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闘いの歴史

闘いの記録

如己愛人(にょこあいじん)

2020-10-24
博士は自らの身体を被爆医療に捧げた。
原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉
原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉「みんな泣くな。泣いてはいかん。研究するんだ。研究してくれ。最初の原子爆弾だったから、まだ治療法がわかっていない。それで、ぼくは死ぬのだ。研究すれば、原子病を治す道が見つかるんだ。みんな泣くな。研究してくれ。そして、ぼくたちを最後の原子病患者として食い止めてくれ給え」――その言葉が私の細りゆく命にむちうって原子病研究へかり立てているのである。 さいわい、私自身が原子病患者である。これを自ら実験台にして、いま研究を続けている。わが命が終ったら、友人が解剖してくれるだろう。そのとき、この廃物となった肉体が原子病の病理究明のため、いささかでも役に立つだろう。生きていても、死んでも、天主の御栄えのためになり、人類の幸福のためになるのなら、その他に何を私は求めようか――。

自ら実験台にして

2020-10-24
「原子病の床に」 永井隆 より
八月八日朝、空襲警報が鳴っていた。私はにこにこ顔の妻に見送られて家を出た。やがて弁当を忘れたことに気がついた。そしてわが家へ引返した。そこで思いがけなくも、玄関に泣き伏している妻を見た。―― それが別れだった。その夜は防空当番で大学に泊った。あくれば八月九日。一発の原子爆弾は、私たちの頭上に破裂した。――あの機械もこなごなに砕かれて焼けた。妻も家もろともこなごなに砕かれて焼けてしまった。のっぺらぼうの原子野の、防空ごうの中に、重傷を三角巾で巻いてころがっている私、それは全く無一物となり、全く孤独となり、慢性の原子病に、さらに加えて原子爆弾の中性子による急性原子病を併発し、完全な廃人となっている私であった。 ――だが、私は参ってしまったのではなかった。私は無一物の中から、新しい力の無尽蔵にわき出るのを感じたのである。「生きるも死ぬるも天主の御栄のためにネ」といった、あの夜の妻の言葉が、いまこそ私に新しい世界をひらいてくれた。私の肉身はすでに廃物である。しかし私の霊魂は自由自在に活躍する。いや、私は霊魂のみとなって活躍するというべきであろう。 原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉「みんな泣くな。泣いてはいかん。研究するんだ。研究してくれ。最初の原子爆弾だったから、まだ治療法がわかっていない。それで、ぼくは死ぬのだ。研究すれば、原子病を治す道が見つかるんだ。みんな泣くな。研究してくれ。そして、ぼくたちを最後の原子病患者として食い止めてくれ給え」――その言葉が私の細りゆく命にむちうって原子病研究へかり立てているのである。 さいわい、私自身が原子病患者である。これを自ら実験台にして、いま研究を続けている。わが命が終ったら、友人が解剖してくれるだろう。そのとき、この廃物となった肉体が原子病の病理究明のため、いささかでも役に立つだろう。生きていても、死んでも、天主の御栄えのためになり、人類の幸福のためになるのなら、その他に何を私は求めようか――。

永井隆

2020-10-24
爆死した妻のために半年間喪に服した (昭和21年(1946) 撮影)
長崎市永井隆記念館 永井隆ストーリーより
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。
見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼け跡から拾われねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く動けない体となってしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)

宗教弾圧

2020-10-22
大本教の場合
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1935年(s10)】
◎第二次大本教弾圧事件
*1935.12.8/ 警察隊が大本教本部や別院を急襲。不敬罪・治安維持法違反容疑で幹部ら65人をいっせいに検挙する。(第二次大本教事件)
 大本事件は、新宗教「大本(おおもと)」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った宗教弾圧である。1921(大10)年に起こった第一次大本事件と、1935(昭10)年に起こった第二次大本事件の2つがある。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本を徹底的に壊滅させる目的での弾圧であった。
 「大本」(俗にいう「大本教」)は、京都府綾部の地に住む一介の老女「出口なお」が、「艮(うしとら)の金神」が神懸かりしたとして始めた土着的な新宗教であった。一方で、同じく京都府丹波地域の亀岡の農家に生まれた上田喜三郎は、さまざまな新宗教を遍歴したのち、出口なおに関心を抱くと数回に及び綾部を訪問、やがて"なお"の信任を得ると、その五女で後継となる「出口すみ」と結婚し、入り婿となり「出口王仁三郎」と改名した。
 出口なおは、国常立尊のものとされる神示が「お筆先」として伝えられるとして、元来の文盲にもかかわらず、ひらがなばかりであるが自動速記のようにして書き続けた。このような開祖としての「なお」のシャーマン的な霊性と、希代の天才的オルガナイザーであった出口王仁三郎の俗世能力とが合体して、「大本」は拡大の道を歩むことになる。
 "なお"が亡くなると、娘の出口すみが二代「教主」となり、すでに霊性を認められた夫の王仁三郎が「教主輔」となる。王仁三郎の出生の地亀岡に、もと明智光秀の居城であった亀山城の址地を買収して、綾部と並ぶ教団の本拠地に改修した。さらには、大正日日新聞を買収してマスメディアを通じての言論活動をするなど、活発な布教活動により教勢を伸ばした。
 "なお"がひらがなで記した「お筆先」を、漢字に書き直し加筆編集して『大本神諭』として発表することで、宗派としての教義を確立し、"なお"の土着性に王仁三郎が普遍性を付加して、世界宗教としての萌芽さえ見せるようになった。「おおもと」はすべて一つの神であるという一神教性と、その教義の根幹にあった黙示録的な終末論とその「立替え説」は、第一次世界大戦や米騒動、ロシア革命などで揺れる世情不安の動揺をとらえ、信者数を拡大して陸海軍や上流階級にまで影響力を持つようになった。
 1921(大10)年の第一次弾圧は、不敬罪・新聞紙法違反として80名が検挙され、王仁三郎には懲役5年という判決が下ったが、控訴審・再審と続くうちに、大正天皇の崩御があって免訴となる。不敬を理由に教団の施設破壊も行われたが、決定的な打撃とはならなかった。公判中にもかかわらず、保釈中であった出口王仁三郎は、われ関せずとモンゴルへ出向き、当地の馬賊の頭領とともに活動するありさまであった。
 1935(昭10)年12月8日に始まる第二次大本事件での大弾圧は、まさに徹底したものであった。満州事変勃発後、国内ではクーデター未遂やテロルが横行して、不安定な状況下にあった。ますます勢力を拡大し、政治的な動きを増しつつある大本は、軍部皇道派や右翼団体と連動して反政府民衆運動を惹起する懸念を当局に抱かせていた。
 1935(昭10)年12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。当局は大本側の武装を当然とし決死の覚悟で踏み込んだが、大本の施設からは竹槍一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙され、信者987人が検挙され、特高警察の拷問で起訴61人中16人が死亡したという。
 邪教撲滅のために全国の教団施設の撤去が決定すると、当局は綾部・亀岡の教団施設をダイナマイトで跡形も無く破壊し、それらの破壊費用を大本側に請求した。また王仁三郎一家の個人資産、教団の資産もすべて処分、出口なおをはじめ信者の墓あばくなど、西欧中世カトリック教会の「異端」迫害を思わせるような弾圧をおこなった。
 大本教団はほぼ壊滅させられ、王仁三郎は保釈されるも故郷亀岡で隠遁生活を送り、戦後の恩赦で解放されると教団活動を復活させたが、まもなく死去する。たとえ大本教団が狂気の集団であったとしても、それに輪を掛けた国家権力側の狂気は、まさに戦争に向う狂気の抗いがたい「空気」のもとで進められたのであった。

訃報です。

2020-10-18
3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
『Get Back! 50's / 1953年(s28)』
(スターリン死去)
○3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。東京証券市場では、軍需株を中心にダウ価が急落する。(スターリン暴落)
 1953年3月1日、スターリンは政権幹部らとの徹夜の夕食の後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。猜疑心の強いスターリンの性格も作用して、翌日の午後になるまで発見が遅れた。昏睡状態が続き意思疎通はできないまま、4日後危篤に陥り、死亡した。スターリンの死には謀略説もあり、計画的な暗殺だったとする説や、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に、死を早める措置をしたとか、意図的に放置したとかの噂があるが、真相は不明のままである。
 ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)は、帝政ロシア支配下のグルジア(現ジョージア 共和国)の貧しい職人の家庭に生まれ、神学校に進むもマルクス主義に近づき退校、やがて労働者となり、労働者の組織化や地下の革命活動に進む。ヨシフはグルジアでボリシェヴィキの活動家となるとともに、やがてレーニンと直接出会い認められるようになった。
 ロシア革命によりソビエトが成立すると、レーニンを補佐してトロツキーとスターリンは並び立つ存在になった。1924年レーニンが死去すると、ライバルのトロツキーを追い落としてレーニンの後継の地位に就いた。レーニンはその遺書で「猜疑心の強いスターリンを指導者にしてはならない」との旨を書いていたとされるが、遺書は握りつぶされた。
 ソ連を追放されたトロツキーは、各地を転々としたあとメキシコにまで逃亡したが、スターリンの派遣した暗殺者にピッケルで頭をぶち抜かれて暗殺された。スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。
 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリンに対する批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。
 近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。
*この年
1934年以来の大凶作/街頭テレビが大人気/蛍光灯が家庭に普及/映画「君の名は」空前の大ヒットでストールの真知子巻きが流行/うたごえ運動盛ん/テレビの流れ作業生産が始まる
【事物】森永スープ/噴流式の電気洗濯機/無線タクシー
【流行語】さんずい(汚職の隠語)/さいざんす/むちゃくちゃでござりまするがな
【歌】雪の降るまちを(高秀男)/君の名は(織井茂子)
【映画】ひめゆりの塔(今井正)/十代の性典(島耕二)/シェーン(米)/禁じられた遊び(仏)
【本】伊藤整「火の鳥」/山岡宗八「徳川家康」/ボーボワール「第二の性」

闘いの転機

敗戦のつけ

2020-10-19
戦災孤児、この数は120000人を超えました・・・。
貧しいからと言って、人間は腐るものではない。 戦争で親をなくした数十万の子供たちは、その多くが戦後日本の復興の礎となった。むしろその多くは、お互いに寄り添い、肌の温もりを分かち合い、助け合いながら逞しく、人間らしく生き抜いてきた。

鐘の鳴る丘』(かねのなるおか)は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマ、またそれを原作とした映画菊田一夫作。ラジオドラマの放送回数は790回に及ぶ。1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)には松竹映画化もされている。
 

放送開始のきっかけは、1947年(昭和22年)4月のエドワード・ジョゼフ・フラナガンの来日である。6月にフラナガンが離日した後に、CIEはNHKに対し、フラナガンの精神を踏まえた戦争孤児救済のためのキャンペーンドラマを制作するように指示した。

脚本担当の菊田、音楽担当の古関、巖金四郎をはじめとするNHK東京放送劇団の面々の出演が決定したが、当時はプロの児童劇団もないため、主役となる子役を決めるのに苦労した。ところが、当時練馬区に在住していた巖が、東京都の演劇大会で優勝するくらいに演劇活動が盛んであった練馬区立豊玉第二小学校を紹介したことで、その小学校に在籍する10人前後の児童が出演することになった。当初は土日の週2回の放送だったので、出演者である小学校の児童たちが、教師の引率によって毎週練馬からNHK東京放送会館へ通い、生放送を行っていた。


 

負けました!

2020-10-16
接収、身包み剥がれます。
伊号400潜水艦  Facebook金敷瑞貴さんの投稿より
2020-09-21

花山さんだけが知る東条の最期。
多くの人が犠牲になった悲劇の責任者は、戦争についてこのように語ったといいます。
故・花山信勝さん(カセットテープの声)
「人間の欲望というものは本性であって、国家の成立というようなことも「欲」からなるのだし 、自国の存在だとか、自衛というようなきれいな言葉で言うことも みな国の欲である」

 これは、何を意味する言葉なのか。東条の研究をしている埼玉大学の一ノ瀬俊也教授は、こう説明します。   「東条も戦争に負けた後、“この戦争ってなんで起こったんだろう。自分はその間、何をしていたんだろう”と非常に深く考えたと思います。その中で戦争は人間の欲望によって、起こるものだということを、仏様の道について学ぶ中で悟ったんじゃないかなと思います」(埼玉大学 一ノ瀬俊也 教授)

教戒師 花山信勝師の音声記録

2020-09-21

カセットテープの音: 「いよいよ死に直面したこれらの人たちの気持ちを、子々孫々へ伝えねばならないのです」  穏やかな声で語り続ける男性。一体誰なのでしょうか? 「教誨(かい)師の花山信勝という方」(蓮成寺 青木住職)

 教誨師とは、刑務所などで受刑者に対して精神的なケアなどを行う人のこと。  花山信勝さんは戦後、GHQ管理の下、戦犯者が収容されていた「巣鴨プリズン」で、教誨師を勤めていた僧侶です。

 このテープは、晩年の花山さんが当時の体験を記録として残したものでした。
  故・花山信勝さん(カセットテープの声): 「誰も知っていない東条さんの最後が、どうであったかということの点を申し上げたい」  
花山さんは、太平洋戦争開戦時の首相で、A級戦犯として絞首刑になった東条英機とも面談していたのです。
故・花山信勝さん(カセットテープの声): 「(東条英機は)“巣鴨プリズンに入ってから、初めて人生という問題について考える余裕ができた”と言われたのです。気の毒な人だったなと思います」

 1948年12月、東条らA級戦犯者7人の死刑が執行され、連合国の代表らとともに、唯一の日本人として立ち会ったのです。
「これが初めて(花山さんが) このお寺にみえた時の写真なんですね」(蓮成寺 青木住職)
  青木さんの父親・順正さんと親交のあった花山さんは、処刑に立ち会った約3か月後に蓮成寺を訪問。  講演で、当時の様子を語りました。 「(花山さんの話を聞くために) 人が庭まであふれているんですね。たくさんの身内を亡くした人たちも、日本の指導者にひどい目に遭わされた。その人(東条)がどんな形で亡くなったかというのは関心があったわけですね」(蓮成寺 青木住職)

山口多聞 ミッドウェー海戦において戦死。最終階級は海軍中将 。

2020-09-18
1892年(明治25年)8月17日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。海兵40期次席 ・海大24期次席 。
空母飛龍です。ミッドウェー海戦において沈没。
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