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闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-04-09
とうじょう‐けんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。
五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

闘いの記録

◎成田空港管制塔占拠事件

2021-04-05
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1978.12.7/ 自民党総裁選で福田赳夫に勝った大平正芳が、第1次大平内閣を組閣する。
【20th Century Chronicle 1978年(s53)】
◎成田空港管制塔占拠事件
*1978.3.26/ 開港反対派ゲリラが成田空港管制塔を破壊。開港が大幅に遅延する。
*1978.5.20/ 新東京国際空港(現「成田国際空港」)の開港式が行われる。
 '62年に新国際空港の建設が閣議決定されてから16年、やっと開港が目前にせまった3月26日、ほぼ完成した成田空港に空港反対派4千人が突入、一部別動隊が管制塔を占拠し準備完了していた管制塔通信機器を破壊した。これにより開港は2ヵ月以上遅れることになり、やっと5月20日に開港式典がとり行われるはこびとなった。
 当初の反対運動は地元農民たちが主であり、それを支援する社会党や共産党などの既成政党は、反対運動を党勢拡張に利用しようとしたりして、反対同盟から追出される形で脱落した。その隙間へ新左翼が参入してきて、反対運動は過激さを増してゆくことになった。
 70年安保問題が自動更新で決着して以降、新左翼運動は大きな活動テーマを見失う形になり、世間の関心の外におかれるようになった。赤軍派のような過激武装路線をとった急進派は、有力幹部らが国外に脱出して海外テロやハイジャックを連発した。日本残留組は、指揮系統の弱体化をともなって、内部分裂や身内リンチ事件をひき起こし、浅間山荘事件などで自滅していった。
 別の新左翼セクトらは、農民大衆との共闘を訴えられる成田の空港反対運動に目をつけた。国家権力側も、赤軍派のような民衆から遊離した跳ね返りなら実力行使で鎮圧できるが、地元農民・住民を巻き込んだ反対運動は、おいそれと鎮圧行動には出られないため、その沈静に多くの時間と犠牲を払うことになった。
 やっとのことで開港にこぎつけた「成田国際空港」であるが、その後の拡張工事など残された問題も多く、いまだ反対運動さえある。当初、東・東南アジアのハブ空港を期待されたが、開港までの長期におよぶ工事遅延の上に、空港自体の機能制限(滑走路・離着陸時間制限・利用料金の高さなど)、さらには首都圏中心部からの遠さ及び移動料金の高さなどの問題をかかえ、シンガポールのチャンギ国際空港や韓国の仁川(インチョン)国際空港などに遅れをとっている。
 さらに、羽田空港(東京国際空港)への国際線乗り入れや、首都圏第3の空港としての茨城空港の開港、さらには関西国際空港との競合により、相対的な地盤沈下さえ心配される。近年増加一方の LCCなど格安航空への対応など、さらに一層の競争にさらされることになるであろう。
(この年の出来事)
*1978.7.16/ 西ドイツのボンで、第4回主要先進国首脳会談(サミット)が開かれ、日本は福田赳夫首相が参加する。
*1978.11.11/ 無限連鎖講(ネズミ講)防止法が公布される。(1979.5.11施行)
*1978.12.7/ 自民党総裁選で福田赳夫に勝った大平正芳が、第1次大平内閣を組閣する。

川端康成

2021-04-04
川端康成 | NHK人物録 | NHKアーカイブス

川端康成未公開カラー映像!雪国でノーベル文学賞をとった川端康成が生前CMにでたときの写真!?貴重コマーシャル

【朗読】太宰治『川端康成へ』

二人

2021-04-04
三島由紀夫×川端康成 運命の物語 DVD
ぶんきょう浪漫紀行(三島由紀夫の足跡をたどる)12月28日~放送

師と共に

2021-04-04
川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整
川端康成&三島由紀夫 【2人が出演している対談映像】

没50年が経ちました。

2021-04-04
NHK人物録『三島由紀夫』~NHKアーカイブス~
三島由紀夫・伝説の討論会5/5 50年ぶり秘蔵映像発掘「VS東大全共闘」

三島由紀夫・伝説の討論会1/5 50年ぶり秘蔵映像発掘「VS東大全共闘」#1「近代ゴリラ」





闘いの転機

森永ヒ素ミルク事件

2020-11-12
当代の生まれた頃の出来事でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1955年(s30)】

◎森永 ヒ素ミルク事件

*1955.8.-/ 森永ミルクに混入されたヒ素が原因で、人工栄養児4人が死亡する。12月9日までに患者は全国で1万人以上、113人が亡くなる。

 1955(s30)年6月頃から西日本を中心に、森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の中毒患者が発生し、多くの死者を出す事件が起こった。当初は奇病扱いされたが、8月24日岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止められ、事件として発覚した。

 

 森永乳業では、安定剤として第二燐酸ソーダ(Na^2HPO4)を粉ミルクに添加していたが、安価であるという理由から純度の低い工業用を利用した。森永乳業徳島工場が製造した「森永ドライミルク」では、製造過程で用いられた低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が含まれおり、これを飲んだ乳児にヒ素中毒による多数の被害者が出た。

 

 当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名である。しかし当時は、日本の産業育成が最優先される時代であり、政府も森永側に立って収束を図り、被害者の救済は後手にまわり、被害者の運動は抑え込まれてしまった。

 

 かくして日本最初の大規模食品被害事件はうやむやに放置されたが、その14年後、被害者の後遺症問題などが告発され、事件は再燃し始めた。被害者の親たちは再結集し、森永ミルク中毒のこどもを守る会は活動を再開する。被害者の会は森永製品の不買運動と裁判闘争で闘うが、刑事裁判は1973年まで続き、やっと製造者側に実刑判決が下される。

 

 さらに民事裁判が続けられるが、森永側は製造者責任を否定し続ける。森永側の不誠実な対応に、守る会は不買運動を国民に呼びかけ、その運動は大きく拡がり、日本の不売買運動で史上最大のものとなった。森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過してからであり、不買運動に音を上げて責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明するまでに20年近くを要した。

 

(この年の出来事)

*1955.1.28/ 炭労・私鉄総連などが、春季賃上げ共闘会議総決起大会を開き、春闘共闘方式の始まりとなる。

*1955.5.8/ 東京都下の砂川町で、米軍立川基地拡張反対の総決起集会が開催され、「砂川闘争」が始まる。9.13には強制測量が始まり、住民と警察隊が衝突、重軽傷者90余人。

*1955.5.11/ 岡山県宇部と四国高松を結ぶ宇高連絡船紫雲丸が、濃霧中で貨物船と衝突し、修学旅行中の小学生など168人が死亡する。(紫雲丸事故)

*1955.5.14/ ソ連と東欧8ヵ国が、NATOに対抗する「ワルシャワ条約機構」に調印する。

スターリン批判の余波

2020-11-12
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1956年(s31)】

◎フルシチョフがスターリン批判

*1956.2.24/ ソ連共産党第20回大会秘密会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判の演説をする。

 1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第20回大会において、非公開の会議とはしたが、スターリン批判の演説を行い世界を驚かせた。スターリン(53年死去)の死後も伏せられてきたスターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実が公表され、それまでの公式見解であった戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は不可避)を批判、西側との平和共存路線への転換や、平和的社会主義への移行の可能性に言及し、従来のスターリン体制からの大きな転換を表明した。

 

 ソ連におけるスターリン批判は、東側社会主義陣営にも大きな波紋を及ぼした。東ヨーロッパ社会主義国では、スターリン体制に対する反発から自由化要求の運動が強まった。6月にはポーランドで「ポズナニ暴動」が起こった。ソ連の軍事介入が懸念されたが、直前に政府軍が鎮圧し自主的な事態収拾となった。その結果、一部分権化され経済改革が施されたが、本格的な自由化は認められなかった。

 

 10月には、ハンガリーで市民が政府に対して蜂起、政府関係施設や区域を占拠し、自からの政策や方針を実施しはじめて市民自治の様相を呈した。ソ連軍は2度にわたって介入、戦車部隊によって鎮圧し、親ソ政府を樹立して改革を停止させた。スターリン批判にもかかわらず、ソ連共産党は決して東欧衛星諸国の自主化・自由化は許さなかった。

 

 一方で、スターリン批判は中国との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント・雪どけ)路線を、毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、中ソ関係は急速に悪化した。金日成の北朝鮮も、中国と同様に修正主義として強く批判した。毛沢東、金日成ともに、自らの「スターリン型独裁支配」体制を脅かされることを懸念したことは言うまでもない。

 

 日本においては、前衛党主導・世界永続革命論を唱えるトロツキストたちが刺激を受け、60年・70年安保へと向かう過程で、学生を中心として「新左翼=前衛党の結成」へと突き進んだ。

 

 1961年には2度目のフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去、燃やされた。さらに、スターリングラードをはじめスターリンの名を冠された都市や地名は改名され、スターリンの巨大な銅像は撤去され、徹底的な「非スターリン化」が行われた。スターリン神話は徹底的に破壊されたとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視する恐怖支配や政治的弾圧の構図は、のちのソ連崩壊まで変わることはなかった。

 

 1997年のモスクワ放送は、『10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6200万人が殺害され、そのうち、4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った』と放送したとされる。

 

(この年の出来事)

*1956.1.31/ イタリアのコルチナダンペッツォで開かれた第7回冬季オリンピックで、猪谷千春が日本人初のメダル(男子回転・銀)を獲得する。

*1956.5.9/ 日本登山隊が、ヒマラヤの未踏峰マナスルの初登頂に成功する。

*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。

*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)

*1956.11.22/ オーストラリアのメルボルンで、第16回オリンピックが開催され、日本選手は117人が参加、4種目で金メダルを獲得する。

*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。

再軍備

2020-11-10
Facebook佐々木信雄さんの投稿
 
【20th Century Chronicle 1954年(s29)】
◎陸海空自衛隊 発足
*1954.6.9/ 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
 日本を占領した連合国軍は、当初日本の軍事力を完全に無力化する予定であった。しかしソ連が核保有国となり冷戦構造が顕著になるとともに、大陸では中国人民共和国が成立し、さらに1950(s25)年に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発すると、全く状況が変わってきた。日本に駐留の米軍は、その主力を朝鮮半島に向けざるを得ず、空白となる日本の治安維持は、日本自体が担う必要に迫られ「警察予備隊」を組織させた。
 1951(s26)年、サンフランシスコ講和条約が成立すると、同時に(旧)日米安全保障条約も締結される。これは、占領軍が撤退すると同時に、米軍の継続駐留や基地の存続を認め、日本の防衛は日本自身が主体となり、米軍はこれを援助するというものであった。その趣旨を明確にするために翌1952年、警察予備隊は「保安隊」と改組された。
 1954(s29)年、安保条約を具体的に補完するため「日米相互防衛援助協定(MDA)」が結ばれ、米国は日本に駐留するとともに日本に軍事支援を与え、その支援を受けて、日本は自国の防衛のために軍備を整えることが義務付けられた。これにより日本は、防衛の目的に限り再軍備する事を認められ、それに対応して保安隊は「自衛隊」と改組され、事実上の自国防衛軍となった。
 とはいえ自衛隊は、設立当初から現在に至るまで、論議の的になり続けてきた。詳細には立ち入らないが、憲法九条との関係で、自衛隊は軍隊であるとかないとか、無意味な空論が続けられてきた。自衛隊は名実ともに自衛軍であり軍隊である。問題は、それが憲法で認められ得る軍隊なのかどうか。もし認められないなら、憲法を変更するかどうか、それだけの問題だろう。
 とここまで書いて、50年前の高校生の時に、こっそりローカル新聞に投稿した内容と全く同じなのに気付いた。クラスの女子に気付かれて恥ずかしい思いをしたが、とにかく50年間自分の見解が変わっていないことよりも、50年間政治状況が全く変わっていないことの方に驚かされた(笑)
(この年の出来事)
*1954.2.1/ 女優マリリン・モンローが、夫のMLB野球選手ジョー・ディマジオと新婚旅行で来日する。
*1954.1.2/ 皇居の一般参賀で、二重橋上で群衆が折り重なって倒れ、16人が死亡、65人が重軽傷を負う。(二重橋事故)
*1954.4.21/ 犬養健法相が、検事総長へ指揮権を発動して、造船汚職容疑の佐藤栄作自由党幹事長への逮捕請求を阻止する。
*1954.11.24/ 自由党分派・改進党・日本自由党の3党合同によって「日本民主党」が結成される。(総裁鳩山一郎)
*1954.12.6/ 左右社会党など野党共同で吉田内閣不信任案を提出、7日、吉田内閣が総辞職して長期政権に幕。10日、鳩山一郎内閣が成立する。
*1954.-.-/ 電気洗濯機・電気冷蔵庫・電気掃除機が「三種の神器」と呼ばれる。のち掃除機に代わってテレビジョンが加えられる。

人間魚雷 回天

2020-11-09
昭和19年11月8日の本日、人間魚雷「回天」第一陣の菊水隊仁科関夫少佐以下、徳山湾大津島よりウルシー、帛琉海域へ初の水中特攻出撃致しました。
昭和19年8月15日、大森仙太郎特攻部長は「この兵器(回天)を使用するべきか否かを、判断する時期だ」と發言、明治維新の船名からこの兵器を「回天」と命名した。
そして同年9月1日、山口縣大津島に黒木・仁科と板倉光馬少佐が中心となって「回天」基地が開設され、全國から志願で集まった搭乗員で9月5日から本格的な訓練が開始された。
これが、「回天」特攻の始まりである。
しかし、9月7日早朝に黒木が殉職すると、仁科を含めた搭乗員は「黒木に続け」と言わんばかりに、昼の猛訓練と夜の研究會で操縦技術の習得に努め、技術を習得できた者から順次出撃していくこととなった。
同年10月下旬、豊田副武聯合艦隊司令長官から「回天」による特攻作戰命令「玄作戰」が發令され、特別攻撃隊は「菊水隊」と命名された。
仁科も創案者の一人として菊水隊員に選ばれ、黒木の遺志を継ぐために出撃直前まで熱心に「回天」の研究・改良に務めていた。
同年11月8日に、仁科は菊水隊(母潜「伊-47」)として黒木の遺骨を持ってウルシー環礁へ向けて出發、同年11月20日午前3時50分に發進し、午前5時過ぎに黒木の遺骨を抱いたまま米油漕艦「ミシシネワ」へ特攻・戰死した。
21歳没。
「ミシシネワ」は當時の最新鋭大型タンカーで、亜米利加側の戰死者は63名だった。
(ウィキペディア参照。)
画像は、回天特攻によって横転したミシシネワ。
潜水艦の甲板上に搭載された回天。

漸くから一気へ・・・。

2020-11-01
1956年以降・・・。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 50's / 1956年(s31)』
(もはや戦後ではない)
○7.17 経済企画庁が経済白書「日本経済の成長と近代化」を発表する。「もはや戦後ではない」は流行語に。
 一般の人がまず読むことのない「昭和31年 経済白書(経済企画庁 年次報告書)」の結語で、「もはや戦後ではない」という一節が掲げられ、その響きのよい言葉は、またたく間にこの年の流行語となった。お固い役所の経済報告書であるにもかかわらず、その言葉はなんと、シェークスピアの翻訳などで名高い英文学者 中野好夫の書いた言葉からの借用だという。
 戦争で破壊され尽くした日本の産業が、この年には戦前の経済水準を回復した。そしてこの後20年間にもわたる高度成長の開始を高らかにうたい上げた言葉として、人口に膾炙してゆく。60年安保改正の政治の季節を経て、岸信介からバトンを渡された池田隼人首相は「所得倍増計画」を発表する。10年間での達成を目標とした野心的な倍増計画だったが、7年足らずではやばやと達成してしまう。
 この高度成長期には、私もその世代に該当するのだが、「団塊の世代」の小中高大学という学生期間がすっぽりと収まる。真面目に努力すれば素晴らしい将来がある、このようなバラ色の未来がすんなりと信じられた時代ではあった。しかし70年安保の大学の混乱を通じて、何が正しいかはもはや言えないような状況に取り込まれた。そして私の場合には、卒業して社会に出たとたんに第一次石油ショックにみまわれ、営業職であるのに売るものがまったくないという状態に放り出された。
 華やかな高度成長時代の到来を告げたとされる「もはや戦後でない」という言葉も、実際の白書では別の文脈で用いられていたということである。戦後の経済水準に達したということは、同時に日本の持つ潜在的成長力の伸びしろを使いつくしたということをも意味する。となれば、これからはまったく未知の経済状況と取り組んでいかなけてばならない、という当惑と抱負の入り混じった言葉として述べられたと言うことである。
 現に、「神武景気」と呼ばれた好景気時代は終わり、翌年には「なべ底不況」という不景気が訪れる。ちょうど大学卒業をひかえた兄が、3月になっても就職が決まらず、鬱々としていた顔が思い出される。しかしその時期を脱すると、「岩戸景気」「オリンピック景気」「いざなぎ景気」と呼ばれた大型好景気が連なり、政府も「所得倍増計画」で高度成長をバックアップした。
 そしてこの年の末には、ニューヨークの国連総会で日本の加盟が承認される。かくして国際社会に復帰するとともに、名実ともに「戦後」は終わったと言えるのであった。
*この年
週刊誌ブーム/映画館新築ブーム/貸本マンガ盛ん/テレビが急激に普及
【事物】電子計算機
【流行語】もはや戦後ではない/太陽族/一億総白痴化/戦中派
【歌】リンゴ村から(三橋美智也)/愛ちゃんはお嫁に(鈴木三重子)/ハート・ブレーク・ホテル(小坂一也)
【映画】ビルマの竪琴(市川崑)/赤線地帯(溝口健二)/居酒屋(仏)
【本】五味川順平「人間の条件」/三島由紀夫「金閣寺」/原田康子「挽歌」/丸山真男「現代政治の思想と行動」
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