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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

アメリカ占領軍の分列行進(昭和22年7月4日)

2022-01-26
Facebook Yasuharu Miyakeさん

アメリカ独立記念日の日、
アメリカ占領軍約1万5000人が皇居でマッカーサー元帥の閲兵を受けた後、
東京・丸の内から有楽町まで分列行進を行いました。
 写真の右下に見えるのは国鉄有楽町駅のホームです。

稚内市宗谷岬の丘の上にある大岬旧海軍望楼

2022-01-25
Facebook Akihiko Terauchi さん曰く 

稚内市宗谷岬の丘の上にある大岬旧海軍望楼
樺太・千島交換条約締結後、ロシアが樺太の軍備を進めるのに対抗して、1902年(明治35年)に国境防備のために建設されました。
船のブリッジを思わせるデザインで、日露戦争時の監視などに利用されたそうです。

受難の日

2022-01-23
八甲田山の日
1902年(明治35年)に冬の八甲田山へ軽装で雪中行軍に出かけた兵士210名が遭難したことによる。本来は冬の重装備が必要だが、指導部の無謀な判断で遭難し199名の命が失われた。 

八甲田山 「気をつけィ! 案内人殿に対し、かしら~右ッ!」 高倉健

弘前歩兵第三十一連隊第一大隊第二中隊を宇樽部から中里まで無事案内してくれた 滝口さわ( 秋吉久美子)に対し感謝の意を表す「隊の敬礼」をするシーンです。 
この映画は新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作とするフィクション映画。
 小説も「八甲田雪中行軍遭難事件」を題材としたフィクションです。
敬礼前の台詞 
徳島大尉「案内人の生家が戸来の鹿田なので、案内をここまでとする。」
 滝口さわ「んだら兵隊さん、みんな元気で。。。」
 徳島大尉「気をつけィ! 案内人殿に対し、かしら~右ッ!」 

【DTM】映画「八甲田山」より メインテーマ | Miroslav Philharmonik 2


八甲田山 「天は・・・天は我々を見放したァァァ」 北大路欣也

真白き富士の嶺の日
1910(明治43)年、神奈川県の逗子開成中学の生徒12人が学校のボートで乗り出し、七里ヶ浜で遭難して全員が死亡しました。 この遭難は社会的事件として新聞で大々的に扱われました。この悲報に接した鎌倉女学校の教諭・三角錫子が「七里ヶ浜の哀歌」を作詞し、この歌は全国で愛唱されました。


2020 01 27 青森県・陸上自衛隊・八甲田で 雪中訓練

二人のエース

2022-01-22
Facebook 森 一理さん曰く さん

自分の地元石川県から輩出された零戦隊の若き指揮官(分隊長)だった大野竹好(たけよし)中尉。
22歳でレンドバン沖で戦死。
ラバウルの魔王こと西澤広義
戦後、太平洋戦争における日米両軍を通じたトップエースの一人として知られ、アメリカ合衆国の国防総省とスミソニアン博物館に杉田庄一と並んで肖像が飾られている。美男子であり身長は180センチ以上あった

いよいよ実戦に臨みます。

2022-01-22
北アフリカで第5軍麾下の第34師団に編入
Facebook 矢ケ崎 浩一  さん曰く 

訓練で優秀な成績を収め、その実力を認められた日系二世兵士たちは、いよいよ実戦に臨みます。
第442連隊戦闘団(日系二世部隊)3回目です。
 北アフリカで第5軍麾下の第34師団に編入された第100大隊は1943年9月22日イタリアの「むこうずね」に当たるサレルノに上陸します。実は第5軍の先鋒が9月9日に同地に上陸している(アヴァランチ作戦)のですが、ドイツ第10軍と空軍の反撃を受け、上陸は果たしたものの1万人以上(約5%)の大損害を被っていました。第34師団はその増援として同地に上陸したのですが、上陸してからの最初の一週間は、内陸に進撃する主力部隊の後をひたすら追う状況であり、接敵はありませんでした。敵の代わりに自国のマスコミが彼らを追いかけ、「ナチと戦うジャップ」として、大々的に米国内で報道しています。
 彼らが最初の実戦の洗礼を受けたのは29日、サレルノから20キロほど北上したモンテッラという村で、ドイツ軍の待ち伏せを受けます。
 突如隠蔽された陣地からの銃砲撃を受けた大隊の面々は初めての銃撃の洗礼の前に混乱し、各中隊長も退避以外の指示が出せず、完全な釘付け状態になってしまいます。
 最初にその混乱を脱し、反撃に動いたのは第二小隊のヤング・キム隊長(中尉)でした。
 余談ですが、日系二世部隊には同じアジア系として中華系アメリカ人や朝鮮系アメリカ人も将校として配属されていましたが、両者とも自らの先祖の地を日本に併合または侵略されているという複雑な事情から隊を離れるものも多く、キム少尉は朝鮮系将校として最後まで隊に残った日系以外のアジア系アメリカ人でした。
 キム中尉の果敢な指揮の元、第二小隊は戦闘正面を支えきりドイツ軍の第一撃を持ちこたえることに成功します。
 この最初の戦闘での犠牲者は2名。最初の戦死者はジョー・タカタ軍曹でした。彼は隠蔽された機銃陣地を探ろうとして先行し、頭部に銃弾(破片の説あり)を受けたのです。また彼はその勇敢な行動から死後、殊勲十字章を受けており、隊では最初の受勲者となりました。
 その後も最前線で何度も戦闘を経験する中で、彼らが元から持っていた強い戦意と、巧みな夜襲を駆使した浸透戦術により、最初はその実力に懐疑的であったライダー師団長の信頼を徐々に勝ち得ることとなりました。
 しかしその信頼は、同時に彼らが常に最前線で戦うことを意味しており、激しい戦闘の連続から、上陸当初1,300名いた大隊戦力は、12月までに800名にまで減少しています。
 大隊の苦闘はまだ続きます。1943年の年末、彼らはナポリ北方でイタリア半島を東西に横断するドイツ軍の防衛ラインである「グスタフ・ライン」の攻略に当たります。ここではドイツ西方軍集団の主力が地形を生かした頑強な抵抗を続けており、特に大隊が受け持つ西側からローマに通じる回廊部分についてはリーリ峡谷やラピド川といった自然の要害が立ちはだかり、そしてその防衛の中心としてそびえたつのは、標高500mの急峻、モンテ・カッシーノでした。
 連合軍側は大隊の所属する第5軍と第8軍に防衛線を攻撃させて陽動とし、別動隊(第6軍団)を戦線後方のアンツィオに強襲上陸させて「グスタフ・ライン」の突破を企図していました。
 第34師団はラピド川の突破とモンテ・カッシーノの攻略を命じられ、大隊の面々もラピド川の渡河点を目指して前進しますが、そこで彼らが目にしたのは、上流のダム破壊により泥の海となった河川敷の一帯でした。そして、渡河点周辺の木々はすべて伐採されて遮蔽物のない平野となっており、渡河点の手前には鉄条網、そして対岸には巧妙に隠蔽された多数の機銃座と迫撃砲、そして戦車が待ち構えていました。
 河川敷の土手には大量の対人地雷も設置されており、大隊は多大な犠牲を出しながら渡河点に迫ります。陣頭指揮を執っていた大隊長(デューイ少佐)までもが命を落とす激戦の中、作戦開始から2日たった1月26日、煙幕に紛れた大隊の一部が渡河点への到達に成功。因みに渡河に使えるのは帆布製の脆弱な渡河艇しかなく、激しい銃砲撃で艇を破壊され、濁流に流される兵も続出しました。
 2月2日に第一陣の渡河に成功したのは、ジミー・タムラ軍曹率いる30名あまりのみ。劣勢の中、軍曹は部下を叱咤し、必死で支援砲撃を要請。激しい砲爆撃がモンテ・カッシーノの斜面に叩き込まれ、その間を縫って後続の大隊の面々が崖を登っていきます。
 崖の上からの激しい銃撃にさらされながら、すでに弾薬も食料もつきかけていた彼らは、戦死した同僚の弾薬を集めて配布し、飲まず食わずの激戦を繰り広げます。大隊以外の友軍はまだ渡河すらできておらず、孤立無援の中、大隊は奮闘を続けますが、死者が急増する状況の中、渡河から10日間の激闘の末、2月12日に撤退を余儀なくされます。
 泥と寒さの中、自分の足で崖を降りられた兵は、大隊全員の1/3に過ぎませんでした。
 撤退はしたものの、この奮闘に米国内における日系二世兵に対する見方は大幅に変わり、当時の外電では「もし、日系人の忠誠と勇気を疑うものがあれば、そんなヤツとは言葉を交わす必要はない。黙ってケツを蹴飛ばしてやろう。」との文章が掲載されるに至りました。
 米国内では、彼らは敗北したとはみなされず、そしてその奮闘により、日系二世兵は泥の河とともに差別と偏見も乗り越えたのです。
 次回に続きます。
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