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闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-04-09
とうじょう‐けんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。
五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

闘いの記録 (戦争と人間)

A級戦犯の遺骨「太平洋に散布」

2021-06-09
A級戦犯 遺骨の行方に遺族は|TBS NEWS
米公文書を発見 時事通信社 2021/06/09 17:56

極東軍事裁判でA級戦犯とされ死刑が執行された東条英機元首相ら7人について、遺骨を太平洋に散布したと記した米軍の公文書が発見されていたことが、9日までに分かった。A級戦犯の遺骨が散布された可能性を示す記録はこれまでにも見つかっていたが、公文書で詳細が明らかになったのは初めて。 発見されたのは米軍の報告書2通で、秘密指定の解除後、米公文書館で保管されていた。日本大の高沢弘明専任講師が2018年3月、日本の戦犯に関する調査の過程で入手した。 死刑が執行された1948年12月23日付の報告書には、7人の氏名と共に、散骨を行ったことが短く記載されていた。49年1月4日付のもう1通では、執行から散骨までの経緯が時系列で説明されている。いずれも、現場の責任者だったとみられる米第8軍のルーサー・フライアーソン少佐が執筆した。 報告書によると、死刑執行の当日、少佐らは7人の遺体を巣鴨拘置所から横浜の火葬場に護送。遺骨は骨つぼに入れて第8軍の飛行場に搬送し、「連絡機」と呼ばれる航空機に積んだ。 連絡機には少佐と操縦士が乗り、「横浜の東の太平洋上空約30マイルの地点に進み、GHQ(連合国軍総司令部)の書簡に従って遺骨を広範囲に散布した」という。 高沢氏によると、GHQは死刑執行前に遺骨の散布を求める文書を出していた。報告書には、遺骨を遺族らに返還せず散布した理由は記されていなかった。 高沢氏は「これまで伝聞でしか情報がなかったことが公文書で判明した。執筆者本人のサインもあり、信ぴょう性は高い」と話している。


これまで謎とされてきたA級戦犯7人の遺骨の行方。アメリカで新たに見つかった公文書に「太平洋にまいた」と記されていたことがわかりました。73年目の新事実に遺族が語ったこととは・・・。
 「SECRET」と大きく書かれた公文書。その下には7人の日本人の名前が書かれています。タイトルは「日本の戦争犯罪者7人の死刑執行に関する事実」。これは、アメリカの国立公文書館で見つかった、A級戦犯の遺骨を巡る公文書です。
 第2次世界大戦後の極東国際軍事裁判、いわゆる「東京裁判」。平和に対する罪などで死刑判決となったのは東條英機元総理や廣田弘毅元総理ら7人のA級戦犯です。これまで、遺骨は遺族に返還されず、どのように処理されたのか、詳細は分かっていませんでした。
 今回見つかった文書には、このような記述があります。
 「遺骨は横浜の東、約30マイル(約50キロ)の太平洋上から広範囲にまいた」
 今回、この文書を発見した日本大学の高澤氏は。
 「(これまで)証言レベルで東京湾とか太平洋と理解されていたんじゃないか。文書として出てきたのは今回が初めてではないか。遺骨が後々、神聖視されないように扱われたのではないかと」(日本大学生産工学部 高澤弘明専任講師)
 「けさ、見ました。うれしいとか悲しいとか悔しいという感情は特にありません」(廣田元首相の孫 廣田弘太郎さん)
 廣田弘太郎さん(82)。死刑となった一人、廣田元総理の孫です。
 「お墓があるんですが、そこには遺髪や何かが入れてあります。実際にはもう滅失してしまって、でもそれが遺灰だと思っています」(廣田元首相の孫 廣田弘太郎さん)
 祖父の遺骨の扱いを記した文書が今回見つかったことについては・・・。
 「記録は廃棄したりしないでとってあったことはいいことだと思います。東京裁判というものについて、ああいう裁判が正しかったのかということについては、まだまだ議論すべきところが残っていると思っています」(廣田元首相の孫 廣田弘太郎さん)

◾️田中角栄55歳 田中真紀子29歳 (昭和48年 羽田空港)

2021-06-07
Facebook Chikafumi Etouさん曰く、イギリス、フランス、西ドイツ、ソ連に向かう田中父娘。 ブレジネフ書記長との会談は外遊のヤマ場でした。

散華の跡

2021-06-03
Facebook 湯浅 宗浩さん曰く
  45年3月27日沖縄沖で掃海活動中の米駆逐艦ドーセイに突入した特攻機。
 99艦爆とされてきたが同艦乗組員の保存していたこのプレートにより陸軍の99襲撃機であったことが確認された。

◎長屋王の変と藤原氏勢力

2021-06-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【8th Century Chronicle 721-740年】
*724.2.4/ 元正天皇が譲位し、首皇子(聖武天皇)が即位する。
*727.11.2/ 聖武天皇と光明子(不比等の娘)の子 基王(生後1ヵ月)が皇太子となる。
*729.2.12/ 左大臣長屋王(54)が、謀反の疑いをかけられ、自殺する(長屋王の変)。
*729.8.10/ 光明子が、臣下として初めて皇后(光明皇后)となる。
*737.-.-/ この年天然痘が流行し、左大臣藤原武智麻呂ら藤原4兄弟が、相次いで死亡する。
*740.9.3/ 大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こすが、大野東人に討たれる(藤原広嗣の乱)。
*740.10.29/ 聖武天皇(45)は、伊勢・美濃・近江に行幸し、以後5年にわたって恭仁京・難波京・紫香楽宮を転々とする。
 「長屋王」は、高市皇子の長男で天武天皇の孫にあたる皇族である。父の「高市皇子」は大津の皇子とともに、壬申の乱で長男として大海人皇子(天武)を助けて重要な役割を果たしたが、天武の後継としては、母親の身分ゆえか草壁・大津皇子に次ぐ3位とされた。
 686年、天武天皇が崩御すると、直後に大津皇子が謀反の疑いをかけられ自殺する。天武の皇后鸕野讚良が「持統天皇」として即位し、草壁皇子は帝位を継承しないまま3年後に病死する。高市皇子は太政大臣として持統政権を支え、藤原京遷都を進めたのは高市皇子ではないかとも言われる。
 696年、高市皇子が薨御し、翌697年持統天皇は、草壁皇子の子で孫にあたる軽皇子(文武天皇)に皇位継承し、 702年に持統は崩御する。「文武天皇」の擁立に尽力した「藤原不比等」は、娘の宮子を文武夫人としており、大宝律令編纂に中心的な役割を果たし、平城京遷都を実質的に仕切ったとされる。
 平城遷都の直前に、若くして文武天皇(25)が崩御すると、草壁皇子の正妃で文武天皇の母が「元明天皇」として即位し、藤原不比等とともに、「平城京遷都」、「風土記」編纂、「古事記」の完成、「和同開珎」の鋳造など、律令国家の根幹となる施策を進める。
 715年、元明天皇は、孫の首皇子(のちの聖武天皇)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(「元正天皇」)に皇位を譲り、太上天皇として元正天皇を後見する。721年、元明太上天皇が崩御し、前年には藤原不比等(62)も薨去しており、娘婿の「長屋王」が後事を託され、右大臣として政務を仕切ることになる。
 724年、元正天皇は譲位し「聖武天皇」(24)が即位し、長屋王は正二位・左大臣に進む。聖武天皇は生母の藤原宮子(藤原不比等の娘)を「大夫人」と称するとしたが、長屋王はこれは違令だと意義を奏上した。この事件をきっかけに長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が表面化した。
 聖武天皇の外戚である藤原氏4兄弟( 武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、聖武夫人で妹の光明子が産んだ基王が生後間もなく死んでしまい、皇位継承権のある男子をもつ長屋王は、藤原氏系の皇位継承に不安を抱かせる存在でもあった。
 729年2月、長屋王が謀反を企てているとの密告があり、藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、糾問された結果、長屋王はじめ一族は自殺においこまれる。こうして、皇親勢力の筆頭だった長屋王は、藤原不比等以来勢力を拡張してきた藤原氏勢力に排斥されてしまった(長屋王の変)。
 長屋王の変のあと、藤原4兄弟は妹光明子を聖武天皇の皇后に押し上げて、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年の天然痘の大流行で4人とも揃って病死してしまい、長屋王を冤罪で死に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。
(この時期の出来事)
*723.4.17/ 開墾を奨励するために「三世一身の法」を施行。
*730.1.13/ 大宰帥大伴旅人が、自邸で観梅の宴を催す。この時の万葉集の詞書から「令和」の語がひかれた。
*733.-.-/ この頃、「出雲風土記」「肥前風土記」「豊後風土記」などが編纂される。
*735.4.26/ 唐での留学から帰国した吉備真備と僧玄昉が、持ち帰った唐の文物を献上する。
◎長屋王の変と藤原氏勢力
*724.2.4/ 元正天皇が譲位し、首皇子(聖武天皇)が即位する。
*727.11.2/ 聖武天皇と光明子(不比等の娘)の子 基王(生後1ヵ月)が皇太子となる。
*729.2.12/ 左大臣長屋王(54)が、謀反の疑いをかけられ、自殺する(長屋王の変)。
*729.8.10/ 光明子が、臣下として初めて皇后(光明皇后)となる。
*737.-.-/ この年天然痘が流行し、左大臣藤原武智麻呂ら藤原4兄弟が、相次いで死亡する。
*740.9.3/ 大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こすが、大野東人に討たれる(藤原広嗣の乱)。
*740.10.29/ 聖武天皇(45)は、伊勢・美濃・近江に行幸し、以後5年にわたって恭仁京・難波京・紫香楽宮を転々とする。
 「長屋王」は、高市皇子の長男で天武天皇の孫にあたる皇族である。父の「高市皇子」は大津の皇子とともに、壬申の乱で長男として大海人皇子(天武)を助けて重要な役割を果たしたが、天武の後継としては、母親の身分ゆえか草壁・大津皇子に次ぐ3位とされた。
 686年、天武天皇が崩御すると、直後に大津皇子が謀反の疑いをかけられ自殺する。天武の皇后鸕野讚良が「持統天皇」として即位し、草壁皇子は帝位を継承しないまま3年後に病死する。高市皇子は太政大臣として持統政権を支え、藤原京遷都を進めたのは高市皇子ではないかとも言われる。
 696年、高市皇子が薨御し、翌697年持統天皇は、草壁皇子の子で孫にあたる軽皇子(文武天皇)に皇位継承し、 702年に持統は崩御する。「文武天皇」の擁立に尽力した「藤原不比等」は、娘の宮子を文武夫人としており、大宝律令編纂に中心的な役割を果たし、平城京遷都を実質的に仕切ったとされる。
 平城遷都の直前に、若くして文武天皇(25)が崩御すると、草壁皇子の正妃で文武天皇の母が「元明天皇」として即位し、藤原不比等とともに、「平城京遷都」、「風土記」編纂、「古事記」の完成、「和同開珎」の鋳造など、律令国家の根幹となる施策を進める。
 715年、元明天皇は、孫の首皇子(のちの聖武天皇)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(「元正天皇」)に皇位を譲り、太上天皇として元正天皇を後見する。721年、元明太上天皇が崩御し、前年には藤原不比等(62)も薨去しており、娘婿の「長屋王」が後事を託され、右大臣として政務を仕切ることになる。
 724年、元正天皇は譲位し「聖武天皇」(24)が即位し、長屋王は正二位・左大臣に進む。聖武天皇は生母の藤原宮子(藤原不比等の娘)を「大夫人」と称するとしたが、長屋王はこれは違令だと意義を奏上した。この事件をきっかけに長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が表面化した。
 聖武天皇の外戚である藤原氏4兄弟( 武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、聖武夫人で妹の光明子が産んだ基王が生後間もなく死んでしまい、皇位継承権のある男子をもつ長屋王は、藤原氏系の皇位継承に不安を抱かせる存在でもあった。
 729年2月、長屋王が謀反を企てているとの密告があり、藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、糾問された結果、長屋王はじめ一族は自殺においこまれる。こうして、皇親勢力の筆頭だった長屋王は、藤原不比等以来勢力を拡張してきた藤原氏勢力に排斥されてしまった(長屋王の変)。
 長屋王の変のあと、藤原4兄弟は妹光明子を聖武天皇の皇后に押し上げて、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年の天然痘の大流行で4人とも揃って病死してしまい、長屋王を冤罪で死に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。
(この時期の出来事)
*723.4.17/ 開墾を奨励するために「三世一身の法」を施行。
*730.1.13/ 大宰帥大伴旅人が、自邸で観梅の宴を催す。この時の万葉集の詞書から「令和」の語がひかれた。
*733.-.-/ この頃、「出雲風土記」「肥前風土記」「豊後風土記」などが編纂される。
*735.4.26/ 唐での留学から帰国した吉備真備と僧玄昉が、持ち帰った唐の文物を献上する。

◎平城京遷都

2021-06-02
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【8th Century Chronicle 701-720年】-2
◎平城京遷都
*708.12.5/ 平城宮の地鎮祭が行われる。
*710.3.10/ 都を「平城京」に移す(平城京遷都)。
*710.3.-/ 藤原不比等が、氏寺を平城京に移して興福寺と改称する。
*711.1.2/ 平城京遷都にともない、中央と地方を結ぶ道路整備が進められ、山城・河内・摂津・伊賀の4国に7駅を設置する。
 飛鳥京の西北部に、わが国で初めて都城制を敷いた「藤原京」は、持統8(694)年から和銅3(710)年までの16年間、持統・文武・元明の3代にわたって都がおかれた。この時代は、日本における古代国家の基本法として、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令が公布され、古代律令国家の形成過程であった。
 しかし、和銅元(708)年に元明天皇より遷都の勅が下り、和銅3(710)年に「平城京」に遷都されることになる。その翌年に、藤原宮が焼けたとされているが、藤原京から平城京へ遷都の理由は不明である。
 和銅3(710)年3月の遷都時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備されたが、寺院や邸宅および庶民の住居などは、その後段階的に造営されていったもようである。平城遷都を主導した藤原不比等は、率先して藤原氏の氏寺を興福寺と改名し移転、新都の隆盛をはかった。また、中央と地方を結ぶ街道も整備され、畿内など4国に7駅が置かれ、交通網が整えられた。
 すでに完成された大宝律令のもとで律令制が施行され、その強大な中央集権体制を象徴する平城宮には、大極殿・朝堂院・内裏が配置され、その周囲には二官八省の官庁が立ち並んだ。そして、「古事記」や「日本書紀」という国史が編纂され、また地方には「風土記」の編集が指示された。
 平城京遷都は、実質上、藤原不比等が仕切ったと考えられる。不比等は、持統天皇から譲位された文武天皇の即位に関わったとされ、娘の宮子を文武天皇に嫁がせた。そして生まれた首皇子(のちの聖武天皇)を天皇にすることを企んだ。さらに首皇子にも、娘 光明子を嫁がせて、外戚となることを目指していた。
 しかし707年に文武は若くして亡くなり、首皇子はまだ幼いため、文武の母元明天皇が即位し、平城京遷都の詔勅を出すことになった。不比等は平城遷都に精力を注ぎ、それが成ったあとも、大宝律令の改定に取り組み、養老律令の編纂に労をさいた。しかし720年、不比等は病をえて死去する。聖武天皇が即位するのは、その4年後となる。
(この時期の出来事)
*708.8.10/ 銅銭「和同開珎」を発行する。
*711.10.23/ 「蓄銭叙位の法」が制定され、私鋳銭を禁止する。
*712.1.28/ 太安万侶が歴史書「古事記」を完成する。
*713.5.2/ 諸国に「風土記」の編纂を命じる。
*719.7.13/ 国司などの行政を監察する「按察吏」をおく。
*720.5.21/ 舎人親王らが「日本書紀」を完成する。

闘いの転機(戦いの前と後)

Flying the Grumman TBF Avenger

2021-03-06
Flying the Grumman TBF "Avenger" (1944)

【歴史写真館#5】戦艦大和の最期から73年 

2021-03-06
フィリピン・レイテ沖海戦で米軍機の攻撃を回避するため左回頭する「大和」。主砲、副砲が鮮明に撮影されている=昭和19年10月25日

帝国陸軍

2021-01-03
日本機の液冷エンジンのかっこよさは異常w 日本陸軍 三式戦 II型 飛燕 涙滴風防型
Facebook森 一理さんの投稿
日本陸軍第244戦隊 戦隊長小林照彦搭乗機(昭和20年1月)飛燕1型丙

日本軍を代表する名機と言えば、隼と零戦ですね。

2021-05-01
零戦21型と隼1型

Facebook竹山 真一さん曰く


日本軍を代表する名機と言えば、隼と零戦ですね。今の国内では圧倒的に零戦の方が有名ですが、戦時中は零戦の名前は秘匿されていて海鷲の名称でしか知られていませんでした。一方、隼は加藤隼戦闘隊が軍歌や映画になり、国民にも広く知られていました。
スペックで零戦21型と隼1型を比較した場合、速度、航続力、攻撃力などの総合力で零戦圧勝で、隼は旋回性能と防御能力でやや上回る程度ですが、隼3型となるとこれまた別物。攻撃力こそイマイチなものの、零戦では太刀打ちできない米軍新鋭機ですら嫌がった相手のようです。
零戦は21型が完成形、進化は最高傑作22型で止まったと言えますが、隼は最後まで進化し続けた、非常に寿命の長い戦闘機だったと言えます。
個人的には零戦21型が全戦闘機の中で一番好きですが、隼もまた何とも言えない魅力のある戦闘機だと思います。
ちなみに小惑星探索機である「はやぶさ」は、隼の生みの親である糸川氏により開発され、その名称を継承しているようです。

Midway

2021-04-03
陣取と戦力
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