闘いの歴史
データベース
Facebook 闘諍堅固
闘いの記録
◎成田空港管制塔占拠事件
川端康成
川端康成未公開カラー映像!雪国でノーベル文学賞をとった川端康成が生前CMにでたときの写真!?貴重コマーシャル
【朗読】太宰治『川端康成へ』
二人
師と共に
没50年が経ちました。
三島由紀夫・伝説の討論会1/5 50年ぶり秘蔵映像発掘「VS東大全共闘」#1「近代ゴリラ」
闘いの転機
森永ヒ素ミルク事件
【20th Century Chronicle 1955年(s30)】
◎森永 ヒ素ミルク事件
*1955.8.-/ 森永ミルクに混入されたヒ素が原因で、人工栄養児4人が死亡する。12月9日までに患者は全国で1万人以上、113人が亡くなる。
1955(s30)年6月頃から西日本を中心に、森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の中毒患者が発生し、多くの死者を出す事件が起こった。当初は奇病扱いされたが、8月24日岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止められ、事件として発覚した。
森永乳業では、安定剤として第二燐酸ソーダ(Na^2HPO4)を粉ミルクに添加していたが、安価であるという理由から純度の低い工業用を利用した。森永乳業徳島工場が製造した「森永ドライミルク」では、製造過程で用いられた低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が含まれおり、これを飲んだ乳児にヒ素中毒による多数の被害者が出た。
当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名である。しかし当時は、日本の産業育成が最優先される時代であり、政府も森永側に立って収束を図り、被害者の救済は後手にまわり、被害者の運動は抑え込まれてしまった。
かくして日本最初の大規模食品被害事件はうやむやに放置されたが、その14年後、被害者の後遺症問題などが告発され、事件は再燃し始めた。被害者の親たちは再結集し、森永ミルク中毒のこどもを守る会は活動を再開する。被害者の会は森永製品の不買運動と裁判闘争で闘うが、刑事裁判は1973年まで続き、やっと製造者側に実刑判決が下される。
さらに民事裁判が続けられるが、森永側は製造者責任を否定し続ける。森永側の不誠実な対応に、守る会は不買運動を国民に呼びかけ、その運動は大きく拡がり、日本の不売買運動で史上最大のものとなった。森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過してからであり、不買運動に音を上げて責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明するまでに20年近くを要した。
(この年の出来事)
*1955.1.28/ 炭労・私鉄総連などが、春季賃上げ共闘会議総決起大会を開き、春闘共闘方式の始まりとなる。
*1955.5.8/ 東京都下の砂川町で、米軍立川基地拡張反対の総決起集会が開催され、「砂川闘争」が始まる。9.13には強制測量が始まり、住民と警察隊が衝突、重軽傷者90余人。
*1955.5.11/ 岡山県宇部と四国高松を結ぶ宇高連絡船紫雲丸が、濃霧中で貨物船と衝突し、修学旅行中の小学生など168人が死亡する。(紫雲丸事故)
*1955.5.14/ ソ連と東欧8ヵ国が、NATOに対抗する「ワルシャワ条約機構」に調印する。
スターリン批判の余波
【20th Century Chronicle 1956年(s31)】
◎フルシチョフがスターリン批判
*1956.2.24/ ソ連共産党第20回大会秘密会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判の演説をする。
1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第20回大会において、非公開の会議とはしたが、スターリン批判の演説を行い世界を驚かせた。スターリン(53年死去)の死後も伏せられてきたスターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実が公表され、それまでの公式見解であった戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は不可避)を批判、西側との平和共存路線への転換や、平和的社会主義への移行の可能性に言及し、従来のスターリン体制からの大きな転換を表明した。
ソ連におけるスターリン批判は、東側社会主義陣営にも大きな波紋を及ぼした。東ヨーロッパ社会主義国では、スターリン体制に対する反発から自由化要求の運動が強まった。6月にはポーランドで「ポズナニ暴動」が起こった。ソ連の軍事介入が懸念されたが、直前に政府軍が鎮圧し自主的な事態収拾となった。その結果、一部分権化され経済改革が施されたが、本格的な自由化は認められなかった。
10月には、ハンガリーで市民が政府に対して蜂起、政府関係施設や区域を占拠し、自からの政策や方針を実施しはじめて市民自治の様相を呈した。ソ連軍は2度にわたって介入、戦車部隊によって鎮圧し、親ソ政府を樹立して改革を停止させた。スターリン批判にもかかわらず、ソ連共産党は決して東欧衛星諸国の自主化・自由化は許さなかった。
一方で、スターリン批判は中国との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント・雪どけ)路線を、毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、中ソ関係は急速に悪化した。金日成の北朝鮮も、中国と同様に修正主義として強く批判した。毛沢東、金日成ともに、自らの「スターリン型独裁支配」体制を脅かされることを懸念したことは言うまでもない。
日本においては、前衛党主導・世界永続革命論を唱えるトロツキストたちが刺激を受け、60年・70年安保へと向かう過程で、学生を中心として「新左翼=前衛党の結成」へと突き進んだ。
1961年には2度目のフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去、燃やされた。さらに、スターリングラードをはじめスターリンの名を冠された都市や地名は改名され、スターリンの巨大な銅像は撤去され、徹底的な「非スターリン化」が行われた。スターリン神話は徹底的に破壊されたとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視する恐怖支配や政治的弾圧の構図は、のちのソ連崩壊まで変わることはなかった。
1997年のモスクワ放送は、『10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6200万人が殺害され、そのうち、4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った』と放送したとされる。
(この年の出来事)
*1956.1.31/ イタリアのコルチナダンペッツォで開かれた第7回冬季オリンピックで、猪谷千春が日本人初のメダル(男子回転・銀)を獲得する。
*1956.5.9/ 日本登山隊が、ヒマラヤの未踏峰マナスルの初登頂に成功する。
*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。
*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)
*1956.11.22/ オーストラリアのメルボルンで、第16回オリンピックが開催され、日本選手は117人が参加、4種目で金メダルを獲得する。
*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。