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闘いの歴史

闘いの記録

帝国海軍です。

2020-12-31
昭和15年12月31日の本日、海軍、二式大型飛行機艇試作一號が完成致しました。
昭和15年12月31日の本日、海軍、二式大型飛行機艇試作一號が完成致しました。
二式飛行艇、舊日本海軍が第二次欧州大戰中に九七式飛行艇の後継機として実用化した4發大型飛行艇。
初飛行は昭和16年。
略符號は「H8K」。
レシプロエンジン装備の飛行艇としては當時世界最高の性能を誇る傑作機とされる。
通称は二式大艇。
二式大型飛行艇とも言う。
なお、輸送型は「晴空」と呼ばれていた。
九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 
聯合軍におけるコードネームは「Emily」。
「要求性能」
1930年代の日本海軍は、華盛頓海軍軍縮條約・倫敦條約によって對米劣勢を余儀なくされた艦艇勢力を補うため、陸上基地から發進して洋上の敵艦隊を捜索・攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)を装備することを構想し、中型飛行艇(中艇)/大型飛行艇(大艇)、中型陸上攻撃機(中攻)/大型陸上攻撃機(大攻)という發動機の双發・四發、發進基地の水陸に差を設けた體系を計画した。
その一環として最初に実用化された大艇が九七式飛行艇であり、最大速度は385km/時・魚雷2發を搭載した攻撃過加重状態での航続距離は約5000kmに達した。九七式飛行艇の更新用機材として「十三試大型飛行艇」として開發が始められた二式飛行艇は、攻撃飛行艇として、當時諸外國が一般的に飛行艇に求めていた性能を上回るものが要求された。
海軍の要求性能の一部を列記する。
最高速度…240ノット(444km/h)以上 
當時の主力戰斗機九六式艦上戰斗機と同等。
同時期の英國4發飛行艇サンダーランドの最高速度336km/時と比べると100km/時以上速い。
航続距離…偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上 
いずれも一式陸上攻撃機やB-17爆撃機の5割増。
B-29爆撃機と比べても、30%近く長い。
20mm機關砲多数を装備した強力な防御砲火、防弾装甲。
雷撃を容易にするため小型機並の良好な操縦性。
1t爆弾または800kg魚雷2發搭載可能。
「開發経緯」
第一次欧州大戰が終わると列強各國は軍縮に転じ、軍艦の建造を自粛する海軍休日に入った。
日本海軍は仮想敵國の1つである亜米利加海軍に對する数的劣勢を航空戰力で補うことを企図し、海軍航空本部は昭和12年7月に「航空軍備に關する研究」をまとめる。
航続距離の長い大型陸上攻撃機を運用することを想定したが、日本が第一次欧州大戰後に國際聯合から委任統治領として託された南洋諸島の基地整備は難しく、大型飛行艇によるアウトレンジ戰法を模索するようになる。
川西航空機が開發した九七式飛行艇は、この構想を現実のものとした。
一方で4發エンジンを持つ大型陸上機を推す意見も強く、昭和13年4月18日に海軍航空本部技術部は「十三年度試製飛行機計画要求案摘要」で『十三試大型飛行艇』(川西)・中島十三試大型陸上攻撃機(深山)(中島飛行機)の計画要求案をまとめた。
中島の深山は、川西の二式大艇にとって文字通りライバルであった。
十三試大艇の正式試作發令は同年8月21日である。
飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、機體は大きくなりがちで艇底の形状も空気抵抗が大きく、速度において陸上機より不利であった。
海軍側の要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった、高速機という、當時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものであった。
製作担當の川西航空機は、九七式飛行艇を設計した菊原静男技師を設計主務者に任命し、設計制作を行った。
九七式飛行艇で自信をつけていた菊原は「よしきた」という気持ちで張り切ったという。
最重点目標は航続距離であった。
1939年(昭和14年)9月に第二次欧州大戰が勃發、日本と英吉利や亜米利加などとの緊張も高まる中、和田操航技廠長は昭和15年中に本機を完成させるよう厳命する。
同年12月29日、十三試大艇は川西鳴尾工場で完成、翌日試験飛行を行う。
方向舵の不安定さはすぐに解消されたが、過荷重重量28tで離水テストを実施したところ飛沫のためプロペラ先端が曲がり離水不能となる。
度重なる水槽実験の結果、艇體の小改造と波押さえ装置(通称かつおぶし)を装備することで飛沫を押さえることに成功。
1941年(昭和16年)3月26日に試作1號機が領収され、昭和17年2月5日に『二式飛行艇11型 H8K1』として制式採用が決定した。
先行していた本命の「深山」が失敗作となる中、二式大艇は高性能の四發大型飛行艇として完成した。
菊原は、「深山」の不運は失敗機である亜米利加のダグラスDC-4Eをベースにした事とした上で、二式飛行艇はゼロから基礎設計を行えたこと・重量管理統制が成功したことが両機の差になったと回想している。
「技術的特徴」
二式飛行艇の技術的特徴を列記する。
エンジンは當時最強だった三菱の火星シリーズと適切なプロペラ設計
細長い主翼と狭い胴體。
主翼のアスペクト比(主翼の付け根から先端までの長さ(翼長)を平均翼弦長で割った値、主翼の縦と横の比率・細長さを示す指標)は9に達し航続力と速度の調和を図った。
一般の飛行艇の胴體は、着水時の安定性を考慮し幅廣に作られていたが、本機では空氣抵抗を減らすためスリムになり、九七式飛行艇より約10%幅を抑えた一方で背の高い独特な形状となった。
軽量化と強度を両立するため波板構造や零式艦上戰斗機と同じ超々ジュラルミンの採用。
「採用」
操縦性を良くする親子フラップの採用
胴體前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)の採用 
試作機が水上滑走中に高く波飛沫を巻き上げ、プロペラや尾翼を損傷したことから採用され、滑走中に生じる波飛沫を抑えることに成功。
このほかの機内設備としては機體前後部や上部の銃座は大型の20mm機銃に合わせて動力銃座を採用、胴體や主翼の燃料タンク(全14個、合計17080ℓ)には防弾を施し、索敵や哨戒では24時間近い長距離飛行を行うことから便所や仮眠用のベッド、食品を保管する冷蔵庫も設けられ、無線室も胴體前部と後部の2か所備えた。
なお、本機は胴體を細長く設計したことから水上滑走中に機體が跳ね上がるポーポイズ現象が起こりやすく、對策として機首ピトー管に横棒(「カンザシ」と呼ばれた)を取り付け、これと風防に描かれた細い横線を基準にして機體角度を保ったまま操縦することで解決した。
ただし川西で製作したマニュアルが前線部隊では全く読まれず、事故が続發した。
昭和19年2月-5月の実験で機體を改造することなく、操縦方法の改善により事故を押さえられることが判明した。
防水塗料の粗悪さから水密は不完全で、事故豫防のためにも底に溜まった水をバケツで汲み出す作業は欠かせなかった。
戰爭終盤になると機體疲労が進み、水漏れの傾向に拍車をかけている。
「派生機」
―H8K3―
二式大艇22型。
二式大艇12型(H8K2)の翼端フロートと後部上方20㎜機銃を引き込み式にし、空気抵抗を減らして飛行性能を向上させることを意図した機體。
1943年(昭和18年)2月13日に領収飛行を行って性能実験を行ったが、重量2トン増加、性能は原型機と全く變わらない上に水上性能も低下、2機の試作のみで終わった。
2機は第八〇一航空隊で実戰任務につき、たびたびB-24リベレーター爆撃機と誤認されたという。
1945年(昭和20年)3月に2機とも夜間索敵任務にて未歸還となった。
―輸送型―
海軍は十三試大艇の開發中から輸送型の改造を計画していた。
1942年はじめに海軍から川西に試作指示があり、十三試大艇試作1號機を輸送型H8K1-Lに改造、1943年11月30日に納入した。
仮称「晴空」三二型(H8K2-L)として、1943年に11機、1944年に24機が完成した。
1945年に二式大艇二三型(H8K4)を改造した「晴空」三三型(H8K4-L)も試作されたが、量産されなかった。
二式飛行艇輸送型の総生産機は36機であった。
―陸上爆撃機型―
二式大艇開發後、川西社内では次の機體開發について3案があり、強風を陸上機化した戰斗機開發、新型艦上攻撃機開發案、本機を陸上機化した爆撃機の開發案で、結局戰斗機開發が選択された。
なお、この二式大艇陸上機化案に「海軍でG9Kの記號を豫えた」とする説があるようだが、こうしたプランは公式のものではなく、海軍の実用機試製計画にも取り上げられていない。
実用機試製計画「K-100」が与えられていたのは、護改双發の十七試陸上攻撃機だった。
「活躍」
大型高速で充分な防御火器を装備した本機は聯合國パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機體と呼ばれた(英國航空評論家ウィリアム・グリーン)。
制式採用直後の1942年(昭和17年)3月4日には、大航続力を生かして3機で真珠灣を再空襲した(K作戰)。
だが3月7日のミッドウェー島長距離偵察で、K作戰大艇隊指揮官橋爪寿雄大尉機が米軍戰斗機の迎撃で撃墜され、二式大艇最初の戰斗喪失機となった。
ミッドウェー作戰では本機が長距離偵察を行う計画であったが、米軍の妨害や天候のため実施されなかった。
その後も高速と航続力を生かしてエスピリッツサント島や濠太剌利本土、セイロン島、カルカッタといった長距離の偵察・爆撃に活躍した。
ソロモン諸島方面に投入された第八〇二航空隊の本機は、水上機母艦「秋津洲」の支援を受けて活動している。
1943年11月には、亜米利加軍のP-38ライトニング双發戰斗機3機と40分交戰した玉利義男大尉機が1機を撃退し、自機もエンジン2基停止と230箇所被弾、乗員1名負傷という状態で歸還、その後日本本土に戻された。
さらに1944年以降は、既に前線においては有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍多發機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに聯合軍にとって危険な相手だった。
B-25ミッチェルやB-17といった亜米利加軍の大型陸上機を積極的に追撃して撃墜した記録もある。
その攻撃力から「空の戰艦」などとも呼ばれた。
このように頑丈な本機であったが、1945年に入ると太平洋戰線においては聯合國軍に對して戰況が悪化して制空権が奪われ、敵戰斗機の攻撃が増えると足の遅さに加え重防御も耐え切れず、消耗していった。
機體を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま聯合國軍機の空襲で破壊されたものもあった。
さらに川西航空機の生産力が局地戰斗機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産であった。
製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされる。
また1945年3月の第二次丹作戰(銀河による長距離特攻作戰)に代表される長距離の索敵・誘導任務、トラックやラバウルといった孤立した基地への強行輸送・搭乗員救出などを行ったこともあって、成果を挙げると同時に損害も出している。
補充も望めない中、第五航空艦隊(宇垣纏司令長官)所属の二式大艇はレーダーを搭載して夜間索敵に活躍したが、亜米利加軍や英吉利軍らの夜間戰斗機・哨戒機の迎撃により少なからず被害を出している。
例えば前述の丹作戰・梓隊で特攻機を誘導した二式大艇3機のうち、生田中尉機は生還、杉田中尉機はPB4Y-2(B-24の哨戒機型)に撃墜され、長峯飛行兵曹長機はメレヨン島に不時着して水没処理され搭乗員は潜水艦で歸投した。
五航艦の二式大艇隊は、2月10日から終戰まで27機・約250名を失った。
終戰時に完全な状態で残っていたのは二式大艇5機、晴空6機のわずか11機であり、うち8機は終戰から数日で処分、もしくは移動中の事故で失われたため、進駐してきた聯合國軍から機體の引き渡しが通達されたときは詫間基地に残された3機を残すのみとなっていた。
また、海軍甲事件で戰死した山本五十六のあとを継いで聯合艦隊司令長官となった古賀峯一海軍大将が移動中に遭難し殉職した時には二式飛行艇の輸送機型「晴空」に乗っていた(海軍乙事件)。
古賀長官の1番機は燃料7割、福留繁聯合艦隊参謀長の2番機は燃料8割の時点で空襲警報があったため離陸、熱帯低氣圧に遭遇して墜落したのである。
なお、空襲警報は誤報であった。
通信科・暗號・氣象關係員が搭乗した3番機は無事に到着した。
「諸元」
正式名称       二式飛行艇一二型
略符號         H8K2
全幅           38.00m
全長           28.13m
全高           9.15m
翼面積         160m²
自重           18,400kg
正規全備重量     24,500kg
最大重量        32,500kg
發動機         三菱火星22型(離昇1,850馬力)
最高速度       465km/h(高度5,000m)
一一型433km/h
一二型470km
航続距離        7,153km(偵察過荷)
一二型8223km(同)
武装           20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門(3門は予備)
爆装           爆弾最大2t(60kg×16または250kg×8または800kg×2)
または航空魚雷×2
乗員          10 - 13名
「設計主務者について」
設計主務者である菊原静男技師は、その後海軍局地戰斗機「紫電」「紫電改」の設計を担當。
終戰後、川西航空機の後身である新明和工業で、再度國産飛行艇PS-1の制作に携わった。
(ウィキペディア参照。)

易々と死んでもらう訳にはいかないのでありました。

2020-12-29
東条元首相逮捕の顛末
1945年(昭和20年)9月11日:戦犯として逮捕される直前に拳銃自殺を図るも未遂に終わった東条英機・元陸軍大臣および参謀総長。
自殺を予測していたアメリカ軍はあらかじめ救急車を用意しておくという用意周到さで、
銃声が聞こえると一斉に踏み込んで治療を施し、
東條氏は奇跡的に九死に一生を得ることとなります。
後に東京裁判でA級戦犯として起訴され、
絞首刑が執行されています。 

P38

2020-12-27
山本長官機は、こちらから撃墜されました。
P-38 ライトニング(Lockheed P-38 Lightning)は、ロッキード社が開発し、アメリカ陸軍などで運用された三胴設計の双発単座戦闘機です。
1930年代後半、アメリカでは戦略型爆撃機B-17フライングフォートレスの開発が始まっていました。
アメリカ軍はそのような爆撃機に対抗する必要性も同時に認識していた為、迎撃用戦闘機を各メーカーに発注しました。
その際の要求として「最高速度580km/h」「上昇力は高度6500mまで6分以内」等 と言ったものでした。その要求をクリアしたのは、ロッキード社でした。それ以降改良が重ねられ1939年の9月にP-38として正式採用されました。
その時の最高速度は675km/hまで達していました。
 欧州では、戦略爆撃機の主力掩護戦闘機として活躍しました。
だが機体特性が類似するドイツ軍機(Bf109等)には苦戦を強いられました。
1943年6月、イタリア軍に鹵獲され数機のB-17が撃墜された記録があります。
後続であるP-51やP-47に役目を譲っていく事になりますが、終戦まで性能を生かして偵察機や爆撃機として活躍しました。 
太平洋では開戦当初、日本機に対し格闘性能で劣るP-38は辛酸を舐めさせられました。
簡単に撃墜できる事からP-38の名前からとって「ペロハチ(ペロりと喰えるP-38)」と呼ばれてしまいました。
だが、その最高速度を生かした一撃離脱戦法に切り替えると評価は一変。
日本のパイロットからは「双胴の悪魔」と呼ばれるようになり、立場は狩られる側から狩る側へと逆転しました。
1943年4月18日には連合艦隊司令長官・山本五十六搭乗機である一式陸攻を撃墜しています。
 日本軍機撃墜数は約3800機でF6F、F4Uに次ぐ第3位でした。
 しかし当初重視されていた一撃離脱戦法も、実際に使ってみるとそれほど上手くいかない事も分かりました。
P-38の主翼は厚く、速度が上がると(速度による空気の圧縮が進んでいくと)激しい振動を起こすことが明らかになったのです。
また欧州ではFw190のような新型機が登場して性能的に後れを取るようになり、速度では互角でも運動性では単発機に勝てないことが判明しました。
以降はアフリカ方面で戦闘爆撃機として活躍していくようになりました。
同様に日本相手では、速度で上回ったため一撃離脱さえ出来れば有利でしたが、一旦速度や高度を落としてしまえばなす術が無くなってしまいました。
さらに三式戦闘機による一撃離脱にも対策が進みつつありました。
また高高度迎撃機として開発されながらも日独共に自慢の火力で相手をしなければならないほどの重武装の爆撃機は少なかったのです。
そのため、P-38F以降は後部胴体(双胴)内部に爆弾倉を追加し、長距離戦闘爆撃機として主に太平洋で活躍していく事になります。
太平洋戦線では飛行場と目標が離れていることが多く、他の戦闘機では目標までたどり着けなかったからです。
 戦後にアメリカ陸軍のレシプロ戦闘機がP-51改めF-51に統一された後、他の用途に転用されることもなく、海外に展開していたP-38の多くは現地で廃棄処分となり消えていき、1949年までに全機が退役、一部はイタリア空軍に送られ、1956年まで使われていました。
またホンジュラスやドミニカ、中国にも少数機が売却されています。

皇軍航空母艦

2020-12-27
大和型三番艦 信濃
Facebook中村まこさんの投稿です。
--- 航空母艦 信濃 (昭和19年) ---
- 基準排水量 : 62 000 トン
- 満載排水量 : 71 890 トン
- 全長 : 266 m
- 全幅 : 38.9 m
- 吃水 : 10.4 m
- 速力 : 28 ノット
- 兵装 : 40口径12.7cm連装高角砲 x 8基 . 25mm3連装機銃 x 36基 . 25mm単装機銃 x 40基 . 12cm28連装噴進砲 x 12基 
- 搭載機 : 47 - 72機 

帝国海軍航空隊です。

2020-12-25
無念。USSレキシントンのF4F-2戦闘機によって撃墜され、海に墜落する一式陸攻の瞬間。ラバウル沖, ニューブリテン, ビスマルク諸島
“マッチポンプ”と揶揄されましたが・・・

闘いの転機

東京大空襲、そして沖縄戦

2020-09-18
Facebook佐々木信雄さんのコメントより
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』
(東京大空襲・沖縄戦)
○3.10 東京大空襲。
○4.1 [沖縄] 米軍が沖縄本島に上陸を開始する。
○7.2 米軍による沖縄戦終結宣言。
 沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。太平洋戦争において、日米軍の最大規模かつ最後の戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日開始6月23日に終了した。
 アメリカ軍の目的は、対日本本土爆撃のための航空基地確保と日本本土進攻の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて和平に持ち込むことを狙ったのに対し、現地軍司令部は本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」としていた。現地第32軍は、サイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を選んだ。
 3月下旬からの、沖縄周辺諸島や本島への空爆など予備的な攻撃から、4月1日朝、アメリカ軍は沖縄本島への上陸作戦を開始した。日本軍は、那覇市のある宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針で、水際作戦を放棄したため、手薄な中西部沿岸地域に上陸に成功したアメリカ軍は、4月3日までに東岸に達し、日本軍は沖縄本島南北に分断された。日本軍は本島南部を主戦場とする予定の為、北部は手薄で、アメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけ、4月22日までに沖縄本島北部の制圧は完了した。
 日本軍は首里城(那覇市)地下に置かれた司令部を中心とし、沖縄本島南部での持久戦術を採ったため、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里の司令部を目指して南進するが、途中の各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止、戦線は膠着状態に陥った。米軍は4月19日から23日にかけて総攻撃を加え、双方大きな損害を被ったが、日本軍は首里防衛ラインの外郭を突破されて、防衛線の再構築を迫られた。
 沖縄防衛戦の初めから、もはや日本艦船隊は壊滅しており、航空機による特攻頼りであった。しかし米海軍にとってこの「カミカゼ」特攻は脅威であり、多大な損失を受けるとともに、兵士に心理的恐怖を呼び起こしていた。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、日本軍の抵抗にあっている陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、上陸部隊司令官サイモン・バックナー陸軍中将がわざと慎重な手法を使っていると疑うなど、陸海軍の間に不協和音が生れつつあった。
 その後も、相互に総攻撃を行うなど激しい攻防を繰り返したが、籠城戦の日本軍は徐々に戦力を失い、5月27日、牛島司令官は首里の司令部を後退させる。日本軍は南部に撤退して抗戦したが、6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは、8月15日終戦告知のさらにあとの9月7日であった。
 沖縄戦では、本土との海上交通が阻害されたため、沖縄守備隊は現地の人的・物的資源の戦力化を強引に進めた。日本軍は兵力不足を補うために戦闘員として、住民を根こそぎ動員した。正規の動員以外に、在郷軍人会などによる自主参加が建前の義勇隊なども組織され、中学校や女学校に在籍する生徒も防衛召集や「志願」による生徒隊として軍組織に組み込まれた。これらは「防衛隊」「鉄血勤皇隊」「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などと呼称され、悲惨な状況に従事した。
 戦闘員以外にも、軍事関係などに徴用されて工場労働や農作業などに従事させられ、男女を問わず、また対象年齢外の老人や国民学校の児童らも「自主参加」の形で作業に従事することになった。そして戦闘に巻き込まれて死亡する民間人も、日本本土とは比較にならないほどの割合となった。軍の指示により多くの住民が南部に避難していたが、そこへ敗走して来た兵士たちが紛れ込み収拾が取れない混乱となった。米軍の掃討作戦が始まると、捕虜になるなと指示されていた住民たちは集団自殺するなど、沖縄戦における住民戦没者全体の6割が、日本軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっているとされる。
*この年
戦災による文化財の被害甚大/メチルアルコール中毒の死亡者続出/日本人の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳/第1回宝くじ売り出し
【事物】国産ジェットエンジン/ズルチン(砂糖の代用)/輪タク
【流行語】神州不滅/虚脱状態/ピカドン(原爆)/1億総懺悔/たけのこ生活
【歌】お山の杉の子(安西愛子ほか)/リンゴの歌(並木路子)
【映画】勝利の日まで(成瀬巳喜男)/そよ風(佐々木康)/ユーコンの叫び(米・戦後初の洋画)
【本】太宰治「お伽草紙」/火野葦平「陸軍」「悲しき兵隊」/誠文堂新光社「日米会話手帳」(360万部売上)

硫黄島の戦い

2020-09-17
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』
(硫黄島陥落)
○2.4 ヤルタ会談 / Fルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)。
○2.16 [小笠原諸島] 米艦隊が硫黄島に徹底攻撃を開始。3月25日、日本軍守備隊が玉砕する。
 1944年8月グアム島をほぼ制圧し、同年12月にフィリピンのレイテ島を陥落させた連合国軍は、日本本土への攻撃拠点として、小笠原諸島南端に位置する火山島「硫黄島」に戦略目標を定めた。硫黄島の攻略は、沖縄上陸および日本本土戦略爆撃が実現可能となる重要なステップとされた。
 1945年2月16日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。前哨戦に続き、19日明け方から猛烈な艦砲射撃が始まり、さらに爆撃機および艦載機による銃爆撃が続くと、午前9時、第1波が上陸を開始して、本格的な上陸戦が展開された。水際での日本軍の抵抗は少なく、海兵隊は円滑に上陸し前進したが、日本軍は地下坑道に潜み艦砲射撃に耐えて、10時過ぎになってから一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。
 19日だけで米海兵隊は500名以上の戦死者を出したが、夕方までには圧倒的な兵力で海岸堡を築き東海岸線への上陸を果たした。翌20日以降、島南端にある摺鉢山の要塞と、島中央北部の飛行場のある元山方面とに分かれて侵攻開始したが、摺鉢山の戦いは熾烈を極めた。張り巡らした地下坑道に潜伏し、ゲリラ的に反撃を加える日本軍に対し、米軍は坑道入り口から火炎放射器を浴びせたり、入り口をブルドーザでふさぎ上部に開けた穴からガソリンを流し込み焼き尽くす「馬乗り攻撃(日本兵側の呼称)」などで、逐一つぶしていった。
 23日午前、アメリカ軍は攻撃開始後7日目にしてようやく擂鉢山を制圧し、山頂に到達した海兵師団兵士が付近で拾った鉄パイプを旗竿にして星条旗を掲揚した。しかしその星条旗はみすぼらしくその場面を確認した者も少なかったので、あらためて別の兵士たちによって大きな星条旗を掲揚するシーンを、従軍専属カメラマンに撮らせたものが有名な「硫黄島の星条旗」として残された。その写真をもとにして、アーリントン国立墓地の近くの「合衆国海兵隊戦争記念碑」は作成されている。
 栗林忠道陸軍中将指揮下の守備軍は、3月5日戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移したが、7日、米海兵師団は奇襲を断行し中央突破、日本軍を島の北部と東部に分断した。この日、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発する。戦訓電報は、戦況を分析し、のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送るものであるが、栗林は恩師にあたる蓮沼蕃侍従武官長にも宛てている。この電文は客観的合理的な提言であるが、参謀本部に握りつぶされることを危惧したためと言われる。
 栗林中将は無意味なバンザイ攻撃を許さず、最後まで可能な限り組織的攻撃をすべしと命じた。しかしいよいよ追い詰められると、16日栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。17日、大本営はその多大な功績を認め日本軍最年少の大将に昇進させるが、栗林は同日に、最後の総攻撃を企図し各部隊へ最後の指令を送った。
 しかし出撃の機会が見つけられず転進したのち、26日栗林大将は最後の反攻を敢行する。栗林大将以下、残された約400名の将兵はアメリカ軍陣地へ攻撃をかけたが、この最後の攻撃は決して万歳突撃ではなく、最大限の打撃をあたえる決死の夜襲であった。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は混乱に陥り、200名以上の死傷者を出したとされる。
 また、予科練育ての親とも言われた市丸利之助海軍少将は、途中から合流し総攻撃に加わったが、遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、英訳させたものとを部下とともに懐中して戦死した。米軍が将校の遺体を検査することを見越して携行したもので、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、アメリカの新聞にも掲載された。それは、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げつつ共産主義ソ連と連携する連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
 末期的な前線における栗林中将や市丸少将の冷静な論述は、国民に知らされることなく、大本営は3月21日、硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」・・・栗林や市丸の理知的な思考を、参考にさえできなかったのは誰なのか。
 日本軍には増援や救援の具体的な計画はもとよりなく、硫黄島守備兵力2万名はほぼ玉砕戦死。一方、アメリカ軍の戦死・戦傷は3万近くにおよび、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍の被害が日本軍を上回った稀有な戦いであった。また、硫黄島上陸とほぼ同時に始められた、対ドイツのノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦屈指の最激戦として米国でも認識されている。
*硫黄島の戦いは日米双方の映画・テレビのドラマで取上げられている。クリント・イーストウッド監督は、日米双方の視点から連作として描いた。
『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ) https://www.youtube.com/watch?v=WQfpHrHx_Oc
『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙) https://www.youtube.com/watch?v=0x54bOTdJA0
*この年
戦災による文化財の被害甚大/メチルアルコール中毒の死亡者続出/日本人の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳/第1回宝くじ売り出し
【事物】国産ジェットエンジン/ズルチン(砂糖の代用)/輪タク
【流行語】神州不滅/虚脱状態/ピカドン(原爆)/1億総懺悔/たけのこ生活
【歌】お山の杉の子(安西愛子ほか)/リンゴの歌(並木路子)
【映画】勝利の日まで(成瀬巳喜男)/そよ風(佐々木康)/ユーコンの叫び(米・戦後初の洋画)
【本】太宰治「お伽草紙」/火野葦平「陸軍」「悲しき兵隊」/誠文堂新光社「日米会話手帳」(360万部売上)

皇軍かく闘い、そして敗れました。

2020-09-16
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
【太平洋での連合軍攻勢】
 すでに1942年に始まった「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」によって、第一次の連合軍の反攻は始まっていた。中部太平洋方面はチェスター・ニミッツ大将、ニューギニアからフィリピンに及ぶ南西部太平洋方面はダグラス・マッカーサー大将が総指揮をとって、両方面の作戦は着々と進行した。作戦は第二段階に入り、フィリピン海諸島と本島の奪回、及び日本本土爆撃可能な太平洋南部諸島の占拠が次の目的となっていた。
(サイパン島陥落) 
○6.15 [中部太平洋] 米機動部隊がサイパン島に上陸を開始。19日、マリアナ沖海戦が始まる。7月7日、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕、住民の死者も1万人を超す。
 各地で劣勢にまわりつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のため及び戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設定した。しかし1944年6月19日、最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲、日本海軍機動部隊は日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃した(マリアナ沖海戦)。
 しかしアメリカ側は日本の倍近い勢力を投入し、航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊は、アメリカ海軍の圧倒的な機動部隊に惨敗を喫した。旗艦大鳳以下空母3隻、艦載機395機を失った日本の空母機動部隊は実質的に壊滅した。ただし戦艦部隊は無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。
 陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がマリアナ諸島に次々に上陸。1944年7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が全滅(サイパンの戦い)。8月にはテニアンの戦いによってテニアン島が、グアムの戦いによってグアム島が連合軍に占領された。アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を即座に改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより、日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入ることになった。
 サイパン島は、「絶対国防圏」の中核拠点とされていた。第一次世界大戦に連合国側で参戦した日本は,赤道以北のドイツ領南洋諸島全体を占領し、国際連盟委任統治領となり、サイパン島には南洋庁サイパン支庁が置かれた。1943年8月の時点では,3万人近くの日本人が居住し、うち戦闘員は1万前後とされた。島内には製糖所が設置され、日本本土への貴重な砂糖の供給地であり、また南東方面への補給中継基地であり、むしろ平和な南方植民地という風であった。
 チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結していたが、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強していた。6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。
 6月15日アメリカ軍は、上陸支援艦の支援射撃の下に、島南部の海岸から上陸作戦を実行した。日本軍は奮戦したものの、その結末は悲惨なものとなった。当初、楽勝すると安閑としていた大本営は、6月17日未明の日本軍総攻撃の失敗の報に接し、あわてて増援を派遣しようとするがままならず、近海でのマリアナ沖海戦では海軍力を壊滅的に失っており、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には、サイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。
 サイパン最大の市街地ガラパンが占領されると、陸海軍合同司令部は島北部へ退却を続けつつ、7月7日をもって全軍で玉砕突撃とする事を決めた。そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決すると、残された日本兵士は、米軍が「バンザイ突撃」と名付けた白兵突撃が行われた。
 日本軍のバンザイ突撃を撃破したアメリカ軍は、翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始した。日本軍は洞窟や草むらに潜み絶望的な抵抗を行ったが、アメリカ軍は火炎放射器と爆薬で容赦なく日本軍を殲滅しながら、前進し7月9日には日本軍と在留邦人を南端に追い詰めた。日本兵や在留邦人の多くは、自決したり、ガケや岸壁から身を投げた(バンザイクリフ/シューサイドクリフ)。
 さらに8月にはテニアン、グアム島が次々に連合軍に占領され、大型爆撃機の発着が可能な滑走路が建設されると、日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入り、本格的な日本本土への爆撃が開始された。
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

戦争画、藤田嗣治筆

2020-09-16
サイパン玉砕の図
Facebook佐々木信雄さんのコメント
 
 チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結していたが、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強していた。6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。
 6月15日アメリカ軍は、上陸支援艦の支援射撃の下に、島南部の海岸から上陸作戦を実行した。日本軍は奮戦したものの、その結末は悲惨なものとなった。当初、楽勝すると安閑としていた大本営は、6月17日未明の日本軍総攻撃の失敗の報に接し、あわてて増援を派遣しようとするがままならず、近海でのマリアナ沖海戦では海軍力を壊滅的に失っており、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には、サイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。
 サイパン最大の市街地ガラパンが占領されると、陸海軍合同司令部は島北部へ退却を続けつつ、7月7日をもって全軍で玉砕突撃とする事を決めた。そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決すると、残された日本兵士は、米軍が「バンザイ突撃」と名付けた白兵突撃が行われた。
 日本軍のバンザイ突撃を撃破したアメリカ軍は、翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始した。日本軍は洞窟や草むらに潜み絶望的な抵抗を行ったが、アメリカ軍は火炎放射器と爆薬で容赦なく日本軍を殲滅しながら、前進し7月9日には日本軍と在留邦人を南端に追い詰めた。日本兵や在留邦人の多くは、自決したり、ガケや岸壁から身を投げた(バンザイクリフ/シューサイドクリフ)。

D-day

2020-09-16
6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(ノルマンジー上陸作戦)
○6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。(第2戦線を構築)
 ノルマンディー上陸作戦は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に連合軍によって行われた。ドイツ占領下の北フランス海岸への上陸侵攻作戦で、正式作戦名は「ネプチューン作戦」。なお、上陸からパリ解放までの作戦全体は「オーバーロード作戦」とされ、本作戦で用いられた「D-デイ」は作戦決行日6月6日を表す。ノルマンディー上陸作戦は、ドイツに占領されたフランス側に西部戦線を構築することで、ソ連による東部戦線とともにベルリンを挟撃するという、ヨーロッパ戦線の決定的転機となった作戦であった。
 東部戦線では1943年、スターリングラード攻防戦で、ソ連軍がかろうじてドイツ軍をくい止めて反転攻勢に出るところであった。英米を主とする連合国軍は、フランスが占領されて消滅していた西部戦線を再構築して、東西からドイツを挟撃する必要に迫られていた。パリを奪回するには、イギリスから北フランスに上陸作戦をとるしかなく、多大な犠牲をともなうこの作戦は、何度も計画されたが実行する機が熟せず、いよいよソ連軍が反抗攻勢に出るこの機会を逃すわけにはいかなかった。
 英国からドーバー海峡をはさんで対岸のカレーは、最短距離でもっとも予想される上陸地点であった。独軍も諜報をめぐらせ、時期が迫った上陸作戦地点を必死で探っており、連合国はカレーを思わせるような偽装作戦を仕掛けていた。ヒトラーは連合軍フランス侵攻が迫っていると考え、北アフリカ戦線で戦車隊を指揮し「砂漠の狐」と恐れられたエルヴィン・ロンメル陸軍元帥を、フランス北部防御部隊の司令官に任命した。
 国防軍最高司令部は上陸先をカレーと考えたため、ロンメルが連合軍が上陸すると想定していたノルマンジー海岸の防備は遅れていた。ロンメルは、連合軍の圧倒的な航空勢力のもとでは内陸での機動部隊の展開は不利と考え、水際で徹底的に殲滅することが必須と考えていた。しかし西方総軍総司令官ルントシュテットは、連合軍を上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。結果、折衷案で海岸線と内陸部に機甲師団を均等に配置されることになった。
 計画通り「D-Day」の1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行される。雨季に上陸する可能性は低いと考えられていたため、ロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っていた。このためロンメルは軍団を指揮することが出来ず、ロンメルが危惧した連合軍の制空権下で、ルントシュテット作戦下の内陸部の装甲師団の行動は制約され、有効な反撃が出来なかった。
 連合国の上陸作戦大軍は、イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、ユタ・オマハ・ゴールド・ジュノー・ソードの上陸海岸ごとに5つの管区に分けられており、航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、水陸両用戦車を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられていた。そして1944年6月6日、5つの管区で一斉に上陸を開始し、オマハ以外では犠牲を少数にとどめ上陸を果たした。
 米第1歩兵師団が担当したオマハ・ビーチにおいては、最悪の苦難を経験した。いくつかの予想外の出来事とともに、ドイツ側の守備隊は予想された二線級の歩兵師団ではなく、東部戦線で激戦の経験を持つ第352歩兵師団が、事前にロンメルにより移動配置されていた。上陸部隊の第一波は独軍守備隊の抵抗で海岸へ釘付けとなり、そこへ第二波以降の部隊が次々に詰め掛け、海岸線はパニックに陥った。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50%だったとされ、「ブラディ(血まみれの)オマハ」と呼ばれる惨状であった。
 ノルマンジー上陸作戦の成功は、言うまでもなくヨーロッパ戦線の帰趨を定める大作戦であった。ナチスドイツは、東西からの挟撃を受け、翌年5月に無条件降伏する。この作戦は、映画・テレビなどで何度も取上げられている。
*『史上最大の作戦』(The longest day/1962/米映画):ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム、ヘンリー・フォンダなど英米独の豪華キャストによる超大作。 https://www.youtube.com/watch?v=Aar1gnR498g
*『プライベート・ライアン』(Saving Private Ryan/1998/米映画):監督スティーヴン・スピルバーグ、主演トム・ハンクスで、ノルマンディー上陸作戦を舞台に、一人の兵士「ライアン」の救出に向かう兵隊たちのストーリー。救出されるライアンはマット・デイモン。 
*『バンド・オブ・ブラザース』(Band of Brothers/2001/米):スティーヴン・スピルバーグ、トム・ハンクスによるテレビ・ノンフィクションシリーズ。 https://www.youtube.com/watch?v=CQs2Y9nQH2s
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」
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