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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎フルシチョフがスターリン批判

2022-04-29

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1956(s31)年】-2
◎フルシチョフがスターリン批判
*1956.2.24/ ソ連共産党第20回大会秘密会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判の演説をする。
 1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第20回大会において、非公開の会議であったが、スターリン批判の演説を行い世界を驚かせた。スターリン(53年死去)の死後も伏せられてきたスターリンの個人崇拝・独裁政治・粛清の事実が公表され、それまでの公式見解であった戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は不可避)を批判、西側との平和共存路線への転換や、平和的社会主義への移行の可能性に言及し、従来のスターリン体制からの大きな転換を表明した。
 ソ連におけるスターリン批判は、東側社会主義陣営にも大きな波紋を及ぼした。東ヨーロッパ社会主義国では、スターリン体制に対する反発から自由化要求の運動が強まった。6月にはポーランドで「ポズナニ暴動」が起こった。ソ連の軍事介入が懸念されたが、直前に政府軍が鎮圧し自主的な事態収拾となった。その結果、一部分権化され経済改革が施されたが、本格的な自由化は認められなかった。
 10月には、ハンガリーで市民が政府に対して蜂起、政府関係施設や区域を占拠し、自からの政策や方針を実施しはじめて市民自治の様相を呈した。ソ連軍は2度にわたって介入、戦車部隊によって鎮圧し、親ソ政府を樹立して改革を停止させた。スターリン批判にもかかわらず、ソ連共産党は決して東欧衛星諸国の自主化・自由化は許さなかった。
 一方で、スターリン批判は中国との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント・雪どけ)路線を、毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、中ソ関係は急速に悪化した。金日成の北朝鮮も、中国と同様に修正主義として強く批判した。毛沢東、金日成ともに、自らの「スターリン型独裁支配」体制を脅かされることを懸念したことは言うまでもない。
 日本においては、前衛党主導・世界永続革命論を唱えるトロツキストたちが刺激を受け、60年・70年安保へと向かう過程で、学生を中心として「新左翼=前衛党の結成」へと突き進んだ。
 1961年には2度目のフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去、燃やされた。さらに、スターリングラードをはじめスターリンの名を冠された都市や地名は改名され、スターリンの巨大な銅像は撤去され、徹底的な「非スターリン化」が行われた。スターリン神話は徹底的に破壊されたとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視する恐怖支配や政治的弾圧の構図は、のちのソ連崩壊まで変わることはなかった。
 1997年のモスクワ放送は、「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6,200万人が殺害され、そのうち、4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と放送したとされる。
(この年の出来事)
*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。
*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)
*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。

【速報】白い軍服姿の金正恩総書記が演説 昨夜 北朝鮮が軍事パレード

2022-04-26
© FNNプライムオンライン
FNNプライムオンライン 2022/04/26 14:51

北朝鮮は25日夜、「朝鮮人民革命軍」の創設90年を記念した軍事パレードを行い、金正恩(キム・ジョンウン)総書記が演説した。

26日付の労働新聞は、25日夜、平壌(ピョンヤン)の金日成(キム・イルソン)広場で行われた軍事パレードについて、150枚余りの写真とともに伝えた。

写真では、北朝鮮が3月、試験発射に成功したと主張する、ICBM(大陸間弾道ミサイル)「火星17」型や、極超音速滑空体ミサイル「火星8」型など、さまざまな兵器が確認できる。

白い軍服姿で出席した金総書記は、演説で「われわれが保有する核武力をできる限り速く、さらに強化させる」としたうえで、核兵器を実戦で使用する可能性も示唆した。

軍事力を誇示することで、現在、合同で軍事演習を進めているアメリカと韓国をけん制する狙いもあるもよう。

伝説の女性スナイパー 自ら“死亡報道”否定…明かす本音「平和な世界好き」

2022-04-21
これじゃ丸見え、狙撃手が標的になってしまう・・・のでは・・・?

Facebook テレ朝news さん曰く


【独自】伝説の女性スナイパー 自ら“死亡報道”否定…明かす本音「平和な世界好き」
ロシアメディア「SM NEWS」:「ロシア軍は、ウクライナの女性スナイパー、オレナ・ビロゼルスカを殺害した」
ロシアメディアのこの報道。実際には、オレナさんは生きていて、ロシア側のニセ情報、いわゆる“フェイクニュース”だったことが分かっています。
オレナさんとの接触に成功しました。
▼迷彩柄の帽子をかぶり、緑色の洋服に身を包む女性、彼女こそが、ウクライナの“伝説のスナイパー”オレナさんです。

スナイパーは、昔は、こんな世界の存在だっような・・・
1968.9.3~1969.3.25 
光あるところに影が…で始まるナレーションが有名な、忍者マンガの第一人者白土三平の画風を忠実に再現した傑作。
 一連の白土作品と同様に、登場する数々の忍術の解説もリアリティを与えている。 
サスケの声を充てた少年落語家雷門ケン坊の個性的な演技も印象的だった。

サスケ(キングレコード・オリジナルバージョン)

サスケ 1話

◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜

2022-04-03


Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1943(s18)年】-1
◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜
*1943.4.18/ 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で搭乗機を撃墜され戦死する。
 1943(昭18)年3月中旬、ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨ぐべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第3艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し、敵の戦線を攪乱する目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。
 1943(昭18)年4月18日、山本機がブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して1ヵ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
(この年の出来事)
*1943.1.31/ 独ソ戦のスターリングラード攻防で、ついに独軍が降伏する。
*1943.2.1/ ガダルカナル島から日本軍が撤退を始めるが、大本営発表はこれを「転進」と表現する。
*1943.9.8/ イタリアのバドリオ政権が、連合軍に無条件降伏する。
*1943.11.22/ ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が、エジプトのカイロで会談、対日方針を定めた「カイロ宣言」を発表する。
Facebook 福田誠  さん曰く

1943年4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将、ブーゲンビル上空で、P-38戦闘機16機の待ち伏せ攻撃にあい戦死。
この時護衛の零戦はわずか6機、暗号解読により山本長官が来るのを知っていたアメリカ軍は、零戦との戦いを避け一式陸攻を狙ったという。
戦艦武蔵から東京駅に 帰着した山本長官の遺骨
山本長官の葬列

◎日米開戦

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-3
◎日米開戦
*1941.7.25/ 日本の南部仏印進出への報復措置として、米政府が在米日本資産の凍結令を公布。
*1941.8.1/ ルーズベルト大統領が、対日石油輸出を全面禁止とする。
*1941.11.26/ ハル米国務長官が日本側の提案を拒否し、日本軍の中国撤退を求める強硬な新提案を提示。27日、日米交渉は決裂する。(ハル・ノート)
*1941.12.8/ 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸開始。午前3時19分、日本軍がハワイ真珠湾を空襲。日本が米英両国に宣戦布告する。(アジア太平洋戦争開始)
 日本側が「ABCD包囲網」(米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼んだ各国による経済封鎖は、この時期、中でも影響の大きいアメリカの主導で進められつつあった。三国同盟を結び独ソ戦が開始されると、日本軍は7月2日の御前会議で「対ソ戦準備・南部仏印進駐(南進・北進準備)」を決定、それを受けて7月7日からは、満州での「関東軍特種演習(関特演)」に向けて内地から兵員動員が開始される。
 同時に南進の準備も進める日本に対して、アメリカは7月25日「在米日本資産の凍結」を決定する。当時は金本位制であり、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には莫大な貿易決済用の金融資産があった。もちろん日本民間の在米資産も膨大であった。
 日米交渉が座礁し、7月28日、日本軍はすでに決めていた南部仏印進駐を開始すると、8月1日米政府は「対日石油輸出全面禁止」を発動した。この時点でルーズベルト米大統領は、「太平洋での戦争」を必至と考えていたもようである。日本は石油の約8割をアメリカから輸入しており、国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分とされた。早期開戦論だった陸軍のみならず、慎重だった海軍も石油欠乏は海軍力の致命傷になるとして、早期開戦論に傾いた。
 三国同盟以降から、日米の交渉は断続的に続けられていたが、6月の独ソ戦開始を契機に、アメリカ側は対日妥協から強硬路線へ舵を切ることになる。第2次近衛内閣の外相松岡洋右は、三国同盟にソ連を参加させるという四国連合案は破綻していたにもかかわらず、対米には強硬案を主張、妥協派の近衛首相と対立した。近衛は松岡を外相から外すために、えざわざ内閣総辞職して、再度第3次近衛内閣を組閣する。
 9月6日の御前会議では、外交交渉の期限を10月上旬とし、妥結の目途がない場合直ちに対米開戦を決意すると決定された。近衛は日米首脳直接会談に唯一の期待をしたが、アメリカ側に日米首脳会談を事実上拒否される。戦争の決断を迫られた近衛は、妥協策による交渉に道を求めたが、東条英機陸相に日米開戦を要求されたため内閣は瓦解、10月16日に近衛内閣は総辞職する。
 18日東条内閣が成立したが、これには本人も予想外であったらしく、内大臣木戸幸一が独断で東条を後継首班に推挙し天皇の承認を取り付けてしまった。最も強硬に開戦を主張する陸軍を抑えるには、陸軍大将でもある東条しかおらず、毒をもって毒を制する案だということで、対米戦争回避を望む天皇もこれ承諾したらしい。東条も、それまでの態度を一変し、天皇の意をくむ忠臣として2つの妥協案を用意、交渉妥結の可能性をさぐった。
 しかし対日戦不可避と判断していた米は、日本側の新規提案は両案ともに問題外であると拒否。11月26日、コーデル・ハル国務長官は、いわゆる「ハル・ノート」を駐米日本大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ハル・ノートは国務長官の「覚書」との位置付けであったが、日本政府はこれを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになった。
 日米交渉決裂の結果、東条内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島に上陸し、英印軍と交戦状態に入る。イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた(マレー作戦)。
 並行して、日本海軍航空隊によって、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分に発進、日本時間午前3時19分から攻撃が開始された(真珠湾攻撃)。
(追記2022/01/22)
 ハルノートの事実上の起草者は財務次官のハリー・ホワイトで、彼は戦後ソ連のスパイとして告発されて自殺している。ルーズベルトの周囲にはスターリン指揮下のコミンテルンのスパイが張り巡らされており。ルーズベルト自体が、容共主義者でレイシストだった。かくして彼をして、日米開戦を推進する状況が整っていた。
 一方で、日本の近衛首相も公家の血を引きながら、「貧乏物語」で有名な社会主義者 河上肇に学ぶため京都帝大に転学するなど、社会主義的な思想に馴染んでおり、首相となった近衛の周囲には、やがてゾルゲ事件で死刑となる尾崎秀実や、戦後は社会党顧問になった社会主義者 風見章など、コミンテルンの息のかかったスパイが内閣の中枢に絡んでいた。
 スターリンは、ヒトラードイツの侵略を想定しており、東方の満州を支配している日本と対立しないために、日ソ中立条約を結び、さらに日本を南進させる工作を、ゾルゲなどを通じて進めていた。他方で、アメリカにも日米開戦に向けさせるようにルーズベルト周辺に工作員を侍らせた。
 かくして、真珠湾攻撃の情報を得ながら、無視して攻撃させたルーズベルトは、日米開戦にこぎ着け、さらに念願のヨ-ロッパ戦線に参画するのに成功した。そして、東方戦線の憂慮を消すのに成功したスターリンは、すべての戦力をナチスドイツとの西部戦線に投入できたわけだ。
 スターリンの指揮下のコミンテルン恐るべし、という話が、ソ連崩壊やソ連の戦時中の暗号電信を解読したヴェノナ文書などで、徐々に明らかになりつつあるようである。
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。
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