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闘いの歴史

闘いの記録

ここでも始まりました。

2020-12-09
陸軍は陸地で戦います。そのためには上陸作戦が必要です。
昭和16年12月8日の本日、陸軍、馬来半島上陸作戰開始。
馬来作戰(日本側作戰名「E作戰」)は、大東亞戰爭序盤における日本軍の英吉利領馬来および新嘉坡への進攻作戰。
日本の對英米開戰後の最初の作戰である。
世界史的には、本攻撃によって第二次欧州大戰は欧羅巴・北阿弗利加のみならず亜細亜・太平洋を含む地球規模の戰爭へと拡大したとされる。
1941年12月8日に馬来半島北端に奇襲上陸した日本軍は、英吉利軍と戰斗を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。
これは世界の戰史上まれに見る快進撃であった。
作戰は大本營の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戰は順調なスタートを切った。
「背景」
開戰時における日本軍の戰略目標は、石油や天然瓦斯、護謨などの豊富な天然資源を持つ阿蘭陀領東印度(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかる英吉利の植民地である馬来半島および新嘉坡を攻略する必要があった。
新嘉坡は新造戰艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを基幹とし、亜細亜太平洋地域と印度洋一帯を確保せんとした英吉利東洋艦隊の根拠地であり、また英吉利の東南亜細亜における植民地支配の中心拠点として、欧羅巴や阿弗利加戰線において英吉利の抵抗に手を焼く独逸も、英吉利の資源補給線である印度洋を抑える意味などから日本軍による攻略を切望するところであった。
長年英吉利の過酷な植民地支配下に置かれていた新嘉坡は、日英同盟の破棄以降、英吉利軍によって防御設備の強化が進められ、「東洋のジブラルタル」とも称されていた。
海に面した南側には戰艦の主砲並みの15インチ(38糎)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群、そして戰斗機群が構築され難攻不落の要塞と言われていた。
北側のジョホール海峡側および同じく植民地である馬来半島における英吉利軍の防備は手薄であったが、廣大な馬来半島そのものが天然の防壁となると考えられていた。
上陸可能地点である、泰領内のシンゴラ(ソンクラ)から新嘉坡までは1,100キロの距離があり、馬来半島を縦断する道路は一本道で、両側には鬱蒼たるジャングルと護謨林が廣がっていた。
さらに半島には大小250本の河川が流れ、南に撤退する英吉利軍が橋梁を破壊すれば容易に日本軍の進撃を阻止できると考えられた。
その間に英吉利軍は新嘉坡北側の防備を強化することができると考えていた。
日本軍が持つことのできる時間的余裕は長くはなかった。
大本營は、「(馬来半島内の英吉利軍を放逐しつつ)馬来半島を70日以内で縦断して新嘉坡を攻略する」という目標を立て、作戰準備を開始した。
「参加兵力」
―日本軍―
第25軍 - 司令官:山下奉文中将、参謀長:鈴木宗作中将、参謀副長:馬奈木敬信少将、高級参謀:池谷半二郎大佐、作戰主任参謀:辻政信中佐
第5師團 - 師團長:松井太久郎中将、4個歩兵聯隊(歩兵第11、第21、第41、第42聯隊)、捜索第5聯隊、工兵第5聯隊、砲兵第5聯隊基幹
近衛師團 - 師團長:西村琢磨中将、3個歩兵聯隊(近衛歩兵第3、第4聯隊、第5聯隊)、近衛捜索聯隊基幹
第18師團 - 師團長:牟田口廉也中将、3個歩兵聯隊(歩兵第124聯隊(川口支隊)欠)、歩兵第56聯隊(佗美支隊)は12/8コタバル上陸、歩兵第55聯隊(木庭支隊)は12/28コタバル着、歩兵第114聯隊と師團主力は1/23シンゴラ着
第3戰車團 – 戰車第1、第2、第6、第14聯隊
独立工兵第4、第15、第23聯隊
独立山砲兵第3聯隊、野戰重砲兵第3、第18聯隊
第3飛行集團 - 集團長:菅原道大中将、作戰機459機、豫備153機、作戰後半には一部を残し蘭印方面へ転用
南遣艦隊 - 鳥海以下重巡5隻基幹、司令長官:小沢治三郎海軍中将
第22航空戰隊 - 司令官:松永貞市少将、作戰機158機、豫備29機
第56師團(馬来作戰には最終的に参加せず緬甸戰線へ転進)
大本營は南方作戰の中でも馬来を最重要視し精鋭部隊をこれに當てた。
第5師團(廣島)は建軍以来の精鋭師團であり、1941年初頭に馬匹編成から自動車編成に改編された虎の子の機械化師團であった。
近衛師團(東京)は宮城警護を任務としており日露戰爭以来一部の部隊を除き実戰経験がないという不安はあったが、やはり数少ない機械化師團の1つであり本作戰には不可欠と考えられた。
第18師團(久留米)は馬匹編成であり機動力では劣っていたが、精鋭師團の一つとして期待されていた。
また、英吉利軍は橋梁を破壊して遅滞を図ると豫想されたため、橋梁修理のために独立工兵聯隊が増強された。
参謀陣にも鈴木中将、辻中佐ら大本營の逸材が参画し、資材も最良のものが割り當てられた。
1941年3月に第5師團は馬来戰を想定して佐世保で大演習を行い、ジャングルや護謨林での戰斗の演習も進めていた。
さらに辻中佐らは6月から海南島で作戰研究を行っていた。
海南島一周は1,000キロで馬来作戰の進撃路の長さに匹敵し、熱帯性気候や一本道の地形も共通する。
日本軍はこうした万全の準備をもって作戰に臨んだのである。
―英吉利軍―
馬来軍(司令官アーサー・パーシヴァル中将)
英吉利領印度帝國軍(英印軍)
第3軍團(Indian III Corps) - 第11師團第6、第15旅團(ジットラ)、第9師團第8旅團(コタバル)、第9師團第22旅團(クアンタン)、第28旅團(軍團豫備、イポー)
第12旅團(軍豫備、ポートディクソン)
第45旅團(1月上旬新嘉坡着)、第53旅團(1月中旬同着)、第44旅團(1/25同着)
濠太剌利軍
第8師團(Australian 8th Division) - 第22旅團(メルシン)、第27旅團(クルアン)
英吉利軍
第18師團(British 18th Infantry Division) - 第53旅團(1月中旬新嘉坡着)、第54、第55旅團(1/28同着)
新嘉坡要塞守備隊
馬来人部隊 - 第1、第2旅團(新嘉坡)
東洋艦隊
Z部隊(司令長官:トーマス・フィリップス海軍大将) - 戰艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戰艦レパルス基幹
空軍(246機)
英吉利軍は國際情勢の悪化を受けて、東南亜細亜における一大拠点(植民地)である馬来半島及び新嘉坡方面の兵力増強を進めており、開戰時の兵力は英吉利兵19,600、印度兵37,000、濠太剌利兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。
兵力数は日本軍の開戰時兵力の2倍であったが、訓練未了の部隊も多く戰力的には劣っていた。
軍の中核となるべき英吉利第18師團はいまだ輸送途上であった。
また、欧羅巴戰線および阿弗利加戰線に主要部隊が張り付かざるを得ない状況であったことから、これらの植民地に配置された兵士の多くは世界各地の英吉利の植民地から集めた異なる民族の寄せ集めであり、統帥には苦心があった。
特に多数を占めた印度兵たちは、生活の糧を得るために英吉利軍に入隊したものの、祖國を植民地支配し抑圧する英吉利人のために、祖國から遠く離れた馬来の地で命を投げ出す理由など持ち合わせていなかった。
空軍については現地司令部から本國へ幾度も増強の要請がなされたが、独逸軍との戰いに手一杯、かつ劣勢であった本國はこれに對応できなかったため、その数は十分とはいえず、さらにその中心はホーカー・ハリケーン等の舊式機とならざるを得なかった。
それでも日本軍に對する研究が不十分な英吉利空軍は「ロールス・ロイスとダットサンの戰爭だ」と人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていたという。
しかし、英吉利空軍は支那事變で実戰経験を積んだ零戰や隼を相手に完全に圧倒されることとなった。
―作戰開始時刻―
大本營は馬来上陸と亜米利加の属領である布哇に對する真珠灣攻撃との関係に考慮を要した。
陸軍は馬来上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対條件とし、海軍も真珠灣での奇襲に期待をかけていた。
しかし、一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。
馬来と布哇とでは約6時間の時差がある。
双方を両立させるのが馬来の深夜、布哇の早朝という作戰開始のタイミングであった。
1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、佗美浩少将率いる第18師團佗美支隊が馬来半島北端のコタバルへ上陸作戰を開始した。
亜米利加領布哇の真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、いわゆる大東亞戰爭はこの時間に開始された。
この上陸作戰自體は、駐米日本大使館の失態による遅延により結果的に開戰後の宣戰布告となってしまった對米宣戰布告豫定時間より前に開始されており、開戰前に宣戰布告を行う豫定であった對米開戰とは異なり、日本軍が宣戰布告無しで對英開戰することは豫定通りであった。
この時の日本軍の開戰日の暗號は「ヒノデハヤマガタ」である。
なお開戰直前の12月7日午後には、馬来作戰に参加する上陸部隊を乗せた輸送船團の上空護衛を行っていた日本軍の97式戰斗機が、哨戒中の英吉利海軍のPBYカタリナを撃墜した。
この撃墜により英吉利軍基地に對する日本海軍艦艇の来襲の報告がなされなかったことから、その後の日本陸軍の上陸作戰を容易にした。
なおこれは同戰爭における最初の聯合國軍の損失であった。
「経過」
―コタバル強襲上陸―
馬来半島東岸は断崖地形が続き、上陸作戰が可能な海浜は英吉利領東北端のコタ・バルか、数少ない亜細亜における独立國である泰王國領内のみであった。
英吉利軍はコタバルに1個旅團を配置しトーチカ陣地を構築していた。
コタバルへの上陸作戰の方法としては、制空権を奪取した上で敵陣へ準備砲爆撃を加えるという正攻法も検討されたが、馬来作戰全體の所要日数を考えればそのような時間の余裕はなかった。かくして準備砲爆撃なしにいきなり敵前への上陸を敢行するという強襲上陸が決行された。
第18師團歩兵第56聯隊を基幹とする佗美支隊5,300名は、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戰隊)に分乗し、12月8日未明(日本時間)にコタバルへ接近した。
波高は2メートルを超え上陸用舟艇への移乗は困難を極めた。
午前1時30分、コタバルの海岸線で英印軍第8旅團6,000名との交戰が始まった。
第1次上陸部隊の松岡大隊、数井大隊と那須聯隊長は豫想外の激しい抵抗を受け両大隊長とも負傷し、中隊長以下多数の死傷者を出した。
第2次上陸部隊の中村大隊と佗美支隊長は運悪くトーチカ正面に突き當たり中村大隊長は上陸と同時に戰死した。
英吉利空軍も出撃し、淡路山丸は多数の命中弾を受け炎上沈没、大東亞戰爭に於ける被撃沈第1號となった。
綾戸山丸、佐倉丸も被弾し、船團は一時退避を余儀なくされた。
佗美支隊は苦戰しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。
9日昼にコタバル市内を占領した。
 

糧てませんでした。

2020-12-08

 

 · 
「千人針」
本日は日本が太平洋戦争を開始した日です。
祖母は長男が兵隊に取られた時、新宿の伊勢丹付近で千人針を募ったそうです。五銭硬貨は死線を超える、十銭硬貨は苦線を超えるという縁起で縫い付けたそうです。
「出征おめでとう」「○○君ばんざい」
祖母は送り出す声々を聞きながら、「一生懸命育てて死にに行かせるのか、こんなに欺瞞に満ちた送別は無かった」と末っ子の父に語ったそうです。
20年にはいわゆる根こそぎ動員で十代の父も召集寸前の終戦でした。
長男は戦死、次男の叔父は満州で終戦後、シベリア送りに遭いながらも奇跡的に生還しました。

もう一枚

2020-12-08
1941年12月8日です。
Facebook永井由紀夫さんの投稿
12月8日
■1941年(昭和16年) 太平洋戦争始まる
12月8日(現地時間7日)、
ハワイ北方425キロに達した機動部隊から計350機の航空部隊が発進し、
オアフ島の真珠湾に停泊していた米艦隊を攻撃。
これにより、太平洋戦争が始まった。
 真珠湾攻撃による米側の主な損害は、戦艦5隻が沈没したほか、戦艦4隻、巡洋艦、駆逐艦各3隻が損傷、飛行場への攻撃で航空機188機が破壊された。
人的被害も戦死・行方不明者が2300人を超えた。
ただ、日本側が主要攻撃目標としていた米空母部隊はハワイにおらず、米国の海軍戦力が大きく低下することはなかった。

真珠湾の頃となりました。

2020-12-07
---- 真珠湾攻撃 ---
昭和16年 - 12月8日 (日本時間)
                - 12月7日 (ハワイ時間) ----

1/日本海軍の航空母艦 赤城 - 昭和16年
2/日本海軍 - 第二波空中攻撃隊
3/アメリカ海軍 - 戦艦 ウェストバージニア
             戦艦 テネシー - 戦艦 アリゾナ

4/アメリカ海軍 - 戦艦 ウェストバージニア
                          - 戦艦 テネシー

5/アメリカ海軍 - 戦艦 ネバダ
6/アメリカ海軍 - 戦艦 メリーランド

プラハの春

2020-12-06
ドプチェフ、チャフラフスカ・・・
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1968年(s43)】
◎プラハの春 ソ連・東欧軍が鎮圧
*1968.8.20/ チェコの改革に対して、ソ連軍が介入する。(プラハの春 鎮圧)
 1月、チェコ・スロヴァキア共産党第一書記にドプチェクが就任すると、次々と改革自由化政策を推進した。4月には「人間の顔をした社会主義」を目指す新しい共産党行動綱領を決定した。
 この一連の自由化の動きは、のちに「プラハの春」と呼ばれることになるが、8月20日、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が軍事侵攻することで鎮圧された。そして本格的な自由化は、1989年の「ビロード革命」にまで持ち越されることになった。
 前回の東京五輪で「体操の花」と歌われたベラ・チャスラフスカは、この10月のメキシコ五輪への参加が危ぶまれたが、不足した準備にもかかわらず渾身の演技をした。ほとんどの個人種目に優勝、唯一銀に終った平均台の表彰台では、掲揚されるソ連国旗から顔を背け抗議の意を示した。
「平均台の表彰式/1:20ぐらいより」 https://www.youtube.com/watch?v=SyYMcLwKreo
(この年の出来事)
*1968.1.30/ 南ベトナム全土で解放勢力が大攻勢、テト攻勢を開始する。
*1968.10.8/ 阪神タイガースの江夏豊投手が、シーズン奪三振385の世界記録を達成、最終401を記録する。
*1968.10.12/ 第19回オリンピック メキシコ大会が開催される。

闘いの転機

もう無理です。 戦えません・・・。

2020-11-01
無条件降伏を受諾いたします。
アメリカの頭が交代いたしました。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1945年(s20)】
◎ポツダム宣言受諾・無条件降伏
*1945.2.4/ 米・英・ソの3首脳が、ソ連クリミヤ半島のヤルタで会談、ドイツ降伏後のヨーロッパ処理が話し合われる。同時に秘密協定として、対日参戦が約束される。(ヤルタ会談)
*1945.3.10/ 東京大空襲。
*1945.5.7/ ナチスドイツ無条件降伏。
*1945.7.17/ トルーマン(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)3首脳が、壊滅した独ベルリン郊外のポツダムで会談。26日、日本の無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言」が発せられる。(ポツダム会談)
*1945.8.6/ 広島に原爆投下、続いて9日には長崎に投下される。。
*1945.8.8/ ソ連、対日宣戦布告。
*1945.8.15/ 天皇による終戦の詔勅放送(玉音放送)・ポツダム宣言受諾による戦争終結
 1945(昭20)年7月26日、米英中の3ヵ国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。日本政府は当初黙殺し、一方で日ソ中立条約があるソ連に期待して和平講和の仲介を託していたが、8月6日に広島市に原子爆弾が投下され、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日には広島市に続き長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態が続いた。
 日本政府は中立国を通じて、国体の変更を伴わないかどうかを連合国側に確認した。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、昭和天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言の受諾を通告した。
 前年の1944(昭19)年7月、サイパン陥落をうけて東条内閣が倒れると、戦争終結への動きが具体化し始める。あとを受けて、予備役陸軍大将小磯國昭が内閣を組閣するが、和平工作を模索するも「本土決戦」を主張する陸軍を抑えきれず、何をするにも遅い動きから「木炭自動車」と揶揄され、1945(昭20)年3月に米軍の沖縄上陸を許すと内閣総辞職に至った。
 4月7日誕生した鈴木貫太郎内閣は、事実上の終戦準備内閣として成立した。ながらく侍従長を務め天皇の信任が厚い鈴木だが、江戸時代の生まれで当時は超高齢の77歳、退役の海軍大将で枢密院議長という名誉職にあり、辞退の意を示したが昭和天皇のたっての願いで就任した。鈴木が就任後すぐに、米大統領ルーズベルトが死去、4月末にはヒットラーが自殺するなど、情勢は刻々と変化していた。
 鈴木貫太郎は自身の見解を明示することなく、閣僚や軍部の見解をひたすら聞くことに徹した。外務大臣東郷茂徳が、日ソ中立条約をたよりにソ連を仲介とした和平交渉を行おうとしたが、ソ連は2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から3ヵ月以内の対日宣戦するという秘密協定に合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかった。
 7月26日にアメリカ合衆国・中国・イギリスの首脳名で発表された降伏勧告「ポツダム宣言」に対して、鈴木内閣はこれを「黙殺」するという方針を公表する。しかし8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が投下され、同8日にはソ連軍が満州国に侵攻していた(ソ連対日参戦)。和平工作の失敗が明白となった8月9日深更から、最高戦争指導会議および閣議の御前会議が開かれ、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、あくまでも本土決戦を期して戦争を遂行するかで議論は紛糾する。
 議論は「国体護持」をめぐって錯綜した。東郷外相らの受諾派に対して、阿南陸相らは陸軍のメンツのたつような諸条件の確約を主張した。未明に至って、鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぎ、「万世一系」の天皇を中心とする「国体護持」を条件として、ポツダム宣言受諾に意見統一した。この場合の国体護持とは、天皇の身分の保障以外の意味を持たず、これには誰も反論し得なかった。
 連合国側からは確たる返答をえられなかったが、8月14日再度の御前会議における「ご聖断」によって、ポツダム宣言の無留保受諾が決定された。天皇は終戦の詔書を発布し、即座に連合国側にその旨通告され、翌8月15日正午から、ラジオ放送を通じて、天皇自ら終戦の詔書を朗読する形で、ポツダム宣言の受諾が伝えられた(玉音放送)。 https://www.youtube.com/watch?v=vlPrtkI0U6c
 最後まで本土決戦を主張した陸軍大臣阿南惟幾は、終戦の詔勅に署名したのち鈴木首相のもとを訪れ、「陸軍を代表して強硬な主張したが、総理にはご迷惑をかけました」と挨拶を述べたという。阿南は陸軍将校らの反乱を抑えるために反対を続けていたとされ、陸軍将校らに対して承詔必謹を命じた後、同日明け方に自決した。鈴木内閣の決断が遅れたことで、原子爆弾の投下やソ連参戦を招いたとされるが、当時の国内政局を見れば、やむを得ない流れでもあったと考えられる。

沖縄の住民、よく闘いましたが・・・。

2020-11-01
絶望の中の無謀でありました。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1945年(s20)】
◎沖縄戦
*1945.4.1/ 米軍が沖縄本島に上陸を開始する。
*1945.7.2/ 米軍による沖縄戦終結宣言。
 沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945(昭20)年、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。太平洋戦争において、日米軍の最大規模かつ最後の戦闘となった。沖縄戦は1945(昭20)年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日開始、6月23日に終了した。
 アメリカ軍の目的は、対日本本土爆撃のための航空基地確保と日本本土進攻の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて和平に持ち込むことを狙ったのに対し、現地軍司令部は本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」としていた。現地第32軍は、サイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を選んだ。
 3月下旬からの、沖縄周辺諸島や本島への空爆など予備的な攻撃から、4月1日朝、アメリカ軍は沖縄本島への上陸作戦を開始した。日本軍は、那覇市のある宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針で、水際作戦を放棄したため、手薄な中西部沿岸地域に上陸に成功したアメリカ軍は、4月3日までに東岸に達し、日本軍は沖縄本島南北に分断された。日本軍は本島南部を主戦場とする予定の為、北部は手薄で、アメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけ、4月22日までに沖縄本島北部の制圧は完了した。
 日本軍は首里城(那覇市)地下に置かれた司令部を中心とし、沖縄本島南部での持久戦術を採ったため、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里の司令部を目指して南進するが、途中の各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止、戦線は膠着状態に陥った。米軍は4月19日から23日にかけて総攻撃を加え、双方大きな損害を被ったが、日本軍は首里防衛ラインの外郭を突破されて、防衛線の再構築を迫られた。
 沖縄防衛戦の初めから、もはや日本艦船隊は壊滅しており、航空機による特攻頼りであった。しかし米海軍にとってこの「カミカゼ」特攻は脅威であり、多大な損失を受けるとともに、兵士に心理的恐怖を呼び起こしていた。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、日本軍の抵抗にあっている陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、上陸部隊司令官サイモン・バックナー陸軍中将がわざと慎重な手法を使っていると疑うなど、陸海軍の間に不協和音が生れつつあった。
 その後も、相互に総攻撃を行うなど激しい攻防を繰り返したが、籠城戦の日本軍は徐々に戦力を失い、5月27日、牛島司令官は首里の司令部を後退させる。日本軍は南部に撤退して抗戦したが、6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言したが、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは、8月15日終戦告知のさらにあとの9月7日であった。
 沖縄戦では、本土との海上交通が阻害されたため、沖縄守備隊は現地の人的・物的資源の戦力化を強引に進めた。日本軍は兵力不足を補うために戦闘員として、住民を根こそぎ動員した。正規の動員以外に、在郷軍人会などによる自主参加が建前の義勇隊なども組織され、中学校や女学校に在籍する生徒も防衛召集や「志願」による生徒隊として軍組織に組み込まれた。これらは「防衛隊」「鉄血勤皇隊」「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などと呼称され、悲惨な状況に直面した。
 戦闘員以外にも、軍事関係などに徴用されて工場労働や農作業などに従事させられ、男女を問わず、また対象年齢外の老人や国民学校の児童らも「自主参加」の形で作業に従事することになった。そして戦闘に巻き込まれて死亡する民間人も、日本本土とは比較にならないほどの割合となった。軍の指示により多くの住民が南部に避難していたが、そこへ敗走して来た兵士たちが紛れ込み収拾が取れない混乱となった。米軍の掃討作戦が始まると、捕虜になるなと指示されていた住民たちは集団自殺するなど、沖縄戦における住民戦没者全体の6割が、日本軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっているとされる。

よく闘いました・・・。

2020-10-31
硫黄島の指揮官は、栗林中将でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1945年(s20)】
◎硫黄島玉砕
*1945.2.16/ 米艦隊が硫黄島に徹底攻撃を開始。3月25日、日本軍守備隊が玉砕する。
 1944(昭19)年8月、グアム島をほぼ制圧し、同年12月にフィリピンのレイテ島を陥落させた連合国軍は、日本本土への攻撃拠点として、小笠原諸島南端に位置する火山島「硫黄島」に戦略目標を定めた。硫黄島の攻略は、沖縄上陸および日本本土戦略爆撃が実現可能となる重要なステップとされた。
 1945(昭20)年2月16日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。前哨戦に続き、19日明け方から猛烈な艦砲射撃が始まり、さらに爆撃機および艦載機による銃爆撃が続くと、午前9時、第1波が上陸を開始して、本格的な上陸戦が展開された。水際での日本軍の抵抗は少なく、海兵隊は円滑に上陸し前進したが、日本軍は地下坑道に潜み艦砲射撃に耐えて、10時過ぎになってから一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。
 19日だけで米海兵隊は500名以上の戦死者を出したが、夕方までには圧倒的な兵力で海岸堡を築き東海岸線への上陸を果たした。翌20日以降、島南端にある摺鉢山の要塞と、島中央北部の飛行場のある元山方面とに分かれて侵攻開始したが、摺鉢山の戦いは熾烈を極めた。張り巡らした地下坑道に潜伏し、ゲリラ的に反撃を加える日本軍に対し、米軍は坑道入り口から火炎放射器を浴びせたり、入り口をブルドーザでふさぎ上部に開けた穴からガソリンを流し込み焼き尽くす「馬乗り攻撃(日本兵側の呼称)」などで、逐一つぶしていった。
 23日午前、アメリカ軍は攻撃開始後7日目にしてようやく擂鉢山を制圧し、山頂に到達した海兵師団兵士が付近で拾った鉄パイプを旗竿にして星条旗を掲揚した。しかしその星条旗はみすぼらしくその場面を確認した者も少なかったので、あらためて別の兵士たちによって大きな星条旗を掲揚するシーンを、従軍専属カメラマンに撮らせたものが有名な「硫黄島の星条旗」として残された。その写真をもとにして、アーリントン国立墓地の近くの「合衆国海兵隊戦争記念碑」は作成されている。
 栗林忠道陸軍中将指揮下の守備軍は、3月5日戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移したが、7日、米海兵師団は奇襲を断行し中央突破、日本軍を島の北部と東部に分断した。この日、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発する。戦訓電報は、戦況を分析し、のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送るものであるが、栗林は恩師にあたる蓮沼蕃侍従武官長にも宛てている。この電文は客観的合理的な提言であるが、参謀本部に握りつぶされることを危惧したためと言われる。
 栗林中将は無意味なバンザイ攻撃を許さず、最後まで可能な限り組織的攻撃をすべしと命じた。しかしいよいよ追い詰められると、16日栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。17日、大本営はその多大な功績を認め日本軍最年少の大将に昇進させるが、栗林は同日に、最後の総攻撃を企図し各部隊へ最後の指令を送った。
 しかし出撃の機会が見つけられず転進したのち、26日栗林大将は最後の反攻を敢行する。栗林中将以下、残された約400名の将兵はアメリカ軍陣地へ攻撃をかけたが、この最後の攻撃は決して万歳突撃ではなく、最大限の打撃をあたえる決死の夜襲であった。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は混乱に陥り、200名以上の死傷者を出したとされる。
 また、予科練育ての親とも言われた市丸利之助海軍少将は、途中から合流し総攻撃に加わったが、遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、英訳させたものとを部下とともに懐中して戦死した。米軍が将校の遺体を検査することを見越して携行したもので、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、アメリカの新聞にも掲載された。それは、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げつつ共産主義ソ連と連携する連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
 末期的な前線における栗林中将や市丸少将の冷静な論述は、国民に知らされることなく、大本営は3月21日、硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」・・・栗林や市丸の理知的な思考を、参考にさえできなかったのは誰なのか。
 日本軍には増援や救援の具体的な計画はもとよりなく、硫黄島守備兵力2万名はほぼ玉砕戦死。一方、アメリカ軍の戦死・戦傷は3万近くにおよび、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍の被害が日本軍を上回った稀有な戦いであった。また、硫黄島上陸とほぼ同時に始められた、対ドイツのノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦屈指の最激戦として米国でも認識されている。
 硫黄島の戦いは日米双方の映画・テレビのドラマで取上げられている。クリント・イーストウッド監督は、日米双方の視点から連作として描いた。
『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ) https://www.youtube.com/watch?v=WQfpHrHx_Oc
『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙) https://www.youtube.com/watch?v=0x54bOTdJA0
(この年の出来事)
*1945.9.11/ GHQが東条英機ら39人の戦犯の逮捕を命令する。(東条は自殺未遂)
*1945.9.27/ 天皇が米大使館にマッカーサーを訪問。
*1945.9.26/ 哲学者三木清(49)が、豊多摩拘置所で獄死する。
*1945.10.24/ 国際連合(UN)が正式に発足する。
*1945.11.2/ 日本社会党結成、9日に日本自由党、16日に日本進歩党など、戦後政党の結成が相次ぐ。
*1945.12.6/ GHQが近衛文麿ら9人の戦犯逮捕追加を命令、近衛は16日に服毒自殺。(戦犯逮捕)
*1945.1211/ 抗生物質ペニシリンを発見した英国細菌学者アレグザンダー・フレミングに、ノーベル医学生理学賞が授与される。

最低、最悪の作戦

2020-10-30
インパール作戦
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1944年(s19)】
◎インパール作戦
*1944.3.8/ ビルマ(ミャンマー)の日本軍がインパール作戦を開始する。
*1944.7.2/ 大本営がインパール作戦の中止を命令する。
 1944(昭19)年3月8日、日本軍は、インド北東部の都市インパールを攻略する作戦を開始した。連合軍の反攻の食い止めを目指し、中国国民党政府への援助(援蒋ルート)の遮断を戦略目的とした。しかし、補給線を軽視した杜撰な作戦により多くの犠牲を出し、無謀な作戦の代名詞ともなっている。
 「牟田口廉也」中将を総司令官とし、第15軍隷下3個師団を主力とする日本軍は、補給増援がままならない中で作戦を開始するが、ビルマ・インド国境間には100km以上にわたって、ジャングル・2000m級の山地・数本の急流が横たわっていた。1個師団がインパール北方のコヒマを目指し、残り2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。
 牟田口司令官が考案した補給不足打開作戦は、牛・山羊などの「駄牛中隊」を編成し、必要に応じてそれを食料に転用する「ジンギスカン作戦」というものであったが、牛や山羊は急流渡河時に多くが流され、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な山地で、兵士の口に入る前にほとんどが失われた。そして人力で運ぶしかなくなった重砲・重火器は、行く手の険しい地形に阻まれるなど、前線で敵軍と向かい合う前に、ほとんどの戦闘力を消耗している始末だった。
 迎え撃つイギリス軍が採用した円筒陣地は、外周を重火器で防備し、包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支える態勢で、頑強な防備をほこった。最前線の日本兵は、空腹のうえ軽装備だったためまったく歯が立たず、これを「蜂の巣陣地」と呼んだ。さらに、飢えた日本兵は、敵軍輸送機の投下した食糧物資を奪うための決死隊を組み、これで飢えをしのいで「チャーチル給与」と呼ぶありさまだった。
 インパール作戦は、当初から無謀な作戦であるとの反対が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められとされる。司令部に要請した支援もなく、前線部隊の自壊の危機に瀕した第31師団長佐藤幸徳陸軍中将は、後方司令部で作戦継続を厳命する牟田口司令官の命令を拒否、独断で撤退する。この抗命事件は牟田口の逆鱗に触れ、佐藤師団長を更迭する。同様に他の2師団長も更迭、主力3師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った。
 7月3日、やっとのことで作戦中止命令が下されたが、投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していたという。もはや撤退戦を維持する戦闘戦力もなく、事実上の壊走だった。退却路は戦線以上に悲惨であった。日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患し、次々と脱落してゆき放置された。延々と続く友軍の腐乱死体や白骨が横たわる退路を、日本兵は「白骨街道」などと呼んだという。
 インパール作戦の失敗後、日本陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した。しかし軍法会議で責任を追及し事態を解明することなく、多くは予備役投入などでお茶を濁した。責を問う軍法会議が開催した場合、インパール作戦失敗の要因が明らかにされ、その責任追及が軍中枢に及ぶことを回避したためとも言われる。まさに「失敗の本質」が解明されることなく、同じ失敗が繰り返される構造を示したものとなった。
 牟田口廉也は、終戦直前に予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に内地で敗戦を迎えた。A級戦犯に指名されるも不起訴になり、別の下級シンガポール軍事法廷に送致されて有罪とされるも、2年で釈放されている。戦後しばらくは公の場に顔を出さず反省の意を示していたが、ほとぼりが冷めると、戦時中と同様に「自分のせいではなく、部下の無能さのせい」と自説を繰り返したという。
 結果的に負け戦の将だったため、敵兵や現地住民を殺したり残虐行為をはたらく機会が少なかったのが幸いし、敵国やGHQの手で戦犯として問われた罪は軽かった。しかしながら、下級参謀だった辻正信などと同様、多数の日本人兵士を死地に追いやった罪は、ついに日本国民自身の手で問われることはなかった。
(この年の出来事)
*1944.1.29/ 中央公論社と改造社の編集者らが検挙され、以後、知識人・言論人などが続き30人以上に及ぶ。(横浜事件)
*1944.6.23/ 北海道の洞爺湖畔の平地で大噴火が発生、「昭和新山」が誕生する。
*1944.6.30/ 学童疎開が閣議決定され、8.4より学童集団疎開が始まる。
*1944.7.18/ マリアナ海戦敗北・サイパン陥落などで東条独裁体制に批判が集中、東条内閣が総辞職。7.22に小磯国昭内閣が成立。
*1944.8.25/ パリのドイツ軍が降伏、パリが解放される。
*1944.11.24/ マリアナ基地を飛び立ったB29爆撃機が、東京を初空襲する。
*1944.12.7/ 東海地方が大地震・津波に襲われ大被害を受ける。(東海大地震)

壊滅です。

2020-11-01
レイテの戦い
弩級戦艦武蔵、沈没いたしました。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1944年(s19)】
◎レイテ沖海戦
*1944.10.20/ 米軍4個師団がフィリピンのレイテ島に上陸。24日レイテ沖海戦が始まり、25日に日本の連合艦隊は壊滅状態に陥る。
 「レイテ島の戦い」は、1944(昭19)年10月20日から戦われたフィリピン・レイテ島での攻防で、日本軍守備隊とアメリカ上陸部隊の激しい地上戦となった。10月20日、連合軍はレイテ島上陸に着手、20万以上の陸上部隊が投入され、数千の航空機と海上からは艦隊による火力がこれを支援した。
 フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官に着任後間もない山下奉文大将は、マニラのある比国の中心ルソン島に主力を集中した戦闘を考えていたが、大本営は連合軍が襲ったレイテ島に主力を移動して迎え撃つ命令を出した。同時に大本営は「捷号(しょうごう)作戦」を発動して、日本海軍が残存軍艦の総力をあげた艦隊を派遣し、アメリカ側も太平洋に展開する大半の軍事力を投じため、10月23日から25日にかけて、史上最大の海戦と言われる「レイテ沖海戦」が戦われた。
 日本海軍はマリアナ沖海戦で空母部隊が壊滅していたが、戦艦大和、武蔵という超巨大戦艦姉妹艦を投入して背水の陣をしき、はじめて「神風特別攻撃隊」による攻撃を行うなど総力を投入したが、武蔵が撃沈されるなど多大な艦隊戦力を失い、この海戦での敗北を最後に日本軍艦隊は事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。
 その直前の台湾沖航空戦やレイテ沖海戦では、現地からの大戦果の誤報や過大報告が相次ぎ、それを信じた大本営は戦況を読み誤った。フィリピン現地の山下大将の状況把握を無視して、レイテ島への主力陸上部隊の移転を命じたが、移送中に大損害を受け補給もままならず、戦闘以前に溺死餓死などで多くの死者を出すことになった。約2ヵ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。そしてこのレイテ島戦は、翌年8月の終戦まで続く「フィリピンの戦い」の大方の帰趨を決する戦闘となった。
 南西太平洋方面の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、フィリピンの奪回作戦に執念をもやした。なにより、フィリピンを支配する在マニラ・アメリカ極東陸軍の司令官であったとき、日本軍に追い詰められ豪州に脱出、" I shall return " と負け惜しみを言うしかない屈辱を味わった地である。さらに事実上のフィリピン総督として、農園を持つなど個人的に多くの資産を形成していた。
 アメリカ参謀本部では、フィリピンを飛ばして台湾や沖縄に侵攻する案が強く、フィリピン奪還は戦略上必要なしとの判断であった。しかしマッカーサーは、「フィリピン国民との約束」の履行を理由に、フィリピン作戦を強引に主張した。マッカーサーは、フィリピンからの「敵前逃亡」("I shall return"は兵士間ではこの意味だった)を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復という、個人的な理由を優先させた。
 また、ルーズベルト(民主党)は大統領選を控えており、国民的人気のマッカーサー(共和党)が対抗馬になるのを恐れて、マッカーサーに手柄を立てさせないように仕組んできていたが、彼が大統領選に出る気がないという言動をしたため、その要求をしぶしぶ呑んだとも言われている。膝まで海に浸かってレイテ上陸を果たすマッカーサーの写真は有名だが、実際の場にカメラマンが居ず、あらためて場を設定して撮り直させたものだという。
(この年の出来事)
*1944.1.29/ 中央公論社と改造社の編集者らが検挙され、以後、知識人・言論人などが続き30人以上に及ぶ。(横浜事件)
*1944.6.23/ 北海道の洞爺湖畔の平地で大噴火が発生、「昭和新山」が誕生する。
*1944.6.30/ 学童疎開が閣議決定され、8.4より学童集団疎開が始まる。
*1944.7.18/ マリアナ海戦敗北・サイパン陥落などで東条独裁体制に批判が集中、東条内閣が総辞職。7.22に小磯国昭内閣が成立。
*1944.8.25/ パリのドイツ軍が降伏、パリが解放される。
*1944.11.24/ マリアナ基地を飛び立ったB29爆撃機が、東京を初空襲する。
*1944.12.7/ 東海地方が大地震・津波に襲われ大被害を受ける。(東海大地震)
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