本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

受難の日

2022-01-23
八甲田山の日
1902年(明治35年)に冬の八甲田山へ軽装で雪中行軍に出かけた兵士210名が遭難したことによる。本来は冬の重装備が必要だが、指導部の無謀な判断で遭難し199名の命が失われた。 

八甲田山 「気をつけィ! 案内人殿に対し、かしら~右ッ!」 高倉健

弘前歩兵第三十一連隊第一大隊第二中隊を宇樽部から中里まで無事案内してくれた 滝口さわ( 秋吉久美子)に対し感謝の意を表す「隊の敬礼」をするシーンです。 
この映画は新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作とするフィクション映画。
 小説も「八甲田雪中行軍遭難事件」を題材としたフィクションです。
敬礼前の台詞 
徳島大尉「案内人の生家が戸来の鹿田なので、案内をここまでとする。」
 滝口さわ「んだら兵隊さん、みんな元気で。。。」
 徳島大尉「気をつけィ! 案内人殿に対し、かしら~右ッ!」 

【DTM】映画「八甲田山」より メインテーマ | Miroslav Philharmonik 2


八甲田山 「天は・・・天は我々を見放したァァァ」 北大路欣也

真白き富士の嶺の日
1910(明治43)年、神奈川県の逗子開成中学の生徒12人が学校のボートで乗り出し、七里ヶ浜で遭難して全員が死亡しました。 この遭難は社会的事件として新聞で大々的に扱われました。この悲報に接した鎌倉女学校の教諭・三角錫子が「七里ヶ浜の哀歌」を作詞し、この歌は全国で愛唱されました。


2020 01 27 青森県・陸上自衛隊・八甲田で 雪中訓練

二人のエース

2022-01-22
Facebook 森 一理さん曰く さん

自分の地元石川県から輩出された零戦隊の若き指揮官(分隊長)だった大野竹好(たけよし)中尉。
22歳でレンドバン沖で戦死。
ラバウルの魔王こと西澤広義
戦後、太平洋戦争における日米両軍を通じたトップエースの一人として知られ、アメリカ合衆国の国防総省とスミソニアン博物館に杉田庄一と並んで肖像が飾られている。美男子であり身長は180センチ以上あった

いよいよ実戦に臨みます。

2022-01-22
北アフリカで第5軍麾下の第34師団に編入
Facebook 矢ケ崎 浩一  さん曰く 

訓練で優秀な成績を収め、その実力を認められた日系二世兵士たちは、いよいよ実戦に臨みます。
第442連隊戦闘団(日系二世部隊)3回目です。
 北アフリカで第5軍麾下の第34師団に編入された第100大隊は1943年9月22日イタリアの「むこうずね」に当たるサレルノに上陸します。実は第5軍の先鋒が9月9日に同地に上陸している(アヴァランチ作戦)のですが、ドイツ第10軍と空軍の反撃を受け、上陸は果たしたものの1万人以上(約5%)の大損害を被っていました。第34師団はその増援として同地に上陸したのですが、上陸してからの最初の一週間は、内陸に進撃する主力部隊の後をひたすら追う状況であり、接敵はありませんでした。敵の代わりに自国のマスコミが彼らを追いかけ、「ナチと戦うジャップ」として、大々的に米国内で報道しています。
 彼らが最初の実戦の洗礼を受けたのは29日、サレルノから20キロほど北上したモンテッラという村で、ドイツ軍の待ち伏せを受けます。
 突如隠蔽された陣地からの銃砲撃を受けた大隊の面々は初めての銃撃の洗礼の前に混乱し、各中隊長も退避以外の指示が出せず、完全な釘付け状態になってしまいます。
 最初にその混乱を脱し、反撃に動いたのは第二小隊のヤング・キム隊長(中尉)でした。
 余談ですが、日系二世部隊には同じアジア系として中華系アメリカ人や朝鮮系アメリカ人も将校として配属されていましたが、両者とも自らの先祖の地を日本に併合または侵略されているという複雑な事情から隊を離れるものも多く、キム少尉は朝鮮系将校として最後まで隊に残った日系以外のアジア系アメリカ人でした。
 キム中尉の果敢な指揮の元、第二小隊は戦闘正面を支えきりドイツ軍の第一撃を持ちこたえることに成功します。
 この最初の戦闘での犠牲者は2名。最初の戦死者はジョー・タカタ軍曹でした。彼は隠蔽された機銃陣地を探ろうとして先行し、頭部に銃弾(破片の説あり)を受けたのです。また彼はその勇敢な行動から死後、殊勲十字章を受けており、隊では最初の受勲者となりました。
 その後も最前線で何度も戦闘を経験する中で、彼らが元から持っていた強い戦意と、巧みな夜襲を駆使した浸透戦術により、最初はその実力に懐疑的であったライダー師団長の信頼を徐々に勝ち得ることとなりました。
 しかしその信頼は、同時に彼らが常に最前線で戦うことを意味しており、激しい戦闘の連続から、上陸当初1,300名いた大隊戦力は、12月までに800名にまで減少しています。
 大隊の苦闘はまだ続きます。1943年の年末、彼らはナポリ北方でイタリア半島を東西に横断するドイツ軍の防衛ラインである「グスタフ・ライン」の攻略に当たります。ここではドイツ西方軍集団の主力が地形を生かした頑強な抵抗を続けており、特に大隊が受け持つ西側からローマに通じる回廊部分についてはリーリ峡谷やラピド川といった自然の要害が立ちはだかり、そしてその防衛の中心としてそびえたつのは、標高500mの急峻、モンテ・カッシーノでした。
 連合軍側は大隊の所属する第5軍と第8軍に防衛線を攻撃させて陽動とし、別動隊(第6軍団)を戦線後方のアンツィオに強襲上陸させて「グスタフ・ライン」の突破を企図していました。
 第34師団はラピド川の突破とモンテ・カッシーノの攻略を命じられ、大隊の面々もラピド川の渡河点を目指して前進しますが、そこで彼らが目にしたのは、上流のダム破壊により泥の海となった河川敷の一帯でした。そして、渡河点周辺の木々はすべて伐採されて遮蔽物のない平野となっており、渡河点の手前には鉄条網、そして対岸には巧妙に隠蔽された多数の機銃座と迫撃砲、そして戦車が待ち構えていました。
 河川敷の土手には大量の対人地雷も設置されており、大隊は多大な犠牲を出しながら渡河点に迫ります。陣頭指揮を執っていた大隊長(デューイ少佐)までもが命を落とす激戦の中、作戦開始から2日たった1月26日、煙幕に紛れた大隊の一部が渡河点への到達に成功。因みに渡河に使えるのは帆布製の脆弱な渡河艇しかなく、激しい銃砲撃で艇を破壊され、濁流に流される兵も続出しました。
 2月2日に第一陣の渡河に成功したのは、ジミー・タムラ軍曹率いる30名あまりのみ。劣勢の中、軍曹は部下を叱咤し、必死で支援砲撃を要請。激しい砲爆撃がモンテ・カッシーノの斜面に叩き込まれ、その間を縫って後続の大隊の面々が崖を登っていきます。
 崖の上からの激しい銃撃にさらされながら、すでに弾薬も食料もつきかけていた彼らは、戦死した同僚の弾薬を集めて配布し、飲まず食わずの激戦を繰り広げます。大隊以外の友軍はまだ渡河すらできておらず、孤立無援の中、大隊は奮闘を続けますが、死者が急増する状況の中、渡河から10日間の激闘の末、2月12日に撤退を余儀なくされます。
 泥と寒さの中、自分の足で崖を降りられた兵は、大隊全員の1/3に過ぎませんでした。
 撤退はしたものの、この奮闘に米国内における日系二世兵に対する見方は大幅に変わり、当時の外電では「もし、日系人の忠誠と勇気を疑うものがあれば、そんなヤツとは言葉を交わす必要はない。黙ってケツを蹴飛ばしてやろう。」との文章が掲載されるに至りました。
 米国内では、彼らは敗北したとはみなされず、そしてその奮闘により、日系二世兵は泥の河とともに差別と偏見も乗り越えたのです。
 次回に続きます。

昭和25年頃、東京の浅草にあったヤミ市の食べ物屋

2022-01-16
Yasuharu Miyake カラーなので、妙に生々しい。
昭和25年頃、東京の浅草にあったヤミ市の食べ物屋
(進駐軍のアメリカ兵がカラーで撮影)
「肉  十円  栄養満点」?
後方に「ロック」の文字と花月劇場の建物が見えます。

スパイの妻

2022-01-12

監督 黒沢清 × 主演 蒼井優!映画『スパイの妻』予告編

NHK版

1940年、太平洋戦争前夜の神戸。 貿易商・福原優作(高橋一生)は、妻・聡子(蒼井優)を残し満洲に赴く。 優作はそこで偶然目にした非道な行いを世界に知らしめなければならないと心に決め、行動に移そうとする。 夫の意志を知った聡子は彼の身の安全と2人の幸せのため、これを阻もうとするが… 鬼才・黒沢清が8Kで描く、究極のラブ・サスペンス! 
【出演者】 蒼井優、高橋一生、東出昌大、坂東龍汰、玄理、恒松祐里、みのすけ、笹野高史 
【作】 濱口竜介、野原位、黒沢清 【音楽】 長岡亮介 【監督】 黒沢清

闘いの転機(戦いの前と後)

戦時下の国民はなぜ「献納機」に熱狂したか 職場で 募金で 子供の小遣いで…軍用機を献納

2021-11-08
1933年3月10日に代々木練兵場で命名式が行われた「愛国69号」。富国徴兵保険相互会社(現フコク生命)が献納した陸軍の九一式戦闘機(時実雅信所蔵)。(乗りものニュース)
1942年8月26日に東部ニューギニアのブナ基地上空で米戦闘機と交戦し、被弾して着陸後に放置された海軍の報国872号(零戦三二型)。献納者は興亜報国団の常任委員だった方義錫(画像:アメリカ海軍)。

【佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】

2021-10-21
Facebook まつたけ しんやさん曰く
【佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】1968年1月にアメリカ海軍の原子力空母エンタープライズの米軍佐世保基地への入港に対して革新政党・団体・住民を中心とした反対運動、暴動が起こり、エンプラ騒動といわれた。自分は子供だったのでピンとこなかったが、昭和の人々は闘っていたのですね…。

◎「日米修好通商条約」

2021-10-20
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1856-1860年】
【19th Century Chronicle 1856-1860年】-2
◎「日米修好通商条約」
*1856.8.5/ アメリカ駐日総領事「タウンゼント・ハリス」が、下田玉泉寺を仮領事館とし、アメリカ領事館旗を掲げる。
*1857.5.26/ 米国総領事ハリスが幕府と、9ヵ条の日米約定(下田協約)を締結する。
*1857.10.21/ 米総領事ハリスが、将軍家定に謁見し、アメリカ大統領ピアースの親書を提出する。
*1858.3.20/ 老中堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため入洛するも、朝廷に条約の勅許を拒否される。
*1858.6.19/ 幕府が勅許なしに、「日米修好通商条約」および貿易章程に調印する。
*1859.5.28/ 幕府が、神奈川・長崎・箱館の開港と、露・仏・英・蘭・米との自由貿易を許可する。
 日米和親条約により日本初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、安政3(1856)年8月5日、下田に仮領事館を設けアメリカ領事館旗を掲げた。ハリスは翌年の10月に、やっと江戸城に登城がかない、将軍家定に謁見して米大統領ピアースの親書を手渡した。通商条約の締結を指令されて来たハリスは、強硬に自由通商を主張し、幕府内にも止むを得ないという雰囲気が醸成されると、老中首座であった堀田正睦は条約の交渉を開始させた。
 アメリカ側の要望に押しまくられながら、やっと条約の合意が得られるようになると、堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るべく自ら上洛したが、朝廷の公家らの強硬な反対などで勅許を得られないまま江戸にもどる。堀田が上洛中に、南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、以後、井伊が幕府を主導する。
 井伊大老は、勅許を得てからの条約を締結すべきとの考えだったが、交渉担当との指示の行き違いから、直弼の意向に反して勅許を得ないまま条約締結に至ってしまった。そのすぐ後に堀田正睦は罷免され、直接の条約交渉役らも左遷された。しかし勅許無き条約締結は大きな政争を引き起こし、同時期に井伊直弼が慶福に決めた将軍継嗣問題も絡まり、直弼の処置に反対する声が幕府内外に渦巻いた。
 この抗争鎮定のため、井伊は反対派の幕臣や志士・朝廷の公家衆を大量に処罰し「安政の大獄」が始まった。そして、朝廷を利用して幕府の改革をもとめる水戸斉昭など諸侯を謹慎蟄居などで排除した。これらの武断政治は大きな批判を呼び、政局は不穏となった。そして安政7(1860)年3月3日、水戸藩への処置に憤懣をもつ脱藩浪士たちにより、井伊直弼は桜田門外で襲われ暗殺される(桜田門外の変)。
 この同時期、日米修好通商条約批准書の交換のため、正使新見正興を代表とする「万延元年遣米使節」が、ポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛のため、木村喜毅を副使とする「咸臨丸」も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船しており、木村の従者として福澤諭吉も同行渡米している。
 批准された「日米修好通商条約」では、自由貿易・領事裁判権・低い関税率などが取り決められていた。自由貿易の約束に伴い、のちの横浜・神戸など、重要な貿易拠点となる多くの港が開港され、そこに「居留地」が設けられた。そして、後にまで影響を与える不平等条項とされる「領事裁判権(治外法権)」や「低関税率(関税自主権という概念が日本側になかったため、低い関税率だけが決められた)」などが約定された。
 なかでも、深刻な影響を呼び起こしたものに「金銀等価交換」があった。もともと貿易商であったハリスは、領事就任当初から、銀貨基準の等価交換を主張して押し通した(下田協約)。当時の金と銀の交換比率は、世界的には1:15だったが、日本では1:5であったため、銀を持ち込み金と交換することで大きな利益が得られた。その結果として、急激な金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。
 さらに、不平等条約に必ず盛り込まれるのが「片務的最恵国待遇」であった。これはすでに日米和親条約に盛り込まれていたが、事後に他国がより有利な条約等を結んだ時には、それと同等の条件を提供することを義務付けたもので、為替変動や関税率など変動要因の大きい経済分野では重要な条項となる。外交に不慣れな当時の幕府には、はたしてそこまでの認識があったかどうかあやしい。
(この時期の出来事)
*1856.9.-/ 長州藩は、蟄居中の吉田松陰に、萩の松下村塾の主宰することを許可する。
*1857.10.16/ 福井藩主松平慶永(春嶽)らが、一橋慶喜を次期将軍に推奨し(一橋派)、紀州藩主徳川慶福を押す井伊直弼ら(南紀派)との対立構図が明かとなる。
*1858.10.26/ 徳川家茂(慶福)が征夷大将軍となり、第14代徳川将軍に就任する。
*1858.11.16/ 西郷隆盛と僧月照が入水、西郷は救助され、のち奄美大島に潜伏させられる。
*1858.12.5/ 長州藩は、藩老中襲撃を企てたとして、吉田松陰を投獄する。
*1860.1.19/ 幕府軍艦奉行木村喜毀・軍艦操練所頭取勝海舟ら90余名が、咸臨丸でアメリカに向けて浦賀を出帆する。
*1860.8.18/ 孝明天皇が、皇女和宮の降嫁勅許を幕府に内達する。
*1860.12.5/ アメリカ通弁官ヒュ−スケンが、薩摩藩士に惨殺される。

◎黒船来航と開国

2021-10-18
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1851-1855年】-2
◎黒船来航と開国
*1853.6.3/ 米艦隊司令官ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航する。
*1853.6.9/ 浦賀奉行が久里浜でペリーと会見、アメリカの国書を受け取る。
*1854.1.16/ ペリーが軍艦7隻を率いて浦賀に再来、さらに江戸湾内に停泊する。
*1854.3.3/ 幕府が、日米和親条約(神奈川条約)に調印する。
 嘉永6(1853)年6月、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが率いる艦船4隻が、江戸湾浦賀に接岸した。ペリーは浦賀奉行に、開国を促す米大統領フィルモアの親書を手渡した。幕府側は、将軍が病気であることを理由に、返答に1年の猶予を要求し、ペリーは、1年後に返事を聞くために再来航するとした。
 米国はこの7年前の1846年にも、ビッドルが浦賀に来航して通商を求めた。この時に穏便な交渉方針で臨んで拒否された経験から、ペリーの艦隊は武力で威圧する方針を定めてやって来た。それまでの帆船とは異なり、もうと煙を上げて進む外輪蒸気船の「黒船」は、それだけで威嚇効果は十分だった。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲と称して、江戸湾内で数十発の空砲を発射すると、江戸庶民は腰を抜かした。
 ペリーはその後も数日間、威嚇するように江戸湾に入り込んだうえで、退去した。そのわずか10日後に将軍家慶が死去、第13代将軍家定が就任するも、虚弱ゆえに国政を担える状況ではなく、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。この前年、オランダ商館長から、アメリカが日本の開国を求めて艦隊を派遣するという予告を受けていたが、幕府は黙殺していた。
 ペリーが1年後に再来するとなってから、幕府は大慌てで対策にのり出した。江戸湾警備の増強として、品川沖に11箇所の砲撃用の台場造営を命じた。また、大船建造の禁も解除し、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を浦賀造船所で起工した。さらに、オランダへの艦船発注を発注し、アメリカから帰国した漂流民ジョン万次郎を登用し、アメリカの事情等を説明させた。
 いかにも泥縄式の対策を講じている幕府をあざ笑うかのように、1年の猶予だったはずが、わずか半年後の嘉永7(1854)年1月に、ペリーは6隻の艦船を率いて再来した。続いて3艦も到着、江戸湾に計9隻の艦隊が集結し、江戸は大きく動揺した。虚を突かれた幕府は、このさい開国も止む無しと考え、全12ヵ条に及ぶ「日米和親条約」(神奈川条約)を締結する。ここに200年に及ぶ鎖国は解かれた。
 ひき続き、英・露・蘭とも和親条約を結ぶことになる。オランダとは長い付き合いにも関わらず、紳士的な話し合いで対応したため、武力に訴えてきた米英などより最後にまわされてしまい、強く出る者だけに腰砕けになる幕府の弱腰が明かになると、幕府の権威は地に落ちた。これ以降、「幕末」の風が吹き荒れることになる。
 安政5(1858)年6月には、日米和親条約に基づいて赴任したタウンゼント・ハリス総領事により、「日米修好通商条約」が締結される。この不平等条約は、以後の他の列強との条約の基本となり、日本政府は明治期の終わりまで対応に腐心することになる。ただしアメリカでは、1861年からの南北戦争で内乱状態となり、以降の日本への影響力を失い、主として英仏が幕末の日本の動向に介在することになる。

中国、有人宇宙船を発射 独自ステーション連結

2021-10-16
© KYODONEWS 有人宇宙船「神舟13号」を搭載し、打ち上げられる「長征2号F遥13」=16日未明、中国・酒泉衛星発射センター(共同)
共同通信社 2021/10/16 09:24

【酒泉共同】中国は16日午前0時23分(日本時間同午前1時23分)、有人宇宙船「神舟13号」を打ち上げ、約6時間半後に中国が独自に建設中の宇宙ステーションにドッキングした。
宇宙飛行士3人が中核部分の「天和」に乗り移って半年間滞在し、来年の完成に向け作業する。
習近平指導部が目指す「宇宙強国」の実現に向け、着実な前進となった。

 中国北西部の酒泉衛星発射センターから、ロケット「長征2号F遥13」に載せて発射。
赤い炎を噴き、ごう音とともに夜空に向かって上昇した。
新華社電によると、16日午前6時56分にドッキングに成功した。

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

映像の世紀(6)「独立の旗の下に アジアは苦難の道を歩んだ」

2021-08-06

第2次世界大戦で日本が敗北すると、アジアの人々は悲願だった祖国独立に立ち上がった。インドのガンジー、中国の毛沢東、ベトナムのホー・チ・ミン。しかし、彼らの前に大きな壁が立ちはだかる。権力闘争、内戦、宗教対立、旧宗主国との戦争。アジアの指導者たちの苦悩と闘争の歴史を発掘映像でつづる。アジアは、屈辱の時代をどう生き抜き、戦後独立を果たすことができたのか、幾度も挫折を繰り返した壮絶なアジア映像史である。

Facebook 日本国自衛隊

2021-07-07
日米安全保障条約調印
岸信介i日本国首相とアイゼンハワー米国大統領

①田中角栄総理(昭和49年 朝霞市) ❷三木武夫総理(昭和50年 朝霞市) 陸自駐屯地を訪れた2人の総理。

2021-07-09
Facebook Chikafumi Etouさん曰く、①田中角栄総理(昭和49年 朝霞市) ❷三木武夫総理(昭和50年 朝霞市)
◾️クジラクラウンと総理大臣 乗っているのは4代目クラウン。 歴代クラウンの中でも超個性的なデザインでした。

第3代将軍徳川家光

2021-08-18
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【17th Century Chronicle 1621-1625年】
◎第3代将軍徳川家光
*1623.7.27/ 徳川家光が京都で、朝廷より征夷大将軍を宣下される。
 徳川家光は、2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で正室のお江(江与)で、長男は夭折しており、祖父家康と同じ竹千代の幼名を与えられ、早くから世子として育てられた。しかし、父 秀忠やお江が弟の国松(徳川忠長)を溺愛したため、家光廃嫡を危惧した乳母のお福(春日局)が家康に懇願し、隠居の家康が長子相続の裁定をして家光が世継ぎと定められた。
 元和9(1623)年7月27日、秀忠とともに上洛した家光は、参内して将軍宣下を受け、第3代征夷大将軍となる。秀忠は隠居して江戸城西の丸に移るが、家康にならって、大御所として引き続き実権を握った。寛永9(1632)年1月に秀忠が死去すると、二元政治は解消され、将軍から「公方」として親政を始める。
 まずは、徳川直臣である旗本を中心に直轄軍を再編し、幕府中枢には大老・老中・若年寄・奉行・大目付と言う役職を定め、将軍をその最高権力者「公方」と位置づけたヒエラルヒーを確立した。そしてそれらの役職には親近な重臣を起用して、大老の井伊直孝・土井利勝・酒井忠勝、老中としては松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛、大目付として中根正盛などを配置した。
 また、熊本藩主加藤忠広を改易するなど、譜代や外様を問わず、有力大名の「改易と転封」を行い、重要な拠点には親藩・譜代大名を配置し、徳川家の支配を強化した幕藩体制を整えた。寛永12(1635)年の武家諸法度の改訂で、大名に「参勤交代」を義務づけ、さらには大名の妻子の江戸住みを定めるなど、大名統制を徹底した。
 海外相手には、幕府による利益独占とキリシタン排除の目的で、長崎での貿易に限定して、取引相手もオランダ人と中国人に限定していく。寛永10(1633)年から寛永18(1641)年にかけて、順次統制を強めてゆき、日本人の東南アジア方面への往来を禁止し、朱印船貿易を終焉させると、寛永14(1637)年の島原の乱の後にはポルトガルとも断交、寛永18(1641)年にオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた。
 これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。家光の代で、徳川政権の基本体制がほぼ出来上がると、つづく家綱・綱吉の治世以降、徐々に文治政治への道が開けた。
 家光は1623年から1651年にかけて30年近く将軍職に在任したが、その間には様々な問題も起こった。なかでも最も大きな事件は、寛永14(1637)年10月に勃発した「島原の乱」であった。これは苛酷な年貢による農民一揆と、厳しいキリシタン弾圧に対する宗教戦争と、二つが重なり合った大乱であり、幕府はその鎮圧に半年近くかかった。これに懲りた幕府は、鎖国を徹底することになる。
 さらに、寛永19(1642)年からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。農民統制の必要を迫られた家光は、「田畑永代売買禁止令」を発布して農民の浮浪民化を防止するとともに、「慶安の御触書」と後年俗称される農民統制のための諸令を発して、農村の安定を図った。
 家光には、正室鷹司孝子との間に子がいなかった。若いころの家光は男色を好み、女性に興を示さなかったので、乳母のお福(春日局)は世継ぎを心配し、家光の側室探しに尽力した。やがて、お福は「将軍様御局」として大奥の公務を取り仕切るようになり、老中をも上回る実質的な権力を握るようになった。
 大奥は春日局によって組織的な整備がなされるとともに、春日局が奥入りさせた側室、お万・お楽・お夏・お玉などを家光が寵愛するようになり、のちの4代将軍家綱、5代将軍綱吉が生まれた。以後、大奥は将軍の世継ぎをもうけるための重要な機能を果すようになる。ちなみに、将軍の正妻の子として生まれて、そのまま将軍に就任したのは、徳川15代の中で家光だけであった。
 第3代将軍徳川家光は、祖父家康を深く敬い、日光東照宮を大規模改修させるなどした。優れた政治手腕を発揮し、幕府権力を基礎固めした上に、諸大名に対する幕府の統制を確立させた家光は、慶安4(1651)年4月、江戸城内で死去する。享年48。
(この時期の出来事)
*1621.9.1/ シャム(タイ)国使が将軍秀忠に謁見、通商を許可される。
*1621.-.-/ 関東郡代伊奈忠治が、利根川の流路を渡良瀬川と結ぶ大改修工事を始め、利根川を東流させる。
*1621.-.-/ マニラ郊外ディラオに、3000人の日本人町が復興される。
*1622.8.5/ 幕府は長崎で、キリシタンを大量に虐殺処刑する。(元和大殉教)
*1622.10.1/ 幕府は、父正信以来の重臣で宇都宮藩主の本多正純が、突然改易される。将軍秀忠暗殺の嫌疑を掛けられたためという。
*1623.11.13/ イギリスが平戸の商館を閉鎖し、対日貿易から撤退する。
*1624.3.24/ 幕府がスペインの貿易要請を拒否、以後日本・スペイン領ルソン間の国交が断絶する。
*1624.11.13/ 薩摩藩主島津家久が率先し、諸大名の妻子を江戸住いにすることが始まる。
*1625.11.-/ 幕府の政務に携わる天台宗の僧南光坊天海が、忍ケ丘に東叡山寛永寺を建立し、徳川家の廟所とする。

◎キリスト教と鎖国政策

2021-08-19
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【17th Century Chronicle 1631-1635年】
◎キリスト教と鎖国政策
*1631.6.20/ 幕府は海外渡航の貿易船に朱印状のほか、老中による奉書の公布が必要であると定める。(奉書船貿易)
*1631.閏10.20/ 京都所司代板倉重宗が、キリシタン・浪人の隠匿、新寺建立を禁止する。
*1633.2.28/ 奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止。(第1次鎖国令)
*1634.5.11/ 幕府はイエズス会宣教師セバスチャン・ビエラらを処刑する。
*1634.5.28/ 幕府は長崎に、外国船の来航・奉書船以外の渡航を禁止する高札を立てる。(第2次鎖国令)
*1634.-.-/ 各地で踏絵がさかんに行われる。
*1635.5.20/ 外国船の入港・貿易を長崎一港に限定し、日本人の海外渡航・帰国を全面禁止する。(第3次鎖国令)
*1635.-.-/ 全国で、キリシタンでないことを証明する「寺請制度」が広がる。
 キリスト教禁教と鎖国政策は、切り離しては語れない。織田信長は京都などの仏教勢力に対抗するため、積極的にキリスト教を取り込んだ。信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、当初は信長同様にキリスト教容認の立場を取っていた。しかし、長崎がキリシタン大名大村純忠からイエズス会に寄進され、長崎がキリスト教布教の拠点となるなどして、西国のキリシタン大名が貿易の利益を独占するのを危惧した秀吉は、天正15(1587)年、長崎を直轄領にするとともに「バテレン追放令」を出して宣教師を国外追放とした。
 秀吉は貿易を独占するため朱印船貿易を始めたが、宗教統制と経済とを分離する政策を採ったため、キリシタン取り締まりは、それほど厳しくなかった。ところが慶長元(1596)年、京都のフランシスコ会の教徒たちを捕らえて長崎で処刑するという「二十六聖人殉教事件」が起こる(1596年の禁教令)。これは、同年にスペイン船が土佐に漂着し、その乗組員がスペイン王国の征服意図を誇大に吹聴した「サン・フェリペ号事件」が原因といわれるが、ポルトガルのイエズス会と、後発のスペインのフランシスコ会の布教競争も背景にあったとされる。
 関ヶ原で勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、朱印船貿易を活発に行い、貿易の利益を得ようとした。旧教国ポルトガル・スペインとの南蛮貿易を盛んに行い、カトリック宣教師によるキリスト教布教についても黙認した。しかし後発の新教国であったオランダやイギリスが平戸に商館を開くと、先行したポルトガル・スペインと抗争し、これらカトリック国が布教を通じて日本征服を企んでいると、幕府に吹き込んだ。
 大坂の陣を控えていた家康は、キリスト教勢力が豊臣方に付くことを恐れたこともあって、キリスト教禁教に傾いた。やがて肥前のキリシタン大名有馬晴信とポルトガル・スペイン船の抗争で、マードレ・デ・デウス号爆沈事件が起こされ、その事後処理で仲介役のキリシタン岡本大八の収賄事件が発覚した。
 キリスト教布教とは直接関係ない事件だったが、これをきっかけに慶長17(1612)年、家康は「慶長の禁教令」を発布する。この禁教令では、京都や長崎など全国の教会を破壊するとともに、高山右近や内藤如安など有力なキリシタン武将をマニラなど国外に追放した。その背景には、中国産の上質生糸(白糸)を輸入する際に、それに関わるポルトガル・スペイン船やキリシタン大名有馬晴信らの勢力を排除し、幕府が直接に貿易を統制するという狙いがあった。
 当時の重要な輸入品である白糸(中国産の生糸)は、ポルトガル商人により独占的価格で持ち込まれており、幕府は、京都・堺・長崎の有力商人に糸割符仲間を作らせて価格統制をする「糸割符制度」を導入して対抗していた。このような幕府の貿易統制策は禁教と結びついて進められ、宣教師を先兵に進出する旧教国ポルトガル・スペインの「南蛮人」に対して、キリスト教布教にこだわらない新教国オランダ・イギリスの「紅毛人」にシフトしていく流れができてきたのである。
 元和2(1616)年に家康が死去すると、徳川秀忠は、キリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国政策を急速に進めてゆく。同年に貿易港を平戸と長崎に限定し(二港制限令)、元和6(1620)年には「平山常陳事件」が起こり、英蘭がポルトガルの交易を妨害し「元和の大殉教」に繋がる。
 元和6(1620)年、平山常陳が船長をつとめる朱印船が、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された。この朱印船には、スペイン人宣教師2名が商人として乗船していたことが発覚し、この年7月、長崎で平山常陳および2名の宣教師が火あぶり、船員12名が斬首とされた。
 これが江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、翌月には長崎で、それまでに逮捕されていた宣教師や信徒など教会関係者55名が一斉に処刑された。これが「元和の大殉教」と呼ばれ、以後、諸大名もこれにならって、各地でキリシタンに対する迫害を強化徹底した。
 翌 元和9(1623)年、幕府はポルトガル人の日本在住禁止、朱印船のマニラ渡航の禁止などを次々に公布し、江戸幕府の対外政策の方向性を決定付けていくことになる。同年、イギリスがオランダとの競争に敗れて平戸商館を閉鎖、さらに1624(元和10)年にはスペイン船の来航を禁止、寛永8(1631)年には、朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要とする「奉書船制度」を開始した。
 寛永9(1632)年、大御所徳川秀忠の没後も、引き継いだ3代将軍家光は、さらに鎖国政策を徹底していく。寛永10(1633)年、奉書船以外の渡航を禁じ、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた(第1次鎖国令)。寛永11(1634)年、第1次鎖国令の再通達と長崎に出島の建設を開始(第2次鎖国令)。寛永12(1635)年、中国・オランダなど外国船の入港を長崎一港に限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた(第3次鎖国令)。寛永13(1636)年、貿易に関係のないポルトガル人とその妻子をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す(第4次鎖国令)。
 そして寛永14(1637)年から寛永15(1638)年にかけて、「島原の乱」が勃発する。この乱の鎮圧に幕府は半年を費やし、オランダから武器弾薬の援助を受けるなどして、やっと幕府開闢以来の叛乱を収めた。キリシタンにすっかり懲りた幕府は、寛永16(1639)年、ポルトガル船の入港を禁止(第5次鎖国令)し、新教国オランダのみが西洋の交易国となる。これをもって「鎖国の完成」とされるが、さらに2年後の1641(寛永18)年、平戸からオランダ商館が移設され、オランダ人も出島に隔離された。
(この時期の出来事)
*1631.5.-/ 将軍家光の弟徳川忠長(国松)が甲斐に幽閉される。
*1631.9.21/ 関所の通過規制を強化し、通行手形のない不審者・女性は厳重に差し止められた。
*1632.1.24/ 大御所徳川秀忠(54)没。
*1632.12.17/ 水野守信・柳生宗矩ら4名が「総目付」に任命され、幕政に関わる大名や諸役人の不正を監視する。(「大目付」の初め)
*1633.3.15/ 幕府が筑前黒田藩の騒動を裁断し、家老栗山大膳を南部藩預けとする。
*1633.3.23/ 将軍家光が松平信綱など「六人衆」を起用し、幕政の刷新・若返りを断行する。(「若年寄」の初め)
*1633.12.6/ 乱行により、高崎に幽閉されていた徳川忠長(28)が自刃する。
*1634.7.1/ 将軍家光が上洛し、朝廷との関係修復をはかる。
*1634.8.4/ 譜代大名妻子の江戸居住を命じる。
*1634.11.7/ 荒木又右衛門の助太刀で、伊賀越えの仇討が成就される。
*1635.3.11/ 係争中の対馬藩国書偽造事件(柳川一件)に、将軍家光が処断を下す。
*1635.6.21/ 武家諸法度の改正により、諸大名に「参勤交代」が義務付けられる。
*1635.11.9/ 寺社と遠国の訴訟を管轄する「寺社奉行」が設置される。
*1635.11.10/ 幕府は、老中・若年寄・寺社奉行・町奉行・勘定頭などの職務権限を定める。

闘いすんで 陽が暮れて・・・

2022-01-24
YS―11の鬼太郎スペシャル
C―1の鬼太郎スペシャル
T―400の鬼太郎スペシャル

『沢村 忠』

2022-01-07
Facebook 高村雪子・Syoko さん曰く

月曜日 やっつけたわね

2021-12-10
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
朝鮮戦線を慰問、日本での新婚旅行を中座して・・・。

マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程 

 

1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着 

夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の

フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。

              

2月2日 記者会見

   ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン

へのものだった。

 

2月8日 午後7時30分 板付着 

那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ

                     ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。

マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを

ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。

滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、

ドライブなどを楽しむ。

ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の

技術指導を行う。

夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン

ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。

            

2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ

                    ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、

ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。

            

2月14日 岩国から大阪へ

            

2月16日から19日まで

     マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く

     ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。

            

2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国

ロイヤルのこの器は、今(2021年)でも、この形で、テーブルにサービスされています。

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
全戦没者追弔法会   表 白
全戦没者追弔法会  

表  白 
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに 三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じ ます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

2021年全戦没者追弔法会記念講演をご視聴いただけます


2021年4月2日に勤まりました「全戦没者追弔法会」の記念講演を公開しています。

解放運動推進本部ホームページ内の「学ぶ(動画)」からご視聴いただけます。

 

●2021年全戦没者追弔法会 記念講演

●講題 「日常に潜む戦争」

●講師 真城 義麿氏(四国教区東予組善照寺住職)



【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

政局について

<独自>決選投票での共闘 岸田、高市両陣営が正式合意

2021-09-29
© 産経新聞 (左から)岸田文雄前政調会長、高市早苗前総務相(宮崎瑞穂撮影)
2021/09/29 05:00

自民党総裁選に立候補している岸田文雄前政調会長と高市早苗前総務相の両陣営幹部が28日夜、東京都内で会談し、決選投票で岸田氏と高市氏のどちらかが河野太郎ワクチン担当相と対峙(たいじ)することになった場合、両陣営が協力することで正式に合意した。両陣営の関係者が明らかにした。

「政治のプロ」に聞く新政権人事予想!

2021-09-29
2021/09/28 17:12
 高市新総裁で「岸田幹事長」、岸田総裁なら「高市官房長官」、河野新総裁なら「石破幹事長、小泉官房長官」か 自民党総裁選あす投開票


 自民党総裁選はあす29日、投開票が行われる。河野太郎行革担当相と、岸田文雄前政調会長、高市早苗前総務相が激しく競り合い、野田聖子幹事長代行が追いかけている。

事実上、上位3人の三つどもえだが、新総裁・新首相次第で、政権中枢の布陣は大きく変わりそうだ。

中でも、党の「人事とカネ」を握る幹事長と、政権のスポークスマンである官房長官の人事は注目される。

果たして、自民党は一致結束して衆院選に突入できるのか。

永田町をウオッチする「政治のプロ」に聞いた。



© 産経新聞社 「政治のプロ」に聞く新政権人事予想! 

10代が選ぶ次期総裁はだれか?【自民党総裁選】

2021-09-28
(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

9月29日に投開票が行われる自民党総裁選。


各種世論調査で、自民党の党員・党友、一般有権者の人気動向が明らかになっているが、対象者は有権者資格を持つ18歳以上となっている。


自民党総裁選情勢調査“決選投票”ほぼ確実

https://www.news24.jp/articles/2021/09/26/04945633.html


そこで、筆者が代表理事を務める日本若者協議会では、若い世代の意見を可視化するために、自民党党員・党友資格、総裁選選挙人資格のない、20歳未満を対象に模擬投票を行なった。


その回答結果を紹介したい。

日米豪印首脳会合、訪米の様子を動画にまとめました。

2021-09-27
Facebook 首相官邸さん曰く、ご覧ください。
菅政権1年間の軌跡 令和2年9月16日~

菅政権1年間の軌跡をまとめました。
最後の一日まで国民のために働く内閣として全力を尽くします。

老兵の願い・・・。

2021-09-27
読売新聞(2021.09.27)朝刊さん曰く
TOPへ戻る