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闘いの歴史

闘いの記録

流星改

2020-12-11

学生運動の迷走

2020-12-09
赤軍から連合赤軍へ
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1969年(s44)】
◎大菩薩峠で軍事訓練中の赤軍派が逮捕される
*1969.11.5/ 山梨県の大菩薩峠で、武闘訓練中の赤軍派53人が逮捕される。
 安田講堂解放などで拠点を奪われた過激派一部は、テロや軍事武装路線に活路を見出し地下に潜行した。その一派「共産同赤軍派」は、武装蜂起への訓練を、大菩薩峠周辺の山中で行っていたところ、察知した警察によって一括逮捕された。旧世代には、中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の、ニヒルな剣士 机竜之助を思い起こさせる土地での逮捕劇であった。
 事後捜査での最高幹部議長塩見孝也ら重要メンバー逮捕などを含め、致命的な大打撃を受けた赤軍派は、そののち「京浜安保共闘」と共闘を組み「連合赤軍」と名乗る。ここからアジトを転々としながら、冬の山間を移動する過程で、「山岳ベース事件」での悲惨な同志リンチ殺害事件を起こし、そこから逃亡した一部が銃をもって企業の研修用の山荘に立てこもり、「浅間山荘事件」を引き起こす。
(この年の出来事)
*1969.5.26/ 東名高速道路が全線開通する。
*1969.9.5/ 日比谷公会堂で、全国全共闘連合の結成大会が開かれる。
*1969.10.10/ 巨人軍の金田正一投手が通算400勝を達成する。
*1969.10.21/ 国際反戦デーで、社会党・共産党・総評の統一行動が全国で行われる。反日共系各派は、東京・大阪などで、烈しいゲリラ活動を展開、約1,500名が逮捕される。
*1969.10.29/ 発癌性の疑いで、厚生省は合成甘味料チクロの使用を禁止する。

ここでも始まりました。

2020-12-09
陸軍は陸地で戦います。そのためには上陸作戦が必要です。
昭和16年12月8日の本日、陸軍、馬来半島上陸作戰開始。
馬来作戰(日本側作戰名「E作戰」)は、大東亞戰爭序盤における日本軍の英吉利領馬来および新嘉坡への進攻作戰。
日本の對英米開戰後の最初の作戰である。
世界史的には、本攻撃によって第二次欧州大戰は欧羅巴・北阿弗利加のみならず亜細亜・太平洋を含む地球規模の戰爭へと拡大したとされる。
1941年12月8日に馬来半島北端に奇襲上陸した日本軍は、英吉利軍と戰斗を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。
これは世界の戰史上まれに見る快進撃であった。
作戰は大本營の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戰は順調なスタートを切った。
「背景」
開戰時における日本軍の戰略目標は、石油や天然瓦斯、護謨などの豊富な天然資源を持つ阿蘭陀領東印度(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかる英吉利の植民地である馬来半島および新嘉坡を攻略する必要があった。
新嘉坡は新造戰艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを基幹とし、亜細亜太平洋地域と印度洋一帯を確保せんとした英吉利東洋艦隊の根拠地であり、また英吉利の東南亜細亜における植民地支配の中心拠点として、欧羅巴や阿弗利加戰線において英吉利の抵抗に手を焼く独逸も、英吉利の資源補給線である印度洋を抑える意味などから日本軍による攻略を切望するところであった。
長年英吉利の過酷な植民地支配下に置かれていた新嘉坡は、日英同盟の破棄以降、英吉利軍によって防御設備の強化が進められ、「東洋のジブラルタル」とも称されていた。
海に面した南側には戰艦の主砲並みの15インチ(38糎)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群、そして戰斗機群が構築され難攻不落の要塞と言われていた。
北側のジョホール海峡側および同じく植民地である馬来半島における英吉利軍の防備は手薄であったが、廣大な馬来半島そのものが天然の防壁となると考えられていた。
上陸可能地点である、泰領内のシンゴラ(ソンクラ)から新嘉坡までは1,100キロの距離があり、馬来半島を縦断する道路は一本道で、両側には鬱蒼たるジャングルと護謨林が廣がっていた。
さらに半島には大小250本の河川が流れ、南に撤退する英吉利軍が橋梁を破壊すれば容易に日本軍の進撃を阻止できると考えられた。
その間に英吉利軍は新嘉坡北側の防備を強化することができると考えていた。
日本軍が持つことのできる時間的余裕は長くはなかった。
大本營は、「(馬来半島内の英吉利軍を放逐しつつ)馬来半島を70日以内で縦断して新嘉坡を攻略する」という目標を立て、作戰準備を開始した。
「参加兵力」
―日本軍―
第25軍 - 司令官:山下奉文中将、参謀長:鈴木宗作中将、参謀副長:馬奈木敬信少将、高級参謀:池谷半二郎大佐、作戰主任参謀:辻政信中佐
第5師團 - 師團長:松井太久郎中将、4個歩兵聯隊(歩兵第11、第21、第41、第42聯隊)、捜索第5聯隊、工兵第5聯隊、砲兵第5聯隊基幹
近衛師團 - 師團長:西村琢磨中将、3個歩兵聯隊(近衛歩兵第3、第4聯隊、第5聯隊)、近衛捜索聯隊基幹
第18師團 - 師團長:牟田口廉也中将、3個歩兵聯隊(歩兵第124聯隊(川口支隊)欠)、歩兵第56聯隊(佗美支隊)は12/8コタバル上陸、歩兵第55聯隊(木庭支隊)は12/28コタバル着、歩兵第114聯隊と師團主力は1/23シンゴラ着
第3戰車團 – 戰車第1、第2、第6、第14聯隊
独立工兵第4、第15、第23聯隊
独立山砲兵第3聯隊、野戰重砲兵第3、第18聯隊
第3飛行集團 - 集團長:菅原道大中将、作戰機459機、豫備153機、作戰後半には一部を残し蘭印方面へ転用
南遣艦隊 - 鳥海以下重巡5隻基幹、司令長官:小沢治三郎海軍中将
第22航空戰隊 - 司令官:松永貞市少将、作戰機158機、豫備29機
第56師團(馬来作戰には最終的に参加せず緬甸戰線へ転進)
大本營は南方作戰の中でも馬来を最重要視し精鋭部隊をこれに當てた。
第5師團(廣島)は建軍以来の精鋭師團であり、1941年初頭に馬匹編成から自動車編成に改編された虎の子の機械化師團であった。
近衛師團(東京)は宮城警護を任務としており日露戰爭以来一部の部隊を除き実戰経験がないという不安はあったが、やはり数少ない機械化師團の1つであり本作戰には不可欠と考えられた。
第18師團(久留米)は馬匹編成であり機動力では劣っていたが、精鋭師團の一つとして期待されていた。
また、英吉利軍は橋梁を破壊して遅滞を図ると豫想されたため、橋梁修理のために独立工兵聯隊が増強された。
参謀陣にも鈴木中将、辻中佐ら大本營の逸材が参画し、資材も最良のものが割り當てられた。
1941年3月に第5師團は馬来戰を想定して佐世保で大演習を行い、ジャングルや護謨林での戰斗の演習も進めていた。
さらに辻中佐らは6月から海南島で作戰研究を行っていた。
海南島一周は1,000キロで馬来作戰の進撃路の長さに匹敵し、熱帯性気候や一本道の地形も共通する。
日本軍はこうした万全の準備をもって作戰に臨んだのである。
―英吉利軍―
馬来軍(司令官アーサー・パーシヴァル中将)
英吉利領印度帝國軍(英印軍)
第3軍團(Indian III Corps) - 第11師團第6、第15旅團(ジットラ)、第9師團第8旅團(コタバル)、第9師團第22旅團(クアンタン)、第28旅團(軍團豫備、イポー)
第12旅團(軍豫備、ポートディクソン)
第45旅團(1月上旬新嘉坡着)、第53旅團(1月中旬同着)、第44旅團(1/25同着)
濠太剌利軍
第8師團(Australian 8th Division) - 第22旅團(メルシン)、第27旅團(クルアン)
英吉利軍
第18師團(British 18th Infantry Division) - 第53旅團(1月中旬新嘉坡着)、第54、第55旅團(1/28同着)
新嘉坡要塞守備隊
馬来人部隊 - 第1、第2旅團(新嘉坡)
東洋艦隊
Z部隊(司令長官:トーマス・フィリップス海軍大将) - 戰艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戰艦レパルス基幹
空軍(246機)
英吉利軍は國際情勢の悪化を受けて、東南亜細亜における一大拠点(植民地)である馬来半島及び新嘉坡方面の兵力増強を進めており、開戰時の兵力は英吉利兵19,600、印度兵37,000、濠太剌利兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。
兵力数は日本軍の開戰時兵力の2倍であったが、訓練未了の部隊も多く戰力的には劣っていた。
軍の中核となるべき英吉利第18師團はいまだ輸送途上であった。
また、欧羅巴戰線および阿弗利加戰線に主要部隊が張り付かざるを得ない状況であったことから、これらの植民地に配置された兵士の多くは世界各地の英吉利の植民地から集めた異なる民族の寄せ集めであり、統帥には苦心があった。
特に多数を占めた印度兵たちは、生活の糧を得るために英吉利軍に入隊したものの、祖國を植民地支配し抑圧する英吉利人のために、祖國から遠く離れた馬来の地で命を投げ出す理由など持ち合わせていなかった。
空軍については現地司令部から本國へ幾度も増強の要請がなされたが、独逸軍との戰いに手一杯、かつ劣勢であった本國はこれに對応できなかったため、その数は十分とはいえず、さらにその中心はホーカー・ハリケーン等の舊式機とならざるを得なかった。
それでも日本軍に對する研究が不十分な英吉利空軍は「ロールス・ロイスとダットサンの戰爭だ」と人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていたという。
しかし、英吉利空軍は支那事變で実戰経験を積んだ零戰や隼を相手に完全に圧倒されることとなった。
―作戰開始時刻―
大本營は馬来上陸と亜米利加の属領である布哇に對する真珠灣攻撃との関係に考慮を要した。
陸軍は馬来上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対條件とし、海軍も真珠灣での奇襲に期待をかけていた。
しかし、一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。
馬来と布哇とでは約6時間の時差がある。
双方を両立させるのが馬来の深夜、布哇の早朝という作戰開始のタイミングであった。
1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、佗美浩少将率いる第18師團佗美支隊が馬来半島北端のコタバルへ上陸作戰を開始した。
亜米利加領布哇の真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、いわゆる大東亞戰爭はこの時間に開始された。
この上陸作戰自體は、駐米日本大使館の失態による遅延により結果的に開戰後の宣戰布告となってしまった對米宣戰布告豫定時間より前に開始されており、開戰前に宣戰布告を行う豫定であった對米開戰とは異なり、日本軍が宣戰布告無しで對英開戰することは豫定通りであった。
この時の日本軍の開戰日の暗號は「ヒノデハヤマガタ」である。
なお開戰直前の12月7日午後には、馬来作戰に参加する上陸部隊を乗せた輸送船團の上空護衛を行っていた日本軍の97式戰斗機が、哨戒中の英吉利海軍のPBYカタリナを撃墜した。
この撃墜により英吉利軍基地に對する日本海軍艦艇の来襲の報告がなされなかったことから、その後の日本陸軍の上陸作戰を容易にした。
なおこれは同戰爭における最初の聯合國軍の損失であった。
「経過」
―コタバル強襲上陸―
馬来半島東岸は断崖地形が続き、上陸作戰が可能な海浜は英吉利領東北端のコタ・バルか、数少ない亜細亜における独立國である泰王國領内のみであった。
英吉利軍はコタバルに1個旅團を配置しトーチカ陣地を構築していた。
コタバルへの上陸作戰の方法としては、制空権を奪取した上で敵陣へ準備砲爆撃を加えるという正攻法も検討されたが、馬来作戰全體の所要日数を考えればそのような時間の余裕はなかった。かくして準備砲爆撃なしにいきなり敵前への上陸を敢行するという強襲上陸が決行された。
第18師團歩兵第56聯隊を基幹とする佗美支隊5,300名は、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戰隊)に分乗し、12月8日未明(日本時間)にコタバルへ接近した。
波高は2メートルを超え上陸用舟艇への移乗は困難を極めた。
午前1時30分、コタバルの海岸線で英印軍第8旅團6,000名との交戰が始まった。
第1次上陸部隊の松岡大隊、数井大隊と那須聯隊長は豫想外の激しい抵抗を受け両大隊長とも負傷し、中隊長以下多数の死傷者を出した。
第2次上陸部隊の中村大隊と佗美支隊長は運悪くトーチカ正面に突き當たり中村大隊長は上陸と同時に戰死した。
英吉利空軍も出撃し、淡路山丸は多数の命中弾を受け炎上沈没、大東亞戰爭に於ける被撃沈第1號となった。
綾戸山丸、佐倉丸も被弾し、船團は一時退避を余儀なくされた。
佗美支隊は苦戰しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。
9日昼にコタバル市内を占領した。
 

糧てませんでした。

2020-12-08

 

 · 
「千人針」
本日は日本が太平洋戦争を開始した日です。
祖母は長男が兵隊に取られた時、新宿の伊勢丹付近で千人針を募ったそうです。五銭硬貨は死線を超える、十銭硬貨は苦線を超えるという縁起で縫い付けたそうです。
「出征おめでとう」「○○君ばんざい」
祖母は送り出す声々を聞きながら、「一生懸命育てて死にに行かせるのか、こんなに欺瞞に満ちた送別は無かった」と末っ子の父に語ったそうです。
20年にはいわゆる根こそぎ動員で十代の父も召集寸前の終戦でした。
長男は戦死、次男の叔父は満州で終戦後、シベリア送りに遭いながらも奇跡的に生還しました。

もう一枚

2020-12-08
1941年12月8日です。
Facebook永井由紀夫さんの投稿
12月8日
■1941年(昭和16年) 太平洋戦争始まる
12月8日(現地時間7日)、
ハワイ北方425キロに達した機動部隊から計350機の航空部隊が発進し、
オアフ島の真珠湾に停泊していた米艦隊を攻撃。
これにより、太平洋戦争が始まった。
 真珠湾攻撃による米側の主な損害は、戦艦5隻が沈没したほか、戦艦4隻、巡洋艦、駆逐艦各3隻が損傷、飛行場への攻撃で航空機188機が破壊された。
人的被害も戦死・行方不明者が2300人を超えた。
ただ、日本側が主要攻撃目標としていた米空母部隊はハワイにおらず、米国の海軍戦力が大きく低下することはなかった。

闘いの転機

東京大空襲、そして沖縄戦

2020-09-18
Facebook佐々木信雄さんのコメントより
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』
(東京大空襲・沖縄戦)
○3.10 東京大空襲。
○4.1 [沖縄] 米軍が沖縄本島に上陸を開始する。
○7.2 米軍による沖縄戦終結宣言。
 沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。太平洋戦争において、日米軍の最大規模かつ最後の戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日開始6月23日に終了した。
 アメリカ軍の目的は、対日本本土爆撃のための航空基地確保と日本本土進攻の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて和平に持ち込むことを狙ったのに対し、現地軍司令部は本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」としていた。現地第32軍は、サイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を選んだ。
 3月下旬からの、沖縄周辺諸島や本島への空爆など予備的な攻撃から、4月1日朝、アメリカ軍は沖縄本島への上陸作戦を開始した。日本軍は、那覇市のある宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針で、水際作戦を放棄したため、手薄な中西部沿岸地域に上陸に成功したアメリカ軍は、4月3日までに東岸に達し、日本軍は沖縄本島南北に分断された。日本軍は本島南部を主戦場とする予定の為、北部は手薄で、アメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけ、4月22日までに沖縄本島北部の制圧は完了した。
 日本軍は首里城(那覇市)地下に置かれた司令部を中心とし、沖縄本島南部での持久戦術を採ったため、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里の司令部を目指して南進するが、途中の各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止、戦線は膠着状態に陥った。米軍は4月19日から23日にかけて総攻撃を加え、双方大きな損害を被ったが、日本軍は首里防衛ラインの外郭を突破されて、防衛線の再構築を迫られた。
 沖縄防衛戦の初めから、もはや日本艦船隊は壊滅しており、航空機による特攻頼りであった。しかし米海軍にとってこの「カミカゼ」特攻は脅威であり、多大な損失を受けるとともに、兵士に心理的恐怖を呼び起こしていた。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、日本軍の抵抗にあっている陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、上陸部隊司令官サイモン・バックナー陸軍中将がわざと慎重な手法を使っていると疑うなど、陸海軍の間に不協和音が生れつつあった。
 その後も、相互に総攻撃を行うなど激しい攻防を繰り返したが、籠城戦の日本軍は徐々に戦力を失い、5月27日、牛島司令官は首里の司令部を後退させる。日本軍は南部に撤退して抗戦したが、6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは、8月15日終戦告知のさらにあとの9月7日であった。
 沖縄戦では、本土との海上交通が阻害されたため、沖縄守備隊は現地の人的・物的資源の戦力化を強引に進めた。日本軍は兵力不足を補うために戦闘員として、住民を根こそぎ動員した。正規の動員以外に、在郷軍人会などによる自主参加が建前の義勇隊なども組織され、中学校や女学校に在籍する生徒も防衛召集や「志願」による生徒隊として軍組織に組み込まれた。これらは「防衛隊」「鉄血勤皇隊」「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などと呼称され、悲惨な状況に従事した。
 戦闘員以外にも、軍事関係などに徴用されて工場労働や農作業などに従事させられ、男女を問わず、また対象年齢外の老人や国民学校の児童らも「自主参加」の形で作業に従事することになった。そして戦闘に巻き込まれて死亡する民間人も、日本本土とは比較にならないほどの割合となった。軍の指示により多くの住民が南部に避難していたが、そこへ敗走して来た兵士たちが紛れ込み収拾が取れない混乱となった。米軍の掃討作戦が始まると、捕虜になるなと指示されていた住民たちは集団自殺するなど、沖縄戦における住民戦没者全体の6割が、日本軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっているとされる。
*この年
戦災による文化財の被害甚大/メチルアルコール中毒の死亡者続出/日本人の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳/第1回宝くじ売り出し
【事物】国産ジェットエンジン/ズルチン(砂糖の代用)/輪タク
【流行語】神州不滅/虚脱状態/ピカドン(原爆)/1億総懺悔/たけのこ生活
【歌】お山の杉の子(安西愛子ほか)/リンゴの歌(並木路子)
【映画】勝利の日まで(成瀬巳喜男)/そよ風(佐々木康)/ユーコンの叫び(米・戦後初の洋画)
【本】太宰治「お伽草紙」/火野葦平「陸軍」「悲しき兵隊」/誠文堂新光社「日米会話手帳」(360万部売上)

硫黄島の戦い

2020-09-17
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』
(硫黄島陥落)
○2.4 ヤルタ会談 / Fルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)。
○2.16 [小笠原諸島] 米艦隊が硫黄島に徹底攻撃を開始。3月25日、日本軍守備隊が玉砕する。
 1944年8月グアム島をほぼ制圧し、同年12月にフィリピンのレイテ島を陥落させた連合国軍は、日本本土への攻撃拠点として、小笠原諸島南端に位置する火山島「硫黄島」に戦略目標を定めた。硫黄島の攻略は、沖縄上陸および日本本土戦略爆撃が実現可能となる重要なステップとされた。
 1945年2月16日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。前哨戦に続き、19日明け方から猛烈な艦砲射撃が始まり、さらに爆撃機および艦載機による銃爆撃が続くと、午前9時、第1波が上陸を開始して、本格的な上陸戦が展開された。水際での日本軍の抵抗は少なく、海兵隊は円滑に上陸し前進したが、日本軍は地下坑道に潜み艦砲射撃に耐えて、10時過ぎになってから一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。
 19日だけで米海兵隊は500名以上の戦死者を出したが、夕方までには圧倒的な兵力で海岸堡を築き東海岸線への上陸を果たした。翌20日以降、島南端にある摺鉢山の要塞と、島中央北部の飛行場のある元山方面とに分かれて侵攻開始したが、摺鉢山の戦いは熾烈を極めた。張り巡らした地下坑道に潜伏し、ゲリラ的に反撃を加える日本軍に対し、米軍は坑道入り口から火炎放射器を浴びせたり、入り口をブルドーザでふさぎ上部に開けた穴からガソリンを流し込み焼き尽くす「馬乗り攻撃(日本兵側の呼称)」などで、逐一つぶしていった。
 23日午前、アメリカ軍は攻撃開始後7日目にしてようやく擂鉢山を制圧し、山頂に到達した海兵師団兵士が付近で拾った鉄パイプを旗竿にして星条旗を掲揚した。しかしその星条旗はみすぼらしくその場面を確認した者も少なかったので、あらためて別の兵士たちによって大きな星条旗を掲揚するシーンを、従軍専属カメラマンに撮らせたものが有名な「硫黄島の星条旗」として残された。その写真をもとにして、アーリントン国立墓地の近くの「合衆国海兵隊戦争記念碑」は作成されている。
 栗林忠道陸軍中将指揮下の守備軍は、3月5日戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移したが、7日、米海兵師団は奇襲を断行し中央突破、日本軍を島の北部と東部に分断した。この日、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発する。戦訓電報は、戦況を分析し、のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送るものであるが、栗林は恩師にあたる蓮沼蕃侍従武官長にも宛てている。この電文は客観的合理的な提言であるが、参謀本部に握りつぶされることを危惧したためと言われる。
 栗林中将は無意味なバンザイ攻撃を許さず、最後まで可能な限り組織的攻撃をすべしと命じた。しかしいよいよ追い詰められると、16日栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。17日、大本営はその多大な功績を認め日本軍最年少の大将に昇進させるが、栗林は同日に、最後の総攻撃を企図し各部隊へ最後の指令を送った。
 しかし出撃の機会が見つけられず転進したのち、26日栗林大将は最後の反攻を敢行する。栗林大将以下、残された約400名の将兵はアメリカ軍陣地へ攻撃をかけたが、この最後の攻撃は決して万歳突撃ではなく、最大限の打撃をあたえる決死の夜襲であった。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は混乱に陥り、200名以上の死傷者を出したとされる。
 また、予科練育ての親とも言われた市丸利之助海軍少将は、途中から合流し総攻撃に加わったが、遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、英訳させたものとを部下とともに懐中して戦死した。米軍が将校の遺体を検査することを見越して携行したもので、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、アメリカの新聞にも掲載された。それは、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げつつ共産主義ソ連と連携する連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
 末期的な前線における栗林中将や市丸少将の冷静な論述は、国民に知らされることなく、大本営は3月21日、硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」・・・栗林や市丸の理知的な思考を、参考にさえできなかったのは誰なのか。
 日本軍には増援や救援の具体的な計画はもとよりなく、硫黄島守備兵力2万名はほぼ玉砕戦死。一方、アメリカ軍の戦死・戦傷は3万近くにおよび、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍の被害が日本軍を上回った稀有な戦いであった。また、硫黄島上陸とほぼ同時に始められた、対ドイツのノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦屈指の最激戦として米国でも認識されている。
*硫黄島の戦いは日米双方の映画・テレビのドラマで取上げられている。クリント・イーストウッド監督は、日米双方の視点から連作として描いた。
『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ) https://www.youtube.com/watch?v=WQfpHrHx_Oc
『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙) https://www.youtube.com/watch?v=0x54bOTdJA0
*この年
戦災による文化財の被害甚大/メチルアルコール中毒の死亡者続出/日本人の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳/第1回宝くじ売り出し
【事物】国産ジェットエンジン/ズルチン(砂糖の代用)/輪タク
【流行語】神州不滅/虚脱状態/ピカドン(原爆)/1億総懺悔/たけのこ生活
【歌】お山の杉の子(安西愛子ほか)/リンゴの歌(並木路子)
【映画】勝利の日まで(成瀬巳喜男)/そよ風(佐々木康)/ユーコンの叫び(米・戦後初の洋画)
【本】太宰治「お伽草紙」/火野葦平「陸軍」「悲しき兵隊」/誠文堂新光社「日米会話手帳」(360万部売上)

皇軍かく闘い、そして敗れました。

2020-09-16
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
【太平洋での連合軍攻勢】
 すでに1942年に始まった「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」によって、第一次の連合軍の反攻は始まっていた。中部太平洋方面はチェスター・ニミッツ大将、ニューギニアからフィリピンに及ぶ南西部太平洋方面はダグラス・マッカーサー大将が総指揮をとって、両方面の作戦は着々と進行した。作戦は第二段階に入り、フィリピン海諸島と本島の奪回、及び日本本土爆撃可能な太平洋南部諸島の占拠が次の目的となっていた。
(サイパン島陥落) 
○6.15 [中部太平洋] 米機動部隊がサイパン島に上陸を開始。19日、マリアナ沖海戦が始まる。7月7日、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕、住民の死者も1万人を超す。
 各地で劣勢にまわりつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のため及び戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設定した。しかし1944年6月19日、最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲、日本海軍機動部隊は日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃した(マリアナ沖海戦)。
 しかしアメリカ側は日本の倍近い勢力を投入し、航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊は、アメリカ海軍の圧倒的な機動部隊に惨敗を喫した。旗艦大鳳以下空母3隻、艦載機395機を失った日本の空母機動部隊は実質的に壊滅した。ただし戦艦部隊は無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。
 陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がマリアナ諸島に次々に上陸。1944年7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が全滅(サイパンの戦い)。8月にはテニアンの戦いによってテニアン島が、グアムの戦いによってグアム島が連合軍に占領された。アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を即座に改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより、日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入ることになった。
 サイパン島は、「絶対国防圏」の中核拠点とされていた。第一次世界大戦に連合国側で参戦した日本は,赤道以北のドイツ領南洋諸島全体を占領し、国際連盟委任統治領となり、サイパン島には南洋庁サイパン支庁が置かれた。1943年8月の時点では,3万人近くの日本人が居住し、うち戦闘員は1万前後とされた。島内には製糖所が設置され、日本本土への貴重な砂糖の供給地であり、また南東方面への補給中継基地であり、むしろ平和な南方植民地という風であった。
 チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結していたが、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強していた。6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。
 6月15日アメリカ軍は、上陸支援艦の支援射撃の下に、島南部の海岸から上陸作戦を実行した。日本軍は奮戦したものの、その結末は悲惨なものとなった。当初、楽勝すると安閑としていた大本営は、6月17日未明の日本軍総攻撃の失敗の報に接し、あわてて増援を派遣しようとするがままならず、近海でのマリアナ沖海戦では海軍力を壊滅的に失っており、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には、サイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。
 サイパン最大の市街地ガラパンが占領されると、陸海軍合同司令部は島北部へ退却を続けつつ、7月7日をもって全軍で玉砕突撃とする事を決めた。そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決すると、残された日本兵士は、米軍が「バンザイ突撃」と名付けた白兵突撃が行われた。
 日本軍のバンザイ突撃を撃破したアメリカ軍は、翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始した。日本軍は洞窟や草むらに潜み絶望的な抵抗を行ったが、アメリカ軍は火炎放射器と爆薬で容赦なく日本軍を殲滅しながら、前進し7月9日には日本軍と在留邦人を南端に追い詰めた。日本兵や在留邦人の多くは、自決したり、ガケや岸壁から身を投げた(バンザイクリフ/シューサイドクリフ)。
 さらに8月にはテニアン、グアム島が次々に連合軍に占領され、大型爆撃機の発着が可能な滑走路が建設されると、日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入り、本格的な日本本土への爆撃が開始された。
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

戦争画、藤田嗣治筆

2020-09-16
サイパン玉砕の図
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 チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結していたが、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強していた。6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。
 6月15日アメリカ軍は、上陸支援艦の支援射撃の下に、島南部の海岸から上陸作戦を実行した。日本軍は奮戦したものの、その結末は悲惨なものとなった。当初、楽勝すると安閑としていた大本営は、6月17日未明の日本軍総攻撃の失敗の報に接し、あわてて増援を派遣しようとするがままならず、近海でのマリアナ沖海戦では海軍力を壊滅的に失っており、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には、サイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。
 サイパン最大の市街地ガラパンが占領されると、陸海軍合同司令部は島北部へ退却を続けつつ、7月7日をもって全軍で玉砕突撃とする事を決めた。そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決すると、残された日本兵士は、米軍が「バンザイ突撃」と名付けた白兵突撃が行われた。
 日本軍のバンザイ突撃を撃破したアメリカ軍は、翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始した。日本軍は洞窟や草むらに潜み絶望的な抵抗を行ったが、アメリカ軍は火炎放射器と爆薬で容赦なく日本軍を殲滅しながら、前進し7月9日には日本軍と在留邦人を南端に追い詰めた。日本兵や在留邦人の多くは、自決したり、ガケや岸壁から身を投げた(バンザイクリフ/シューサイドクリフ)。

D-day

2020-09-16
6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(ノルマンジー上陸作戦)
○6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。(第2戦線を構築)
 ノルマンディー上陸作戦は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に連合軍によって行われた。ドイツ占領下の北フランス海岸への上陸侵攻作戦で、正式作戦名は「ネプチューン作戦」。なお、上陸からパリ解放までの作戦全体は「オーバーロード作戦」とされ、本作戦で用いられた「D-デイ」は作戦決行日6月6日を表す。ノルマンディー上陸作戦は、ドイツに占領されたフランス側に西部戦線を構築することで、ソ連による東部戦線とともにベルリンを挟撃するという、ヨーロッパ戦線の決定的転機となった作戦であった。
 東部戦線では1943年、スターリングラード攻防戦で、ソ連軍がかろうじてドイツ軍をくい止めて反転攻勢に出るところであった。英米を主とする連合国軍は、フランスが占領されて消滅していた西部戦線を再構築して、東西からドイツを挟撃する必要に迫られていた。パリを奪回するには、イギリスから北フランスに上陸作戦をとるしかなく、多大な犠牲をともなうこの作戦は、何度も計画されたが実行する機が熟せず、いよいよソ連軍が反抗攻勢に出るこの機会を逃すわけにはいかなかった。
 英国からドーバー海峡をはさんで対岸のカレーは、最短距離でもっとも予想される上陸地点であった。独軍も諜報をめぐらせ、時期が迫った上陸作戦地点を必死で探っており、連合国はカレーを思わせるような偽装作戦を仕掛けていた。ヒトラーは連合軍フランス侵攻が迫っていると考え、北アフリカ戦線で戦車隊を指揮し「砂漠の狐」と恐れられたエルヴィン・ロンメル陸軍元帥を、フランス北部防御部隊の司令官に任命した。
 国防軍最高司令部は上陸先をカレーと考えたため、ロンメルが連合軍が上陸すると想定していたノルマンジー海岸の防備は遅れていた。ロンメルは、連合軍の圧倒的な航空勢力のもとでは内陸での機動部隊の展開は不利と考え、水際で徹底的に殲滅することが必須と考えていた。しかし西方総軍総司令官ルントシュテットは、連合軍を上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。結果、折衷案で海岸線と内陸部に機甲師団を均等に配置されることになった。
 計画通り「D-Day」の1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行される。雨季に上陸する可能性は低いと考えられていたため、ロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っていた。このためロンメルは軍団を指揮することが出来ず、ロンメルが危惧した連合軍の制空権下で、ルントシュテット作戦下の内陸部の装甲師団の行動は制約され、有効な反撃が出来なかった。
 連合国の上陸作戦大軍は、イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、ユタ・オマハ・ゴールド・ジュノー・ソードの上陸海岸ごとに5つの管区に分けられており、航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、水陸両用戦車を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられていた。そして1944年6月6日、5つの管区で一斉に上陸を開始し、オマハ以外では犠牲を少数にとどめ上陸を果たした。
 米第1歩兵師団が担当したオマハ・ビーチにおいては、最悪の苦難を経験した。いくつかの予想外の出来事とともに、ドイツ側の守備隊は予想された二線級の歩兵師団ではなく、東部戦線で激戦の経験を持つ第352歩兵師団が、事前にロンメルにより移動配置されていた。上陸部隊の第一波は独軍守備隊の抵抗で海岸へ釘付けとなり、そこへ第二波以降の部隊が次々に詰め掛け、海岸線はパニックに陥った。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50%だったとされ、「ブラディ(血まみれの)オマハ」と呼ばれる惨状であった。
 ノルマンジー上陸作戦の成功は、言うまでもなくヨーロッパ戦線の帰趨を定める大作戦であった。ナチスドイツは、東西からの挟撃を受け、翌年5月に無条件降伏する。この作戦は、映画・テレビなどで何度も取上げられている。
*『史上最大の作戦』(The longest day/1962/米映画):ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム、ヘンリー・フォンダなど英米独の豪華キャストによる超大作。 https://www.youtube.com/watch?v=Aar1gnR498g
*『プライベート・ライアン』(Saving Private Ryan/1998/米映画):監督スティーヴン・スピルバーグ、主演トム・ハンクスで、ノルマンディー上陸作戦を舞台に、一人の兵士「ライアン」の救出に向かう兵隊たちのストーリー。救出されるライアンはマット・デイモン。 
*『バンド・オブ・ブラザース』(Band of Brothers/2001/米):スティーヴン・スピルバーグ、トム・ハンクスによるテレビ・ノンフィクションシリーズ。 https://www.youtube.com/watch?v=CQs2Y9nQH2s
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」
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