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闘いの歴史

闘いの記録

反戦運動

2020-11-29
Facebook佐々木信雄さんの投稿

米国国内でも、ベトナム反戦の声は拡大してゆくが、日本でも北爆の開始から、ベトナム反戦の気運が生じてきた。何よりも、沖縄の米軍基地がベトナム派遣アメリカ軍の補填基地となっており、1965年7月には、アメリカのB52爆撃機が、沖縄嘉手納基地を発進してサイゴン南郊を爆撃するという事態が生じた。

 この時期は、安保闘争の端境期で学生運動は下火だったが、いわゆる「文化人」を中心に無党派のゆるやかな市民の集まりが結成された。小田実・鶴見俊輔・開高健らが呼びかけ、「ベトナムに平和を! 市民(文化団体)連合」という長たらしい正式名称を付けて、街頭デモを主体に活動を始めた。

 「ベ平連」と略称された運動体は、一般市民が参加しやすい平和的なデモが活動の主体だったが、一方でリーダーたちは、ニューヨーク・タイムズ紙への反戦広告、反戦ティーチ・イン、支援カンパ、ベトナムに平和を日米市民会議、反戦米兵の脱走援助など、ユニークで創造力にあふれた反戦活動を展開した。

 やがて70年安保が近付くにつれて、新左翼の昂揚とともに左傾化してゆき、市民的小集団の離脱がみられ活動は下火になる。公的には、70年安保闘争が終わり、さらにベトナム和平協定の後、1974(s49)年2月に解散した。しかし、左翼政治団体から独立した市民的運動の一つの形を示し、その後の市民活動に残した功績は大きい。

 そのような初期の自由な雰囲気を引き継ぐかたちで、岩国の反戦スナック「ほびっと」や、京都のフォーク喫茶「ほんやら洞」などが開店。同様のコンセプトの店も全国に開かれ、フォークを通じて反戦・コミューン運動に関わる学生・若者らで賑わい、70年代のサブカルチャーの拠点としての役割をはたした。

北爆、ベトナム戦争は泥沼化!!

2020-11-29

鍾馗

2020-11-23
陸軍です。
二式戦闘機「鍾馗」。連合軍のコードネームは"Tojo"。キ番号(試作名称)はキ44。開発は中島飛行機。大馬力エンジンに小さい主翼など、一撃離脱戦法に特化した設計がなされています。速力、上昇力を最優先にした設計で、航続距離や着陸性能は犠牲にされました。特に、離着陸に長い滑走路を必要とすることから、前線の狭い飛行場が使えず、航続力の不足もあって、広い太平洋戦域で地上部隊を援護する役目は果たせませんでした。戦中実用化された陸海両軍機のなかでも、アメリカ軍からは「迎撃戦なら最適の戦闘機」という評価を得ました。
 1937年、帝國陸軍は新たな戦闘機の開発に着手しました。日本軍にとって従来の運動性に優れた設計の軽戦闘機と、欧州で出現し始めている重戦闘機(ドイツのメッサーシュミットBf109やイギリスのスピットファイア等)を参考した全く新しい戦闘機を造り上げようとしました。前者が後の一式戦闘機に、後者が二式単座戦闘機となりました。当初重戦闘機の研究開発は難航し、同一の経緯で実用化された軽戦である一式戦闘機に対して制式採用年式で一年の遅れを見ています。日本軍は古くから、格闘性能を重視する軽戦闘機至上主義の気風があったため、運用経験のなかった重戦の基本仕様をまとめることすらままなりませんでした。軽戦主導者からの不要論がありましたが、同時期のノモンハン事件(後期ノモンハン航空戦)においてソ連赤色空軍戦闘機が一撃離脱戦法を駆使していた戦訓、つまりI-16などの高速機に対して一撃離脱攻撃や追撃の行える新鋭戦闘機の必要性が認められ、停滞していた開発を活発化しました。
 開戦時は正式採用前とはいえ、増加試作機によって部隊が編制されており南方戦線へ進出していますが、二式戦闘機一型自体は元々少ない数に加え元々対ソ連を念頭にしていたので、南方作戦で使うには航続距離が短い故に、一式戦闘機ほど出番は無かったですが、機会があれば米英機相手に優位に戦っています。懸念であった格闘戦闘も米英機相手に優越していました。その後、主要な量産機となった二型は中国大陸、ビルマ、タイ、フィリピンに進出しましたが、陸軍初の重武装高速機体は着陸が難しいとしてベテランパイロットに嫌われました。整備に難がある三式戦闘機を装備している部隊から、一式か二式を寄越せと要請がある事もありましたが、基本的には二式戦のハ109エンジンは整備員からの評価も芳しくありませんでした。また二型も航続距離がやや増したものの短い為、出番に恵まれずくすぶる毎日を送りました。主に本土防空戦闘機として運用され、敵地攻撃にはあまり用いられませんでした。 
 二式戦闘機がもっとも輝いたのは、戦争末期の本土防空戦でした。本土の空を守るため東南アジアから呼び戻され、対B-29の迎撃に充てられました。二型乙の40mm機関砲を装備した特別仕様の機体はまさにB-29戦の切り札でした。数発命中すればB-29ですら撃墜が可能で、多くの敵爆撃機を撃墜しました。しかし、元々エンジンは高高度性能に劣っており、40mm機関砲も極めて癖のある機関砲であり楽な戦いではありませんでした。そして硫黄島が失陥し、護衛にP-51が付随してくると、もう手柄を挙げる事は出来なくなりました。それでも残存する機体は終戦まで使用され、本土の空を守り続けました。
 二式戦の生産自体は1944年末に終了し、総生産機数は各型合計1,225機でした。

1947年12月18日 これ、インフレ真っ最中の日銀の金庫の内部。箱のなかにはお札がつまっているんですって

2020-11-18
Facebook永井由紀夫さんの投稿

ナセル、アラブの大統領

2020-11-12
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1956年(s31)】

◎スエズ動乱/第二次中東戦争

*1956.10.29/ イスラエル軍がエジプトに侵攻。スエズ戦争始まる。(スエズ動乱/第二次中東戦争)

 1869年、スエズ運河は、フランスの外交官だったフェルディナンド・マリー・レセップスの尽力により開通した。運河が開通すれば、ヨーロッパからアジアへ渡る航路は、これまでのインド航路(アフリカ南端の喜望峰を迂回)より40%も短縮され、ヨーロッパ諸国にとってきわめて利益の大きい運河計画であった。しかし、インド植民政策でもっとも利益を受けるはずのイギリスは、従来の独占的なインド航路の利益が脅かされるとして、反対し妨害工作さえした。

 

 レセップスは、エジプト太守の認可を受けて、万国スエズ運河株式会社(国際運河会社)を設立、スエズ運河はフランスおよびエジプト政府による資金援助で1869年に開通した。しかし、この建設費負担の為にエジプトは財政破綻し、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡され、エジプトはイギリスの保護国となった。運河はイギリスにとってインド、北アフリカおよび中東全体への戦略上重要な地点となり、その重要性は後の2つの世界大戦によっても証明された。

 

 スエズ運河はイギリス管轄下の中立地帯と定められ、イギリス軍はスエズ運河に軍隊を駐留させ、運河を実質的な管理下においた。一方エジプトでは、軍事クーデターが起こり共和制に移行、さらにナセルが大統領になると第三世界のリーダーの一人として、植民地主義を捨てられない西側に対抗するため東側ソ連に近づく。こうした中、7月26日にスエズ運河の国有化を宣言して、スエズ運河に利権を持つ英仏と対立することになった。

 

 スエズ運河に深く利害を持つ英仏は、シナイ半島やスエズに食い込むことを狙うイスラエルを巻き込み、10月29日、イスラエルがシナイ半島に侵攻、英仏が空軍で支援する形で戦端は開かれた。圧倒的な近代化部隊で英仏イスラエル連合はスエズ運河直前にまで迫り、エジプトの降伏が間近に迫ったとき、両陣営の背後で冷戦で対立する米ソが、互いに前面に出ることをさけるために調停に乗り出し、国連総会で即時停戦を求める決議が採択された。

 

 結果、得ることのなかった英仏及びイスラエルに対して、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した上に、ナセルは英仏イスラエルと正面から戦ったことから、中東での発言力を確固たるものとした。さらにナセルは、国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し、エジプト主権のもとスエズ運河の通航を再開した。

 

 なおこの時、当方は小学2年生、世界の出来事には無縁な学童に過ぎなかったが、「スエズ動乱」という言葉はかすかに記憶されている。朝鮮戦争はまったく記憶にないので、遠くの世界では戦争というものが起きているのだなと思った最初の経験であった。

 

(この年の出来事)

*1956.1.31/ イタリアのコルチナダンペッツォで開かれた第7回冬季オリンピックで、猪谷千春が日本人初のメダル(男子回転・銀)を獲得する。

*1956.5.9/ 日本登山隊が、ヒマラヤの未踏峰マナスルの初登頂に成功する。

*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。

*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)

*1956.11.22/ オーストラリアのメルボルンで、第16回オリンピックが開催され、日本選手は117人が参加、4種目で金メダルを獲得する。

*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。

闘いの転機

東京大空襲、そして沖縄戦

2020-09-18
Facebook佐々木信雄さんのコメントより
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』
(東京大空襲・沖縄戦)
○3.10 東京大空襲。
○4.1 [沖縄] 米軍が沖縄本島に上陸を開始する。
○7.2 米軍による沖縄戦終結宣言。
 沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。太平洋戦争において、日米軍の最大規模かつ最後の戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日開始6月23日に終了した。
 アメリカ軍の目的は、対日本本土爆撃のための航空基地確保と日本本土進攻の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて和平に持ち込むことを狙ったのに対し、現地軍司令部は本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」としていた。現地第32軍は、サイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を選んだ。
 3月下旬からの、沖縄周辺諸島や本島への空爆など予備的な攻撃から、4月1日朝、アメリカ軍は沖縄本島への上陸作戦を開始した。日本軍は、那覇市のある宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針で、水際作戦を放棄したため、手薄な中西部沿岸地域に上陸に成功したアメリカ軍は、4月3日までに東岸に達し、日本軍は沖縄本島南北に分断された。日本軍は本島南部を主戦場とする予定の為、北部は手薄で、アメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけ、4月22日までに沖縄本島北部の制圧は完了した。
 日本軍は首里城(那覇市)地下に置かれた司令部を中心とし、沖縄本島南部での持久戦術を採ったため、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里の司令部を目指して南進するが、途中の各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止、戦線は膠着状態に陥った。米軍は4月19日から23日にかけて総攻撃を加え、双方大きな損害を被ったが、日本軍は首里防衛ラインの外郭を突破されて、防衛線の再構築を迫られた。
 沖縄防衛戦の初めから、もはや日本艦船隊は壊滅しており、航空機による特攻頼りであった。しかし米海軍にとってこの「カミカゼ」特攻は脅威であり、多大な損失を受けるとともに、兵士に心理的恐怖を呼び起こしていた。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、日本軍の抵抗にあっている陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、上陸部隊司令官サイモン・バックナー陸軍中将がわざと慎重な手法を使っていると疑うなど、陸海軍の間に不協和音が生れつつあった。
 その後も、相互に総攻撃を行うなど激しい攻防を繰り返したが、籠城戦の日本軍は徐々に戦力を失い、5月27日、牛島司令官は首里の司令部を後退させる。日本軍は南部に撤退して抗戦したが、6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは、8月15日終戦告知のさらにあとの9月7日であった。
 沖縄戦では、本土との海上交通が阻害されたため、沖縄守備隊は現地の人的・物的資源の戦力化を強引に進めた。日本軍は兵力不足を補うために戦闘員として、住民を根こそぎ動員した。正規の動員以外に、在郷軍人会などによる自主参加が建前の義勇隊なども組織され、中学校や女学校に在籍する生徒も防衛召集や「志願」による生徒隊として軍組織に組み込まれた。これらは「防衛隊」「鉄血勤皇隊」「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などと呼称され、悲惨な状況に従事した。
 戦闘員以外にも、軍事関係などに徴用されて工場労働や農作業などに従事させられ、男女を問わず、また対象年齢外の老人や国民学校の児童らも「自主参加」の形で作業に従事することになった。そして戦闘に巻き込まれて死亡する民間人も、日本本土とは比較にならないほどの割合となった。軍の指示により多くの住民が南部に避難していたが、そこへ敗走して来た兵士たちが紛れ込み収拾が取れない混乱となった。米軍の掃討作戦が始まると、捕虜になるなと指示されていた住民たちは集団自殺するなど、沖縄戦における住民戦没者全体の6割が、日本軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっているとされる。
*この年
戦災による文化財の被害甚大/メチルアルコール中毒の死亡者続出/日本人の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳/第1回宝くじ売り出し
【事物】国産ジェットエンジン/ズルチン(砂糖の代用)/輪タク
【流行語】神州不滅/虚脱状態/ピカドン(原爆)/1億総懺悔/たけのこ生活
【歌】お山の杉の子(安西愛子ほか)/リンゴの歌(並木路子)
【映画】勝利の日まで(成瀬巳喜男)/そよ風(佐々木康)/ユーコンの叫び(米・戦後初の洋画)
【本】太宰治「お伽草紙」/火野葦平「陸軍」「悲しき兵隊」/誠文堂新光社「日米会話手帳」(360万部売上)

硫黄島の戦い

2020-09-17
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』
(硫黄島陥落)
○2.4 ヤルタ会談 / Fルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)。
○2.16 [小笠原諸島] 米艦隊が硫黄島に徹底攻撃を開始。3月25日、日本軍守備隊が玉砕する。
 1944年8月グアム島をほぼ制圧し、同年12月にフィリピンのレイテ島を陥落させた連合国軍は、日本本土への攻撃拠点として、小笠原諸島南端に位置する火山島「硫黄島」に戦略目標を定めた。硫黄島の攻略は、沖縄上陸および日本本土戦略爆撃が実現可能となる重要なステップとされた。
 1945年2月16日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。前哨戦に続き、19日明け方から猛烈な艦砲射撃が始まり、さらに爆撃機および艦載機による銃爆撃が続くと、午前9時、第1波が上陸を開始して、本格的な上陸戦が展開された。水際での日本軍の抵抗は少なく、海兵隊は円滑に上陸し前進したが、日本軍は地下坑道に潜み艦砲射撃に耐えて、10時過ぎになってから一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。
 19日だけで米海兵隊は500名以上の戦死者を出したが、夕方までには圧倒的な兵力で海岸堡を築き東海岸線への上陸を果たした。翌20日以降、島南端にある摺鉢山の要塞と、島中央北部の飛行場のある元山方面とに分かれて侵攻開始したが、摺鉢山の戦いは熾烈を極めた。張り巡らした地下坑道に潜伏し、ゲリラ的に反撃を加える日本軍に対し、米軍は坑道入り口から火炎放射器を浴びせたり、入り口をブルドーザでふさぎ上部に開けた穴からガソリンを流し込み焼き尽くす「馬乗り攻撃(日本兵側の呼称)」などで、逐一つぶしていった。
 23日午前、アメリカ軍は攻撃開始後7日目にしてようやく擂鉢山を制圧し、山頂に到達した海兵師団兵士が付近で拾った鉄パイプを旗竿にして星条旗を掲揚した。しかしその星条旗はみすぼらしくその場面を確認した者も少なかったので、あらためて別の兵士たちによって大きな星条旗を掲揚するシーンを、従軍専属カメラマンに撮らせたものが有名な「硫黄島の星条旗」として残された。その写真をもとにして、アーリントン国立墓地の近くの「合衆国海兵隊戦争記念碑」は作成されている。
 栗林忠道陸軍中将指揮下の守備軍は、3月5日戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移したが、7日、米海兵師団は奇襲を断行し中央突破、日本軍を島の北部と東部に分断した。この日、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発する。戦訓電報は、戦況を分析し、のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送るものであるが、栗林は恩師にあたる蓮沼蕃侍従武官長にも宛てている。この電文は客観的合理的な提言であるが、参謀本部に握りつぶされることを危惧したためと言われる。
 栗林中将は無意味なバンザイ攻撃を許さず、最後まで可能な限り組織的攻撃をすべしと命じた。しかしいよいよ追い詰められると、16日栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。17日、大本営はその多大な功績を認め日本軍最年少の大将に昇進させるが、栗林は同日に、最後の総攻撃を企図し各部隊へ最後の指令を送った。
 しかし出撃の機会が見つけられず転進したのち、26日栗林大将は最後の反攻を敢行する。栗林大将以下、残された約400名の将兵はアメリカ軍陣地へ攻撃をかけたが、この最後の攻撃は決して万歳突撃ではなく、最大限の打撃をあたえる決死の夜襲であった。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は混乱に陥り、200名以上の死傷者を出したとされる。
 また、予科練育ての親とも言われた市丸利之助海軍少将は、途中から合流し総攻撃に加わったが、遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、英訳させたものとを部下とともに懐中して戦死した。米軍が将校の遺体を検査することを見越して携行したもので、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、アメリカの新聞にも掲載された。それは、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げつつ共産主義ソ連と連携する連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
 末期的な前線における栗林中将や市丸少将の冷静な論述は、国民に知らされることなく、大本営は3月21日、硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」・・・栗林や市丸の理知的な思考を、参考にさえできなかったのは誰なのか。
 日本軍には増援や救援の具体的な計画はもとよりなく、硫黄島守備兵力2万名はほぼ玉砕戦死。一方、アメリカ軍の戦死・戦傷は3万近くにおよび、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍の被害が日本軍を上回った稀有な戦いであった。また、硫黄島上陸とほぼ同時に始められた、対ドイツのノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦屈指の最激戦として米国でも認識されている。
*硫黄島の戦いは日米双方の映画・テレビのドラマで取上げられている。クリント・イーストウッド監督は、日米双方の視点から連作として描いた。
『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ) https://www.youtube.com/watch?v=WQfpHrHx_Oc
『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙) https://www.youtube.com/watch?v=0x54bOTdJA0
*この年
戦災による文化財の被害甚大/メチルアルコール中毒の死亡者続出/日本人の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳/第1回宝くじ売り出し
【事物】国産ジェットエンジン/ズルチン(砂糖の代用)/輪タク
【流行語】神州不滅/虚脱状態/ピカドン(原爆)/1億総懺悔/たけのこ生活
【歌】お山の杉の子(安西愛子ほか)/リンゴの歌(並木路子)
【映画】勝利の日まで(成瀬巳喜男)/そよ風(佐々木康)/ユーコンの叫び(米・戦後初の洋画)
【本】太宰治「お伽草紙」/火野葦平「陸軍」「悲しき兵隊」/誠文堂新光社「日米会話手帳」(360万部売上)

皇軍かく闘い、そして敗れました。

2020-09-16
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
【太平洋での連合軍攻勢】
 すでに1942年に始まった「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」によって、第一次の連合軍の反攻は始まっていた。中部太平洋方面はチェスター・ニミッツ大将、ニューギニアからフィリピンに及ぶ南西部太平洋方面はダグラス・マッカーサー大将が総指揮をとって、両方面の作戦は着々と進行した。作戦は第二段階に入り、フィリピン海諸島と本島の奪回、及び日本本土爆撃可能な太平洋南部諸島の占拠が次の目的となっていた。
(サイパン島陥落) 
○6.15 [中部太平洋] 米機動部隊がサイパン島に上陸を開始。19日、マリアナ沖海戦が始まる。7月7日、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕、住民の死者も1万人を超す。
 各地で劣勢にまわりつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のため及び戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設定した。しかし1944年6月19日、最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲、日本海軍機動部隊は日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃した(マリアナ沖海戦)。
 しかしアメリカ側は日本の倍近い勢力を投入し、航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊は、アメリカ海軍の圧倒的な機動部隊に惨敗を喫した。旗艦大鳳以下空母3隻、艦載機395機を失った日本の空母機動部隊は実質的に壊滅した。ただし戦艦部隊は無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。
 陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がマリアナ諸島に次々に上陸。1944年7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が全滅(サイパンの戦い)。8月にはテニアンの戦いによってテニアン島が、グアムの戦いによってグアム島が連合軍に占領された。アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を即座に改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより、日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入ることになった。
 サイパン島は、「絶対国防圏」の中核拠点とされていた。第一次世界大戦に連合国側で参戦した日本は,赤道以北のドイツ領南洋諸島全体を占領し、国際連盟委任統治領となり、サイパン島には南洋庁サイパン支庁が置かれた。1943年8月の時点では,3万人近くの日本人が居住し、うち戦闘員は1万前後とされた。島内には製糖所が設置され、日本本土への貴重な砂糖の供給地であり、また南東方面への補給中継基地であり、むしろ平和な南方植民地という風であった。
 チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結していたが、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強していた。6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。
 6月15日アメリカ軍は、上陸支援艦の支援射撃の下に、島南部の海岸から上陸作戦を実行した。日本軍は奮戦したものの、その結末は悲惨なものとなった。当初、楽勝すると安閑としていた大本営は、6月17日未明の日本軍総攻撃の失敗の報に接し、あわてて増援を派遣しようとするがままならず、近海でのマリアナ沖海戦では海軍力を壊滅的に失っており、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には、サイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。
 サイパン最大の市街地ガラパンが占領されると、陸海軍合同司令部は島北部へ退却を続けつつ、7月7日をもって全軍で玉砕突撃とする事を決めた。そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決すると、残された日本兵士は、米軍が「バンザイ突撃」と名付けた白兵突撃が行われた。
 日本軍のバンザイ突撃を撃破したアメリカ軍は、翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始した。日本軍は洞窟や草むらに潜み絶望的な抵抗を行ったが、アメリカ軍は火炎放射器と爆薬で容赦なく日本軍を殲滅しながら、前進し7月9日には日本軍と在留邦人を南端に追い詰めた。日本兵や在留邦人の多くは、自決したり、ガケや岸壁から身を投げた(バンザイクリフ/シューサイドクリフ)。
 さらに8月にはテニアン、グアム島が次々に連合軍に占領され、大型爆撃機の発着が可能な滑走路が建設されると、日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入り、本格的な日本本土への爆撃が開始された。
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

戦争画、藤田嗣治筆

2020-09-16
サイパン玉砕の図
Facebook佐々木信雄さんのコメント
 
 チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結していたが、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強していた。6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。
 6月15日アメリカ軍は、上陸支援艦の支援射撃の下に、島南部の海岸から上陸作戦を実行した。日本軍は奮戦したものの、その結末は悲惨なものとなった。当初、楽勝すると安閑としていた大本営は、6月17日未明の日本軍総攻撃の失敗の報に接し、あわてて増援を派遣しようとするがままならず、近海でのマリアナ沖海戦では海軍力を壊滅的に失っており、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には、サイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。
 サイパン最大の市街地ガラパンが占領されると、陸海軍合同司令部は島北部へ退却を続けつつ、7月7日をもって全軍で玉砕突撃とする事を決めた。そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決すると、残された日本兵士は、米軍が「バンザイ突撃」と名付けた白兵突撃が行われた。
 日本軍のバンザイ突撃を撃破したアメリカ軍は、翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始した。日本軍は洞窟や草むらに潜み絶望的な抵抗を行ったが、アメリカ軍は火炎放射器と爆薬で容赦なく日本軍を殲滅しながら、前進し7月9日には日本軍と在留邦人を南端に追い詰めた。日本兵や在留邦人の多くは、自決したり、ガケや岸壁から身を投げた(バンザイクリフ/シューサイドクリフ)。

D-day

2020-09-16
6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(ノルマンジー上陸作戦)
○6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。(第2戦線を構築)
 ノルマンディー上陸作戦は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に連合軍によって行われた。ドイツ占領下の北フランス海岸への上陸侵攻作戦で、正式作戦名は「ネプチューン作戦」。なお、上陸からパリ解放までの作戦全体は「オーバーロード作戦」とされ、本作戦で用いられた「D-デイ」は作戦決行日6月6日を表す。ノルマンディー上陸作戦は、ドイツに占領されたフランス側に西部戦線を構築することで、ソ連による東部戦線とともにベルリンを挟撃するという、ヨーロッパ戦線の決定的転機となった作戦であった。
 東部戦線では1943年、スターリングラード攻防戦で、ソ連軍がかろうじてドイツ軍をくい止めて反転攻勢に出るところであった。英米を主とする連合国軍は、フランスが占領されて消滅していた西部戦線を再構築して、東西からドイツを挟撃する必要に迫られていた。パリを奪回するには、イギリスから北フランスに上陸作戦をとるしかなく、多大な犠牲をともなうこの作戦は、何度も計画されたが実行する機が熟せず、いよいよソ連軍が反抗攻勢に出るこの機会を逃すわけにはいかなかった。
 英国からドーバー海峡をはさんで対岸のカレーは、最短距離でもっとも予想される上陸地点であった。独軍も諜報をめぐらせ、時期が迫った上陸作戦地点を必死で探っており、連合国はカレーを思わせるような偽装作戦を仕掛けていた。ヒトラーは連合軍フランス侵攻が迫っていると考え、北アフリカ戦線で戦車隊を指揮し「砂漠の狐」と恐れられたエルヴィン・ロンメル陸軍元帥を、フランス北部防御部隊の司令官に任命した。
 国防軍最高司令部は上陸先をカレーと考えたため、ロンメルが連合軍が上陸すると想定していたノルマンジー海岸の防備は遅れていた。ロンメルは、連合軍の圧倒的な航空勢力のもとでは内陸での機動部隊の展開は不利と考え、水際で徹底的に殲滅することが必須と考えていた。しかし西方総軍総司令官ルントシュテットは、連合軍を上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。結果、折衷案で海岸線と内陸部に機甲師団を均等に配置されることになった。
 計画通り「D-Day」の1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行される。雨季に上陸する可能性は低いと考えられていたため、ロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っていた。このためロンメルは軍団を指揮することが出来ず、ロンメルが危惧した連合軍の制空権下で、ルントシュテット作戦下の内陸部の装甲師団の行動は制約され、有効な反撃が出来なかった。
 連合国の上陸作戦大軍は、イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、ユタ・オマハ・ゴールド・ジュノー・ソードの上陸海岸ごとに5つの管区に分けられており、航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、水陸両用戦車を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられていた。そして1944年6月6日、5つの管区で一斉に上陸を開始し、オマハ以外では犠牲を少数にとどめ上陸を果たした。
 米第1歩兵師団が担当したオマハ・ビーチにおいては、最悪の苦難を経験した。いくつかの予想外の出来事とともに、ドイツ側の守備隊は予想された二線級の歩兵師団ではなく、東部戦線で激戦の経験を持つ第352歩兵師団が、事前にロンメルにより移動配置されていた。上陸部隊の第一波は独軍守備隊の抵抗で海岸へ釘付けとなり、そこへ第二波以降の部隊が次々に詰め掛け、海岸線はパニックに陥った。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50%だったとされ、「ブラディ(血まみれの)オマハ」と呼ばれる惨状であった。
 ノルマンジー上陸作戦の成功は、言うまでもなくヨーロッパ戦線の帰趨を定める大作戦であった。ナチスドイツは、東西からの挟撃を受け、翌年5月に無条件降伏する。この作戦は、映画・テレビなどで何度も取上げられている。
*『史上最大の作戦』(The longest day/1962/米映画):ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム、ヘンリー・フォンダなど英米独の豪華キャストによる超大作。 https://www.youtube.com/watch?v=Aar1gnR498g
*『プライベート・ライアン』(Saving Private Ryan/1998/米映画):監督スティーヴン・スピルバーグ、主演トム・ハンクスで、ノルマンディー上陸作戦を舞台に、一人の兵士「ライアン」の救出に向かう兵隊たちのストーリー。救出されるライアンはマット・デイモン。 
*『バンド・オブ・ブラザース』(Band of Brothers/2001/米):スティーヴン・スピルバーグ、トム・ハンクスによるテレビ・ノンフィクションシリーズ。 https://www.youtube.com/watch?v=CQs2Y9nQH2s
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」
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