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闘いの歴史

闘いの記録

訃報です。

2020-10-18
3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
『Get Back! 50's / 1953年(s28)』
(スターリン死去)
○3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。東京証券市場では、軍需株を中心にダウ価が急落する。(スターリン暴落)
 1953年3月1日、スターリンは政権幹部らとの徹夜の夕食の後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。猜疑心の強いスターリンの性格も作用して、翌日の午後になるまで発見が遅れた。昏睡状態が続き意思疎通はできないまま、4日後危篤に陥り、死亡した。スターリンの死には謀略説もあり、計画的な暗殺だったとする説や、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に、死を早める措置をしたとか、意図的に放置したとかの噂があるが、真相は不明のままである。
 ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)は、帝政ロシア支配下のグルジア(現ジョージア 共和国)の貧しい職人の家庭に生まれ、神学校に進むもマルクス主義に近づき退校、やがて労働者となり、労働者の組織化や地下の革命活動に進む。ヨシフはグルジアでボリシェヴィキの活動家となるとともに、やがてレーニンと直接出会い認められるようになった。
 ロシア革命によりソビエトが成立すると、レーニンを補佐してトロツキーとスターリンは並び立つ存在になった。1924年レーニンが死去すると、ライバルのトロツキーを追い落としてレーニンの後継の地位に就いた。レーニンはその遺書で「猜疑心の強いスターリンを指導者にしてはならない」との旨を書いていたとされるが、遺書は握りつぶされた。
 ソ連を追放されたトロツキーは、各地を転々としたあとメキシコにまで逃亡したが、スターリンの派遣した暗殺者にピッケルで頭をぶち抜かれて暗殺された。スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。
 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリンに対する批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。
 近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。
*この年
1934年以来の大凶作/街頭テレビが大人気/蛍光灯が家庭に普及/映画「君の名は」空前の大ヒットでストールの真知子巻きが流行/うたごえ運動盛ん/テレビの流れ作業生産が始まる
【事物】森永スープ/噴流式の電気洗濯機/無線タクシー
【流行語】さんずい(汚職の隠語)/さいざんす/むちゃくちゃでござりまするがな
【歌】雪の降るまちを(高秀男)/君の名は(織井茂子)
【映画】ひめゆりの塔(今井正)/十代の性典(島耕二)/シェーン(米)/禁じられた遊び(仏)
【本】伊藤整「火の鳥」/山岡宗八「徳川家康」/ボーボワール「第二の性」

陸軍です。

2020-10-19
因みに、帝国皇軍には、空軍は存在しませんでした。
加藤隼戦闘隊の搭乗機です。
 中島 キ43 一式戦闘機 隼 (昭和14年 - 昭和20年) 
- 全長 : 8.92 m
- 全高 : 3.27 m
- 全幅 : 10.84 m
- 空虚重量 : 1 910 kg
- 最大離陸重量 : 2 925 kg
- 最大速度 : 530 km/h

零戦

2020-10-18
FacebookHiroshi Hosonoさんの投稿より
零式艦上戦闘機。日本海軍が1940年から1945年にかけて運用していた戦闘機です。開発は三菱重工業。連合国側からはゼロファイター、ジーク(Zeke)とも呼ばれていました。投入された太平洋戦争勃発前の日中戦争(支那事変)から太平洋戦争初期にかけ、3,000 kmの長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた運動性能で、米英の戦闘機に対し優勢でしたが、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となりました。しかし後継機「烈風」の開発が遅れたことにより終戦まで日本海軍航空隊の主力でした。
 開発は1937年(昭和12年)10月5日に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発します。十二試艦戦は、主力艦同士の砲撃戦を有利に進めるため、敵の弾着観測機を追い払うことが主な任務と想定されていました。日本海軍は要求仕様として高度4000mで速力270ノット(時速500km)、巡航速度で6時間以上滞空できる航続力、強力な20mm機銃の搭載などを挙げ、三菱重工業も持てる技術力をすべて投入し、それを実現しました。十二試艦戦は試作機のまま実戦に投入され、その実力を証明すると、1940(昭和15)年7月に零式艦上戦闘機として制式採用。太平洋戦争の敗戦までに1万機余りが製造され、日本の航空機史上、最大の生産機数を記録しました 。
 特に、日中戦争及び太平洋戦争前半はその運動性能と航続距離を生かし、敵戦闘機を圧倒したといわれます。操縦性もいいことから初級者にも扱いやすい機体でした。しかし、戦争半ばになると、米軍のF6FやF4U、P-38やP-47などが登場したほか、後継機の開発は致命的なまでに遅延しました。零戦自体も改良を重ねたものの装甲の薄さや、エンジンの出力限界にともなう速力不足、搭乗員の技量低下、工作精度の著しい悪化、それによる稼働率低下などもあいまって、戦闘機として急速に色褪せていきました。また一部の機体が米軍に鹵獲されたことによって機体特性が明らかになり、弱点を徹底的に突かれる戦い方が浸透したことが大きな原因でもありました。米軍は日本陸海軍に比して、こういった新戦術を誰でも分かるよう、様々なマニュアルで浸透させることが巧みであり、日本軍はソフトウェアの側面でも大幅に劣後していたのです。しかしF6Fヘルキャット等、敵新型機に全く通用しないわけではなく、1945年2月の関東防空戦では改めて零戦の格闘能力の脅威が報告されました。ポートダーウィン戦(1942年2月19日)ではイギリス軍のスピットファイアを一蹴もしています。
 マリアナ沖海戦(1944年6月19日〜20日)ではレーダーにより管制された多数の戦闘機と新兵器近接信管(VT信管)(ただし近年ではこの海戦でのVT信管の効果は疑問視されている)を配備した対空砲(VT信管使用率20%)に阻まれ大きな戦果がなく、アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島などから日本本土に襲来する新型爆撃機、ボーイングB-29の迎撃戦においては零戦の高高度性能不足で撃墜困難のため、他の戦闘機で迎撃がほとんどでした。登場時こそ高性能を誇った零戦でしたが、後継機の開発が順調に進んだ陸軍に比べ、海軍は後継機の開発がうまくいかず、零戦は終戦まで主力機として使用され、性能でもアメリカやイギリスの新鋭機に敵わなくなりました。ちなみに後継機として「烈風」が開発中でした。もっとも開発はエンジンの選定や開発チームメンバーの病気なども相まって戦時中には間に合わず、水上戦闘機から改造された局地戦闘機である「紫電改」などが後継機の代替とされました。
 日本の降伏による終戦に伴い、残存していた零戦のほとんどは破棄されましたが、破壊を免れた機体やレプリカが、日本やアメリカの各地の航空博物館や基地などで見る事ができます。一部には現在も飛行可能なレプリカもあります。

戦争と平和のモニュメントだそうです。

2020-10-17
Facebook戦艦ミズーリ記念館の投稿です。
浮かぶ戦艦ミズーリと沈んだままの戦艦アリゾナin 真珠湾

人見絹枝という生き方

2020-10-17
アムステルダム大会の思い出
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎アムステルダム 第9回オリンピック大会
*1928.7.28/ アムステルダムで第9回オリンピック大会が開催される。
 第9回夏季オリンピックは、1928年7月28日から8月12日まで、オランダのアムステルダムで開催された。日本は第5回スウェーデンのストックホルム大会で初参加、第7回ベルギーのアントワープ大会、第8回パリ大会と(第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のため中止)、参加経費などの工面に苦労しながらも参加を続けてきたが、その成果はこのアムステルダム大会で発揮された。
 陸上競技三段跳びで織田幹雄、競泳200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得。また、この大会から初めて女子の陸上競技への参加が認められ、日本から女子選手として唯一人参加した人見絹枝は、800m走で女子初めて銀メダルを獲得した。最終的に日本選手団は、金2、銀2、銅1、入賞者合計では11名と大活躍をみせた。
 この大会から初めて女性の参加が認められたほか、聖火が大会を通じて継続して燃やされた最初の大会でもあった。またコカ・コーラ社が初の大会スポンサーとなって、コカ・コーラが参加関係者に支給されるなどした。しかし、この時期の大会ではアマチュアリズムが徹底され、トップ選手のプロ化が進みつつあったテニスは実施競技から除外された。またこの大会で通算9個目の金メダルを獲得したフィンランドの中長距離陸上選手パーヴォ・ヌルミは、後の賞金大会に出たという理由から、以降の五輪参加を認められず最後の金となった。
 女子でたった一人日本から参加した人見絹枝は、100m走、200m走、走幅跳びで世界記録を出すなど、日本女子アスリートの先駆者であった。アムステルダム五輪では得意の走り幅跳びや200m走は実施されず、事実上100m走に絞って出場したが準決勝4位で敗退してしまう。そこで人見は、それまで走ったことのない800m走への出場を急遽決め、決勝ではドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
 アムステルダム五輪後も、人見は競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面などに忙殺された。1930年には、国際女子オリンピック大会への遠征費捻出のために、幾つもの国内の競技に出場しながら募金活動に駆けずり回り、さらに一ヵ月以上かけての船便で欧州に向うと、女子選手団を率いて、プラハでの国際女子競技大会をメインに欧州を転戦。半月の内に5つの大会が集中するなどして、肉体的精神的に疲労困憊、人見は体調を崩しながらも競技に出場し奮闘した。
 帰りの海路ですでに体調は悪化していたが、年末に帰国した後も遠征報告や募金へのお礼などで走り回り、その過労がたたり翌3月に喀血、結核性肋膜炎で阪大病院に入院、8月2日結核からくる肺炎を併発して死去、享年24。奇しくも、アムステルダム800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であったという。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。

闘いの転機

ヤルタ会談

2020-09-17
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』 (硫黄島陥落) ○2.4 ヤルタ会談 / Fルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)。

玉砕

2020-09-16
中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決
6月15日アメリカ軍は、上陸支援艦の支援射撃の下に、島南部の海岸から上陸作戦を実行した。日本軍は奮戦したものの、その結末は悲惨なものとなった。当初、楽勝すると安閑としていた大本営は、6月17日未明の日本軍総攻撃の失敗の報に接し、あわてて増援を派遣しようとするがままならず、近海でのマリアナ沖海戦では海軍力を壊滅的に失っており、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には、サイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。
 サイパン最大の市街地ガラパンが占領されると、陸海軍合同司令部は島北部へ退却を続けつつ、7月7日をもって全軍で玉砕突撃とする事を決めた。そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決すると、残された日本兵士は、米軍が「バンザイ突撃」と名付けた白兵突撃が行われた。

山下奉文

2020-10-09
Facebook佐々木信雄さんの投稿
1942.2.15 [シンガポール] 日本軍が英領シンガポールを占領する。
 前年12月、英国への宣戦布告前にマレー作戦を開始していた日本軍は、1942年1月末には英領のマレー半島を占領、2月始めにはシンガポールを目指した。シンガポールには、大英帝国アジア支配の拠点として、東南アジア最大の植民地軍と最強といわれた要塞がおかれていた。
 前年末の「マレー沖海戦」では、英国海軍が切り札として出撃させた戦艦プリンス・オブ・ウェールズなどが撃沈されており、制海制空権は日本軍が優勢であった。さらにマレー半島を占領されてしまった英国軍は、残されたシンガポールにこもって防衛戦に徹するしかなくなっていた。兵力人員は拮抗していたが、勢いと装備にまさった日本軍は、シンガポール市街をほぼ包囲し降伏を迫った。2月15日、日本軍に最終防衛線を突破された敵将「アーサー・パーシバル」中将は、13万の残存兵と共に降伏、これは英国史上最大規模の降伏であった。
 この時、降伏交渉の席で対面したのがマレーの虎と呼ばれた猛将「山下奉文」中将であり、敵将パーシバル中将に対して、机を叩きながら「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話が報道され、一躍有名になった。実際には、通訳を交えたまどろっこしいやり取りのなか、「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という冷静に言った趣旨を、通訳がうまく伝えられないことに苛立って放った言葉であったという。
*山下/パーシバル会談 https://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI
 シンガポール占領時には「シンガポール華僑粛清事件」というものが引き起こされる。シンガポールには華僑が多く住み、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると考え、山下奉文軍司令官は、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長鈴木宗作中将、軍参謀辻政信中佐が指示し、辻参謀が作戦の監督役とされた。
 シンガポール在住の成人男子華僑は全員集められ、抗日分子かどうか選別されたが、その選別は困難なうえに期日を定められていたため、かなり雑になった。ここでも、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と檄を飛ばすなどしたため、期日に終了させるために員数合わせ的な処刑も行われたという。
 山下奉文は、その後、敗色濃厚なマニラ防衛指揮官として派遣され、終戦後、戦犯とされマニラでの軍事裁判で死刑判決を受ける。その罪状は、この「シンガポール華僑粛清事件」とマニラ市街戦中に起きた「マニラ大虐殺」の指揮官としてのもので、現地で絞首刑を執行される。シンガポールの現場で処刑をあおってまわった辻政信は、終戦時にはインドシナから中国に潜伏して、戦犯を免れた。

牟田口廉也

2020-09-18
日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。
自分のせいではなく、部下の無能さのせい
牟田口廉也は、終戦直前に予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に内地で敗戦を迎えた。A級戦犯に指名されるも不起訴になり、別の下級シンガポール軍事法廷に送致されて有罪とされるも、2年で釈放されている。戦後しばらくは公の場に顔を出さず反省の意を示していたが、ほとぼりが冷めると、戦時中と同様に「自分のせいではなく、部下の無能さのせい」と自説を繰り返したという。
 結果的に負け戦の将だったため、敵兵や現地住民を殺したり残虐行為をはたらく機会が少なかったのが幸いし、敵国やGHQの手で戦犯として問われた罪は軽かった。しかしながら、下級参謀だった辻正信などと同様、多数の日本人兵士を死地に追いやった罪は、ついに日本国民自身の手で問われることはなかった。
【牟田口司令官の作戦指導の実像】
牟田口司令官が考案した補給不足打開作戦は、牛・山羊などの「駄牛中隊」を編成し、必要に応じてそれを食料に転用する「ジンギスカン作戦」というものであったが、牛や山羊は急流渡河時に多くが流され、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な山地で、兵士の口に入る前にほとんどが失われた。そして人力で運ぶしかなくなった重砲・重火器は、行く手の険しい地形に阻まれるなど、前線で敵軍と向かい合う前に、ほとんどの戦闘力を消耗している始末だった。

廣島大本営

2020-09-15
Facebook英霊の本日の出来事9l
 
明治27年9月15日の本日、廣島に大本營を設置致しました。
明治27年に勃發した日清戰爭の戰爭指揮のために廣島縣廣島市の廣島城(現中区基町)内に設置された、大日本帝國軍の最高統帥機關である大本營である。
「概要」
大本營は明治26年5月19日に勅令第52號戰時大本營條例によって法制化された制度であり、日清戰爭において初めて設置された。
このときの大本營は明治27年6月5日に、東京の参謀本部内に設置され、同年8月1日に皇居内に移った。
その後、當時東京を起点とする鐵道網の西端であったこと(廣島駅)、また大型船が運用出来る港(宇品港(現・廣島港))が有ったことで、前線に向かう兵站基地となった廣島市に移ることとなった。
明治27年9月13日に大本營が宮中からこの地に移転し、2日後の9月15日には戰爭指揮のために明治天皇が移った。
このため、行宮の役割も果たした。
明治天皇は日清講和條約(下関條約)調印後の明治28年5月30日までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸した。
大本營はその後も臺灣の統治機構整備など戰後処理のために廣島に留まり、明治29年4月1日に大本營解散の詔勅によって解散した。
この時期、明治27年10月に招集された第7回帝國議會は廣島の廣島臨時仮議事堂で開會された(議事堂は西練兵場内に建設された)。
國の立法・行政・軍事の最高機關が一時的とはいえ廣島市に集積したことで、廣島市は臨時の首都の機能を担った。
これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例である。
「略歴」
1894年(明治27年) 8月1日 - 宣戰布告
9月8日 - 明治天皇は参謀総長有栖川宮熾仁親王の奉請を受け、廣島に大本營進駐を發令。
9月13日 - 明治天皇皇居を出門し名古屋宿泊、翌日神戸宿泊。
9月15日 - 明治天皇廣島大本營入り。
9月22日 - 帝國議會開催詔書公布。
10月2日 - 明治天皇宇品港出發、呉港(呉鎮守府)行幸、同日大本營へ。
10月5日 – 廣島市および安芸郡宇品を臨戰地と定め戒厳令宣告。
10月18日 - 第7回帝國議會開會、4日間會期。
11月17日 - 嘉仁皇太子親王(後の大正天皇)廣島行啓。同月15日東京を出發しこの日に到着、大本營や第5師團、呉鎮守府などを行啓し、同月25日還啓。
12月9日 - 臨時内閣出張所を大手町三好旅館に開設。
1895年(明治28年) 1月2日 - 参謀総長有栖川宮熾仁親王は病氣静養のため舞子別邸へ向かう。
1月15日 - 有栖川宮熾仁親王薨去。
2月1日 - 加古町廣島縣廰舎にて清との第一次講和會議。
清側の委任状不備のため翌日交渉拒絶。
3月19日 - 昭憲皇太后廣島行啓。同月17日皇居を出門しこの日に到着、皇太后御座所に入る。
4月17日 - 下関條約締結。
4月21日 - 明治天皇詔書公布、日清戰爭終結。
4月26日 - 昭憲皇太后廣島出發。
4月27日 - 大本營を京都に移す。明治天皇廣島出發。
1896年(明治29年) 4月1日 - 大本營解散。
1926年(大正15年) - 國の史跡(舊史跡)指定。
1928年(昭和3年) - 一般開放。
1945年(昭和20年) - 廣島市への原子爆弾投下により壊滅。
「大本營」
元々この地には本丸御殿があったが火災により全焼、明治10年跡地に廣島鎮臺司令部として建設されたものである。
1888年(明治21年)第5師團發足以降はその司令部として使われていた。
そして、大本營として用いられた。
洋風建築の木造2階建て、廣島城本丸におかれた。
1階に大臣室や侍従職室、2階に御座所・御召替所・侍従長室・軍議室などがあり、御座所は執務室と寝室を兼ね、近くに剣璽が置かれた。
明治天皇はほぼここに留まって深夜まで政務を行い、質素な生活をしていたと伝えられている。
この戰爭中に見せた「精力的な活動」「質素な生活」つまり「聖徳」は明治後期における天皇神格化の中で重要なイメージ戰略として用いられており、例えば當時普通の古びた備品を使う様は戰前の教科書に描かれている。
後に明治天皇は當時のことを詠んでいる。
「たむろして よなよな見てし 廣島の 月はその夜に かはらざるらむ」
明治29年大本營解散後は第5師團管理の下「大本營址」は文化財として保護され、史蹟名勝天然紀念物保存法施行により「史蹟明治二十七八年戰役廣島大本營」として大正15年に國の史跡(旧史跡)に指定された。
昭和3年から廣島城天守の一般開放が始まり、あわせて名所として公開された。
昭和20年)8月6日、廣島市への原子爆弾投下により建物は全て崩壊した(爆心地から約900メートル)。
現在では、建物の基礎および礎石と、一部文字が消された碑石が残っているのみとなっている。
「昭憲皇太后御座所」
廣島城天守から真南、大本營から西南西方向に位置した。
元々は第5師團監査部の建物で、大本營設置後はその事務所として使われていた。
當初は明治28年3月13日昭憲皇太后廣島行啓で進められていたが都合により延期、同年3月19日皇后行啓した際に御座所として用いられた。
この地で皇后も精力的に慰問を行っていたことが伝えられる。
これも現在は基礎石のみが残る。
桜の池
本丸内にあり大本營から東南東方向に位置する。
明治31年廣島軍用水道布設の際に造られた池で、牛田水源地(現牛田浄水場)から神田橋水道橋を通って京橋川を渡り城内へ上水道が引き込まれた時に一緒に整備された。
大正14年に「桜の池」と命名。
現在はコンクリートで覆われた形状は残っているが、水は入れられていない。
大本營跡の南側は元々は前庭にあたり、車周りの植え込みの一つだったクロガネモチは被爆にも耐えた被爆樹木として現在も生息している。
當時御座所にあった金屏風は大本營解散後もそのまま置かれていた。
戰中に青崎國民學校(現廣島市立青崎小學校)に疎開させていたため被爆による消失から免れ、現在は廣島縣立文書館が所蔵している
従者は市中心部の旅館に宿泊している。
最も多いのが大本營に近い大手町。
これは帝國議會開催中の議員も同様で、市内のみならず周辺町村、現在の廣島市域全域で宿泊した。
彼ら宿泊所を提供した市民は後に、天覧の栄誉を受けている。
嘉仁皇太子親王行啓の際には憲兵本部が宿泊所にあてられた。
(ウィキペディア参照。)
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