドイツ軍兵士のみならず、対峙する英国軍など連合国兵士の間でも評判となった。互いに敵対する兵士たちが、同じ曲を聴いて故郷の家族を想いうかべるという姿は悪くない。ドイツからアメリカに渡ったマレーネ・ディートリッヒが大ヒットさせ、ヨーロッパ戦線の米軍兵士たちを慰問してまわった。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎」

終りました。 9月2日の事でした。

2020-09-07
Facebook英霊の本日の出来事
昭和20年9月2日の本日、米艦ミズーリ號で降伏文書に調印致しました。
昭和20年9月2日、日本と聯合國との間で交わされた休戰協定(停戰協定)の名称。
この協定によりポツダム宣言の受諾は外交文書上固定された。
「概要」
ポツダム宣言受諾が公表された玉音放送からおよそ半月後の9月2日、東京灣上の亜米利加戰艦ミズーリ前方甲板上において調印された。
日本側は、天皇および大日本帝國政府の命により、かつ、その名において重光葵外務大臣が、また大本營の命により、かつ、その名において梅津美治郎参謀総長が署名した。
聯合國側は聯合國軍最高司令官ダグラス・マッカーサーのほか、亜米利加合衆國代表チェスター・ニミッツ、中華民國代表徐永昌、英吉利代表ブルース・フレーザー、ソビエト聯邦代表クズマ・デレヴャーンコ (en) 、濠太剌利代表トーマス・ブレイミー (en) 、加奈陀代表ムーア・ゴスグローブ (en) 、仏蘭西代表フィリップ・ルクレール、阿蘭陀代表コンラート・ヘルフリッヒ (en) 、新西蘭代表レナード・イシット (en) が署名した。
内容は以下のとおり。
その所在地に関わらず日本軍全軍へ無條件降伏布告。
全指揮官はこの布告に従う
日本軍と國民へ敵對行為中止を命じ、船舶・航空機、軍用非軍用を問わず財産の毀損を防ぎ聯合國軍最高司令官及びその指示に基づき日本政府が下す要求・命令に従わせる
その所在地に関わらず日本の支配下にある全ての國の軍隊に無條件降伏させる
公務員と陸海軍の職員は日本降伏のために聯合國軍最高司令官が実施・發する命令・布告・その他指示に従う 非戰斗任務には引き続き服する
ポツダム宣言の履行及びそのために必要な命令を發しまた措置を取る
天皇及び日本國政府の國家統治の権限は本降伏條項を実施する為適當と認める処置を執る聯合國軍最高司令官の制限の下に置かれる
日本政府と大本營は捕虜として抑留している聯合軍将兵を即時解放し必要な給養を受けさせる
これを受けて昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を發した(原文は段落がなく全て繋がっている)。
朕ハ昭和二十年七月二十六日米英支各國政府ノ首班カポツダムニ於テ發シ後ニ蘇聯邦カ参加シタル宣言ノ掲フル諸條項ヲ受諾シ、帝國政府及大本營ニ對シ、聯合國最高司令官カ提示シタル降伏文書ニ朕ニ代リ署名シ且聯合國最高司令官ノ指示ニ基キ陸海軍ニ對スル一般命令ヲ發スヘキコトヲ命シタリ
朕ハ朕カ臣民ニ對シ、敵對行為ヲ直ニ止メ武器ヲ措キ且降伏文書ノ一切ノ條項並ニ帝國政府及大本營ノ發スル一般命令ヲ誠実ニ履行セムコトヲ命ス
御名御璽
昭和二十年九月ニ日
(東久邇宮内閣閣僚全員聯署)
「降伏文書調印式」
英吉利海軍提督ブルース・フレーザー卿(英吉利海軍太平洋艦隊司令官)は8月16日にミズーリに乗艦し、ハルゼー提督に大英帝國勲章を授与した。
ミズーリは8月21日に東京に上陸する占領部隊のため200名の士官及び兵士をアイオワに移乗させた。
その後8月29日に降伏調印式準備のため東京灣に入った。
大日本帝國の降伏文書調印式は、9月2日に東京灣(中の瀬水道中央部千葉縣よりの海域)に停泊するミズーリの甲板上で行われ、亜米利加合衆國、英吉利、仏蘭西、阿蘭陀、中華民國、加奈陀、ソビエト、濠太剌利、新西蘭が調印して日本の降伏を受け入れた。
全ての聯合國軍高官がミズーリに乗艦した。
チェスター・ニミッツ海軍元帥は8:00直後に乗艦した。
聯合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥は8:43に乗艦し、日本側全権代表團は8:56に到着した。
代表團は重光葵外務大臣(政府全権)と梅津美治郎参謀総長(大本營全権)、随員は参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、終戰聯絡中央事務局長官岡崎勝男、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(豊田副武軍令部総長は出席拒否、次長の大西瀧治郎中将は自決)、内閣情報局第三部長加瀬俊一(しゅんいち)、大本營陸軍参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、終戰聯絡中央事務局第三部長太田三郎、大本營海軍参謀柴勝男海軍大佐、大本營陸軍参謀杉田一次陸軍大佐であった。
9:02にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送された。
式中ミズーリの甲板は2枚の星条旗で飾られた。
1枚は真珠灣攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物(48州の星が描かれた星条旗)、もう1枚は1853年の黒船来航で江戸灣に現れたマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた物(31州の星が描かれた星条旗)であり、このうちペリー提督の星条旗については黒船来航の結果、當時の江戸幕府が日米和親條約を締結したという結果からすると、むしろ戰前の日米友好時代の象徴であるため、この古い旗を掲げた理由そのものの道理が通っておらず、降伏調印の場に掲げるのは不自然であるとする指摘が戰後日米双方の戰史専門家からなされている。
マッカーサー元帥は5本のペンを取り出して交代で文書に調印し、コレヒドール島で自分に代わって指揮をとったウェンライト、新嘉坡で降伏したパーシバル、ウェストポイント陸軍士官學校、アナポリス海軍兵學校にそれぞれ1本ずつ贈り、1本は妻のジェーンに残したという話は有名である。
なお、9:25の調印式終了とともに亜米利加海軍機の編隊と陸軍航空軍のB-29爆撃機が祝賀飛行を行ったが、そのとき甲板では加奈陀代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ國代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。
具体的には、聯合國用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書に加奈陀代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自國の署名欄ではなく1段飛ばした仏蘭西代表團の欄に署名した。
しかし、次の代表である仏蘭西のフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかず阿蘭陀代表の欄に署名、続く阿蘭陀のコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々新西蘭代表の欄に署名した。
最後の署名となる新西蘭のレナード・イシット少将も亜米利加側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果的に加奈陀代表の欄が空欄となった。
その後、マッカーサー元帥の調印式終了宣言が行われ、各國代表は祝賀會の為に船室に移動したが、阿蘭陀代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表團の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。
岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザーランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の條約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザーランド中将に各國代表の署名し直しを求めた。
しかし、各國代表はすでに祝賀會の最中だとしてこれを拒否。
結局、マッカーサー元帥の代理としてサザーランド中将が間違った4カ國の署名欄を訂正することとなった。
日本側代表團はこれを受け入れ、9:30に退艦した。
9月5日の午後、ハルゼー提督は旗艦をサウスダコタに移し、翌日早朝ミズーリは東京灣を出航した。
途中グアム島で乗客を乗せ、続いて随行艦なしで布哇の真珠灣に9月20日到着した。
9月28日の午後にはニミッツ提督の提督旗を掲揚した。
尚、終戰時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を聯合國側に通知した瑞西駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)(1956年死去)と加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)はとは同姓同名の別人である。
加瀬 俊一(かせ としかず)は日本の外交官、外交評論家。
第二次欧州大戰前後に活躍し、國際聯合加盟後初の國聯大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問などを歴任した。
外交評論家の加瀬英明は息子。
外務省内では入省年度が早い(1920年入省)瑞西駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)と区別するため「小加瀬」とも称された。
(ウィキペディア参照。)

東京大空襲、そして沖縄戦

2020-09-18
Facebook佐々木信雄さんのコメントより
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』
(東京大空襲・沖縄戦)
○3.10 東京大空襲。
○4.1 [沖縄] 米軍が沖縄本島に上陸を開始する。
○7.2 米軍による沖縄戦終結宣言。
 沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。太平洋戦争において、日米軍の最大規模かつ最後の戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日開始6月23日に終了した。
 アメリカ軍の目的は、対日本本土爆撃のための航空基地確保と日本本土進攻の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて和平に持ち込むことを狙ったのに対し、現地軍司令部は本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」としていた。現地第32軍は、サイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を選んだ。
 3月下旬からの、沖縄周辺諸島や本島への空爆など予備的な攻撃から、4月1日朝、アメリカ軍は沖縄本島への上陸作戦を開始した。日本軍は、那覇市のある宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針で、水際作戦を放棄したため、手薄な中西部沿岸地域に上陸に成功したアメリカ軍は、4月3日までに東岸に達し、日本軍は沖縄本島南北に分断された。日本軍は本島南部を主戦場とする予定の為、北部は手薄で、アメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけ、4月22日までに沖縄本島北部の制圧は完了した。
 日本軍は首里城(那覇市)地下に置かれた司令部を中心とし、沖縄本島南部での持久戦術を採ったため、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里の司令部を目指して南進するが、途中の各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止、戦線は膠着状態に陥った。米軍は4月19日から23日にかけて総攻撃を加え、双方大きな損害を被ったが、日本軍は首里防衛ラインの外郭を突破されて、防衛線の再構築を迫られた。
 沖縄防衛戦の初めから、もはや日本艦船隊は壊滅しており、航空機による特攻頼りであった。しかし米海軍にとってこの「カミカゼ」特攻は脅威であり、多大な損失を受けるとともに、兵士に心理的恐怖を呼び起こしていた。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、日本軍の抵抗にあっている陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、上陸部隊司令官サイモン・バックナー陸軍中将がわざと慎重な手法を使っていると疑うなど、陸海軍の間に不協和音が生れつつあった。
 その後も、相互に総攻撃を行うなど激しい攻防を繰り返したが、籠城戦の日本軍は徐々に戦力を失い、5月27日、牛島司令官は首里の司令部を後退させる。日本軍は南部に撤退して抗戦したが、6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは、8月15日終戦告知のさらにあとの9月7日であった。
 沖縄戦では、本土との海上交通が阻害されたため、沖縄守備隊は現地の人的・物的資源の戦力化を強引に進めた。日本軍は兵力不足を補うために戦闘員として、住民を根こそぎ動員した。正規の動員以外に、在郷軍人会などによる自主参加が建前の義勇隊なども組織され、中学校や女学校に在籍する生徒も防衛召集や「志願」による生徒隊として軍組織に組み込まれた。これらは「防衛隊」「鉄血勤皇隊」「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などと呼称され、悲惨な状況に従事した。
 戦闘員以外にも、軍事関係などに徴用されて工場労働や農作業などに従事させられ、男女を問わず、また対象年齢外の老人や国民学校の児童らも「自主参加」の形で作業に従事することになった。そして戦闘に巻き込まれて死亡する民間人も、日本本土とは比較にならないほどの割合となった。軍の指示により多くの住民が南部に避難していたが、そこへ敗走して来た兵士たちが紛れ込み収拾が取れない混乱となった。米軍の掃討作戦が始まると、捕虜になるなと指示されていた住民たちは集団自殺するなど、沖縄戦における住民戦没者全体の6割が、日本軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっているとされる。
*この年
戦災による文化財の被害甚大/メチルアルコール中毒の死亡者続出/日本人の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳/第1回宝くじ売り出し
【事物】国産ジェットエンジン/ズルチン(砂糖の代用)/輪タク
【流行語】神州不滅/虚脱状態/ピカドン(原爆)/1億総懺悔/たけのこ生活
【歌】お山の杉の子(安西愛子ほか)/リンゴの歌(並木路子)
【映画】勝利の日まで(成瀬巳喜男)/そよ風(佐々木康)/ユーコンの叫び(米・戦後初の洋画)
【本】太宰治「お伽草紙」/火野葦平「陸軍」「悲しき兵隊」/誠文堂新光社「日米会話手帳」(360万部売上)

硫黄島の戦い

2020-09-17
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』
(硫黄島陥落)
○2.4 ヤルタ会談 / Fルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)。
○2.16 [小笠原諸島] 米艦隊が硫黄島に徹底攻撃を開始。3月25日、日本軍守備隊が玉砕する。
 1944年8月グアム島をほぼ制圧し、同年12月にフィリピンのレイテ島を陥落させた連合国軍は、日本本土への攻撃拠点として、小笠原諸島南端に位置する火山島「硫黄島」に戦略目標を定めた。硫黄島の攻略は、沖縄上陸および日本本土戦略爆撃が実現可能となる重要なステップとされた。
 1945年2月16日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。前哨戦に続き、19日明け方から猛烈な艦砲射撃が始まり、さらに爆撃機および艦載機による銃爆撃が続くと、午前9時、第1波が上陸を開始して、本格的な上陸戦が展開された。水際での日本軍の抵抗は少なく、海兵隊は円滑に上陸し前進したが、日本軍は地下坑道に潜み艦砲射撃に耐えて、10時過ぎになってから一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。
 19日だけで米海兵隊は500名以上の戦死者を出したが、夕方までには圧倒的な兵力で海岸堡を築き東海岸線への上陸を果たした。翌20日以降、島南端にある摺鉢山の要塞と、島中央北部の飛行場のある元山方面とに分かれて侵攻開始したが、摺鉢山の戦いは熾烈を極めた。張り巡らした地下坑道に潜伏し、ゲリラ的に反撃を加える日本軍に対し、米軍は坑道入り口から火炎放射器を浴びせたり、入り口をブルドーザでふさぎ上部に開けた穴からガソリンを流し込み焼き尽くす「馬乗り攻撃(日本兵側の呼称)」などで、逐一つぶしていった。
 23日午前、アメリカ軍は攻撃開始後7日目にしてようやく擂鉢山を制圧し、山頂に到達した海兵師団兵士が付近で拾った鉄パイプを旗竿にして星条旗を掲揚した。しかしその星条旗はみすぼらしくその場面を確認した者も少なかったので、あらためて別の兵士たちによって大きな星条旗を掲揚するシーンを、従軍専属カメラマンに撮らせたものが有名な「硫黄島の星条旗」として残された。その写真をもとにして、アーリントン国立墓地の近くの「合衆国海兵隊戦争記念碑」は作成されている。
 栗林忠道陸軍中将指揮下の守備軍は、3月5日戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移したが、7日、米海兵師団は奇襲を断行し中央突破、日本軍を島の北部と東部に分断した。この日、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発する。戦訓電報は、戦況を分析し、のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送るものであるが、栗林は恩師にあたる蓮沼蕃侍従武官長にも宛てている。この電文は客観的合理的な提言であるが、参謀本部に握りつぶされることを危惧したためと言われる。
 栗林中将は無意味なバンザイ攻撃を許さず、最後まで可能な限り組織的攻撃をすべしと命じた。しかしいよいよ追い詰められると、16日栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。17日、大本営はその多大な功績を認め日本軍最年少の大将に昇進させるが、栗林は同日に、最後の総攻撃を企図し各部隊へ最後の指令を送った。
 しかし出撃の機会が見つけられず転進したのち、26日栗林大将は最後の反攻を敢行する。栗林大将以下、残された約400名の将兵はアメリカ軍陣地へ攻撃をかけたが、この最後の攻撃は決して万歳突撃ではなく、最大限の打撃をあたえる決死の夜襲であった。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は混乱に陥り、200名以上の死傷者を出したとされる。
 また、予科練育ての親とも言われた市丸利之助海軍少将は、途中から合流し総攻撃に加わったが、遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、英訳させたものとを部下とともに懐中して戦死した。米軍が将校の遺体を検査することを見越して携行したもので、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、アメリカの新聞にも掲載された。それは、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げつつ共産主義ソ連と連携する連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
 末期的な前線における栗林中将や市丸少将の冷静な論述は、国民に知らされることなく、大本営は3月21日、硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」・・・栗林や市丸の理知的な思考を、参考にさえできなかったのは誰なのか。
 日本軍には増援や救援の具体的な計画はもとよりなく、硫黄島守備兵力2万名はほぼ玉砕戦死。一方、アメリカ軍の戦死・戦傷は3万近くにおよび、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍の被害が日本軍を上回った稀有な戦いであった。また、硫黄島上陸とほぼ同時に始められた、対ドイツのノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦屈指の最激戦として米国でも認識されている。
*硫黄島の戦いは日米双方の映画・テレビのドラマで取上げられている。クリント・イーストウッド監督は、日米双方の視点から連作として描いた。
『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ) https://www.youtube.com/watch?v=WQfpHrHx_Oc
『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙) https://www.youtube.com/watch?v=0x54bOTdJA0
*この年
戦災による文化財の被害甚大/メチルアルコール中毒の死亡者続出/日本人の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳/第1回宝くじ売り出し
【事物】国産ジェットエンジン/ズルチン(砂糖の代用)/輪タク
【流行語】神州不滅/虚脱状態/ピカドン(原爆)/1億総懺悔/たけのこ生活
【歌】お山の杉の子(安西愛子ほか)/リンゴの歌(並木路子)
【映画】勝利の日まで(成瀬巳喜男)/そよ風(佐々木康)/ユーコンの叫び(米・戦後初の洋画)
【本】太宰治「お伽草紙」/火野葦平「陸軍」「悲しき兵隊」/誠文堂新光社「日米会話手帳」(360万部売上)
TOPへ戻る