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闘いの歴史

闘いの記録

静まる成人式~杉並区長時代の山田宏の『英霊の遺書』講演 https://youtu.be/XxNvKkN4644

2021-01-16
11年間の杉並区長としての成人式で、毎年山田宏区長(当時)は、親への感謝、そして多くの先人達への感謝から成人が始まると、『英霊の遺書』を紹介。

ニイタカヤマノボレは、こちらから・・・

2021-01-15
佐世保の通称、大塔、針尾送信所アンテラ群
白文字は、内容とは無関係です。

ミッドウェイ (USS Midway, CVB/CVA/CV-41) は、アメリカ海軍の航空母艦。

2021-01-14
2015年現在同艦はカリフォルニア州サンディエゴで博物館として公開されている。
ミッドウェイ級航空母艦のネームシップ。第二次世界大戦後に就役し、ベトナム戦争や湾岸戦争に参加した。

ここから始まりました。

2021-01-13
Facebook秋元良文さんより

 


「世界初の実用ヘリコプター」
Fw61。
初飛行1936年、6月26日ベルリンにある運動競技場の屋内で展示飛行を行う。
生産数2機。
Fa223。
初飛行1940年8月3日、生産数11機、終戦後2機が米軍に接収される。
FⅠ282。
初飛行1941年運用開始42年、生産数23機以上。
1,000機生産されることになっていたが工場が爆撃を受けて量産は実行されず。
地中海、エーゲ海で試験的に船団護衛任務に運用、米軍にも接収される。

落下傘といえば、パレンバンですが・・・。

2021-01-12
昭和17年1月11日に、その作戦は決行されました。

昭和17年1月11日の本日、海軍落下傘部隊がセレベス島メナドに奇襲降下しました。

落下傘部隊の奇襲作戰は、セレベス島の北部ミナハサ州攻略に際して初めて敢行しました。
帝國海軍特別陸戰隊が、メナドおよびケマに敵前上陸したのに呼応して、敵手中のカカス飛行場目指しで敢行し、敵基地を一挙にわが手に収め、しかる後、海空よりの両部隊の聯絡を完成して、14日までにミハナサ州一帯の敵要地を攻略しました。
横一特がセレベス島北端のメナド(マナド)攻略作戰において落下傘降下を実施し、ランゴアン飛行場占領に成功した。
ついでティモール(チモール)島攻略作戰において、横三特がクーパン飛行場を狙った降下作戰を実行したが、地上戰斗に手間取り大きな成果を得ることはできなかった。
メナド降下作戰は陸軍に先駆けた日本最初の空挺作戰であったが、陸軍空挺部隊が予定するパレンバン空挺作戰の企図秘匿のため、その戰果はすぐには公表されず、1ヶ月以上後の大本營發表でパレンバン空挺作戰の成功とほぼ同時の發表となった。
なお、飛行場のみならず、東亜細亜屈指の産油量を誇る油田地帯・製油所という、南方作戰における日本軍の最重要戰略目標を僅かな損害で攻略した陸軍空挺部隊(第一挺進團)の功は海軍の功よりはるかに大きく、目立つ結果となり、陸軍への對抗意識が根強い海軍関係者の一部では不満が生じた。
また、日本軍落下傘部隊を謳った軍歌として大ヒットした『空の神兵』は、後に陸軍空挺部隊を描いた同名の映画『空の神兵』の主題歌になり、後述の通り陸軍空挺部隊は大戰後期にも数度の空挺作戰を行っているため、知名度や戰功の点からみて海軍空挺部隊の働きは陸軍空挺部隊より劣るものとなってしまった。
もっとも、海軍空挺部隊についても報道員が撮影した降下映像をもとにした短編ニュース映画や、大戰末期になるものアニメ映画『桃太郎 海の神兵』が公開されたこともあり、國民にある程度は存在を知られることになる。
(ウィキペディア参照。)
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闘いの転機

牟田口廉也

2020-09-18
日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。
自分のせいではなく、部下の無能さのせい
牟田口廉也は、終戦直前に予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に内地で敗戦を迎えた。A級戦犯に指名されるも不起訴になり、別の下級シンガポール軍事法廷に送致されて有罪とされるも、2年で釈放されている。戦後しばらくは公の場に顔を出さず反省の意を示していたが、ほとぼりが冷めると、戦時中と同様に「自分のせいではなく、部下の無能さのせい」と自説を繰り返したという。
 結果的に負け戦の将だったため、敵兵や現地住民を殺したり残虐行為をはたらく機会が少なかったのが幸いし、敵国やGHQの手で戦犯として問われた罪は軽かった。しかしながら、下級参謀だった辻正信などと同様、多数の日本人兵士を死地に追いやった罪は、ついに日本国民自身の手で問われることはなかった。
【牟田口司令官の作戦指導の実像】
牟田口司令官が考案した補給不足打開作戦は、牛・山羊などの「駄牛中隊」を編成し、必要に応じてそれを食料に転用する「ジンギスカン作戦」というものであったが、牛や山羊は急流渡河時に多くが流され、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な山地で、兵士の口に入る前にほとんどが失われた。そして人力で運ぶしかなくなった重砲・重火器は、行く手の険しい地形に阻まれるなど、前線で敵軍と向かい合う前に、ほとんどの戦闘力を消耗している始末だった。

廣島大本営

2020-09-15
Facebook英霊の本日の出来事9l
 
明治27年9月15日の本日、廣島に大本營を設置致しました。
明治27年に勃發した日清戰爭の戰爭指揮のために廣島縣廣島市の廣島城(現中区基町)内に設置された、大日本帝國軍の最高統帥機關である大本營である。
「概要」
大本營は明治26年5月19日に勅令第52號戰時大本營條例によって法制化された制度であり、日清戰爭において初めて設置された。
このときの大本營は明治27年6月5日に、東京の参謀本部内に設置され、同年8月1日に皇居内に移った。
その後、當時東京を起点とする鐵道網の西端であったこと(廣島駅)、また大型船が運用出来る港(宇品港(現・廣島港))が有ったことで、前線に向かう兵站基地となった廣島市に移ることとなった。
明治27年9月13日に大本營が宮中からこの地に移転し、2日後の9月15日には戰爭指揮のために明治天皇が移った。
このため、行宮の役割も果たした。
明治天皇は日清講和條約(下関條約)調印後の明治28年5月30日までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸した。
大本營はその後も臺灣の統治機構整備など戰後処理のために廣島に留まり、明治29年4月1日に大本營解散の詔勅によって解散した。
この時期、明治27年10月に招集された第7回帝國議會は廣島の廣島臨時仮議事堂で開會された(議事堂は西練兵場内に建設された)。
國の立法・行政・軍事の最高機關が一時的とはいえ廣島市に集積したことで、廣島市は臨時の首都の機能を担った。
これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例である。
「略歴」
1894年(明治27年) 8月1日 - 宣戰布告
9月8日 - 明治天皇は参謀総長有栖川宮熾仁親王の奉請を受け、廣島に大本營進駐を發令。
9月13日 - 明治天皇皇居を出門し名古屋宿泊、翌日神戸宿泊。
9月15日 - 明治天皇廣島大本營入り。
9月22日 - 帝國議會開催詔書公布。
10月2日 - 明治天皇宇品港出發、呉港(呉鎮守府)行幸、同日大本營へ。
10月5日 – 廣島市および安芸郡宇品を臨戰地と定め戒厳令宣告。
10月18日 - 第7回帝國議會開會、4日間會期。
11月17日 - 嘉仁皇太子親王(後の大正天皇)廣島行啓。同月15日東京を出發しこの日に到着、大本營や第5師團、呉鎮守府などを行啓し、同月25日還啓。
12月9日 - 臨時内閣出張所を大手町三好旅館に開設。
1895年(明治28年) 1月2日 - 参謀総長有栖川宮熾仁親王は病氣静養のため舞子別邸へ向かう。
1月15日 - 有栖川宮熾仁親王薨去。
2月1日 - 加古町廣島縣廰舎にて清との第一次講和會議。
清側の委任状不備のため翌日交渉拒絶。
3月19日 - 昭憲皇太后廣島行啓。同月17日皇居を出門しこの日に到着、皇太后御座所に入る。
4月17日 - 下関條約締結。
4月21日 - 明治天皇詔書公布、日清戰爭終結。
4月26日 - 昭憲皇太后廣島出發。
4月27日 - 大本營を京都に移す。明治天皇廣島出發。
1896年(明治29年) 4月1日 - 大本營解散。
1926年(大正15年) - 國の史跡(舊史跡)指定。
1928年(昭和3年) - 一般開放。
1945年(昭和20年) - 廣島市への原子爆弾投下により壊滅。
「大本營」
元々この地には本丸御殿があったが火災により全焼、明治10年跡地に廣島鎮臺司令部として建設されたものである。
1888年(明治21年)第5師團發足以降はその司令部として使われていた。
そして、大本營として用いられた。
洋風建築の木造2階建て、廣島城本丸におかれた。
1階に大臣室や侍従職室、2階に御座所・御召替所・侍従長室・軍議室などがあり、御座所は執務室と寝室を兼ね、近くに剣璽が置かれた。
明治天皇はほぼここに留まって深夜まで政務を行い、質素な生活をしていたと伝えられている。
この戰爭中に見せた「精力的な活動」「質素な生活」つまり「聖徳」は明治後期における天皇神格化の中で重要なイメージ戰略として用いられており、例えば當時普通の古びた備品を使う様は戰前の教科書に描かれている。
後に明治天皇は當時のことを詠んでいる。
「たむろして よなよな見てし 廣島の 月はその夜に かはらざるらむ」
明治29年大本營解散後は第5師團管理の下「大本營址」は文化財として保護され、史蹟名勝天然紀念物保存法施行により「史蹟明治二十七八年戰役廣島大本營」として大正15年に國の史跡(旧史跡)に指定された。
昭和3年から廣島城天守の一般開放が始まり、あわせて名所として公開された。
昭和20年)8月6日、廣島市への原子爆弾投下により建物は全て崩壊した(爆心地から約900メートル)。
現在では、建物の基礎および礎石と、一部文字が消された碑石が残っているのみとなっている。
「昭憲皇太后御座所」
廣島城天守から真南、大本營から西南西方向に位置した。
元々は第5師團監査部の建物で、大本營設置後はその事務所として使われていた。
當初は明治28年3月13日昭憲皇太后廣島行啓で進められていたが都合により延期、同年3月19日皇后行啓した際に御座所として用いられた。
この地で皇后も精力的に慰問を行っていたことが伝えられる。
これも現在は基礎石のみが残る。
桜の池
本丸内にあり大本營から東南東方向に位置する。
明治31年廣島軍用水道布設の際に造られた池で、牛田水源地(現牛田浄水場)から神田橋水道橋を通って京橋川を渡り城内へ上水道が引き込まれた時に一緒に整備された。
大正14年に「桜の池」と命名。
現在はコンクリートで覆われた形状は残っているが、水は入れられていない。
大本營跡の南側は元々は前庭にあたり、車周りの植え込みの一つだったクロガネモチは被爆にも耐えた被爆樹木として現在も生息している。
當時御座所にあった金屏風は大本營解散後もそのまま置かれていた。
戰中に青崎國民學校(現廣島市立青崎小學校)に疎開させていたため被爆による消失から免れ、現在は廣島縣立文書館が所蔵している
従者は市中心部の旅館に宿泊している。
最も多いのが大本營に近い大手町。
これは帝國議會開催中の議員も同様で、市内のみならず周辺町村、現在の廣島市域全域で宿泊した。
彼ら宿泊所を提供した市民は後に、天覧の栄誉を受けている。
嘉仁皇太子親王行啓の際には憲兵本部が宿泊所にあてられた。
(ウィキペディア参照。)

大将の自刃

2020-09-13
大正元年9月13日、乃木は明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった。
當時警視廰警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺體の状況などについて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している。
1.乃木は、大正元年9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に當てて、氣道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。

東京ローズ

2020-09-07
○4.1 日本放送協会が、米軍兵士向けに「ゼロ・アワー」の放送を開始する。女性ディスクジョッキーが人気を集め「東京ローズ」と呼ばれる。
 太平洋戦争中、日本放送協会は「ラジオ・トウキョウ放送」として、連合国軍向けプロパガンダ放送を行っていた。当初「日の丸アワー」として、連合国軍の捕虜に軍部が用意した原稿を読ませるといった稚拙なものだったが、やがて捕虜の中でもアナウンサー経験のあるものを選んで、「ゼロ・アワー」と名称変更し、音楽と語りをとり合わせたディスクジョッキー風の放送を流し始めた。
 やがて「ゼロ・アワー」は、英語を話す女性MCを前面に出して、太平洋前線の米軍兵士に評判となり、終戦の前日まで放送された。甘く魅了する声や口調で語りかけながら、「今ごろ故郷の奥さんや恋人は他の男性と宜しくやっているでしょうね、兵役ごくろうさま」などと棘のある内容を話す声の主に、アメリカ兵たちはいつしか「東京ローズ」との愛称で呼ぶようになった。
 ゼロ・アワーに参加した女性アナウンサーは複数存在したが、声だけしか聴いていない米軍兵士の証言はまちまちで、誰が「東京ローズ」に該当するのかは特定されていない。戦後、日本を占領したアメリカ軍は、ゼロ・アワーの関係者を捕らえるべく探しはじめたが、戦後の混乱の中で関係者を見つけるのは困難であった。
 そこである従軍記者が、東京ローズが取材に応じたら破格のギャラを出すとの告知をして、唯一申し出たのが「アイバ・戸栗・ダキノ」という日系二世であった。彼女は1943年11月からアナウンサーに加わって、自ら「孤児のアン」(Orphan Anne)という愛称を名乗っていたという。米国生まれの二世で、開戦直前に日本の叔母の見舞いのために訪日したが、すぐに日米開戦により帰国できなくなった。
"Tokyo Rose", Tokyo, Japan, 09/20/1945> https://www.youtube.com/watch?v=Cdqiky9WJHU
 東京ローズ現るとの報が駆け巡ると、かつて彼女の声に魅了された元兵士たちは色めき立った。しかしその容姿はともかく、彼女の声は兵士たちの聴いた東京ローズの声とはかけ離れていたようだ。たしかに彼女は「東京ローズの一人」であることは間違いなかったが、兵士たちの耳にはそれぞれ別々の「東京ローズ」が存在したというわけであろう。
 独占取材契約に反したとしてギャラは支払われず、その上、勧められても日本国籍の取得を拒み米国籍を維持したゆえに、米国に送還され米国籍者としての国家反逆罪、禁錮10年の上にアメリカ市民権を剥奪されることになる。かつての同僚たちの評によると、自己主張が強くかなり我儘な性格だとされるが、これも米人として育った個人主義的な性格ゆえともいえるかもしれない。1977年になってやっと、むしろ敵国で「米国籍を守り続けた愛国的市民」として、大統領特赦によりアメリカの国籍と名誉を回復した。
 これと同じく「ドイツ版トウキョウローズ」も存在した。ナチスドイツの謀略放送に従事したアメリカ人女性で、ミルドレッド・エリザベスと言い、女優を夢見てドイツに渡るもベルリン放送局にアナウンサーとして採用され、結果的にナチの宣伝放送に従事した女性であった。連合国軍兵士からの愛称は「枢軸サリー」であったという。
 さらにヨーロッパ戦線では、数奇な運命をたどった「リリー・マルレーン」という曲がある。ドイツのララ・アンデルセンの曲だが、レコードはまったく売れずヒットもしなかった。しかしそのレコードが、たまたま東欧のドイツ前線放送局にあり、それを流したところ、故郷の恋人を懐かしむ兵士たちが涙を流して聴いたという。ドイツ軍兵士のみならず、対峙する英国軍など連合国兵士の間でも評判となった。互いに敵対する兵士たちが、同じ曲を聴いて故郷の家族を想いうかべるという姿は悪くない。ドイツからアメリカに渡ったマレーネ・ディートリッヒが大ヒットさせ、ヨーロッパ戦線の米軍兵士たちを慰問してまわった。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎」

終りました。 9月2日の事でした。

2020-09-07
Facebook英霊の本日の出来事
昭和20年9月2日の本日、米艦ミズーリ號で降伏文書に調印致しました。
昭和20年9月2日、日本と聯合國との間で交わされた休戰協定(停戰協定)の名称。
この協定によりポツダム宣言の受諾は外交文書上固定された。
「概要」
ポツダム宣言受諾が公表された玉音放送からおよそ半月後の9月2日、東京灣上の亜米利加戰艦ミズーリ前方甲板上において調印された。
日本側は、天皇および大日本帝國政府の命により、かつ、その名において重光葵外務大臣が、また大本營の命により、かつ、その名において梅津美治郎参謀総長が署名した。
聯合國側は聯合國軍最高司令官ダグラス・マッカーサーのほか、亜米利加合衆國代表チェスター・ニミッツ、中華民國代表徐永昌、英吉利代表ブルース・フレーザー、ソビエト聯邦代表クズマ・デレヴャーンコ (en) 、濠太剌利代表トーマス・ブレイミー (en) 、加奈陀代表ムーア・ゴスグローブ (en) 、仏蘭西代表フィリップ・ルクレール、阿蘭陀代表コンラート・ヘルフリッヒ (en) 、新西蘭代表レナード・イシット (en) が署名した。
内容は以下のとおり。
その所在地に関わらず日本軍全軍へ無條件降伏布告。
全指揮官はこの布告に従う
日本軍と國民へ敵對行為中止を命じ、船舶・航空機、軍用非軍用を問わず財産の毀損を防ぎ聯合國軍最高司令官及びその指示に基づき日本政府が下す要求・命令に従わせる
その所在地に関わらず日本の支配下にある全ての國の軍隊に無條件降伏させる
公務員と陸海軍の職員は日本降伏のために聯合國軍最高司令官が実施・發する命令・布告・その他指示に従う 非戰斗任務には引き続き服する
ポツダム宣言の履行及びそのために必要な命令を發しまた措置を取る
天皇及び日本國政府の國家統治の権限は本降伏條項を実施する為適當と認める処置を執る聯合國軍最高司令官の制限の下に置かれる
日本政府と大本營は捕虜として抑留している聯合軍将兵を即時解放し必要な給養を受けさせる
これを受けて昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を發した(原文は段落がなく全て繋がっている)。
朕ハ昭和二十年七月二十六日米英支各國政府ノ首班カポツダムニ於テ發シ後ニ蘇聯邦カ参加シタル宣言ノ掲フル諸條項ヲ受諾シ、帝國政府及大本營ニ對シ、聯合國最高司令官カ提示シタル降伏文書ニ朕ニ代リ署名シ且聯合國最高司令官ノ指示ニ基キ陸海軍ニ對スル一般命令ヲ發スヘキコトヲ命シタリ
朕ハ朕カ臣民ニ對シ、敵對行為ヲ直ニ止メ武器ヲ措キ且降伏文書ノ一切ノ條項並ニ帝國政府及大本營ノ發スル一般命令ヲ誠実ニ履行セムコトヲ命ス
御名御璽
昭和二十年九月ニ日
(東久邇宮内閣閣僚全員聯署)
「降伏文書調印式」
英吉利海軍提督ブルース・フレーザー卿(英吉利海軍太平洋艦隊司令官)は8月16日にミズーリに乗艦し、ハルゼー提督に大英帝國勲章を授与した。
ミズーリは8月21日に東京に上陸する占領部隊のため200名の士官及び兵士をアイオワに移乗させた。
その後8月29日に降伏調印式準備のため東京灣に入った。
大日本帝國の降伏文書調印式は、9月2日に東京灣(中の瀬水道中央部千葉縣よりの海域)に停泊するミズーリの甲板上で行われ、亜米利加合衆國、英吉利、仏蘭西、阿蘭陀、中華民國、加奈陀、ソビエト、濠太剌利、新西蘭が調印して日本の降伏を受け入れた。
全ての聯合國軍高官がミズーリに乗艦した。
チェスター・ニミッツ海軍元帥は8:00直後に乗艦した。
聯合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥は8:43に乗艦し、日本側全権代表團は8:56に到着した。
代表團は重光葵外務大臣(政府全権)と梅津美治郎参謀総長(大本營全権)、随員は参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、終戰聯絡中央事務局長官岡崎勝男、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(豊田副武軍令部総長は出席拒否、次長の大西瀧治郎中将は自決)、内閣情報局第三部長加瀬俊一(しゅんいち)、大本營陸軍参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、終戰聯絡中央事務局第三部長太田三郎、大本營海軍参謀柴勝男海軍大佐、大本營陸軍参謀杉田一次陸軍大佐であった。
9:02にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送された。
式中ミズーリの甲板は2枚の星条旗で飾られた。
1枚は真珠灣攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物(48州の星が描かれた星条旗)、もう1枚は1853年の黒船来航で江戸灣に現れたマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた物(31州の星が描かれた星条旗)であり、このうちペリー提督の星条旗については黒船来航の結果、當時の江戸幕府が日米和親條約を締結したという結果からすると、むしろ戰前の日米友好時代の象徴であるため、この古い旗を掲げた理由そのものの道理が通っておらず、降伏調印の場に掲げるのは不自然であるとする指摘が戰後日米双方の戰史専門家からなされている。
マッカーサー元帥は5本のペンを取り出して交代で文書に調印し、コレヒドール島で自分に代わって指揮をとったウェンライト、新嘉坡で降伏したパーシバル、ウェストポイント陸軍士官學校、アナポリス海軍兵學校にそれぞれ1本ずつ贈り、1本は妻のジェーンに残したという話は有名である。
なお、9:25の調印式終了とともに亜米利加海軍機の編隊と陸軍航空軍のB-29爆撃機が祝賀飛行を行ったが、そのとき甲板では加奈陀代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ國代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。
具体的には、聯合國用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書に加奈陀代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自國の署名欄ではなく1段飛ばした仏蘭西代表團の欄に署名した。
しかし、次の代表である仏蘭西のフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかず阿蘭陀代表の欄に署名、続く阿蘭陀のコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々新西蘭代表の欄に署名した。
最後の署名となる新西蘭のレナード・イシット少将も亜米利加側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果的に加奈陀代表の欄が空欄となった。
その後、マッカーサー元帥の調印式終了宣言が行われ、各國代表は祝賀會の為に船室に移動したが、阿蘭陀代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表團の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。
岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザーランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の條約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザーランド中将に各國代表の署名し直しを求めた。
しかし、各國代表はすでに祝賀會の最中だとしてこれを拒否。
結局、マッカーサー元帥の代理としてサザーランド中将が間違った4カ國の署名欄を訂正することとなった。
日本側代表團はこれを受け入れ、9:30に退艦した。
9月5日の午後、ハルゼー提督は旗艦をサウスダコタに移し、翌日早朝ミズーリは東京灣を出航した。
途中グアム島で乗客を乗せ、続いて随行艦なしで布哇の真珠灣に9月20日到着した。
9月28日の午後にはニミッツ提督の提督旗を掲揚した。
尚、終戰時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を聯合國側に通知した瑞西駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)(1956年死去)と加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)はとは同姓同名の別人である。
加瀬 俊一(かせ としかず)は日本の外交官、外交評論家。
第二次欧州大戰前後に活躍し、國際聯合加盟後初の國聯大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問などを歴任した。
外交評論家の加瀬英明は息子。
外務省内では入省年度が早い(1920年入省)瑞西駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)と区別するため「小加瀬」とも称された。
(ウィキペディア参照。)
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