本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録

P38

2020-12-27
山本長官機は、こちらから撃墜されました。
P-38 ライトニング(Lockheed P-38 Lightning)は、ロッキード社が開発し、アメリカ陸軍などで運用された三胴設計の双発単座戦闘機です。
1930年代後半、アメリカでは戦略型爆撃機B-17フライングフォートレスの開発が始まっていました。
アメリカ軍はそのような爆撃機に対抗する必要性も同時に認識していた為、迎撃用戦闘機を各メーカーに発注しました。
その際の要求として「最高速度580km/h」「上昇力は高度6500mまで6分以内」等 と言ったものでした。その要求をクリアしたのは、ロッキード社でした。それ以降改良が重ねられ1939年の9月にP-38として正式採用されました。
その時の最高速度は675km/hまで達していました。
 欧州では、戦略爆撃機の主力掩護戦闘機として活躍しました。
だが機体特性が類似するドイツ軍機(Bf109等)には苦戦を強いられました。
1943年6月、イタリア軍に鹵獲され数機のB-17が撃墜された記録があります。
後続であるP-51やP-47に役目を譲っていく事になりますが、終戦まで性能を生かして偵察機や爆撃機として活躍しました。 
太平洋では開戦当初、日本機に対し格闘性能で劣るP-38は辛酸を舐めさせられました。
簡単に撃墜できる事からP-38の名前からとって「ペロハチ(ペロりと喰えるP-38)」と呼ばれてしまいました。
だが、その最高速度を生かした一撃離脱戦法に切り替えると評価は一変。
日本のパイロットからは「双胴の悪魔」と呼ばれるようになり、立場は狩られる側から狩る側へと逆転しました。
1943年4月18日には連合艦隊司令長官・山本五十六搭乗機である一式陸攻を撃墜しています。
 日本軍機撃墜数は約3800機でF6F、F4Uに次ぐ第3位でした。
 しかし当初重視されていた一撃離脱戦法も、実際に使ってみるとそれほど上手くいかない事も分かりました。
P-38の主翼は厚く、速度が上がると(速度による空気の圧縮が進んでいくと)激しい振動を起こすことが明らかになったのです。
また欧州ではFw190のような新型機が登場して性能的に後れを取るようになり、速度では互角でも運動性では単発機に勝てないことが判明しました。
以降はアフリカ方面で戦闘爆撃機として活躍していくようになりました。
同様に日本相手では、速度で上回ったため一撃離脱さえ出来れば有利でしたが、一旦速度や高度を落としてしまえばなす術が無くなってしまいました。
さらに三式戦闘機による一撃離脱にも対策が進みつつありました。
また高高度迎撃機として開発されながらも日独共に自慢の火力で相手をしなければならないほどの重武装の爆撃機は少なかったのです。
そのため、P-38F以降は後部胴体(双胴)内部に爆弾倉を追加し、長距離戦闘爆撃機として主に太平洋で活躍していく事になります。
太平洋戦線では飛行場と目標が離れていることが多く、他の戦闘機では目標までたどり着けなかったからです。
 戦後にアメリカ陸軍のレシプロ戦闘機がP-51改めF-51に統一された後、他の用途に転用されることもなく、海外に展開していたP-38の多くは現地で廃棄処分となり消えていき、1949年までに全機が退役、一部はイタリア空軍に送られ、1956年まで使われていました。
またホンジュラスやドミニカ、中国にも少数機が売却されています。

皇軍航空母艦

2020-12-27
大和型三番艦 信濃
Facebook中村まこさんの投稿です。
--- 航空母艦 信濃 (昭和19年) ---
- 基準排水量 : 62 000 トン
- 満載排水量 : 71 890 トン
- 全長 : 266 m
- 全幅 : 38.9 m
- 吃水 : 10.4 m
- 速力 : 28 ノット
- 兵装 : 40口径12.7cm連装高角砲 x 8基 . 25mm3連装機銃 x 36基 . 25mm単装機銃 x 40基 . 12cm28連装噴進砲 x 12基 
- 搭載機 : 47 - 72機 

帝国海軍航空隊です。

2020-12-25
無念。USSレキシントンのF4F-2戦闘機によって撃墜され、海に墜落する一式陸攻の瞬間。ラバウル沖, ニューブリテン, ビスマルク諸島
“マッチポンプ”と揶揄されましたが・・・

帝国海軍です。

2020-12-25
J2M3 帝国海軍局地戦闘機 雷電21型
米国では検分飛行では、途轍もない性能を発揮したそうです。 燃料の質からして負けていました。

陸軍です。

2020-12-25
大日本帝国陸軍97式戦車チハ

闘いの転機

55年体制について

2020-11-12
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1955年(s30)】

◎「55年体制」成立

*1955.11.13/ 社会党統一大会が開かれ、左派と右派に分裂していた4年間に終止符を打つ。(衆議院156、参議院118)(社会党再統一)

*1955.11.15/ 自由民主党(自民党)が結成され、衆議院298、参議院115の単一保守党が成立する。(保守合同)

 

 サンフランシスコ講和条約をめぐって左右両派に分裂していた社会党が、優勢となった左派に右派が合流する形で4年ぶりに再統一された。一方保守系は、戦後のGHQによる公職追放などで弱体化していたが、社会党の再統一に危機を感じ、日本自由党と日本民主党の2つの保守政党が合同して自由民主党が結成された。この「保守合同」と「社会党再統一」により、いわゆる「55年体制」が確立された。

 

 まがりなりにも二大政党制が出現したとされるが、英米のように二大政党が交代で政権を担当するのではなく、日本においては、常に与党第1党は自由民主党が占め政権を維持し、野党第1党を日本社会党が占めるという変則体制であった。国会の議席数では自由民主党と日本社会党の勢力比はおおむね2:1であったため、「一と二分の一政党制」などと呼ばれた。

 

 ひたすら「護憲と反安保」を掲げ続けた日本社会党は、戦後一定の期間が過ぎ新憲法が定着してくるとともに、日米安全保障条約で国防は米にゆだね、経済政策に重点に置いた政策で安定した高度成長が続くと、その支持基盤を失い長期低落傾向に陥った。1975(s50)年ごろに民社党、公明党、日本共産党らの野党が分立伸長すると、社会党はもはや一党で自民に対抗しうる野党ではなくなり、「75体制」などと呼ばれた。

 

 55年体制下で長期政権を維持し続けた自民党は、その内部に「派閥」と呼ばれる対抗グループを持ち、各派閥が切磋琢磨し随時交代で政権主流派になるなど、疑似的な政権交代をすることで、長期的に政治活力を確保したと言われる。しかしさしもの自民党も、ロッキード事件などを契機に、長期政権下での汚職や政治不信などが重なり、保守サイドからの新党分立などで弱体化し、1993(h5)年には日本新党を中心とする細川連立内閣が成立するとともに下野することになる。

 

 国内だけをみれば、自民党による一党長期政権というだけのことだが、実際は米ソ冷戦対立世界の中での、それに対応した日本の政治状況であったと言える。実際にソ連が崩壊し米ソ冷戦が終わると、すでに55年体制は意味を持たなくなっていた。古代ローマ史を知り尽くした作家塩野七生は、55年体制をローマ共和国の元老院に例えて評価したとされるが、ならば今は「帝政」に向かっているのであろうか(笑)

 

(この年の出来事)

*1955.1.28/ 炭労・私鉄総連などが、春季賃上げ共闘会議総決起大会を開き、春闘共闘方式の始まりとなる。

*1955.5.8/ 東京都下の砂川町で、米軍立川基地拡張反対の総決起集会が開催され、「砂川闘争」が始まる。9.13には強制測量が始まり、住民と警察隊が衝突、重軽傷者90余人。

*1955.5.11/ 岡山県宇部と四国高松を結ぶ宇高連絡船紫雲丸が、濃霧中で貨物船と衝突し、修学旅行中の小学生など168人が死亡する。(紫雲丸事故)

*1955.5.14/ ソ連と東欧8ヵ国が、NATOに対抗する「ワルシャワ条約機構」に調印する。

森永ヒ素ミルク事件

2020-11-12
当代の生まれた頃の出来事でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1955年(s30)】

◎森永 ヒ素ミルク事件

*1955.8.-/ 森永ミルクに混入されたヒ素が原因で、人工栄養児4人が死亡する。12月9日までに患者は全国で1万人以上、113人が亡くなる。

 1955(s30)年6月頃から西日本を中心に、森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の中毒患者が発生し、多くの死者を出す事件が起こった。当初は奇病扱いされたが、8月24日岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止められ、事件として発覚した。

 

 森永乳業では、安定剤として第二燐酸ソーダ(Na^2HPO4)を粉ミルクに添加していたが、安価であるという理由から純度の低い工業用を利用した。森永乳業徳島工場が製造した「森永ドライミルク」では、製造過程で用いられた低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が含まれおり、これを飲んだ乳児にヒ素中毒による多数の被害者が出た。

 

 当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名である。しかし当時は、日本の産業育成が最優先される時代であり、政府も森永側に立って収束を図り、被害者の救済は後手にまわり、被害者の運動は抑え込まれてしまった。

 

 かくして日本最初の大規模食品被害事件はうやむやに放置されたが、その14年後、被害者の後遺症問題などが告発され、事件は再燃し始めた。被害者の親たちは再結集し、森永ミルク中毒のこどもを守る会は活動を再開する。被害者の会は森永製品の不買運動と裁判闘争で闘うが、刑事裁判は1973年まで続き、やっと製造者側に実刑判決が下される。

 

 さらに民事裁判が続けられるが、森永側は製造者責任を否定し続ける。森永側の不誠実な対応に、守る会は不買運動を国民に呼びかけ、その運動は大きく拡がり、日本の不売買運動で史上最大のものとなった。森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過してからであり、不買運動に音を上げて責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明するまでに20年近くを要した。

 

(この年の出来事)

*1955.1.28/ 炭労・私鉄総連などが、春季賃上げ共闘会議総決起大会を開き、春闘共闘方式の始まりとなる。

*1955.5.8/ 東京都下の砂川町で、米軍立川基地拡張反対の総決起集会が開催され、「砂川闘争」が始まる。9.13には強制測量が始まり、住民と警察隊が衝突、重軽傷者90余人。

*1955.5.11/ 岡山県宇部と四国高松を結ぶ宇高連絡船紫雲丸が、濃霧中で貨物船と衝突し、修学旅行中の小学生など168人が死亡する。(紫雲丸事故)

*1955.5.14/ ソ連と東欧8ヵ国が、NATOに対抗する「ワルシャワ条約機構」に調印する。

スターリン批判の余波

2020-11-12
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1956年(s31)】

◎フルシチョフがスターリン批判

*1956.2.24/ ソ連共産党第20回大会秘密会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判の演説をする。

 1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第20回大会において、非公開の会議とはしたが、スターリン批判の演説を行い世界を驚かせた。スターリン(53年死去)の死後も伏せられてきたスターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実が公表され、それまでの公式見解であった戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は不可避)を批判、西側との平和共存路線への転換や、平和的社会主義への移行の可能性に言及し、従来のスターリン体制からの大きな転換を表明した。

 

 ソ連におけるスターリン批判は、東側社会主義陣営にも大きな波紋を及ぼした。東ヨーロッパ社会主義国では、スターリン体制に対する反発から自由化要求の運動が強まった。6月にはポーランドで「ポズナニ暴動」が起こった。ソ連の軍事介入が懸念されたが、直前に政府軍が鎮圧し自主的な事態収拾となった。その結果、一部分権化され経済改革が施されたが、本格的な自由化は認められなかった。

 

 10月には、ハンガリーで市民が政府に対して蜂起、政府関係施設や区域を占拠し、自からの政策や方針を実施しはじめて市民自治の様相を呈した。ソ連軍は2度にわたって介入、戦車部隊によって鎮圧し、親ソ政府を樹立して改革を停止させた。スターリン批判にもかかわらず、ソ連共産党は決して東欧衛星諸国の自主化・自由化は許さなかった。

 

 一方で、スターリン批判は中国との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント・雪どけ)路線を、毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、中ソ関係は急速に悪化した。金日成の北朝鮮も、中国と同様に修正主義として強く批判した。毛沢東、金日成ともに、自らの「スターリン型独裁支配」体制を脅かされることを懸念したことは言うまでもない。

 

 日本においては、前衛党主導・世界永続革命論を唱えるトロツキストたちが刺激を受け、60年・70年安保へと向かう過程で、学生を中心として「新左翼=前衛党の結成」へと突き進んだ。

 

 1961年には2度目のフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去、燃やされた。さらに、スターリングラードをはじめスターリンの名を冠された都市や地名は改名され、スターリンの巨大な銅像は撤去され、徹底的な「非スターリン化」が行われた。スターリン神話は徹底的に破壊されたとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視する恐怖支配や政治的弾圧の構図は、のちのソ連崩壊まで変わることはなかった。

 

 1997年のモスクワ放送は、『10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6200万人が殺害され、そのうち、4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った』と放送したとされる。

 

(この年の出来事)

*1956.1.31/ イタリアのコルチナダンペッツォで開かれた第7回冬季オリンピックで、猪谷千春が日本人初のメダル(男子回転・銀)を獲得する。

*1956.5.9/ 日本登山隊が、ヒマラヤの未踏峰マナスルの初登頂に成功する。

*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。

*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)

*1956.11.22/ オーストラリアのメルボルンで、第16回オリンピックが開催され、日本選手は117人が参加、4種目で金メダルを獲得する。

*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。

再軍備

2020-11-10
Facebook佐々木信雄さんの投稿
 
【20th Century Chronicle 1954年(s29)】
◎陸海空自衛隊 発足
*1954.6.9/ 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
 日本を占領した連合国軍は、当初日本の軍事力を完全に無力化する予定であった。しかしソ連が核保有国となり冷戦構造が顕著になるとともに、大陸では中国人民共和国が成立し、さらに1950(s25)年に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発すると、全く状況が変わってきた。日本に駐留の米軍は、その主力を朝鮮半島に向けざるを得ず、空白となる日本の治安維持は、日本自体が担う必要に迫られ「警察予備隊」を組織させた。
 1951(s26)年、サンフランシスコ講和条約が成立すると、同時に(旧)日米安全保障条約も締結される。これは、占領軍が撤退すると同時に、米軍の継続駐留や基地の存続を認め、日本の防衛は日本自身が主体となり、米軍はこれを援助するというものであった。その趣旨を明確にするために翌1952年、警察予備隊は「保安隊」と改組された。
 1954(s29)年、安保条約を具体的に補完するため「日米相互防衛援助協定(MDA)」が結ばれ、米国は日本に駐留するとともに日本に軍事支援を与え、その支援を受けて、日本は自国の防衛のために軍備を整えることが義務付けられた。これにより日本は、防衛の目的に限り再軍備する事を認められ、それに対応して保安隊は「自衛隊」と改組され、事実上の自国防衛軍となった。
 とはいえ自衛隊は、設立当初から現在に至るまで、論議の的になり続けてきた。詳細には立ち入らないが、憲法九条との関係で、自衛隊は軍隊であるとかないとか、無意味な空論が続けられてきた。自衛隊は名実ともに自衛軍であり軍隊である。問題は、それが憲法で認められ得る軍隊なのかどうか。もし認められないなら、憲法を変更するかどうか、それだけの問題だろう。
 とここまで書いて、50年前の高校生の時に、こっそりローカル新聞に投稿した内容と全く同じなのに気付いた。クラスの女子に気付かれて恥ずかしい思いをしたが、とにかく50年間自分の見解が変わっていないことよりも、50年間政治状況が全く変わっていないことの方に驚かされた(笑)
(この年の出来事)
*1954.2.1/ 女優マリリン・モンローが、夫のMLB野球選手ジョー・ディマジオと新婚旅行で来日する。
*1954.1.2/ 皇居の一般参賀で、二重橋上で群衆が折り重なって倒れ、16人が死亡、65人が重軽傷を負う。(二重橋事故)
*1954.4.21/ 犬養健法相が、検事総長へ指揮権を発動して、造船汚職容疑の佐藤栄作自由党幹事長への逮捕請求を阻止する。
*1954.11.24/ 自由党分派・改進党・日本自由党の3党合同によって「日本民主党」が結成される。(総裁鳩山一郎)
*1954.12.6/ 左右社会党など野党共同で吉田内閣不信任案を提出、7日、吉田内閣が総辞職して長期政権に幕。10日、鳩山一郎内閣が成立する。
*1954.-.-/ 電気洗濯機・電気冷蔵庫・電気掃除機が「三種の神器」と呼ばれる。のち掃除機に代わってテレビジョンが加えられる。

人間魚雷 回天

2020-11-09
昭和19年11月8日の本日、人間魚雷「回天」第一陣の菊水隊仁科関夫少佐以下、徳山湾大津島よりウルシー、帛琉海域へ初の水中特攻出撃致しました。
昭和19年8月15日、大森仙太郎特攻部長は「この兵器(回天)を使用するべきか否かを、判断する時期だ」と發言、明治維新の船名からこの兵器を「回天」と命名した。
そして同年9月1日、山口縣大津島に黒木・仁科と板倉光馬少佐が中心となって「回天」基地が開設され、全國から志願で集まった搭乗員で9月5日から本格的な訓練が開始された。
これが、「回天」特攻の始まりである。
しかし、9月7日早朝に黒木が殉職すると、仁科を含めた搭乗員は「黒木に続け」と言わんばかりに、昼の猛訓練と夜の研究會で操縦技術の習得に努め、技術を習得できた者から順次出撃していくこととなった。
同年10月下旬、豊田副武聯合艦隊司令長官から「回天」による特攻作戰命令「玄作戰」が發令され、特別攻撃隊は「菊水隊」と命名された。
仁科も創案者の一人として菊水隊員に選ばれ、黒木の遺志を継ぐために出撃直前まで熱心に「回天」の研究・改良に務めていた。
同年11月8日に、仁科は菊水隊(母潜「伊-47」)として黒木の遺骨を持ってウルシー環礁へ向けて出發、同年11月20日午前3時50分に發進し、午前5時過ぎに黒木の遺骨を抱いたまま米油漕艦「ミシシネワ」へ特攻・戰死した。
21歳没。
「ミシシネワ」は當時の最新鋭大型タンカーで、亜米利加側の戰死者は63名だった。
(ウィキペディア参照。)
画像は、回天特攻によって横転したミシシネワ。
潜水艦の甲板上に搭載された回天。
TOPへ戻る