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闘いの歴史

闘いの記録

FacebookMatthew Copp 三菱ゼロのリベットと塗装スキームの細部が好きです.

2021-01-24

オスプレイのコックピットから輸送機(4万5千リットルの燃料を運搬可能なタンカー)を望む。

2021-01-23
Facebook在日米海兵隊 この後、オスプレイは空中給油を受けました。

アメリカ空軍の戦略爆撃機。

2021-01-22
左からB-2、B-52、B-1。
新型戦略爆撃機として開発中の「レイダーズ」です。

B-52の前に後ろに、代わる者なし。

2021-01-22
B-52(上)と飛行するB-1B(中)とB-2(下)共にB-52を完全に置き換えるには至らなかった。

(Stratofortress:成層圏の要塞)。

2021-01-22
B-52 ストラトフォートレス(Boeing B-52 Stratofortress )は、ボーイング社が開発しアメリカ空軍が運用している戦略爆撃機。
ティンカー空軍基地より飛び立つB-52H-175-BW 61-0036号機 (2014年12月9日撮影)
爆弾を投下するB-52D(1960年代)

初参戦となったのはベトナム戦争である。

1965年2月7日、リンドン・ジョンソン大統領はアメリカ軍将校殺害の報復として解放戦線勢力圏と同時に、トンキン湾事件報復を口実として首都・ハノイ市などの北ベトナム中枢への爆撃(北爆)を命令。いわゆる「フレイミング・ダート作戦」で、3月からは本格的な北爆である「ローリング・サンダー作戦」が開始された。

B-52は、グアム島や当時アメリカ統治下の沖縄本島のアメリカ軍基地から、北ベトナムまで長距離飛。絨毯爆撃を行って帰還した。参加したのは主に通常爆弾を大量に搭載可能に改造したD型で、100発以上の無誘導爆弾を満載して連日出撃した。

闘いの転機

学徒散華の記録

2021-01-23
富安俊助中尉(早稲田大・飛行予備学生13期、22歳)とエンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)
Facebook橋本 新一


1945年5月14日緩降下後背面宙返りで垂直逆落としに体当りエンタープライズの前部エレベータの後部に激突炎上しエレベーターは吹き飛び船体に穴が開き2.2メーター浸水、ダメコン班が30分で火災を鎮火、エレベーターホールで富安中尉の遺体を発見。
遺体は米兵並みに丁重に水葬され、2020年に富安中尉の機体の一部と遺体にあった50銭札も家族に返還。

闘いには、旗印が必要でした。

2021-01-23
明治7年1月23日の本日、明治天皇が新編の近衛歩兵第一・第二聯隊に軍旗を親授なさいました。
Facebook英霊の本日の出来事より


明治7年1月23日の本日、明治天皇が新編の近衛歩兵第一・第二聯隊に軍旗を親授なさいました。
日本陸軍最初の歩兵聯隊は、明治7年1月20日西郷隆盛率いる御親兵を母體として誕生します。
この聯隊には大正・昭和の二代に亘る天皇が皇太子時代に、それぞれ聯隊付きとして在籍しました。
近衛歩兵第二聯隊は、近衛歩兵第一聯隊と同日に軍旗を親授された日本陸軍最古の歩兵聯隊です。

八甲田山の悲劇

2021-01-23
Facebook英霊の本日の出来事より


明治35年1月23日の本日、青森歩兵第五聯隊第二大隊が八甲田山で猛吹雪の為遭難しました。
八甲田雪中行軍遭難事件は、明治35年1月に日本陸軍第8師團の歩兵第5聯隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。
訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が發生した事故であるとともに近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故です。
「雪中行軍」
日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戰爭で冬季寒冷地での戰いに苦戰したため、さらなる厳寒地での戰いとなる對露西亜戰を想定し、それに向けて準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。
對露西亜戰は2年後の明治37年に日露戰爭として現実のものとなった。
雪中行軍には青森から歩兵第5聯隊210名が、弘前から歩兵第31聯隊37名と民間の新聞記者1名が参加した。
うち青森歩兵第5聯隊が遭難した。
―行軍の目的―
青森歩兵第5聯隊は露西亜軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、冬場に「青森〜田代〜三本木〜八戸」のルートで、ソリを用いての物資の輸送が可能かどうかを調査することが主な目的であった。
このための中間段階として、道中最大の難所である青森~田代温泉間の雪中行軍演習が片道約20km、1月23日より1泊2日の豫定で計画された。
弘前歩兵第31聯隊の計画は「雪中行軍に關する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に當たるもので、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算であった。
「弘前〜十和田湖〜三本木〜田代〜青森〜浪岡〜弘前」の総距離224kmのルートで1月20日より11泊12日の行程であった。
なお、両聯隊は、日程を初め、お互いの雪中行軍豫定を知らずに計画を立てた。
ただし、弘前聯隊の行軍豫定については東奥日報が1月17日發行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍豫定の重複に氣付いた者がいた可能性がある。

ラバウルの思い出

2021-01-23
昭和17年1月23日の本日、 ニューブリテン島ラバウを占領し航空基地に致しました。
Facebook英霊の本日の出来事より




ラバウル航空隊は南太平洋諸島の確保、機動部隊の支援を目的に昭和17年1月から基地航空隊としてポートモレスビー方面に進出して聯合軍航空隊に對して優位に戰斗を進めていた。
ニューブリテン島ラバウルは聯合國軍からはラバウルの要塞と呼ばれ、米海軍・米海兵隊・英領ニュージーランド空軍のソロモン方面と米陸軍・英領豪州軍の東ニューギニア方面の2方面に對する攻撃・防御および補給の起点の役割を果たしていました。
大東亞戰爭開戰後の昭和17年1月20-22日第一航空艦隊がラバウルを空襲し制圧。
昭和17年 1月25日 水上機部隊がラバウル地區に進出。
昭和17年1月31日96戰装備の千歳空分遣隊が空母瑞鶴、翔鶴で輸送されラバウルに到着した。
千歳空分遣隊飛行隊長兼司令岡本晴年大尉とともに搭乗員のみが先着。
昭和17年2月10日千歳空分遣隊と高雄空陸攻隊で4空(森玉司令)を編成。
昭和17年2月20日4空中攻隊、ラバウル攻撃米機動部隊の接近を察知し雷撃攻撃。
自爆・未歸還9機。 
昭和17年 2月23日1空中攻隊がラバウルに着任。
昭和17年2月24日からニューギニア島東南部、ポートモレスビー基地攻撃を開始。1942年3月7日南海支隊の一部のサラモア上陸、海軍陸戰隊のラエ上陸で終戰まで続くニューギニアの戰いが始まる。
3月31日原田機96陸攻乗組員一同、モレスビー基地陣地へ自爆命令で特攻。
昭和17年4月臺南空がラバウルに着任(斉藤司令)。
4空の戰斗機隊は臺南空に編入される。
昭和17年4月10日1空は後退し本土木更津で再建に入る。
昭和17年5月3日浜空飛行艇隊、ガダルカナル島ルンガ泊地北東對岸に位置するフロリダ島南端小島のツラギに進出する。
画像は、ラバウル航空隊ブイン基地(1943年4月い號作戰時撮影)
(ウィキペディア参照。)

無理を重ねた挙句の結果は、不戦沈没でした。

2021-01-21
信濃もえっちらと作成 未だ軍艦旗掲揚前の艤装中の在りし日の信濃イメージ
Facebook森 一理さんより
基準排水量62,000英トン
公試排水量68,059トン
または68,060トン、69,100トン
満載排水量71,890トン
全長266.0m(艦首より後部機銃フラット後端まで
水線長256.0m
垂線間長244m
最大幅38.90m(水線下)または38.0m
水線幅36.30mまたは36.9m
深さ18.915m
24.81m(飛行甲板側線まで)
飛行甲板256.00 x 40.00m、または256.000x39.400m
エレベーター2基
吃水10.312m
10.3m(T.W.L)、10.4m(1.W.L.)
ボイラーロ号艦本式缶(空気余熱器付)12基
主機艦本式タービン(高低圧2組)4基
推進4軸x 225rpm、直径5.100m
出力150,000hp
または160,000shp
速力27.0ノット(予定) または 27.3ノット
燃料8,900トン(満載) または 9,000トン または7,350トン
航続距離10,000カイリ / 18ノット
乗員2,400名
1944年10月1日付定員 2,515人
兵装12.7cm連装高角砲8基16門
25mm3連装機銃 37基または35基
同単装機銃40基
12cm28連装噴進砲12基(後日装備)
装甲飛行甲板 20mmDS+75mmCNC鋼
舷側 160-270mmNVNC鋼(傾斜20度)
甲板 190mmNVNC鋼
軽質油タンク舷側25mmDS鋼2枚、

同甲板25mmDS+70mm鋼
レーダー21号電探2基
13号電探2基
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