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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

ジミーという呼び名

2021-12-25
ジミーという呼び名は、連合国軍による日本占領後、学習院に赴任したアメリカ人の英語教師エリザベス・バイニング夫人が、英語の授業をはじめるにあたり同級生の全員にニックネームをつけたとき、皇太子に「あなたはジミー」と言ったからだ。

「バイニング夫人が英語教師として赴任した際、皇太子明仁は学習院中等科の1年生、まだ12歳だった。日本語の太郎、次郎と同じで、アルファベット順にアダム、ビリー……、とニックネームをつけた。
『今日からジミー』と呼ばれた皇太子明仁は『ノー、アイアム・クラウンプリンス』と即座に答えた。

バイニング夫人は『そうです。あなたはプリンス・アキヒトです』と、同意して言った。

どんな反応をするかと注視しながら、決然と強い調子でつづけた。

同級生も、固唾をのんだ。

『それがあなたのほんとうの名前です。けれどもこのクラスでは英語の名前がつくことになっているのです。このクラスではあなたの名前はジミーです』と言い切り、皇太子明仁は照れながら微笑んだ。生徒たちも一瞬にしてほぐれた」
(『ジミーの誕生日』より)

バラク・オバマ(バラク・フセイン・オバマ2世)

2021-12-18
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【アメリカの歴史】19.バラク・オバマ民主党政権の2期8年(2009-2017)
 バラク・オバマ(バラク・フセイン・オバマ2世)は、ケニア生まれの留学生の父親と、白人系の母親との間で、ハワイ州ホノルルで誕生した。ハーバード・ロー・スクール卒業後、公民権を擁護する人権は弁護士となり、その後イリノイ州議会上院議員として政界に進出する。
 2008年の大統領選では、当初泡沫候補視されていたが、急激に頭角をあらわし、ヒラリー・クリントンとの接戦の末に民主党の大統領候補に指名された。その勢いで、共和党候補のジョン・マケインを抑えて当選し、2009年1月ジョー・バイデン副大統領と共に第44代アメリカ合衆国大統領に就任した。
 オバマは初の非白人の大統領であり、初のアフリカ系アメリカ人(アフリカ系と白人との混血)の大統領となった。ただしオバマの父親は、アフリカのケニアから来たエリート留学生であり、アメリカ建国以来アフリカから輸入された黒人奴隷に直接の出自をもつものではない。
 オバマは大統領予備選のころから、"Change!"というキーワードを提示し、聴衆の前で ”yes we can!” と呼びかける演説で人気を獲得してきた。そして2009年1月には、全米からワシントンD.C.に集まった200万人を超える観衆の前で、大統領就任演説をおこなった。ベトナム戦争以降、数代の大統領の失政で自信を喪失した国民に対して、「米国再生」を確信させる力強い名演説を展開した。
 オバマは就任して最初の2年間に、それまで持ち越されてきた課題を解決すべく、多くの画期的な法案に署名して法律を成立させた。「医療保険制度改革(オバマケア)」、「税制救済・失業保険再承認・雇用創出法」などは、病人・失業者など弱者に対する救済の手を差し伸べる法案として期待された。
 また外交政策では、泥沼化したアフガニスタン紛争での処理、混乱の極みに陥ったイラク戦争後のイラク、などに対処し、リビアではカダフィ政権を打倒し、アルカイダの最高指導者オサマ・ビンラディンに死をもたらすなど、軍事アクションも示した。
 オバマは予備選挙でライバルとして闘ったヒラリー・ロダム・クリントンを国務長官(外務大臣に相当)に起用した。ヒラリーは外交・経済・軍事・政治・法律・文化を状況に応じて組み合わせ、その場に適切で正しい手段を用いる「スマート・パワー」提唱したが、このオバマ&ヒラリーの外交は「現実主義の一形態」と規定され、イデオロギーに拘らない現実的な外交を展開するものとされた。
 オバマ大統領は、米中関係は21世紀の運命を決める世界で最も重要な二国間関係であるとしたが、一方で中国の人権問題は許されるべきでないと述べた。しかし、この硬軟併せ持った方針は現実的で融和的な政策ではあったが、一旦有事となると具体的なアクションを起せない現実是認外交とも見られた。
 その弱点を露呈させたのは、「戦略的忍耐」という北朝鮮政策にみられる。2009年1月オバマの大統領就任間もなく、北朝鮮は再びミサイルの発射テストを始めたため、オバマ政権は北朝鮮の挑発的な行動に対し警告した。この時期、北朝鮮は金正日書記の健康不安が進行し、核開発の実績つくりを急いでいたとみられる。
 2012年に金正恩体制に代わって、核実験の中断と国際原子力機関査察に合意するなど、対話姿勢を見せながらも、すぐに長距離ミサイルを発射して米朝合意を破るなど、オバマの対応を翻弄した。結局このようなオバマ政権の戦略的忍耐政策は、北朝鮮の核開発、ミサイル開発を促進してしまったとされる。
 オバマは、2012年アメリカ合衆国大統領選挙にも再選を賭けて出馬し、共和党候補者のミット・ロムニーと激しい選挙戦を展開したが、接戦の末に勝利を収め、アメリカ大統領に再選された。2期目のオバマ大統領は、外交実績を作るために積極的に動いた。
 2013年9月にイランのハサン・ロウハーニー大統領と電話で会談し、イラン革命後初めてのアメリカ合衆国・イラン両国首脳の接触となり、やがてイランの核兵器開発を大幅に制限する「イラン核合意」を成立させた。
 また2014年12月、オバマはキューバ国家評議会議長ラウル・カストロと国交正常化交渉の開始を発表し「キューバの雪解け」を演出し、2015年7月にアメリカとキューバ相互に大使館が再び開設され、1961年に断交して以来54年ぶりに国交を回復させた。
 しかしこれらの合意は、オバマ政権の末期に当たってレジェンド造りを急いだ感が否めず、次のトランプ大統領が就任すると、中身が未成熟であるとしてことごとくひっくり返されている。

金与正氏とはどんな人物か【礒﨑敦仁のコリア・ウオッチング】

2021-12-13
Facebook 時事通信社さん曰く、肩書を超越した「白頭血統」のプリンセス
ホテルのロビーは各国から駆け付けたメディア関係者であふれており、私もじっとその時を待った。やがて妹の金与正氏に先導される形で、北朝鮮の最高指導者がエレベーターから降りてきた。護衛司令部のボディガードとシンガポール当局の厳重な警備に守られながら、彼らは用意された車へ乗り込んで行った。わずかな時間ではあったが、きびきびとした動作の金与正氏は一行の中でも特に強い印象を残した。

【アメリカの歴史】18.同時多発テロとジョージ・W・ブッシュ共和党政権(2001-2009)

2021-12-14
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【アメリカの歴史】18.同時多発テロとジョージ・W・ブッシュ共和党政権(2001-2009)
 民主党ビル・クリントン大統領の任期満了にともない、2000年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党ジョージ・W・ブッシュ(ブッシュ・ジュニア)が、民主党の現職副大統領アル・ゴアを破って当選した。しかしこの大統領選はアメリカ合衆国史上で最も接戦となった選挙で、最終的には選挙結果をめぐり法廷闘争(ブッシュ対ゴア事件)になるほどだった。
 共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領は、選挙での接戦もあり支持率は当初から低かったが、就任9ヵ月後に起こった「アメリカ同時多発テロ事件」によって、一気に様相が転換する。2001年9月11日朝、同時にハイジャックされた民間航空機が、ニューヨーク市のワールド・トレードセンターの双子ビルに突入して倒壊させるなど、衝撃的なニュースが駆け巡った。
 テロ事件でもたらされた大きな衝撃は、アメリカ国内のムードを一変させた。ウサーマ・ビン=ラーディンの率いるアルカーイダのテロリストがこのテロを仕組んだことが判明し、ブッシュ大統領が徹底した「テロへの戦い」を宣言すると、アメリカ国民から圧倒的な支持を得た。
 ジョージ・W・ブッシュ大統領は2002年1月の一般教書演説で、イラン、イラクおよび北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、これらの国がテロを支援し、大量破壊兵器を得ようとしていることを糾弾した。ブッシュ政権は、イラクを支配するサダム・フセインがテロを支援し、国連停戦決議に違背し、生物兵器・化学兵器・核兵器といった大量破壊兵器を保有しているとして批判した。
 2003年3月17日、ブッシュ大統領はサダム・フセイン大統領に対し、全面攻撃の最後通牒を行った。しかし国連の決議が得られないため「有志連合」として、イギリスなどと共に「イラクの自由作戦」と命名した作戦に則って、侵攻を開始した。侵攻作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったうえで、連合国暫定当局による占領統治を行い、徐々に民主化することとした。
 しかしブッシュ大統領が、イラク侵攻の名目とした大量破壊兵器は見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になり、アメリカ国民の支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準に落ち込む。ブッシュはフセイン排除の目的を「人権抑圧」にすり替えたが、占領政策による民主化は一向に進まず、フセインが強圧的に統治していたイラクは、ほぼ無政状態となった。
 2004年、ブッシュは再びアメリカ合衆国大統領選挙に立候補したが、イラクでの失政などで支持は急落しており、かろうじて過半数を得票し2回目の当選を果たした。2期目における一般教書演説では、外政に関して各国との協調路線を取ると述べたが、イランの核開発問題や北朝鮮の核問題などでは強い姿勢を示した。
 しかし、8月のハリケーン・カトリーナによって過去最大級の犠牲者を出すと、ブッシュ政権の予防の不十分さと対応の遅れが非難の的となった。チェイニー副大統領ら政府首脳にも不祥事が明らかになり、支持率は最低レベルにまで低下した。しかも先延ばししてきたイラクの大量破壊兵器の調査も、報告に誤りがあったと認め、イラク政策の責任者であったラムズフェルド国防長官を更迭することになった。
 2008年の政権末期には、サブプライムローンに端を発した世界同時金融不況へも、効果的な対応が取れず、共和党の後継大統領候補をジョン・マケインとしたが、ブッシュの不人気が影響し、民主党候補のバラク・オバマに敗れることになった。2期目のブッシュ大統領は、これといった実績にも乏しく、多大な財政赤字を残したまま、2009年1月に任期満了で退任する。

【アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン民主党政権(1990-2001)

2021-12-13
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン民主党政権(1990-2001)
 冷戦が終わると1990年8月、サダム・フセインのイラクがクウェートに侵攻した。これに対し国連安全保障理事会は、イラクが即時撤退しない場合は武力行使を容認する決議を可決した。翌1991年1月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は「多国籍軍」の結成を呼びかけ、1991年1月から2月にわたって戦闘を行い、クウェートをイラクから解放した。
 この「湾岸戦争」は、第二次世界大戦後初の国連決議にもとづく多国籍軍の結成であり、安保理での拒否権行使のない決議は東西冷戦の終結を象徴する出来事だった。アメリカ主体の多国籍軍は、最新の電子兵器を駆使し、その様子は刻々と世界中のテレビジョンに映し出された。あたかもPCゲームかと見まがうほどの画像を、世界中が居間にいながら観ることができた本格的な「電子戦争」でもあった。
 1992年1月、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、冷戦終結後のアジア・太平洋地域を巡る外遊を行った。日本も訪れて天皇明仁(現上皇)と会見し、宮澤喜一首相による歓迎会に出席したが、その会食で失神してしまいその様子はテレビで放映された。これでブッシュ健康不安がささやかれ、次期選挙に影を落とした。
 ブッシュは、湾岸戦争の勝利や北米自由貿易協定調印など外交での実績をほこり、1992年アメリカ合衆国大統領選挙に挑んだ。しかし湾岸戦争からは時間が経ち、その後の景気後退や増税はしないという公約を反故にしたことなどから、人気は凋落していた。
 1992年アメリカ合衆国大統領選挙では、若い民主党のビル・クリントンが勝利した。クリントンはアメリカ合衆国史の中でも若く就任した大統領として、ベビーブーム世代としては初の大統領となった。
 ソビエト連邦が崩壊し、自由主義陣営の中心であるアメリカの勝利となったが、レーガン、ブッシュの共和党政権のもとで、アメリカ経済は「双子の赤字」(財政赤字と貿易赤字)に苦しんでいた。民主党のビル・クリントン政権は、こうした経済的不況を解消することに注力した。
 1990年代には、ちょうどITC技術の開花期に当たり、副大統領アルバート・ゴアが提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」など、ITC産業を積極的に後押しする事業が展開され、民間でもマイクロソフトやApple ComputerといったIT企業が頭角をあらわし、1995年の「Windows95」の発売は、まさにインターネット時代の幕開けを象徴した。
 アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・ハイテクに重点を移行させ、インターネット・バブルとも呼ばれた好景気をもたらす一方で、上下両院を抑えた共和党が「小さな政府」を主張するなか、共和党のお株を奪うような「財政赤字削減」に転換し、2000年には財政黒字を達成した。
 ビル・クリントンは、アーカンソー州知事としての地方政治経験しかなく、外交に関しては未知数だった。その外交姿勢は、場当たり的だという批判にさらされたが、幸いにも冷戦後で米ソの大国が背後にいるような大きな対立は無く、民族間の紛争が散発する程度でおさまった。
 長年の懸案だったイスラエルとアラブ諸国との対立も、1993年、和平の機運が高まる中でイスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の間で、歴史的な「オスロ合意」がなされ、クリントンはその立会人となった。しかし現実には、和平反対勢力のテロの応酬や両者の衝突事件が相次ぎ、95年11月にはラビン首相が暗殺され合意は破綻、クリントンはキャンプデービットに両国代表を招いて和平交渉を仲介したが、結局は実現できなかった。
アジアでは
チャイナゲートと呼ばれる中国共産党政府から選挙資金を得た疑惑もあり、親中の傾向が強く、鄧小平の開放路線を受け継いだ江沢民国家主席と強力な貿易関係をもち、一方で貿易摩擦が激化する日本には厳しい態度を取った。北朝鮮の核開発問題では、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮の核武装の防止に失敗した。
 クリントンは多くの女性とスキャンダルが噂されていたが、1998年に「モニカ・ルインスキー事件」が発覚し、ホワイトハウス内で淫行が暴露されると、大統領職としての権威を大きく失墜させたと、窮地に陥ったが、妻であり政治的野心があったヒラリー・クリントンの「寛大な援護」によって、これを乗り切った。
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