本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録

静まる成人式~杉並区長時代の山田宏の『英霊の遺書』講演 https://youtu.be/XxNvKkN4644

2021-01-16
11年間の杉並区長としての成人式で、毎年山田宏区長(当時)は、親への感謝、そして多くの先人達への感謝から成人が始まると、『英霊の遺書』を紹介。

ニイタカヤマノボレは、こちらから・・・

2021-01-15
佐世保の通称、大塔、針尾送信所アンテラ群
白文字は、内容とは無関係です。

ミッドウェイ (USS Midway, CVB/CVA/CV-41) は、アメリカ海軍の航空母艦。

2021-01-14
2015年現在同艦はカリフォルニア州サンディエゴで博物館として公開されている。
ミッドウェイ級航空母艦のネームシップ。第二次世界大戦後に就役し、ベトナム戦争や湾岸戦争に参加した。

ここから始まりました。

2021-01-13
Facebook秋元良文さんより

 


「世界初の実用ヘリコプター」
Fw61。
初飛行1936年、6月26日ベルリンにある運動競技場の屋内で展示飛行を行う。
生産数2機。
Fa223。
初飛行1940年8月3日、生産数11機、終戦後2機が米軍に接収される。
FⅠ282。
初飛行1941年運用開始42年、生産数23機以上。
1,000機生産されることになっていたが工場が爆撃を受けて量産は実行されず。
地中海、エーゲ海で試験的に船団護衛任務に運用、米軍にも接収される。

落下傘といえば、パレンバンですが・・・。

2021-01-12
昭和17年1月11日に、その作戦は決行されました。

昭和17年1月11日の本日、海軍落下傘部隊がセレベス島メナドに奇襲降下しました。

落下傘部隊の奇襲作戰は、セレベス島の北部ミナハサ州攻略に際して初めて敢行しました。
帝國海軍特別陸戰隊が、メナドおよびケマに敵前上陸したのに呼応して、敵手中のカカス飛行場目指しで敢行し、敵基地を一挙にわが手に収め、しかる後、海空よりの両部隊の聯絡を完成して、14日までにミハナサ州一帯の敵要地を攻略しました。
横一特がセレベス島北端のメナド(マナド)攻略作戰において落下傘降下を実施し、ランゴアン飛行場占領に成功した。
ついでティモール(チモール)島攻略作戰において、横三特がクーパン飛行場を狙った降下作戰を実行したが、地上戰斗に手間取り大きな成果を得ることはできなかった。
メナド降下作戰は陸軍に先駆けた日本最初の空挺作戰であったが、陸軍空挺部隊が予定するパレンバン空挺作戰の企図秘匿のため、その戰果はすぐには公表されず、1ヶ月以上後の大本營發表でパレンバン空挺作戰の成功とほぼ同時の發表となった。
なお、飛行場のみならず、東亜細亜屈指の産油量を誇る油田地帯・製油所という、南方作戰における日本軍の最重要戰略目標を僅かな損害で攻略した陸軍空挺部隊(第一挺進團)の功は海軍の功よりはるかに大きく、目立つ結果となり、陸軍への對抗意識が根強い海軍関係者の一部では不満が生じた。
また、日本軍落下傘部隊を謳った軍歌として大ヒットした『空の神兵』は、後に陸軍空挺部隊を描いた同名の映画『空の神兵』の主題歌になり、後述の通り陸軍空挺部隊は大戰後期にも数度の空挺作戰を行っているため、知名度や戰功の点からみて海軍空挺部隊の働きは陸軍空挺部隊より劣るものとなってしまった。
もっとも、海軍空挺部隊についても報道員が撮影した降下映像をもとにした短編ニュース映画や、大戰末期になるものアニメ映画『桃太郎 海の神兵』が公開されたこともあり、國民にある程度は存在を知られることになる。
(ウィキペディア参照。)
Facebook英霊の本日の出来事

闘いの転機

反戦の系譜

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
*1903.11.15/ 平民社を結成した堺利彦・幸徳秋水らが、週刊の平民新聞を創刊する。
 1903(明36)年10月、非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したため、同紙記者であった幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三が、萬朝報から去る。内村はキリスト者として人道的反戦論を展開するが、幸徳・堺は改めて社会主義的非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及を行うために「平民社」を結成した。
 平民社は、週刊「平民新聞」を創刊するが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割をも担い、事実上、社会主義協会と共に社会主義運動の中心組織であった。週刊「平民新聞」第1号(11月15日)には、「平民社同人」署名の「宣言」と、堺・幸徳署名の「発刊の序」が掲載されており、「宣言」では、平民社が今後、「平民主義・社会主義・平和主義」を唱えていくことが述べられている。
 日本の社会主義運動は、1901(明34)年に幸徳らによって結成された「社会民主党」に始まるが、これは即日禁止されており、その「社会民主党宣言書」の精神を引き継ぐことが平民新聞で「宣言」された。「平民新聞」第53号(1904年11月)には、堺・幸徳の共訳で「共産党宣言」が訳載されたが、直ちに発売禁止になった。
 「平民新聞」は英文欄も設け、英米やロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。その成果として、日露戦争中の1904(明37)年8月、アムステルダムで開催された第二インターナショナル第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフが共に副議長に選出されて、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認した。
 日露戦争非戦の主張は官憲に目をつけられ、戦争終結後の1905(明38)年10月、平民社は活動2年足らずで解散することになった。その後、再興するも当局の弾圧で1910(明43)年3月に解散、その年5月の「幸徳(大逆)事件」で、主要メンバーの大半を失った。
 世間は圧倒的に日露開戦になびいていたが、平民社グループの社会主義的反戦論以外にも、内村鑑三らの人道主義的非戦論、与謝野晶子・大塚楠緒子らのロマン主義的厭戦詩などが、日露の戦いに否を唱えた。
 1904(明37)年9月、日露戦争の最中に、歌人与謝野晶子は、旅順で戦う弟を思う新体詩「君死にたまふことなかれ」を、夫与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」に発表した。発表時は反戦厭戦詩と認識され、先輩歌人の大町桂月から厭戦的で国威発揚に反する批判されるも、「歌はまことの心を歌うもの」と反論している。
 
*「君死にたまふことなかれ」 https://www.culturebeanz.com/entry/2019/03/26/002828/
 
 しかしこの詩は、戦場で死ぬかも知れない末弟に対する「(死んで欲しくない、という)まことの心」を歌ったまでで、与謝野晶子は必ずしも平和主義者でも反戦主義者でもなかった。第一次世界大戦の折には「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っているし、1942(昭17)年に、海軍大尉として出征する四男に対して「わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」と、反戦家としては一貫しない正反対の歌をうたっている。
TOPへ戻る