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闘いの歴史

闘いの記録

昭和20年9月、皇居。空襲の被害を受けているようだ

2021-02-28
Facebook永井由紀夫さんより
明治宮殿が焼け打ちています。
現在の皇居、反対方向からです。

本日は、2月26日です。

2021-02-26
「酒は自腹で!」 Facebook Tetsuzo Mukaiさんより 



「酒は自腹で!」
85年前の今日、東京は雪景色。1939年2月26日早朝、1400人の若い将校が首相官邸や警視庁を襲い、高橋是清首相を殺害、4日間国会を占拠した。「2.26事件」である。この三年前に自由主義的な刑法論を説いた京都大学の滝川教授が休職処分に追いやられる。世は学問の自由への弾圧が強まり、暗黒の時代に突入していく。戦後滝川教授は復職して京都大学総長になった。そして学生たちに向かって話す。「酒を飲むのはよろしい。しかし、それは自分の銭で飲むことが絶対条件」。当時造船疑獄で政界は揺れていた。いつの時代も節度は大切だ。
85年前の今日、東京は雪景色。1939年2月26日早朝・・・

昭和20年10月、東京の空襲跡に立ち並ぶバラック。畑も見える。

2021-02-25
Facebook永井由紀夫さんより

松平容保

2021-02-24
松平容保
この写真は京都守護職時代(27~32歳、満年齢)の肖像写真で、彼が着用している陣羽織の生地は、初めて参内した時に孝明天皇から賜った「緋の衣」であり、これを陣羽織に仕立てたものです。
 孝明天皇から「緋の衣」を賜ったのは文久3年(1863)1月ですので、容保28歳(満年齢)の時です。彼は翌年(1864年)に京都守護職を免ぜられています(同年復帰。1867年に辞職)。
 この陣羽織を着用して馬揃え(軍事教練)の指揮に当たったといいます。また天覧の馬揃えが行われたのは文久3年(1863年)です。この写真は28~32歳の間に撮られたものでしょうが、あるいは天覧の馬揃え(28歳)の時に撮られたものかも?。
 容保は孝明天皇を敬愛し、孝明天皇も彼に何通もの御宸翰(ごしんかん、天皇の直筆)を与えています。

両雄

2021-02-21
さよなら 北の湖~栄光の足跡~
あの人に 千代の富士

闘いの転機

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんコメント
『Get Back! 40's / 1940年(s15)』
(日独伊三国同盟)
○9.27 [ベルリン] 日独伊三国同盟が調印される。
 1940年(昭和15年)9月27日、日本・ドイツ・イタリアの間で「日独伊三国間条約」が締結された。いわゆる「日独伊三国同盟」の成立であり、第二次世界大戦における枢軸国の中心軸が姿を現した。すでに1937年に「日独伊防共協定」が結ばれていたが、これは「防共」すなわちソ連共産主義の拡張を防ぐという建前であった。三国同盟では曖昧だった協力関係を明確にし、第三国からの攻撃に対しては相互に援助するという取り決めがなされた。
 しかし三国間には、同盟に関する微妙な利害の食い違いが存在した。「防共協定」では、日本は満州国北方で対峙するソ連の脅威を抑止するのが狙いだったが、ドイツはソ連軍を東西に分散させ、ドイツ東部方面の脅威を削ぐ意図を持っていた。しかしその後、ドイツが一方的に「独ソ不可侵条約」を結ぶと防共協定は意味を失う。
 直後にドイツがポーランド侵攻を開始し第二次大戦が勃発すると、独ソでポーランドを分割したあと、ドイツは取って返してベネルックス三国からフランス侵略を進めた。ヒットラーはさらに独ソ不可侵条約を破棄してソ連侵攻、さらには英国にまで視野を向けていた。そのためには、日本をソ連と東部で戦端を開かせ、英米とも対立して牽制させる意図があった。
 日本では海軍を中心に、三国同盟に反対する意見も多かったが、ナチスドイツがフランスを陥落させると、同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍では「バスに乗り遅れるな」と南方進出の「南進論」が勢力を増していたが、それは英米との対立を深めることになり、その英米を牽制するためにも三国同盟が必要とされるようになった。
 日独伊三国は、英仏など先発国に比して植民地獲得競争に出遅れており、植民地拡大に乗り出すと必然的に英仏の利益とぶつかるという共通の利害状況をもっていた。しかし枢軸3国が統一した戦略で連合国側と対抗するということなどは無く、ドイツはヨーロッパ戦線、日本は中国及び南方戦線、イタリアは地中海から北アフリカと、それぞれの利益をめざして侵攻しただけであった。
 軍事・経済に劣るイタリアは早々と降伏し、ドイツはソ連と東部戦線で膠着状態となり、西部戦線に物量を誇る米が参戦すると、防御一方に追い込まれた。日本は南方戦線で英仏蘭などの一部植民地軍を一気に攻略するも、米との太平洋戦争での物量の戦いで敗色濃厚となる。日独伊が統一の戦略をもって世界戦を戦うなど、物理的に不可能な三国同盟であった。
 三国同盟条約の条文そのものも、決してそのような統一戦を想定したものではなく、条約加盟国が戦闘相手国以外の第三国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じるというものであった。独ソ戦が始まった時にも、日本にはそれに参戦する義務はなく、ドイツに呼応することなく中立を保った。また、日本が真珠湾攻撃によって米と開戦した時にも、ヒトラーとムッソリーニは参戦義務がなかったが、独自の判断で米への宣戦布告をした。
 その後、日独伊新軍事協定などによって同盟関係は強化されたが、合同幕僚長会議など緊密に連動戦略をとった連合国側に対し、枢軸国では戦略に対する協議はほとんど行われなかった。対ソ宣戦、対米宣戦の事前通知も行われず、とても一枚岩の同盟とは言えなかった。ヒットラーは黄色人種の日本を蔑んでおり、日本を自己の戦略に利用しようとしただけだと思われる。もとより同盟などというものは、そういう性質のものでではあるが。
*この年
工業労働力不足が深刻化する。農・商業からの転職急造/スポーツ用語の日本語化進む
【事物】アルミ貨10銭/国産カラーフィルム/愛国子供カルタ
【流行語】新体制/臣道実践/八紘一宇/一億一心/バスに乗りおくれるな
【歌】湖畔の宿(高峰三枝子)/蘇州夜曲(霧島昇・渡辺はま子)/月月火水木金金(内田栄一)
【映画】支那の夜(伏水修)/小島の春(豊田四郎)/民族の祭典(独)/駅馬車(米)
【本】織田作之助「夫婦善哉」(海風)/会津八一「鹿鳴集」/田中秀光「オリムポスの果実」

在支那全陸軍統率の支那派遣軍総司令部を設置致しました。

2020-09-12
Facebook英霊の本日の出来事 より·

昭和14年9月12日の本日、在支那全陸軍統率の支那派遣軍総司令部を設置致しました。

「沿革」
昭和12年7月、盧溝橋事件勃發後發生した第二次上海事変への對応として上海派遣軍が編成され、続いて盧溝橋事件への対応として支那駐屯軍が方面軍たる北支那方面軍に格上げされた。
昭和12年10月には上海への増援として第10軍が編成され杭州上陸作戰を行い、同月、上海派遣軍と第10軍の上級司令部として中支那方面軍が編成された。
昭和13年2月の南京陥落後、中支那方面軍は隷下の両軍を含めて中支那派遣軍へと再編成された。
こうして中支那派遣軍と北支那方面軍が支那大陸方面での作戰に當っていたが、昭和149月に両者を統括する「総軍(総軍の編成は日露戰争における満洲軍以来)」として大陸命362號に基づき支那派遣軍を編成した(これに伴い中支那派遣軍は廃止)。

(ウィキペディア参照。

予科練

2020-09-07
Facebook 英霊の本日の出来事
昭和12年9月1日の本日、帝國海軍甲種飛行豫科練習生制度を創設致しました。

大日本帝國海軍における航空兵養成制度の一つ。
志願制。
“豫科練”と略称で呼ばれることが多い。

「歴史」
ー戰前ー
昭和4年12月、海軍省令により豫科練習生の制度が設けられた。
「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小學校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戰技教育が行われた。
全國からの志願者5807名から79名が合格し、昭和5年6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した(後の乙飛)。
昭和11年12月、「豫科練習生」から「飛行豫科練習生」へと改称。
昭和12年、更なる搭乗員育成の為、舊制中學校4學年1學期修了以上(昭和18年12期生より3學年修了程度と引き下げられた)の學力を有し年齢は満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行豫科練習生(甲飛)制度を設けた。
従来の練習生は乙種飛行豫科練習生(乙飛)と改められた。
甲飛の募集の際、海軍兵學校並みの待遇や進級速度が喧伝され、また甲飛の応募資格が海軍兵學校の応募資格(舊制中學校4學年修了程度)と遜色なかったために、海軍の新設航空士官學校との認識で甲飛に入隊した例も多かった。
ところが、兵學校相當の難関試験に合格し、晴れて入隊した練習生に与えられた階級は海兵團で訓練中の新兵らと同じ最下級の四等水兵で、制服も水兵服であった。
それらの低待遇に失望した生徒が、母校の中學後輩に「豫科練は目指すな」と愚痴をこぼすまで問題になった。
當初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため、昭和14年3月、豫科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移した。
翌年同基地内に新設された土浦海軍航空隊に担當が變更された。
昭和15年9月、海軍の下士官兵からの隊内選抜の制度として従来から存在した操縦練習生(操練)・偵察練習生(偵練)の制度を、豫科練習生の一種として取り込み、丙種飛行豫科練習生(丙飛)に變更した。

「教育」
教育は、普通學(12科目)・軍事學(9科目)・體育(プールでの遠泳訓練や綱引きなど10種目)の他、精神講話など多岐にわたり、當初の履修期間は2年11か月だった。
その後、履修期間は徐々に短くなり、終戰直前には1年8か月で、海軍二等飛行兵から海軍飛行兵長に昇格し終了した(乙飛、1942年以降の階級)。
甲飛の履修期間も當初の1年2か月から終戰前には6か月に短縮された。
修了後は練習航空隊で飛練教育を受け、その後実戰部隊に配備された。
一日中訓練漬けではなく、休憩や自習の時間もあった。

「分類」
甲種飛行豫科練習生(甲飛) 昭和12年發足。
乙種飛行豫科練習生(乙飛) 昭和5年發足。
丙種飛行豫科練習生(丙飛) 昭和15年發足。
操縦練習生・偵察練習生の制度に代わるもの。
特乙飛制度の新設によって廃止となった。
乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛) 昭和17年)2月發足。
特別丙種飛行豫科練習生(特丙飛) 昭和19年12月に第1期教育開始。
海軍特別志願兵の朝鮮人日本兵・臺灣人日本兵對象。
実例は1期(朝鮮出身者50人・臺灣出身者50人)のみで、鹿児島空で教育開始後、1945年6月に土浦空へ異動して教育中に終戰。

「甲飛と乙飛の對立」
甲種飛行豫科練習生制度の導入以降、両制度を甲・乙と言う優劣を表す名前に變更した為、また昇進速度の違いなどもあり、練習生間での對立が問題となった。
豫科練航空隊を増設する際、甲飛・乙飛を分離する計画もあったが、戰況の悪化によって後發航空隊による甲乙分離計画は立ち消えとなり、末期まで尾を引いた。

「その他」
豫科練を表す軍歌として『若鷲の歌』がある。
昭和17年11月からは制服を軍楽兵に範を取った「七つ釦」の制服を採用する事になった。
制服には7個のボタンが付いており、"7つボタン"と言えば豫科練を表す言葉であった。
練習生の制服には佩刀の制度はない。
豫科練出身者の顕彰と平和學習のための施設として、土浦海軍航空隊の跡地に「豫科練平和記念館」が開館している。
土門拳は海軍に訓練風景の写眞撮影を依頼され1944年の6月から一ヶ月間、甲種十三期三十一分隊と共に生活をしている。
撮影にこだわるあまり訓練を何度もやり直させるため、豫科練生らには不評だったという。

(ウィキペディア参照。)
画像は、1942年當時の豫科練生

反戦の系譜

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
*1903.11.15/ 平民社を結成した堺利彦・幸徳秋水らが、週刊の平民新聞を創刊する。
 1903(明36)年10月、非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したため、同紙記者であった幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三が、萬朝報から去る。内村はキリスト者として人道的反戦論を展開するが、幸徳・堺は改めて社会主義的非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及を行うために「平民社」を結成した。
 平民社は、週刊「平民新聞」を創刊するが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割をも担い、事実上、社会主義協会と共に社会主義運動の中心組織であった。週刊「平民新聞」第1号(11月15日)には、「平民社同人」署名の「宣言」と、堺・幸徳署名の「発刊の序」が掲載されており、「宣言」では、平民社が今後、「平民主義・社会主義・平和主義」を唱えていくことが述べられている。
 日本の社会主義運動は、1901(明34)年に幸徳らによって結成された「社会民主党」に始まるが、これは即日禁止されており、その「社会民主党宣言書」の精神を引き継ぐことが平民新聞で「宣言」された。「平民新聞」第53号(1904年11月)には、堺・幸徳の共訳で「共産党宣言」が訳載されたが、直ちに発売禁止になった。
 「平民新聞」は英文欄も設け、英米やロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。その成果として、日露戦争中の1904(明37)年8月、アムステルダムで開催された第二インターナショナル第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフが共に副議長に選出されて、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認した。
 日露戦争非戦の主張は官憲に目をつけられ、戦争終結後の1905(明38)年10月、平民社は活動2年足らずで解散することになった。その後、再興するも当局の弾圧で1910(明43)年3月に解散、その年5月の「幸徳(大逆)事件」で、主要メンバーの大半を失った。
 世間は圧倒的に日露開戦になびいていたが、平民社グループの社会主義的反戦論以外にも、内村鑑三らの人道主義的非戦論、与謝野晶子・大塚楠緒子らのロマン主義的厭戦詩などが、日露の戦いに否を唱えた。
 1904(明37)年9月、日露戦争の最中に、歌人与謝野晶子は、旅順で戦う弟を思う新体詩「君死にたまふことなかれ」を、夫与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」に発表した。発表時は反戦厭戦詩と認識され、先輩歌人の大町桂月から厭戦的で国威発揚に反する批判されるも、「歌はまことの心を歌うもの」と反論している。
 
*「君死にたまふことなかれ」 https://www.culturebeanz.com/entry/2019/03/26/002828/
 
 しかしこの詩は、戦場で死ぬかも知れない末弟に対する「(死んで欲しくない、という)まことの心」を歌ったまでで、与謝野晶子は必ずしも平和主義者でも反戦主義者でもなかった。第一次世界大戦の折には「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っているし、1942(昭17)年に、海軍大尉として出征する四男に対して「わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」と、反戦家としては一貫しない正反対の歌をうたっている。
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