本文へ移動

ちょっといい話

データベース

真宗聖典検索 Web site

2020-04-22
東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。
このサイトは、宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃事業の一つとして聖教編纂室にて取り組み、開設したサイトです。東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。使用方法については、このサイトについてをご覧ください。

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/

Facebook 大谷派における学事の潮流

2020-05-05

真宗聖典(S_JIS 版)検索システム--- 生まれた意義と生きる喜びを見つけよう! ---

2020-04-22
真宗聖典(S_JIS 版 msearch)検索エンジン
  • リンクフリーです。真宗聖典各ページへの直接リンクは、
    http://www5.synapse.ne.jp/syoukakuji/seiten/ページ数.htmlでOKです。
    直接、ページを見たい方は、検索エンジンにページ数を入力して下さい。

     http://cgi5.synapse.ne.jp/~syoukakuji/cgi-bin/perlsearch/perlsearch.cgi

 

『浄土真宗聖典』オンライン検索 浄土真宗聖典・検索システム | 原典版

2020-04-22
http://j-soken.jp/kensaku2.html

聖典電子研究会

2020-04-22
http://seiten.icho.gr.jp/

今、私達に出来る事

【日本赤十字社】「ウイルスの次にやってくるもの」

2020-06-22
https://youtu.be/rbNuikVDrN4
JapaneseRedCrossPR
チャンネル登録者数 2.01万人
チャンネル登録
人から人へと広まっていく、もしかしたら、ウイルスよりも恐ろしいものとは?
そして、わたしたちができることとは?
新型コロナウイルス感染症から、体だけではなく、心を守り、社会を守るための、 心構えを伝える絵本アニメーションです。

監修:日本赤十字社災害医療統括監 丸山嘉一
  諏訪赤十字病院 臨床心理課長 森光玲雄

日本赤十字社の新型コロナウイルス感染症に対するそのほかの活動はこちらをぜひご覧ください。

http://campaign.jrc.or.jp/kansensho/

手続きについて

2020-04-21
現金10万円一律給付 対象や手続きは

Facebook 新型コロナウイルス感染症情報センター

2020-05-16
Facebook コロナ情報ページ

非常事態宣言が解除されました。

2020-06-02

非常事態宣言が解除されました。

2020-06-02

コロナ情報について

山中信弥教授の発言

2020-04-04
このままでは手遅れになる

鎌田先生からの提言

2020-04-20

新型コロナウイルスの感染拡大が世界中で続いている。医師で作家の鎌田實さん(71)が、日本の置かれた現状を分析し、感染予防としての手だて、未知のウイルスとどう向き合っていくべきか、今後の課題を語った。

医療崩壊させないことを前提にしたPCR検査の拡充、政治リーダーの冷静なかじ取りと市民1人1人の予防策の徹底が急務だ。

   ◇   ◇   ◇

新型コロナウイルスの致死率を見てみましょう。14日現在、全世界で14万2584人が感染、うち5395人が死亡しており致死率は約3・8%です。日本国内に限っては1482人が感染、29人が亡くなりました。日本の致死率は約2%で世界平均より2%近く下回っているのが現状です。

季節性のインフルエンザの致死率は0・1%です、SARS(9%)やMERS(35%)と比べても低いデータであることが分かります。一方で、最近になって感染拡大しているイタリアでは2万1157人が感染、1441人が死亡し、致死率が約6・8%と突出し、医療崩壊が起きていることが考えられます。

新型コロナウイルスの感染力については、インフルエンザよりも強いと考えた方が良いでしょう。WHOは1人の感染者から感染する人数が2・2人という見解を示していますが、アメリカのロスアラモス研究所は4・7~6・6人という見方をしています。インフルエンザが1・32人なので、感染力は強いとみられます。

現在の日本では、医療現場の余力はありますが、クラスター感染が顕著な愛知県では、ベッド数が足りなくなってきています。兵庫県では地域の中核病院で医師に感染者が出て救急と外来診療を止めている状態です。日本でも看護師や介護士、医師が感染し始めています。医療崩壊が起こらないかとても心配です。

日本国内で、これ以上の感染拡大を防ぐには、医療崩壊させないようにしながら、PCR検査をもっと医師の裁量で実施できるようにすることが効果的です。実際に和歌山県ではPCR検査を積極的に使って収束させています。

軽症が約8割とされ、自然治癒する人もいます。日本では万一重症化した場合でも治療ができる施設が整っています。重症者や高齢者、持病のある人を優先的にリスクから守っていくためにも、軽症の患者さんを自宅待機してもらうという方法も必要でしょう。自宅待機でも、陽性かどうかを分かっているほうが家族に感染させる率が低いはずです。それではパニックになる、という意見もありますが、インフルエンザではそれができています。

レストラン、映画、イベント関係者の生活を守るためにも、迅速検査キットを使えるようになったら疫学的調査も考えてほしいです。疑陰性や偽陽性の問題(一度陰性と診断されても次の検査で陽性反応が出る)はありますが、陽性率が低ければ水際対策を強化する。高ければインフルエンザに近い対応にして公衆衛生の注意喚起を高めなければいけません。感染症対策を講じながら、学校や経済活動を安易に止めないように防疫と社会の動きが共存する方法を模索する必要があります。全国的な休校は効果がさほど期待できないので早くやめるべきでしょう。

予防ワクチン、治療薬はSARSの時で9カ月かかりましたが、世界が総力を挙げて取り組むことで今回もできると思います。そうなれば劇的に今の危機的な状況も変わってきます。

あやしいと思ったら堂々と検査を受けられやすくして、陽性だったらまず自宅で休むことにする。そんな意識改革が必要です。そろそろテレビは陽性患者を追い掛けすぎないようにしてほしい。

家庭でできることは、手洗いやアルコール消毒、換気を心がけていくことです。マスクは無理にしなくてもいい。人にうつさないというエチケットや、鼻や喉の線毛の湿潤を保つことでウイルスから粘膜を守る効果はあります。品薄になっていますが、マスクが手元にあるようでしたら、着用したほうがいいと思います。(聞き手・上岡豊)

◆鎌田實(かまた・みのる)1948年(昭23)6月28日生まれ、東京都出身。東京医科歯科大医学部卒。長野・諏訪中央病院院長で「健康づくり運動」を実践。脳卒中死亡率の高かった長野県の長寿日本一に貢献した。04年からイラク支援を始め、小児病院へ薬を届けたり北部の難民キャンプ診察も続ける。コメンテーターなどで活躍する他、文化放送「鎌田實×村上信夫 日曜はがんばらない」(日曜午前10時)に出演中。

Fb 小栗洋慶さんの投稿から

鎌田實医師
たとえば、リストラをされた人の場合で言えば、もう一度、ていねいに生き直してみることによって、何かが変わってくると思うんですね。食事をするにしても、めんどくさいからといって、簡単にレンジでチンして食べるのではなく、ご飯をお米から炊いてみる。みそ汁を自分の手で作ってみる。ご飯とみそ汁だけでいいじゃないですか。ていねいな手作りの食事を繰り返して食べているうちに、ある種の生きる意欲も湧いてくることがあるんじゃないか。
大きな希望を抱くより、ささやかな毎日をていねいに生きていくこと、それが「あきらめない」生き方だと思うんですね。

「ラジオ深夜便 こころの時代
命は不思議でいとおしい / 鎌田實」より

※ネット上にあった同じ意趣の
鎌田實師のことば

何もする気が起きないものだけれど、そういうときこそ丁寧な生活を送ることが大事。
ご飯とみそ汁だけでいいから、丁寧に米をとぎ、ご飯をつくってみよう。それをゆっくりと昧わってみよう。
 精神的につらいときは、ご飯なんてどうでもいいと思ってしまう。冷凍ご飯をチンしてもカロリーは同じと考えてしまう。でも、つらいときほど、何も考えずに無心で米をとげばいい。
 テレビのスイッチを切って窓の外の季節を感じながら、ご飯とみそ汁だけのシンプルな食事をとる。すると、自然とつながっている自分のいのちが見えてくる。ときにはおかずなんていらないのだ。それだけでいい。ただ丁寧に、一日一日を大切に暮らしていればいい。
 そして、自然の中にじっくり身を置く。ベランダに出て夕日を見てみよう。喧噪の街でも夕日は美しい。日は沈むけれど、翌朝には再び昇る。雨の日は夕日は見えないけど、どこかに太陽はあるのだ。
 大きな自然の中で、ぼくたちは生きている。そのことに気がつけば、生きる力が必ずわいてくる。

三つの「蜜」について

2020-04-02

絶対に避けたい
「3つの密」とは?

厚生労働省や各都道府県の知事などが、感染拡大を防止するために「密閉空間」「密集場所」「密接場面」の3つの「密」を避けるよう、お願いをしています

過剰な不安や感染者らへの偏見、差別が広がっている。日本赤十字社(東京)

2020-04-02
「負のスパイラルを断ち切ろう」
「負のスパイラルを断ち切ろう」。

新型コロナウイルスの拡大で、過剰な不安や感染者らへの偏見、差別が広がっている。
日本赤十字社(東京)はそれらも一種の感染症と位置付け、まん延を防ごうとリーフレットを作成してホームページで公表している。
日本赤十字社ホームページより

京都大学iPS細胞研究所 山中教授の話

2020-04-02
「コロナとの闘いは長いマラソン」桑子アナやアッコを感動させた山中教授の言葉の共感力
 

和田アキ子さんが感動したという番組は3月27日(金)のNHK『ニュースウォッチ9』だ。

 NHKの看板ニュース番組の一つだ。

 この日、連日増え続ける新型コロナの感染者の問題や首都圏の知事たちが週末に呼びかけた「外出自粛」や経済的な打撃などについて報道した後で、サブキャスターを務める桑子真帆アナが自分で取材した内容を紹介するコーナーを伝えた。

 ちなみに桑子アナは朝のニュース番組『おはよう日本』への異動が決まっていて『ニュースウォッチ9』はこの夜が最後の出演だった。

仰せを蒙りて

Facebook 大谷派における学事の潮流

2020-05-05

『香月院語録』 法蔵館

2020-05-05
大谷派の教学は、学寮での宗学をその源流とします。
https://jodo-shinshu.info/2020/02/27/21913/
香月院深励師似影(永臨寺所蔵)

若き求道者の生涯は、28年間でした。

2020-07-06

「常楽我淨」ということ

2020-07-11

明日早朝の雨が宇佐市は大雨の予報です。自然現象は人知で管理支配できません。南無阿弥陀仏

大分合同新聞医療欄 「今を生きる」第379回
(令和2年5月4日掲載)医療文化と仏教文化(205)
死の現実をきれいごとで尊厳死、安らかな死などと言ってみても、一般的な思いからすると死は避けたい、先送りしたいマイナス要因です。ギリシャの哲学者が「人間は誰からも教えてもらって無いのに幸せを目指して生きていく」と言っています。しかし、いくら幸せのためのプラス要因を集めて幸福を目指しても、必ずやってくる老病死はどれも人生のマイナス要因です。これでは最後に「不幸の完成」で人生を終わることになります。仏教では、こういう生き方を「迷いの人生」というのです。
私の70年間の人生を振り返ってみると、その時々の課題に取り組み、その解決を目指して生きてきたと思います。それは、無意識に苦を厭(いと)い楽を指向してきたように思います。仏教は、人間は「常楽我浄」を目指していると言い当てます。「常」とは安定して変わらないこと、「楽」は苦や不安のない状態、「我」はしっかりした信念のある自分、「淨」は虚偽のない清い世界、理想の世界です。
私達はこの世に「常楽我浄」があり、それを求めて生きることが人間としての在り方だと思っています。仏教は私達の生きざま・思考を見通して、この世に「常楽我浄」はないと説きます。無いものを「有る」として追い求めるから、結果として「人生苦なり」の生き方をしていると見透かしているのです。
そして仏の智慧の世界には「常楽我淨」があると教えてくれます。仏の世界が私の世界を鏡に如く照らし出し、私が物事のあるがままを正しく見ていない、煩悩で脚色して自分に都合のいいように見ていると指摘するのです。
仏教は生死の迷い(迷いの人生)を超える道を教えています。私たちが理性、知性をはたらかせても、老病死を少し先送りすることしかできません。仏教は私の思考の無明性(真理に暗いこと)、正しく判断できるはずの理性に潜む煩悩性、知性的な分別(私は間違いないという)の執われのために全体像が見えないことが迷いの原因だと教え、それを超える道に導くのです。

宿業に随順できるようなものを見出すこと

2020-07-12

717
好き嫌いで人間は悩み、ノイローゼになるわけです。なにも宿業の道理で悩みはしないのです。宿業が分かれば随順できるのです。宿業を蹴飛ばすのが宿業の解脱ではない。宿業に随順できるようなものを見出してくるということです。

718
みな宿業、宿業と言ったりしていますけれども、それは「嫌なものだ」という主観的解釈でしょう。それは宿業が分かったのではない。分からないからそういうことを言っているのです。宿業という言葉も容易に使えないでいる。

お釈迦様の話

釈尊の生涯と教え

2020-04-19
https://youtu.be/EvjMcWZGzQg?list=PLERGeJGfknBQ5l6kTs05lLYDa_4FGOlAF
中村元 - ブッダの生涯 【HD】
https://youtu.be/NWZtkxP3eGg
仏教の本質 哲学者「中村元」

ブッダ 最期のことば 1.2.3.4.

2020-06-14
https://youtu.be/Lbw-AnzrjdY

釈尊のお説法

2020-04-07

五戒について

2020-04-25
今月のことば 平成18年8月のことば

今月のことば

4月のことば
実るほど頭を垂れる稲穂かな

4月は学校では入学の、会社では入社の季節です。入学される皆さん、入社される新入社員の皆さんは、新しい世界でいろいろなことを学び、吸収し、成長していく自分や、新しいことにチャレンジする自分への期待と希望に胸をふくらませていらっしゃるのではないでしょうか。これから進まれる新たな環境のなか、皆さんが日々試行錯誤し努力しながら、一歩一歩着実に成長していかれますことを心より念じております。

 

さて今月は、新たな一歩を踏み出される皆さんが今後さまざまなことを学び、経験されていくうえでご参考になればと思い、「人間の知恵」と「仏の知恵」について考えてみたいと思います。

 

まず人間の知恵とはなんでしょうか。広辞苑によると知恵とは、「物事の理を悟り、適切に処理する能力」とあります。人間の知恵には、生きるための知恵、仕事をスムーズに進めるための知恵、成績や結果を出すための知恵などさまざまな知恵があると思いますが、その知恵を得るために私たちは多くの知識を覚え、理解し、学問を深め、教養を身につけようと頑張ります。つまり自らが「賢くなろう」と努力するわけです。

 

これに対し、仏の知恵とは、仏の方から私たちに働きかけ、さまざまなことに執着し、他者と比べて優劣を気にし、他人を妬み嫉む自分の姿に気づかせ、目覚めさせてくれます。この働きを仏教では光と表し、仏の知恵の光に照らされ、私たちは今まで見えなかったことを見えるように、気づかなかったことに気づかされ、目覚めさせていただきます。つまり煩悩まみれの自分の姿に気づき、ただ頭が下がるようになります。

 

このように人間は自ら賢くなるように努力し、知恵をつけようと頑張るのですが、ついてきた知恵を誇り、自分の力で生きていけると思うようになると横柄になります。また、自分の言うことが正しく、自分は善人であると思い込んでしまいます。自分の力で生きていると思っているので、仏の働きに見向きもせず、自分の姿を正しく見ることができなくなり、おのずと頭が上がってしまいます。

 

「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉を皆さん一度はお聞きになられたことがあるのではないでしょうか。この言葉の意味は、「故事・俗信 ことわざ大辞典(小学館)」によりますと、「稲の穂は実が入ると重くなって垂れ下がってくる。学問や徳行が深まるにつれ、その人柄や行為がかえって謙虚になることのたとえ」とあります。頑張って身につけた知識、学問、教養が本当に深まり、身についてくると、おのずと人格も形成され、周囲に対し「お陰様で」と謙虚になり、思いやりの心を持って接することができるようになります。この「深まり」こそが仏の知恵の働きかけであり、「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、すぐ思い上がり、自惚れてしまう私たちに、そうした自分の姿になってないか問いかけてくれる言葉ではないでしょうか。

 

近年、自らの知恵を頼み、高圧的になったり、自分の意見以外は間違っていると固執する人が増え、人間関係や社会がギスギスすることが多くなってきたように感じます。「お陰様で」というこれまで大事にしてきたことが薄れてきたようにも感じてしまいます。これから入学される皆さん、入社される新入社員の皆さんには、知識を覚え、理解し、学問を深め、教養を身につけるプロセスの中で、頭が上がりがちな自分の姿に気づかせてくれる仏の働き(知恵)に素直に耳を傾ける心がけを持っていただきたいと思います。そうした心がけを持って日々精一杯努力することで、皆さんの人生がより実りあるものになるのではと思うのですがいかがでしょうか。(宗教部)

 

https://gakuen.koka.ac.jp/archives/571
 

光華の心

本学園では校訓「真実心」に込められた願いを「光華の心」と表しています。
「光華の心」とは「向上心」「潤いの心」「感謝の心」の3つの心です。
本学で学ぶ全ての方々が「光華の心」の実践者として、常に「向上心」を持って自己を精一杯生き、自我に捉われることなく、
他者をあたたかく思いやる「潤いの心」と、他力により生かされていることへの「感謝の心」を忘れず、他者と共生できる女性、
即ち、社会を照らす「光」となり、社会を潤す「華」となる女性に育って欲しいと願っています。

Facebook 仏教美術の世界 仏像・伽藍の逸品等の情報ページです。

2020-04-26
https://www.facebook.com/groups/766265100476717/

ちょっといい話

RSS(別ウィンドウで開きます) 

「もう一度めぐみを…」 講演1400回、署名1300万超…声を力に訴え続け 横田滋さん死去

2020-06-06

 「もう一度めぐみを抱きしめたい」。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父滋さんが5日、死去した。半生をかけ娘の救出を訴え続けた父の願いはついに届かなかった。

 1977年秋、中学1年生だっためぐみさんの13歳の誕生日会。カメラが趣味の滋さんは、親友に囲まれためぐみさんをうれしそうに写真に収めた。それから約1カ月後の11月15日、めぐみさんはバドミントン部の練習を終え帰宅する途中に、突然姿を消した。滋さんはあの日のことを「家族写真を撮って当たり前に過ぎていった毎日が幸せだった。あの日、すべてが変わりました」と語っていた。

 めぐみさんの失踪後、自宅の電話には誘拐を疑った警察の逆探知用装置が取り付けられ、捜査員が出入りするようになった。就寝時は電話をそばに置き、出勤前は手がかりになるものが漂着しているかもしれないと自宅近くの海岸を歩いた。いつ戻ってもいいように玄関には明かりをともし、テレビの「尋ね人」のコーナーで情報提供を呼びかけた。だが、めぐみさんにつながる情報は何も得られなかった。



滋さんの訃報を受け、兵庫県神戸市出身の拉致被害者有本恵子さんの父・明弘さんは「拉致被害者家族会の会長が横田さんでよかった。会長をほかにできる人なんていない。拉致問題の解決が早かったら良かったのに」と話しました。 明弘さんの妻・嘉代子さんも2020年2月に亡くなり、拉致被害者の親で健在なのは明弘さんと、滋さんの妻・早紀江さんの2人だけになりました。

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戰。

2020-06-05
英霊の本日の出来事
 

昭和17年6月5日の本日、ミッドウェー海戰。

第二次欧州大戰中の昭和17年6月5日(亜米利加標準時では6月4日)から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戰。
同島の攻略をめざす日本海軍を亜米利加海軍が迎え撃つ形で發生した。
日本海軍の機動部隊と亜米利加の機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戰の結果、日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戰爭における主導権を失った。
ミッドウェー海戰はミッドウェー作戰(MI作戰)の前哨戰であり、この敗北で同作戰は中止。

「日本の作戰決定の背景」
ー布哇攻略作戰の着想ー
大東亞戰爭開戰前、日本海軍は、對米作戰に於ける基本的な方針として守勢の邀撃作戰を採っていた。
聯合艦隊司令長官であった山本五十六大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の對米作戰構想として積極的な攻勢作戰を考えていた。
大島一太郎大尉(後に大佐、昭和3年海軍水雷学校高等科學生)の戰後の回想によれば、昭和3年に海軍水雷學校で「對米作戰は布哇を攻略するような積極作戰を採るべきである」と述べている。
これは、まず國力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戰力で攻撃する米國に勝ち目がなく、また短期戰に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手國の戰意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断したためと言われている。
さらに山本は大東亞戰爭開戰前より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、國内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと考えていた点も関係している。
及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本のミッドウェー作戰の第一の狙いが米海軍・米國民の士気を喪失させることであったこと、また本土空襲の精神的な打撃を大きいと認めている点が分かる。
すなわち相當の危険性を承知の上でも、米國に對し、戰爭で勝利を収めるためには、積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた。
亜米利加海軍は、昭和16年12月の真珠湾攻撃で太平洋艦隊主力の戰艦部隊が行動不能となった後、稼動状態にあった機動部隊を中部太平洋方面に出撃させ、日本軍拠点に対する一撃離脱戰法による襲撃を繰り返した。
その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた。
日本軍はマーシャル諸島、ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戰力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。
米軍の奇襲による被害は小さかったが、聯合艦隊は受け身の作戰の困難性を認識した。
日本の聯合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戰に機動部隊主力を投入していたが、セイロン島攻略作戰案が採用されなかったために、聯合艦隊幕僚は第二段作戰の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければいけない立場に置かれていた。
聯合艦隊幕僚は戰爭早期終結に貢献できるような作戰が思いつかなかった。
聯合艦隊幕僚は、これまで示した作戰案が陸軍部隊を用いるから叛對されたと考えており、かといって守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戰力のみで行う攻勢作戰計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。
その結果、黒島亀人聯合艦隊先任参謀を中心に、布哇攻略を見据えた作戰計画を立案した。
そこで、布哇作戰の前段階として浮上したのが、ミッドウェー島の攻略であった。

ーミッドウェー作戰ー
ミッドウェー作戰構想は、ミッドウェー島を攻略することにより、亜米利加艦隊、特に空母機動部隊を誘い出して捕捉撃滅することに主眼が置かれた。
日本軍が米軍の要点であるミッドウェー島を占領した場合、軍事上・國内政治上から亜米利加軍はこれを全力で奪回しようとすることは明白であり、現時点で豪州方面で活動している米空母部隊もミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。
日本軍は情報分析の結果、米軍の空母戰力を以下のように推定した。
1.空母「レンジャー」は大西洋で活動中。
2.捕虜の供述によれば「レキシントン」は撃沈されたようであるが、亜米利加西海岸で修理中という供述者もある。
3.「エンタープライズ」と「ホーネット」は太平洋に存在。
4.「ワスプ」の太平洋への存否については確証を得ない。
5.特設空母は6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の可能性があるも、低速なので積極的作戰には使用し得ない。
これをふまえ、日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現する米軍規模を、「空母2-3隻、特設空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した。
米軍がミッドウェー島に海兵隊を配備し、砲臺を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戰力は「飛行艇24機、戰斗機11、爆撃機12、海兵隊750、砲第20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戰斗機2コ中隊」であり、状況によっては布哇から「飛行艇60機、爆撃機100機、戰斗機200機」の増強もありえると推測している。
同島占領の際には米軍基地航空隊から空襲を受けることを想定していたが、直掩の零戰と對空砲火で排除できるとしている。
日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本當の戰力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった。
日本海軍は、ミッドウェー島を占領してからの維持は極めて困難であると考えていた。
あくまでこの作戰は米空母を誘い出して撃滅することを目的とし、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、米軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月の布哇攻略作戰までミッドウェー島を確保できると考えた。
大本營(参謀本部・軍令部)と聯合艦隊司令部はこの作戰について激しく對立した。
軍令部は日本の國力からみて布哇諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろ印度洋方面の作戰を強化して英吉利を追い詰め、間接的に同盟國ナチス独逸を支援することを構想していた。
軍令部航空担當部員の三代辰吉中佐は、「仮に日本軍がミッドウェー島を占領しても、米艦隊は本當に出現するのか。
日本軍の補給路が米軍に遮断され、疲弊した所を簡単に奪回されるだけではないか」という点を考慮して反對し、FS作戰(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)を重視する立場を崩さなかった。
聯合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本が「この作戰が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、軍令部と折衝した。
だが、この論法は真珠湾攻撃の際にも使用されていた事もあって今度は容易には通用せず、交渉は暗礁に乗り上げた。
大本營海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、伊藤整一軍令部次長に直接聯合艦隊のミッドウェー作戰案を説明し、山本の意向を伝えた。
伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戰に修正を加え、聯合艦隊の作戰案を採用することを4月5日に内定、永野修身軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった。
軍令部はミッドウェー作戰と並行して同時にアリューシャン攻略作戰(AL作戰)を行う案を加えた。
AL作戰の目的は、米の北方路の進行を阻止するもので、米蘇間の聯絡を妨害し、西伯利亜に米航空部隊が進出するのを妨害しようとするものであった。
當時開發されたとの情報があった米大型爆撃機による帝都空襲が行われ、その一部が奇襲に成功したことで同方面の関心はさらに強くなった。
図上演習においてアリューシャン方面から米國の最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も聯合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景があり、聯合艦隊もこれに同意、第二段作戰の全體像が固まった。
アリューシャン攻略作戰にはミッドウェー作戰の牽制作戰の意味もあったとする証言もある。
作戰は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。上陸用舟艇で敵のリーフを越えて上陸するため、下弦月が月出する午前0時を選んだ。
7月は霧が多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。
上陸作戰の制空と防備破壊は3日前に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。
聯合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、亜米利加が日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。
米機動部隊の叛撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戰を計画した。
ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を發見、一航艦は第二艦隊と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった。

ードーリットル空襲ー
1942年4月18日、空母「ホーネット」はミッドウェーで空母「エンタープライズ」と合流し、第16任務部隊は日本に向けて進撃する。
「エンタープライズ」は航空支援を、「ホーネット」は日本本土に接近、ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双發爆撃機で編成された爆撃隊を輸送する役割分担である。
爆撃隊は「ホーネット」から發進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。
第16任務部隊は4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇第二十三日東丸に發見され、ウィリアム・ハルゼー中将は予定より早い攻撃隊發艦を決意する。
爆撃隊は前日に發艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、「ホーネット」は大きく揺れていた。
その中でドーリットル隊は發進し、09:20までに16機のB-25は全て發艦した。
B-25爆撃隊は、東京、名古屋、大阪を12時間かけて散發的に爆撃、支那大陸に脱出後、不時着放棄された。
セイロン沖海戰で勝利した南雲機動部隊は臺灣沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離は遠すぎ、燃料を浪費しただけだった。
空襲による被害は微小であったが、日本本土上空に米軍機の侵入を許してしまったことは日本に大きな衝撃を与えた。
また米軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために對応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けることとなった。
國民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き、山本にも國民からの非難の投書があった。
山本は以前から本土空襲による物質的精神的な影響を重視していたため、すでに内定していたミッドウェー攻略作戰の必要をこの空襲で一層感じた。
聯合艦隊航空参謀佐々木彰によれば、山本長官はわが空母による布哇奇襲が企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分なわが本土に對しても、彼もまた奇襲を企図できると考えていたようであるという。
この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戰・アリューシャン作戰を重大視するようになり、陸軍兵力の派遣に同意、ミッドウェー作戰は日本陸海軍の総攻撃に發展した。
渕田美津雄は、昭和天皇の住む東京を爆撃されたことで山本のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測している。
千早正隆は二度目のドーリットル空襲を防ぐためにミッドウェー攻略作戰を急ぐ必要があり、空母「瑞鶴」を有する第五航空戰隊の戰力が回復するのを待てなかったと指摘した。

ー図上演習ー
山本五十六の意気込みとは反対に、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。
開戰以来ドック入り、長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた。
さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた。
ミッドウェー海戰後の戰斗詳報では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している。
雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戰果を収めたるは不思議なり」と講評される程度。
水平爆撃と急降下爆撃は満足な訓練ができず、戰斗機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は舊搭乗員の一部が行っただけ。
着艦訓練は訓練使用可能空母が「加賀」のみだけだった為、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。
戰斗詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戰に参加せり」と述べている。
軍令部で説明を受けた一航艦参謀長の草鹿龍之介と第二艦隊参謀長の白石萬隆はドーリットル空襲の騒ぎの直後であり、敵機動部隊来襲を未然に防ぐためという先入観から主目的をミッドウェー基地攻略、副目的を敵機動部隊撃破と解釈した。
さらに4月28日から1週間かけて戰艦「大和」で行われた「聯合艦隊第一段階作戰戰訓研究會」と「第二段作戦図上演習」では、日本軍にとって不安な結果が出た。
この図上演習において、ミッドウェー攻略作戰の最中に米空母部隊が出現し、艦隊戰斗が行われ、日本の空母に大被害が出て、攻略作戰続行が難しい状況となった。
審判をやり直して被害を減らして空母を三隻残して続行させた。
空母「加賀」は爆弾9發命中判定で沈没判定となり、宇垣纏聯合艦隊参謀長は「9發命中は多すぎる」として爆弾命中3發に修正させ、「加賀」を復活させた。
攻略は成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部駆逐艦は座礁した。
アリューシャン方面では、空母「隼鷹」「龍驤」が濃霧の中、米軍水上部隊の襲撃を受け撃沈判定となる。
宇垣は「聯合艦隊はこのようにならないように作戰を指導する」と明言した。
また、米機動部隊が布哇から出撃してくる可能性はあったが、図上演習で米軍を担當した松田千秋大佐が出撃させることはなかった。
戰訓分科研究會において、宇垣は草鹿に對し「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が草鹿を追及すると、源田が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配當せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に當らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戰斗機の外全く策無し」と答えた。
そのため宇垣は注意喚起を続け、作戰打ち合わせ前に「第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備える」と決まった。
米機動部隊が現れた際に叛撃するために半数は魚雷装備となったが、首席参謀黒島亀人は命令として書き込む必要はないと航空参謀佐々木彰に指示した。
第二艦隊長官近藤信竹は、米空母がほぼ無傷で残っており、ミッドウェー基地にも敵戦力があることからミッドウェー作戰を中止して、米豪遮断に集中すべきと反対した。
しかし、山本は奇襲が成功すれば負けないと答えた。
また近藤は、ミッドウェー島を占領しても補給が続かないと言ったが、宇垣参謀長は不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え、攻略後の保持、補給には考えがなかった。
源田は兵力が分散し過ぎて目標を見失っており、集中という兵術の原則にも叛していると感じたため、図上演習後の研究會で聯合艦隊参謀黒島亀人に「作戰の重点を亜米利加艦隊撃滅に置くべきである。
そのためにはアリューシャン攻撃部隊やあらゆる作戰可能な兵力を、たとえ第五航空戰隊(瑞鶴、翔鶴)が参加できるのを待ってもミッドウェーに集中すべきだ」と主張したが、黒島は「聯合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えたため、亜米利加艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた。
図上演習と研究會は、ミッドウェー作戰の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、聯合艦隊は問題点を確認することなく作戰を發動した。
特に山本は「本作戰に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している。
第五艦隊参謀長中澤佑によれば、中沢が作戰会議で機動部隊と聯合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘すると、黒島は問題ないと発言したという。
戰後草鹿龍之介は作戰目標があいまいでミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している。
また源田実も作戰目標が米軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし、戰略戰術からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戰艦主兵なのかも曖昧で大和と山本が後ろからついてくる事も疑問だったという。
古村啓蔵(筑摩艦長)は同期の富岡定俊軍令部作戰課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後にトラックに集合・米豪遮断のFS作戰実施予定と聞き、驚いていたという。
5月25日最後の図上演習が行われたが、ミッドウェー攻略後の日から始まっており、成功が前提で奇襲失敗や米機動部隊の出撃は全く考慮されていなかった。

ー事前準備ー
作戰は準備期間が短く時期尚早と一航艦司令部から叛對があり、作戰事前研究會で山口多聞少将と源田実中佐が聯合艦隊司令部に反対と食いついたが、聯合艦隊司令部は決定済みとして取り合わなかった。
1942年5月4日、研究会で一航艦参謀長草鹿龍之介と第二艦隊参謀長白石萬隆は延期を申請したが、却下され5日に再び訪問した際に第二段作戰を手交され、その日は延期の申請をせずに歸った。
結局、機動部隊は部品の用意が間に合わないという理由でミッドウェー作戰の延期を一日だけ認められただけだった。
不安要素があったとはいえ、聯合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた。
5月5日、永野軍令部総長より山本に對し大海令第18號が發令された。
1.聯合艦隊司令長官は陸軍と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。
2.細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。
第二艦隊参謀長白石萬隆によれば、軍令部は主目的をミッドウェー島攻略、哨戒基地の前進と示していたが、5月の図上演習で陽動で米艦隊を他に引きつける案が出た際に、聯合艦隊参謀長宇垣纏はそれでは米艦隊を引き出せないと説明、この直後に大海令があり、攻略が主目的であると示され、聯合艦隊の解釈が間違っているのではないかと思ったという。
大海令第18號により、布哇攻略の前哨戰として山本、参謀長・宇垣纏の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。
これは戰艦「大和」他の戰艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃、参加する初めての作戰であった。
渕田美津雄中佐によれば、第一航空艦隊航空参謀源田実は當時、第一段階作戰の後始末でミッドウェー作戰を検討する暇も無かったと打ち明けており、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空機搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり(航空機搭乗員の士気に関わるため)、ミッドウェー作戰の研究どころではなかったという。
草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く叛對せず、何とかやれるだろうと考えていた。それより布哇攻撃の戰死者の2階級特進の方に関心があった」という。
當初、珊瑚海海戰の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の空母「瑞鶴」をミッドウェーに、大破した「翔鶴」を修理後アリューシャン作戰に回す予定であった。
しかし「翔鶴」の修理には3ヶ月を要し、また「瑞鶴」も無傷であったものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊して補充を待っている状態であり、本作戰に参加できなかった。
これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4對3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、米軍より優勢であった。
ただしミッドウェー基地の航空機を計算にいれると、航空戰力比は日本軍「戰斗機105、急降下爆撃機84、雷撃機94、艦偵2、水上戰斗機24、水上偵察機10、計319(南雲部隊、近藤部隊、輸送部隊合計)」、米軍機動部隊「戰斗機79、急降下爆撃機112、雷撃機42」、米軍基地戰力「戰斗機27、急降下爆撃機27、雷撃機6、飛行艇32、大型爆撃機23」総計348機となって、ほぼ互角であった。
この「翔鶴」・「瑞鶴」の2隻の運用については、後述の「ヨークタウン」の事例と比較され、本海戰における日本側の敗因の一つとして批判の對象となる事が多い。
また米國歴史學者ゴードン・ウィリアム・プランゲはアリューシャン方面に空母「龍驤」、「隼鷹」を投入したことが、山本五十六最大の失策だったと指摘している。
出撃前、一航艦参謀長草鹿龍之介は、攻撃日が決まっているので奇襲の機動余地がなく、空母はアンテナ受信能力不足で敵情がわかりにくいので、聯合艦隊が敵情を把握して作戰転換を指示することを聯合艦隊参謀長宇垣纏に取りつけた。

「亜米利加軍の對応」
ー情報収集と分析ー
米軍は日本軍の来襲についての情報を収集、分析し、ミッドウェー作戰に備えていた。
1942年3月4日、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い(K作戰)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近し、撃墜されたことをふまえて、日本軍の攻勢の兆候と判断した。
ただ、これは誤解で、実際には日本軍の爆撃は攻勢作戰とは関係のない偵察監視・妨害作戰に過ぎなかった。
日本海軍の主力部隊は南方戰線から日本本土へと歸投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、布哇、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。
米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響している。
真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の戰略暗號 "D"は、亜米利加軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。
1942年4月頃には、布哇真珠湾の亜米利加海軍 レイトン(情報)班が、日本軍の暗號を断片的に解読し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戰を企図していることについても、おおまかに把握していた。
この時点では時期・場所などの詳細が不明であった。
その後、5月ごろから通信解析の資料が増え、暗號解読との検討を繰り返して作戰計画の全體像が明らかになると、略式符號「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。
しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。
亜米利加側は、日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。
華盛頓(ワシントン)の亜米利加統合参謀本部は攻撃目標を布哇、陸軍航空隊では桑港(サンフランシスコ)だと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。
5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、チェスター・ニミッツ大将は各種情報と戰略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、布哇所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。
5月11日ごろ、諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。
彼は、ミッドウェー島の基地司令官に対してオアフ島・ミッドウェー間の海底ケーブルを使って指示を送り、ミッドウェーから布哇島宛に「海水のろ過装置の故障により、飲料水が不足しつつあり」といった緊急の電文を英語の平文で送信させた。
その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クェゼリン環礁所在の第六艦隊説もあり)から發せられた暗號文に、「AFは真水不足という問題あり、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、AFはミッドウェー島を示す略語であることが確認された。
こうしてミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。
なお、このエピソードについては、実際の暗號解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。
たとえば、沈没する空母「飛龍」から脱出後、米軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、米軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの飛鷹型航空母艦「隼鷹」の写真を見せられて仰天している。
萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。
萬代は暗號解読云々よりも、むしろ聯合軍諜報活動の方が聯合軍の情報戰勝利に影響を与えたと述べている。
また、半藤一利らによれば、該當する日本側の電文は残っていないという。
5月26日までに布哇の情報隊は暗號解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。
ニミッツ大将はこの結果をミッドウェー基地の部隊に伝えたが、華盛頓ではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。
ニミッツ大将は、日本軍が桑港を攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、自己の意見がほぼ間違いないと主張した。
この論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戰準備を進めた。
5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読できなくなった。
一方、日本軍では情報管理に綻びが見え始めていた。
空母「飛龍」では出發前に誰もがミッドウェー作戰を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある。
異動してきた士官が「今度はミッドウェーですね」と挨拶し、さらに日用品や食料品を機関部の通路にまで詰め込んだ。
聯合艦隊司令部も、ミッドウェー島占領後に配備予定の21機の零式艦上戰斗機(第六航空隊)を4隻の空母に詰め込んだ。
野村留吉(佐世保鎮守府参謀)によれば、海軍第二特別陸戰隊は「6月以降、當隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と電報を打ったという。
また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦「加古」艦長の高橋は、息子から近々行われる大作戰について教えてくれとせがまれ困惑していた。
白石萬(第二艦隊参謀長)は「聯合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている。
そして山本五十六に至っては愛人の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に『5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。
この戰いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう』と記している。

ー事前準備ー
布哇諸島は、米國にとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。
ミッドウェーは布哇諸島の前哨であり、戰略的要所である。
ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島守備隊の指揮官のシマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。
このとき、シマード中佐は兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将はシマード中佐の要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。
こうして、ミッドウェー島に集結した航空機は當時最新鋭のTBFを含む約120機、亜米利加海兵隊を含む人員の補強は3027人に達し、防爆掩蓋や砲第も配備していた。
陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めの部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。
それでも、日本海軍陸戰隊5000名を撃退するには十分な兵力だった。
布哇の情報隊は、日本海軍のミッドウェーへの攻撃が6月3日から5日までに行われることを事前に察知し、日本側が陽動作戰として計画していた、空母「龍驤」と「隼鷹」を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせてアッツ島、キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する作戰も陽動であることを事前に見抜いており、ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戰計画を立案した。
日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の指揮下にある使用可能な戰力を全て投入しても對抗するためには不足が大きかった。
そのため、アリューシャン・アラスカ方面には最低限の戰力を送るにとどめ、主力をミッドウェーに集中することにした。
亜米利加軍の作戰計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戰計画第29-42號』として發令され、内容は、第1に敵を遠距離で發見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第4にミッドウェー島守備隊は同島を死守などというものであった。
5月28日に作戰計画を發した時点において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。「サラトガ」は日本海軍の潜水艦による攻撃で損傷を受けて修理を要する状態にあり、第17任務部隊(TF-17)の2隻は、次にのべるように珊瑚海海戰により大打撃を受けていた。
フレッチャー少将の第17任務部隊は、珊瑚海海戰においてポートモレスビー防衛を成功させ、日本海軍の軽空母1隻撃沈し、主力空母にもダメージを与えたものの、自身も主力空母「レキシントン」を失い、「ヨークタウン」が中破するという犠牲を払っていた。
「ヨークタウン」への命中は爆弾1發のみであったが、排煙経路を破壊されるという重大なダメージを受けており、機関からの燃焼煙を正常に排出できないことでボイラーが出力を上げられず、速力が24ノットに低下していたのである。
また、2發の至近弾によって左舷燃料タンクの溶接が外れ、燃料が漏れ出していた。
特に珊瑚海海戰では艦隊付属の油槽船「ネオショー」を失っていたため、この燃料漏れは海上での立ち往生という重大な結果を招きかねなかった。
ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊を布哇に呼び戻した。
途中で何とか燃料を補給できた「ヨークタウン」は5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられて驚異的な応急修理が実施された。
特に燃料タンクの損傷については、亜米利加西海岸の華盛頓州ブレマートン港にて長期の修理を行う必要があるとの見通しがあったが、布哇での72時間の不眠不休の作業によって応急修理が施され、戰斗艦としての機能を取り戻し、「ヨークタウン」は5月30日に乾ドックを出た。
出撃時、艦には修理工が乗ったままであり、戰場へ向かって航行中も修理が続けられた。
このことについて乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している。
また、珊瑚海海戰にて大きく損耗した「ヨークタウン」を母艦とする第5航空群は、修理のために本國に戻る「サラトガ」の第3航空群と入れ替えることで、亜米利加軍は3隻目の空母をこの戰斗に参加させることができたが、これは當時の亜米利加海軍太平洋艦隊が投入できる空母戰力の全てであった。
もし、ニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊の「エンタープライズ」、「ホーネット」の2隻のみであった場合、戰いの様相もまた違っていた可能性は高い。
前述にもあるが、日本側は亜米利加海軍の太平洋における戰斗可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、「ワスプ」や軽空母が出現することはあっても、先の珊瑚海海戰で自力航行不能にまで損害を与えた米空母「ヨークタウン」がミッドウェー作戰に間に合うことを考慮していなかった。

「戰斗の経過」
ー亜米利加海軍機動部隊の出撃ー
1942年5月28日、亜米利加海軍太平洋艦隊司令長官発の作戰計画に従い、「エンタープライズ」、「ホーネット」を基幹とする第16任務部隊(TF-16)が真珠湾を出撃し、続いて5月30日には第17任務部隊(TF-17)も基幹となる「ヨークタウン」の緊急修理の完了を待つ形で真珠湾を出撃した。
各任務部隊は、ミッドウェー島へ襲い来る日本軍と戰い、作戰計画において死守命令を受けたミッドウェー島守備隊を助けるべく、一路ミッドウェー島を目指した。

ミッドウェイの戦況

2020-06-05

ー日本軍のミッドウェー海域進出ー
昭和17年5月27日(海軍記念日)、南雲忠一海軍中将率いる第一航空戰隊(赤城、加賀)、第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が廣島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した。
主力部隊他も2日後に同島を出撃している。
三和義勇(聯合艦隊作戰参謀)は『今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戰は出来ず。我はこれを恐れる』『長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。戰わずして敵に勝つの概ありと言うべきか』と日記にしたためている。
宇垣は米軍の無線交信が増えたことを気にして『日本軍輸送船團が察知されたのではないか』と疑ったがそれ以上の手を打つことはなく、戰後日記を分析した千早正隆は「これ以上なく悔やまれる」と述べている。
5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船團が水上機母艦「千歳」、駆逐艦「親潮」、「黒潮」と共にサイパンを出航した。
海軍陸戰隊(太田実海軍少将)と設營部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船團は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦神通)他に護衛され、北上した。
作戰では日本側の事前索敵計画として6月2日までに2個潜水戰隊をもって哨戒線を構築する予定だった。
しかし、担當する第六艦隊(潜水戰隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戰隊の内、第二潜水戰隊は印度洋での通商破壊戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・阿弗利加での作戰任務中、第一潜水戰隊は北方作戰に充てられる事になった為どれも作戰には投入できなかった。
このため、「海大型」で構成される第三・五潜水戰隊が担當する事になったが五潜戰は日本からクェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戰が通知された5月19日時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられた為、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは6月4日になってしまった。
特に第16任務部隊が6月2日に五潜戦の担當海域を通過しており本作戰における大きな禍根になった。
次に予定されていたのは第二十四航空戰隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。
しかし二式大艇によるウェーク島を経由した索敵計画だったがウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎた為、経由地がウォッゼ環礁に変更された為ミッドウェー全海域の索敵が出来ず、更にパイロットの技量不足で夜間着水が出来ず薄暮までにウォッゼ環礁に歸還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)短縮された為、結局米艦隊を發見する事は出来なかった。
仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。
最後に計画され、聯合艦隊が最も重視した第2次K作戰は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戰の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である。
第1次は3月に実施し、さらに二式大艇による布哇空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。
しかし、米軍は日本軍の作戰を暗號解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。
潜入した伊123は「見込み無し」という報告を送った。
これを受け第十一航空艦隊は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戰に指示した。
この作戰も、もし実施されていたらオアフ島には米空母がいないことが判明し、以後の作戰が大きく変わった可能性が高かった。さらに南雲機動部隊にも作戰中止を聯絡しなかった。
6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦「大和」に乗り込んだ聯合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母をらしい呼び出し符號を傍受した。
聯合艦隊首席参謀黒島亀人によれば、4日頃に大本營の知らせか傍受かでミッドウェーに機動部隊ががいる兆候をつかみ、山本が一航艦に知らせるかと聞いたが、黒島は、無線封止の優先、一航艦が搭載機の半数を反撃に備えていること、機動部隊も兆候をつかんだであろうことから、知らせないように具申したとして自分の失敗であると話している。
聯合艦隊参謀佐々木彰によれば、4日に通信呼出符號を傍受したという。
回虫から来る腹痛に悩まされていた山本だが、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた。
だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた。
しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戰を続けた。
この件を取材した亀井宏によれば、黒島参謀を含めて聯合艦隊、軍令部、第六艦隊、全員の証言が一致しなかったという。
土井美二(第八戰隊首席参謀)は、草鹿龍之介参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたと証言し、草鹿の回顧録にも同様の記述がある。
日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦「赤城」は「飛龍」、「蒼龍」、「榛名」、「霧島」の艦影を見失った。
「飛龍」と「霧島」は衝突しかけたため、司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、長波無電を使用して艦隊の針路を定めた。
無線の使用により米軍が南雲部隊の行動を察知したという批判が日本側にあるが、米軍側にこの通信を傍受した記録はない。
6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦「秋雲」を分離した。
午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している。
午後4時30分、「赤城」と「利根」が米軍機らしき機影を發見すると、「赤城」から3機の零戰が發進して迎撃に向かった。
南雲部隊は、誤認の可能性が高いと判断している。
午後11時30分、「赤城」は雲間に米軍機を発見して総員を戰斗配置につけたが、その後は平穏に過ぎた。
「赤城」では日本軍輸送船團が爆撃を受けたことを知り、また米軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に對する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米空母に関しては無警戒であった。

ー米軍の哨戒と日本軍輸送船團攻撃ー
米軍は5月30日以降、ミッドウェー島基地航空隊の32機のPBYカタリナ飛行艇による哨戒が行われていた。
6月2日、フランク・J・フレッチャー少将の第17任務部隊とレイモンド・スプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。
この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。
6月3日(09:00)、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戰隊を發見する。
(12:30)、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊のB-17爆撃機9機(指揮官:ウォルター・スウィーニー中佐)が發進、攻撃に向った。
日本時間6月4日午後1時(16:23)、船團を發見したB-17部隊は爆撃を開始し、戰艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した。
実際は輸送船「あるぜんちな丸」「霧島丸」が至近弾を受けたのみで損害も無かった。
(21:30)、オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇4機(指揮官:チャールズ・ヒッパード中尉)に魚雷を積んだ雷撃隊が出撃する。(現地時間6月4日01:15)レーダーで船團を發見(1:43)し、雷撃を開始した。
夜間だった事で完全な奇襲になり、輸送船「清澄丸」が機銃掃射され、「あけぼの丸」に1本が命中し戰死者11名が出たが、両船とも航行に支障はなかった。
この時、船團を護衛すべき第七戰隊(栗田健男少将)の重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)は船團を見失って離れた地点にいた。
これは栗田のミスというより、田中頼三少将(船團指揮官・第二水雷戰隊司令官)の判断により、輸送船團が予定航路から北100浬地点を航行していたからである。
ミッドウェー基地からの艦隊發見の報を受け、太平洋艦隊司令部は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて攻撃に向わないよう緊急電を打った。
フレッチャー司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。
午後4時50分(19:50)には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している。
この段階では、フレッチャーとスプルーアンスも南雲機動部隊の位置を把握していなかった。

ー日本軍のミッドウェー島空襲ー
ミッドウェー作戰では、二つの時間が存在する。
米軍はミッドウェー島と同じ西経日付を使用し、さらに米軍機動部隊は日付帯時間に10時間を加えているので、ミッドウェー時間より2時間遅れている。
日本軍は東経日付を使用し、さらに東京時間を使用している。
従って日本軍各艦各隊の戦闘詳報も東京時間であり、ミッドウェー時間とは21時間異なる。
ここから(00:00)内を現地ミッドウェー時間とし、戰斗詳報に記載された東京時間を「午前/午後○○時○○分」で併記する。
「軍艦加賀戰斗詳報」によれば、日の出は日本時間6月5日午前2時、日没は午後4時頃、南雲機動部隊上空の天候は曇り、雲量8、雲高500から1000であった。
日本時間6月5日(現地時間6月4日1:30)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後出撃待機となり命令を待った。
一時間後、搭乗員整列が下令、艦長や航空群司令からの指示や注意事項が通達された。
日本時間午前1時15分(4:15)、ミッドウェー基地からPBY飛行艇による哨戒隊、15分後には第17任務部隊の空母ヨークタウンからSBD ドーントレス爆撃機からなる偵察隊が航空偵察に出撃した。
ウォリィ・ショート大尉の隊は日本軍水上偵察機1機と交戰したと報告した。
この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方200浬を航行している。
日本時間6月5日午前1時30分(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊(友永丈市大尉指揮:零式艦上戰斗機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機)を發進させた。
本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は虫垂炎による手術を行ったばかりなので出撃できない。
源田実航空参謀も風邪により熱を出していた。
日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始する。
近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日と決定されており、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戰斗力を奪わなければならなかった。
奇襲の成立が前提にあり、空襲の攻撃主目標は地上・上空の飛行機、副目標が滑走路、航空施設、防空陣地であった。
源田実参謀によれば、滑走路が副目標であるのは支那事変の戰訓から長期間使用不能にすることが困難であるから、また、艦爆が対空砲火による被害が大きいことも支那事變でわかっていたが命中率の良さから採用し、800キロ爆弾は開戰後の経験から陸上攻撃に大きな効果があることが分かっていたため採用したという。
各空母からの発艦機数は、「赤城」から零戰9機、九九艦爆18機、「加賀」から零戰9機、九九艦爆18機、「蒼龍」から零戰9機、艦攻18機(800kg爆弾装備)、「飛龍」から零戰9機、艦攻18機である。
このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 飛特少尉)が故障で引き返している。
空母に残った戰力は、零戰36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)であった。
一航戰の艦攻には航空機用魚雷が装着され、各空母格納庫で待機。
二航戦はセイロン沖海戰の戰訓を踏まえ陸上攻撃・艦船攻撃どちらでも對応できるようにする為未装備状態とした。
また偵察機として空母「赤城」 、「加賀」から九七式艦攻各1機、重巡洋艦「利根」、「筑摩」から零式水上偵察機各2機、戰艦「榛名」から九五式水上偵察機が發進した。
索敵機の發進は日の出の30分前、午前1時30分と定められてい。
だが第八戰隊司令官阿部弘毅少将の判断で「利根」は對潜哨戒につく九五式水上偵察機の發艦が優先された。
このため筑摩機は(04:35)午前1時35分(第5索敵線)、(04:38)午前1時38分(第6索敵線)に零式水上偵察機が発進、(04:50)午前1時50分に對潜哨戒機發進。
「利根」は(04:38)午前1時38分に對潜哨戒機、(04:42)午前1時42分(第3索敵線)、(05:00)午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が發進した。
戰斗詳報には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6號機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある。
筑摩の遅れは、機長兼飛行長の黒田信大尉によれば、待機していたが艦長から發艦命令がなかったので催促したという。
艦長の古村啓蔵によれば、發艦が遅れた理由は思い出せないが催促されて判断し發艦させたという。
利根の遅れは、通信参謀矢島源太郎と飛行長武田春雄によれば、射出機の故障は記憶になく、大きく遅れた感じはなかったという。
第八戰隊首席参謀土井美二中佐によれば、なにか滑走車のピンが抜けた入らないで騒いでいた気がするという。
最後に各空母より零戰1個小隊3機が直掩のため出撃した。
このうち、「加賀」の零戰1機が故障のために飛び立てず合計11機となる。
そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。
午前2時20分(05:20)、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信號が送られた。
これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を對地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。
仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戰3機となるはずだった。
午前2時15分(05:15)ごろ、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍零式水上偵察機 (利根4號機)を發見する。
近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告した。
日本側もPBY飛行艇を發見し、警戒隊の軽巡洋艦「長良」から、続けて戰艦「霧島」から敵機發見の煙幕があがった。
南雲機動部隊は直掩零戰隊を發進させはじめたが、米軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戰隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった。
午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を發見・報告した。
米軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。
両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元にして、(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。
この平文電報は「赤城」でも傍受している。
空襲が予想されるミッドウェー基地では午前3時(06:00)に迎撃の戰斗機26機(バッファロー20、ワイルドキャット6機)が出撃し、続いてTBFアベンジャー雷撃機6機、B-26マローダー爆撃機4機、 SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機という混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて發進した。
基地には予備のSB2U 5機及びSBD 3機が残された。
午前4時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母發見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると「エンタープライズ」のスプルーアンスに対して攻撃を命令した。
米海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスは「エンタープライズ」と「ホーネット」の攻撃隊發進を午前4時(07:00)と指定した。
午前3時16分(06:16)、ミッドウェー基地上空の米軍戰斗機隊は接近する艦攻・艦爆・戰斗機隊の順で進撃する日本軍攻撃隊(友永隊)107機を發見する。
戰斗はカタリナ飛行艇の吊光弾投下と米軍機の奇襲で始まり、先頭の友永隊長機を始め艦攻多数が火に包まれ、直後に零戰隊が逆襲に転じて空中戰となった。
約15分の空中戰は日本側の勝利に終わる。
迎撃したF2Aブリュースター・バッファロー戰斗機20機のうち13機が撃墜され、F4Fワイルドキャット戰斗機6機のうち2機が撃墜され、歸還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。
米軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した。
映像撮影のため派遣されていた映画監督のジョン・フォードなどが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戰斗指揮所、發電所、一部の對空砲臺を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった。
九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している。
日本軍攻撃隊は、米軍戰斗機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戰2機を失った。
残る機も相當数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戰斗機12(修理不能2)が損傷した。
友永大尉機も被弾によって無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている。
米軍側は空中戰で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戰斗機も被弾して出撃可能機は2機となった。
また、歸途につく艦攻隊に最初の空戰で海面に不時着した艦航隊第二中隊長機菊池六郎中隊長以下3名がゴム筏の上でマフラーを振っているのが發見され非常食が投下されたがその後の戰況のため救助されることはなかった。
攻撃の成果が不十分と判断した友永大尉は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に對し『カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)』と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた。
2ヶ月前のセイロン沖海戰と全く同じ展開である。
ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分(06:49)、筑摩4號機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前3時55分)。
午前5時55分、利根1號機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戰6機を直掩に加えた。
米軍側記録によれば、「ヨークタウン」から發進した10機の索敵機である。
同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戰21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった。

ー日本軍の兵装転換と米軍基地航空隊の空襲ー
日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していたころ、南雲機動部隊は「0400に至り敵第一次攻撃あり、その後0730頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というように米軍機の継続的な空襲に悩まされていた。
午前4時5分(07:05)、重巡洋艦「利根」は米軍重爆撃機10機を發見する。
米軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から發進したTBF アベンジャー雷撃機6機(フィバリング大尉)と、爆弾のかわりに魚雷を抱えたB-26マローダー双發爆撃機4機(コリンズ大尉)だった。
シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戰斗機を投入してしまったため、彼らは戰斗機の護衛なしに進撃してきたのである。
「赤城」と「利根」が發砲し、直掩の零戰10機が迎撃する。
アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した。
空母「赤城」は米軍の魚雷を全て回避した。
被害は機銃掃射で「赤城」三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、「赤城」(旗艦)の通信能力に支障が生じた。
「赤城」を狙ったB-26隊は魚雷2-3本命中を主張しているが、実際には回避されている。
B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。
ミッドウェー基地から發進した米軍陸上機による空襲は、同島の基地戰力が健在である証拠であった。
友永隊の報告をふまえ、南雲司令官はミッドウェー島基地への再空襲を決定する。近藤信竹中将の率いるミッドウェー攻略部隊(第二艦隊)が6月7日に上陸を開始する前に、米軍基地航空戰力を壊滅させる必要に迫られたからである。
午前4時15分(07:15)、南雲司令部は艦攻に魚雷を装備していた第一航空戰隊(赤城、加賀)に對し、『本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換』と通知した。
搭載する九七艦攻のほとんどがミッドウェー空襲隊に加わり、九九式艦上爆撃機しか残っていない第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)に対しては、爆装せず待機が命じられた。
米側の二航戰の資料によれば、雷装から爆装へ転換し終わるにはかなり時間がかかるため、後から未装備の艦爆を爆装させ始めても間に合う事と、歸投する空襲隊の収容をしなければならなかった為である。
海戰前に「飛龍」で行われた実験では、魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっていた。
燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われた。
その頃、亜米利加海軍第17任務部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを窺っていた。
午前3時7分(06:07)、フレッチャーはスプルーアンスに「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じ、これを受けたスプルーアンス少将は午前4時(07:00)過ぎに攻撃隊發進を命令、第16任務部隊は次からなる117機の攻撃隊を發進させた。
空母「エンタープライズ」
F4F戰斗機10機(VF-6、指揮官:ジェームズ・グレイ大尉)SBD爆撃機33機(指揮官:第6航空群司令クラレンス・マクラスキー少佐、VB-6、指揮官:リチャード・ベスト大尉、VS-6、指揮官:ウィルマー・ギャラハー大尉)TBD雷撃機14機(VT-6、指揮官:ユージン・リンゼー少佐)空母「ホーネット」
F4F戰斗機10機(VF-8、指揮官:サミュエル・ミッチェル少佐)SBD爆撃機35機(VB-8、指揮官:ロバート・ジョンソン少佐、VS-8、指揮官:ウォルター・ローディ少佐)TBD雷撃機15機(VT-8、指揮官:ジョン・ウォルドロン少佐)
しかし、午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を發見されていなかった上、發艦した飛行隊を小出しにすることは戰術としては非常にまずいにもかかわらず、敢えてスプルーアンスは發進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した。
艦をあげての全力攻撃で、全機を飛行甲板に並べて一度に發進させることができなかったのである。
結果的に、このスプルーアンスの決断が勝因の一つになる。
また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(當日はヨークタウンが警戒担當)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、次からなる35機の攻撃隊を發進させた。
空母「ヨークタウン」
F4F戰斗機6機(VF-3、指揮官:ジョン・サッチ少佐)SBD爆撃機17機(VB-3、指揮官:マクスウェル・レスリー少佐)TBD雷撃機12機(VT-3、指揮官:ランス・マッセイ少佐)
「ヨークタウン」は(09:05)に攻撃隊を發進させると、すぐにウォリー・ショート大尉のSBD爆撃機17機(VS-5)、戰斗機6を甲板に並べ、發進準備を行った。
また潜水艦「ノーチラス」は日本戰艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦(駆逐艦「嵐」)を雷撃するも命中せず、爆雷6發で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかっ。
午前4時28分(7:28)、利根4號機(機長は偵察員の甘利洋司 一等飛行兵曹、操縦員は鴨池源 一等飛行兵、電信員は内山博 一等飛行兵)は「赤城」の南雲機動部隊司令部に對し、『敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 (南雲機動部隊から200浬)』と發信した。
ところが、位置報告がずれており、実際の米艦隊の位置は160km北に偏移している。
新規に搭載した機體であったため、コンパスの自差修正ができず、コンパスに10度のずれがあった為とされる。
約10分後に受信した南雲部隊は、午前4時45分(7:45)、魚雷から陸用爆弾への兵装転換を一時中断した。
これについて草鹿参謀長は午前5時ちょうどに利根4號機報告を知ったと著作で述べているが、「赤城」の通信記録とは矛盾している。
予期せぬ米艦隊發見報告に、南雲司令部は興奮した。
一方で特に動揺もなく平静だったという証言もある。
午前4時47分、南雲司令部は「艦種を確かめ触接せよ」と利根4號機に命令した(これについて日本軍戰斗詳報とミッドウェー時間は約21時間ずれているので、ミッドウェー現地時間6月4日午前8時は日本軍記録6月5日午前5時となり、両軍の戰斗レポート(戦闘詳報)に記入された日付時刻が異なることは、ミッドウェー海戰の研究を混乱させることがある)。
なお利根4號機が米艦隊の位置を報告する前、筑摩1號機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長)が米軍機動部隊上空を通過していたが、雲が低かったため米艦隊を發見できなかった。
利根4號機からの返信を待つ南雲機動部隊に、新たな米軍航空隊が接近していた。日本時間午前4時53分(現地時間7:53)、戰艦「霧島」から敵機發見を意味する煙幕が展開され、ヘンダーソン少佐が指揮するミッドウェー基地の亜米利加海兵隊所属SBD ドーントレス爆撃機16機が艦隊上空に到達した。
午前4時55分(7:55)、同隊は日本軍直掩機(零戰)の迎撃を受けヘンダーソン機以下6機が撃墜され、なおも空母「飛龍」と「蒼龍」を空襲するも命中弾を得られず、ヘンダーソン隊長機を含む合計8機を失った。
ヘンダーソン戰死後に攻撃隊を率いたエルマー・G・グリデン大尉は、航行する日本空母の甲板に日の丸が描かれており容易に見分けられたと述べている。
米軍側は「飛龍」に命中弾2、「加賀」に命中弾3を主張しているが、命中した爆弾は1發もない。
米軍機の攻撃は続いた。
午前5時10分(8:10)、B-17爆撃機17機(スウィニー中佐)による空襲が行われ、「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」が狙われたが、損害は無かった。
攻撃したB-17隊も無傷だったが、空母に直撃弾1、不確実1發を主張している。
1機のB-17乗組員達は基地に戻ると、彼らの爆撃が日本艦隊を撃破したと主張した。
最後に海兵隊のSB2Uビンディケーター爆撃機11機(ノリス少佐)による空襲が行われた。
この隊は零戰の防御網をくぐりぬけて空母を狙うのは困難と判断し、戰艦「榛名」を狙った。
直掩機の迎撃で1機を失い、2機が燃料切れで不時着、直撃弾2発を主張したが、「榛名」は無傷だった。
日本軍の戰斗詳報は「0510:赤城、飛竜ニ爆弾命中スルヲ認ム(誤認)」、「敵飛行機、蒼竜(原文ママ)ニ急降下、利根(水偵)揚収」、「加賀後方ニ爆弾投下命中セズ」、「赤城左120及500mニ爆弾2個弾着スルヲ認ム」、「利根左100及4000mに爆弾投下、蒼竜飛竜、盛ニ發砲、蒼竜周囲ニ猛烈爆弾投下」、「赤城後方ニ爆弾投下、命中セズ」、「敵飛行機10機、榛名ニ對シ急降下、爆弾投下命中セズ」など、断続的に空襲を受けていることを記録している。
ニミッツ提督は「ミッドウェー基地隊は日本軍艦艇10隻に損傷を与え、1-2隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し、基地隊主戰力は失われた」とキング大将に報告した。
この後、ミッドウェー基地航空隊はSB2U 5機、SBD 6機で夜間攻撃に出撃したが会敵せず、SB2U 1機を事故で喪失した。

ー米軍機動部隊發見と2度目の兵装転換ー
日本時間午前5時から午前5時30分(08:00から08:30)にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲部隊上空に戻ってきた。
ちょうど米軍ミッドウェー基地航空隊が南雲機動部隊を攻撃している最中であり、日本軍攻撃隊は母艦上空での待機を余儀なくされている。
「赤城」からは、護衛の駆逐艦が友永隊を誤射する光景が見られ、後に着艦した千早大尉(赤城艦爆隊)と山田大尉(赤城艦戰隊)は友軍に激怒している。
混乱した状況下、南雲は利根4號機に對し「敵艦隊の艦種知らせ」と命じた。
すると午前5時20分ごろ、『敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻(0509發信)』という報告があった。
この段階での南雲司令部は、米軍空母が存在するという確証を持っていない。
しかし、午前5時30分(08:30)、『敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(発午前5時20分)』との打電が入った。
この空母は「ホーネット」である。
偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により10分の差が生じている。
草鹿龍之介参謀長は「予想していなかったわけではないが、さすがに愕然とした」と述べている。
南雲司令部は米艦隊の正確な情報を知る必要にせまられた。
午前5時30分(08:30)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は二次攻撃に備え250kg爆弾を揚弾する。
同時刻、南雲は山口に對し、空母「蒼龍」に2機だけ配備されていた試作高速偵察機十三試艦上爆撃機(艦上爆撃機彗星の試作機)の投入を命じ、同機はただちに發進した。
この偵察機の最高速度は約519km/h、巡航速度約426km/h。
利根4號機などの零式水上偵察機は最高速度367km/h、米軍主力戰斗機F4Fワイルドキャットの最高速度は514km/hである。
十三試艦爆は当時の米軍戰斗機の追撃を受けても十分退避可能であり、正確な情報を持ち歸ることができた。
午前5時30分(08:30)、偵察に出發した十三試艦爆と入れ替わるように蒼龍攻撃隊が歸還した。
この時第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)を率いていた山口多聞少将は、あらゆることを放棄して、すなわち護衛戰斗機もつけられるだけ、爆弾も陸用爆弾で、かつ一切の人情を放棄して直ちに第二次攻撃隊を発進させることを駆逐艦「野分」を中継して『直ちに攻撃隊發進の要ありと認む』と進言した。
J・パーシャルやA・タリーの調査では、この直前のB-17の空襲で撮影された「蒼龍」と「飛龍」の上空写真には飛行甲板に航空機は並んでおらず、実際は攻撃隊の準備は出来ていないとしているが、彼らは山口の進言を「飛行甲板上に並べてある攻撃隊だけでも直ちに發艦させよ」と誤訳している。
山口の進言の意図は「兵装転換を行わずに攻撃隊の發進を急げ」であると供に、上述の通り、燃料補給と弾薬補給を求める直掩戰斗機が着艦するため飛行甲板を開けねばならいため、兵装転換作業や攻撃隊の準備は各空母格納庫で行われており、飛行甲板上の状態を見て攻撃隊の準備状況を見極めようとしたパーシャルとタリーの調査は的外れである。
草加参謀長、源田航空参謀ら當事者より「艦爆機だけならすぐ發進させることはできた」(草加参謀長)等の証言があり、この進言時点で第二次攻撃隊の出撃は可能であった。
ただ偵察機の報告によれば米軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際の米軍機動部隊はもっと近くにいた)のと兵装転換自體、午前4時15分の転換開始から午前4時45分の一時中止まで30分しかたっておらず、殆どしていなかった。
これについて淵田美津雄は敵艦隊發見報告時点で、第二次攻撃隊・九七艦攻の魚雷から陸用爆弾への転換がほぼ終わっていたと述べているが、実際は「赤城」で6機、「加賀」で9機が済んでいただけだった。
南雲司令部は幾つかの條件を検討した。
1.九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、もともと陸用爆弾に換装した機が少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である。
2.第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)の九九艦爆の爆装は短時間で行える。
3.上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料が尽き掛けており、これ以上待たせる事は出来ない。
貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である。
4.敵艦隊攻撃隊を護衛する零戰が、南雲部隊を守るために殆ど發進しており、一度着艦して補給する必要がある。
弾薬と燃料を使い果たした零戰隊を護衛につけても意味がない。
5.戰斗機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戰や米軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。
南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない。
南雲司令部は、戰斗機の護衛をつけずに攻撃隊を出す危険性や第一次攻撃隊を見捨てることへの懸念から、歸還した第一次攻撃隊の収容を優先すべきと考える。
南雲は山口の進言を却下。
南雲は米機動部隊艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行い、日本軍攻撃隊は發進可能と判断した。
午前5時37分(8:37)、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する。
午前5時55分(08:55)、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた。
同時刻、重巡洋艦「筑摩」から「水上偵察機、午前6時30分(09:30)發進予定」との報告がある。
南雲には、第一航空戰隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分發進可能との報告、第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分から午前8時に發進可能との報告があっ。
午前5時45分(08:45)、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4號機からの追加情報が入る。
攻撃隊収容中の午前5時48分(08:48)、利根4號機から歸投するという電報が届いた。
阿部少将は第八戰隊(利根、筑摩)に交代の偵察機発進を命じると、利根4號機に「歸投まて」を命じた。
零式水上偵察機の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。
南雲も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握する為の長波輻射を利根4號機に命じた。
だが利根4號機は午前5時55分(8:55)に「敵攻撃機10機貴方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった。
後方の戰艦「大和」で南雲機動部隊からの電報を受信していた山本五十六以下聯合艦隊司令部は、予期せぬ米軍機動部隊が出現した事にたいして慌てなかった。
宇垣纏参謀長は司令部の雰囲気が「さては敵の機動部隊の激撃なる、よき敵御座んなれ、第二次攻撃は速に之に指向に、先づ敵空母を屠り、残敵を如何に処分すべきかと楽観的気分に在り」と述べている。
山本が黒島亀人先任参謀に「米艦隊への攻撃命令を出すか否か」を尋ねると、黒島は「南雲は兵力の半数を米空母機動部隊に対して準備しているから必要なし」と答え、聯合艦隊司令部は何も發信しなかった。

ー米軍艦載機の攻撃(雷撃)ー
第一次攻撃隊の収容は午前6時30分(9:30)までに完了したとされるが、「蒼龍」では午前6時50分頃までかかっている。
南雲は聯合艦隊(山本五十六長官)に米軍空母發見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する。
この状況下、午前6時20分(9:20)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊TBD デバステイター雷撃機14機が日本の機動部隊上空に到達、日本側では「赤城」や「筑摩」が確認した。
この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる。
米軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戰斗機の護衛の無いまま「赤城」を狙った。
一機の雷撃機は「赤城」の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は死を覚悟している。
デバステーター隊は零戰により全機が撃墜され、不時着水した機體から脱出したジョージ・ゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した。
ゲイ機は「蒼龍」を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戰に撃墜されたとされる。
戰斗後の名誉勲章推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる。
一方「ホーネット」の戰斗機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も發見できなかった。
戰斗機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機は「ホーネット」に歸艦した。
午前6時37分(09:37)、利根4號機から「燃料不足のため歸投する(發午前6時30分)」と連絡が入る。
阿部司令は午前7時(10:00)まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、歸還を許可した。
同時刻、利根4號機と交代すべく筑摩5號機が發進した。
午前7時(10:00)、「蒼龍」の十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した。
これは前述のように、利根4號機が報告した米艦隊の位置が100km以上ずれていた為である。
午前6時50分(09:50)、ユージン・リンゼー少佐率いるエンタープライズ雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した。
通信不良と聯携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズ雷撃隊を掩護できなかった。
エンタープライズ雷撃隊は「加賀」を目標にするが10機を失い、1機が帰還後投棄、零戰1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戰死する。
その上、命中魚雷も得られなかった。
戰斗機隊の連携ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失った事に生き残った隊員達は激怒し、歸還後に戰斗機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。
一方で、零戰の攻撃に積極性が見られず、度重なる發進、戰斗、着艦の聯続で疲労がたまっていたという推測もなされている。
(10:10)、ランス・マッセイ少佐指揮のヨークタウン第3雷撃隊が南雲部隊上空に到達した。
「飛龍」は他の3空母より前方を進み、雲の下を航行していたという。
ヨークタウン雷撃隊12機は、突出した「飛龍」を挟撃すべく2個小隊(6機)にわかれると、攻撃を開始した。
その上空では、戰斗機隊指揮官ジョン・サッチ少佐によって、彼の發案した對零戰空戰戰術サッチウィーブが初めて試されようとしていた。
この時点でヨークタウン戰斗機隊は6機だけである。
雷撃隊全てを護衛できずTBDデバステーター10機が撃墜され、残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名(隊長含)が戰死、「飛龍」に魚雷5本を發射したが、全て回避された。だが15機の零戰に6機で挑み、損害1機に對し5機撃墜という米軍側記録はサッチ・ウィーブ戦法の有効性を証明し、米戰斗機隊隊員に自信を持たせたという。
一方プランゲは「サッチ戰法はあまり効果がなかった。主任務である雷撃隊の掩護に関する限り、戰斗機隊は何の役にも立たなかった」と評している。
生還した雷撃隊操縦者ハリイ・コールは、零戰24機に襲われたと証言している。
コールの証言によれば、この時点でほとんどの日本軍直掩機がヨークタウン隊戰斗機隊と雷撃機隊に集中し、低空で戰っていたことになる。
この時、同隊雷撃機隊員が駆逐艦「嵐」に救助され重大な情報を供述したが、それについては後述する。

ー米軍艦載機の攻撃(急降下爆撃)、日本軍三空母炎上ー
その頃、クラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズ艦爆隊SBDドーントレス32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた。
マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する。
午前6時55分(09:55)、米軍潜水艦「ノーチラス」を攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦「嵐」を發見する。
エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する。
「嵐」は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた。
ただし「嵐」の戰友會は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、「嵐」は「赤城」直衛で傍を離れていなかったと主張している。
エンタープライズ艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断して北東進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を發見した。
この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズ艦爆隊は30機となった。
日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、マクスウェル・レスリー少佐率いるヨークタウン艦爆隊も戰場に到着する。
こうして南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズ艦爆隊とヨークタウン艦爆隊の同時攻撃となった。
日本側は先ほどのヨークタウン雷撃隊に對応して直掩零戰のほとんどが低空に降りており、さらに見張り員も雷撃機の動向や發艦寸前の直掩機に気をとられていたため發見が遅れ、「敵、急降下!」と「加賀」見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった。
「被弾した時、各空母甲板上には發進準備を終えた戰斗機隊、雷撃機が整列しており、米軍の攻撃があと5分遅ければ全機發進できた」と草鹿龍之介や淵田美津雄は主張している。
これにより、いわゆる『運命の5分間』説が巷間に広まっているが、これは誤りである。
日米生存者の証言や戰斗詳報の調査によりこの時点で各空母は直掩機の發着艦を行っており、攻撃隊は飛行甲板に並んですらいなかった。
赤城雷撃隊の松田憲雄電信員は、ちょうど「第二次攻撃隊員整列」のアナウンスがあり、搭乗員達が出撃前にお茶を飲もうと一息ついた時だったと証言している。
先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズ艦爆隊で、「加賀」を狙った。
日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、對空砲火も間にあわなかった。
午前7時22-24分(10:22-24)、マクラスキー少佐の率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラハー大尉機の投弾した4發目が飛行甲板後部に命中する。
続いて3發が短時間の内に命中した。
なお「加賀」を攻撃したのはレスリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張する米國研究者もいる。
午前7時25分(10:24)、レスリー少佐のヨークタウン艦爆隊17機がエンタープライズ艦爆隊に続く形で「蒼龍」へ攻撃を開始する。「蒼龍」は艦爆12-13機と記録。
發艦直後のアクシデントでレスリー少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」へ機銃掃射をもって突入した。
2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は「蒼龍」前部エレベーター前に命中して大爆發を起こし、大尉は發艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た。
ヨークタウン艦爆隊は直撃弾5發、至近弾3發を主張しているが、実際の命中弾は3發である。
後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。
命中弾はなかったが、駆逐艦「磯風」の後部に至近弾となった。
同時刻、エンタープライズ艦爆隊のうち、ベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、4機のみで旗艦「赤城」を狙った。
「赤城」では直衛の零戰が着艦し、補給を行い、ふたたび發艦する瞬間だった。
午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戰1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が「赤城」より發艦した時点で急降下がはじまる。
最初の1弾は左舷艦首約10mに外れたが(ベスト大尉は命中と主張)、続いて2発の爆弾が命中し、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が發生した。
命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1發だけという艦橋勤務信號兵や従軍カメラマンの証言もある。
發艦寸前だった零戰1機が爆風で赤城艦橋付近で逆立ちとなり、飛行甲板にいた淵田中佐も爆風により両足骨折の重傷を負った。
エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った。
約6分間のできごとであったが大東亞戰爭のターニングポイントとなる6分間であった。
空母「加賀」では艦橋近くの命中弾と燃料車の爆發により艦橋が破壊され、中にいた岡田次作艦長以下指揮官らが戦死した。
午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた天谷孝久飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦「萩風」、「舞風」に移乗する。
なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆發が2回起きた。
「加賀」は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。
戰死者は閉じ込められた機関部員を含めて800名弱で、航空機搭乗員では楠美正飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戰死した。
3發の爆弾が命中した「蒼龍」の被害は被弾空母の中で最も深刻だった。
被弾から20分後の午前7時45分(10:45)、総員退去が發令されている。
午後4時(19:00)に火災の勢いが衰え、楠本幾登飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。
直後、「蒼龍」は再度の爆發を起こし、楠本は救出不可能と判断する。
「蒼龍」は午後4時13分(19:13)に沈没した。
あえて艦内に残った柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戰死した。
搭乗員戰死者は機上・艦上合わせて10名で、江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。
「赤城」が被弾した爆弾は1-2發程度で機関部へのダメージはなく、十分復舊可能な範疇であった。
だが被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が發生する。
さらに、被弾直後に雷撃機4機を發見し、回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくなった。
これにより洋上に停止した。
赤城の南雲司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦「野分」に移乗したあと軽巡洋艦「長良」に移ったという。
直接「長良」に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗組員の証言もある。
午前8時30分(11:30)、南雲は「長良」に将旗を掲げた。
青木泰二郎艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により艦を救うことを断念し、午後4時25分(19:25)に総員退艦を命令した。
「赤城」の処置をめぐって聯合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分(10:25)、山本は「赤城」の処分を中止させた。
南雲は、木村進少将(第十戰隊司令官)に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている。
結局、6月6日午前1時50分(6月5日4:50)に処分命令が下り、午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した。
上記2隻と比べて「赤城」では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戰死者はそれらと比べ少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。
搭乗員の戰死者は機上・艦上合わせて7名である。
淵田美津雄中佐、板谷茂少佐、村田重治少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。

ー空母飛龍の叛撃―
空母「飛龍」は雲下にあり、また、ヨークタウン雷撃機の攻撃を回避するため他の3隻の空母から離れており、米軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった。
午前7時50分(10:50)、次席指揮官阿部弘毅第八戰隊司令官は「赤城」、「加賀」、「蒼龍」が被弾炎上していることを主力部隊に通報する。
阿部は「飛竜ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、続いて第二航空戰隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた。
第二航空戰隊司令山口多聞少将は阿部の命令を待たずに敵空母に叛撃するため、間合いを詰め始める。
確認では敵空母は一隻だったが、来襲機数から二隻と判断した。
艦爆攻撃の準備を終えて艦攻魚雷中であり、間に合った艦戰をつけた。
午前7時58分(10:54)、山口少将は、阿部に對し「我航空戰の指揮をとる」米空母に全力攻撃をかけることを告げた。
阿部をおいて後任の山口が主導権したのは、山口の性格と二航戰が主力であり、重要な戰機であると考えたためである。
敵空母は攻撃を終えた部隊を収容中であり、接近して攻撃力を發揮できる好機だった。
午前8時(11:00)、第一次波撃隊として小林道雄大尉指揮する零戰6機、九九艦爆18機の計24機が發艦した。
九九艦爆のうち、12機は250kg通常爆弾、陸用爆弾装備機は6機だった。
「飛龍」は第一波攻撃隊を發進させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した。
飛龍第一波攻撃隊が發進するのと同時刻、筑摩5號機が發信した米艦隊の位置情報が届いた。
第八戰隊は、筑摩4號機・5號機に對し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と聯絡している。
すぐに筑摩5號機から「敵空母の位置味方の70度90浬、我今より攻撃隊を誘導す0810」との聯絡があり、飛龍第一波攻撃隊の誘導を開始した。
また午前8時(11:00)、蒼龍十三試艦爆が米軍航空隊を發見し、南雲部隊に通報(着信午前8時40分。
30分後の午前8時30分、米軍機動部隊發見を發信している。
十三試艦爆は發信5分後歸路についたが、無線機の故障により、南雲部隊では米軍機動部隊發見の報告を受信しなかったという。
この頃、「赤城」の零戰隊7機が「飛龍」に着艦。
「加賀」からは零戰9機、「蒼龍」からも零戰4機、艦攻1機が飛龍に着艦した。
午前8時15分(11:15)、空母「ヨークタウン」では攻撃隊着艦作業がはじまったが、着艦事故が發生して甲板が損傷する。
11:50、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた。
偵察隊が發進してまもない午前9時(12:00)、レーダーが南西46浬に日本軍機を探知する。
「ヨークタウン」は重巡洋艦「アストリア」、「ポートランド」、駆逐艦「ハマン」、「アンダースン」、「ラッセル」、「モーリス」、「ヒューズ」に輪形陣を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット12機を發進させ。
午前8時20分(11:20)、帰還するエンタープライズ艦爆隊を日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戰隊(重松康弘大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして歸還、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助される。
このため攻撃隊護衛機は4機に減った。
それでも米空母に接敵する筑摩5號機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)は、ついに「ヨークタウン」を発見した。
F4F直掩隊12機の迎撃により零戰3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみが「ヨークタウン」を攻撃。
急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功し、爆弾3發が命中している。
1發がボイラー室に火災を發生させ、「ヨークタウン」は動力を失って航行不能となった。
フレッチャー司令官は、重巡「アストリア」に移乗し。
代償として、飛龍第一波攻撃隊は小林隊長機を含む艦戰3機、艦爆13機を失い、艦戰1機、艦爆5機が「飛龍」に辿り付いただけだった。
歸還した航空機も、零戰1が不時着救助され、修理不能艦爆1、修理後戰斗可能零戰1、艦爆2という状況だっ。
飛龍攻撃隊は「エンタープライズ型空母」に爆弾5發、陸用爆弾1發命中し、大破或いは大火災、撃沈報告。
しかし「ヨークタウン」は午前11時(14:00)過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノットで航行可能となっ。
また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩5號機は、午前9時5分(12:05)に米軍戰斗機の追跡を受け退避、その15分後、新たな米軍機動部隊を發見した。
午前9時(12:00)、南雲中将も「長良」の周囲に第三戰隊(戰艦榛名、霧島)、第八戰隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった。
それより前、駆逐艦「嵐」は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス(Wesley・Frank・Osmus)海軍予備少尉を救助し、尋問を行った。
有賀幸作第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を發信。
この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している。
1.空母はヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦約10隻。
2.ヨークタウンは巡洋艦2隻、駆逐艦3隻とを一團とし、他の部隊とは別働しつつあり。
3.(米機動部隊)5月31日午前真珠港發、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり。
4.5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、布哇方面主力艦の状況明らかならず)。
聯合艦隊は、米軍機動部隊の戰力と、出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戰斗機27)や、真珠湾攻撃で沈没した米軍戰艦群のうち、戰艦「アリゾナ」、「ユタ」、艦型不詳を除く戰艦4隻が回航修理中であることも証言している。
後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという。
オスマスは水葬に附された。
彼の名前はバックレイ級護衛駆逐艦「オスマス (護衛駆逐艦)(英語版)」に受け継がれている。
午前10時15分(13:15)、第八戰隊(阿部司令官)は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対し直ちに索敵機を發進させよと命じた。
午前10時30分(13:30)、「飛龍」から第二波攻撃隊(零戦6機、艦攻10機)が發進。
零戰2機(山本、坂東)は「飛龍」に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機だった。
筑摩4號機も發進した。
いれかわるように飛龍第一波攻撃隊が「飛龍」に着艦する。
さらに、午前10時30分(13:45)に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で發信できなかったことを報告した。
十三式試艦爆の偵察に對し、戰斗詳報は『敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり』と高く評価している。
この時点で、山口は利根4號機、筑摩5號機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った。
午前11時(14:00)、母艦「利根」で補給を終えた利根3號機、4號機が再び発進する。
午前11時30分(14:30)、戰艦「榛名」の偵察機(榛名1號機)も附近に空母がいる可能性を知らせた。
午前11時30分(14:30)、飛龍第二波攻撃隊は米軍機動艦隊を發見するが、それは復舊作業中の「ヨークタウン」だった。
筑摩5號機が撃墜されたため、友永隊は自力で米軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た友永丈市は「ヨークタウン」を「損傷を受けていない別の空母」と判断した。
友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始。
「ヨークタウン」は直掩F4F戰斗機16を向かわせ、零戰2機、艦攻4機を撃墜した。
続いて艦攻1機が對空砲火で撃墜されたが、4本の魚雷が両舷から挟み撃ちの形でヨークタウンに向かって放たれ、2本が左舷に命中する。
ボイラー室と發電機を破壊された「ヨークタウン」は航行不能となり左舷に傾斜、総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した。
戰果をあげた飛龍第二波攻撃隊は、艦戰3機、艦攻5機(友永隊長機含む)を失う。
戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷3本命中大爆発、4500mの高さにまで達する大爆發を認む。空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆發は(魚雷)發射後相當時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている。
友永大尉の九七式艦上攻撃機は、ミッドウェー島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。
友永は搭乗機を譲る部下の提案を拒否して出撃した。
米艦隊までの距離は近く、友永は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている。
ただし片翼のタンクにしか燃料を積まず、しかも重い魚雷を抱えての飛行はバランスを欠いて操縦が難しく、決死の覚悟であった。また橋本敏男(飛龍艦攻第二中隊長)によれば劇的なシーンなどなく、応急修理はしてあったはずだと推測している。
戰斗詳報は、第二中隊第二小隊機の目撃談をもとに、黄色い尾翼の友永機は對空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している。
山口少将は第一波攻撃隊(小林隊)と第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃を合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ2度攻撃したことに気付かなかった。
これは第二波飛龍攻撃隊が、雷撃した「ヨークタウン」の後方に「別の空母炎上中」と報告した為である。
第二波攻撃隊は、別の米空母が健在である可能性も報告している。
この頃、フレッチャー少将は空母「ヨークタウン」が攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母「飛龍」発見の報告を受けた。「ヨークタウン」を航行不能とされたフレッチャーは、スプルーアンスの「何か指示があれば承りたし」という信號に「なし、貴官の行動に順応す」と答え、全権を委譲している。

ー飛龍沈没―
空母「ヨークタウン」が飛龍第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃で航行不能となった午前11時30分(14:45)、偵察中のサッチ・アダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4、北緯31度15分、西経175度5分、15ノットで北上」(米軍機動部隊から72浬)と發信した。
駆逐艦のうち1隻は三本煙突の軽巡洋艦長良(南雲忠一中将乗艦)である。
戰艦「榛名」、重巡洋艦「利根」、「筑摩」、軽巡洋艦「長良」(南雲旗艦)、駆逐艦3隻は「飛龍」の周辺に集結していたのである。
空母「飛龍」発見の電文を受信した空母「エンタープライズ」はウィルマー・ギャラハー大尉率いるエンタープライズ爆撃隊10機、デイヴ・シャムウェイ大尉率いるヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戰斗機の護衛なしで發進させた。
午後12時40分(15:40)、飛龍第二波攻撃隊が着艦した。
友永機を含む零戰2機、艦攻5機を失い、艦攻4機が修理不能、零戰1機が不時着救助、零戰3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戰斗可能と報告している。
鹿江隆(飛龍副長)は「(米空母2隻撃沈により)これで1對1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという。
だが「飛龍」の戰力は戰斗機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少していた。
炎上する「赤城」に「もし發艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えたほどである。
山口は十三試艦爆により米軍空母の位置を把握し、同機の誘導により全兵力で薄暮攻撃をかける事を伝える。
これには、整備科が損傷機を修理することで、戰力が回復するかもしれないと山口達が考えたことも関係している。
攻撃力消耗から三隻目の撃破は難しいと考えた。
幕僚によれば、一次攻撃での被害が山口の予想をはるかに上回るもので、二次の著しい減少が三次の薄暮攻撃へ決めたという。
また、山口は二次の後に三次の準備をしたが、艦爆は六機であり修理を急がせ、三次攻撃の断行と少数兵力の板挟みにあったという。
この間、赤城・加賀・蒼龍から「飛龍」に着艦した零戰が交替で「飛龍」上空を守っていた。
敵からの攻撃に関して山口は「飛龍には他の艦戦もあるので上空警戒機で阻止できる」という意向を話した。
十三試艦爆の發進準備が終わり、友永隊を護衛して消耗した加賀所属零戰1機(山本旭一飛曹)が着艦しようとした時、米軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。
エンタープライズ艦爆隊指揮官ギャラハー大尉は、ヨークタウン隊に戰艦を狙うよう命令すると、「飛龍」飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した。
午後2時(17:30)、直衛の零戰6機が迎撃に向い、「飛龍」の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した。
続いてヨークタウン爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃する。
護衛の「利根」と「筑摩」が対空砲火で迎撃したが阻止できず、「飛龍」に爆弾4發が命中した。
「長良」からは、「飛龍」の飛行甲板、もしくはエレベーターが「飛龍」艦橋の前に突き刺さっているのが目撃された。
またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戰艦「榛名」を爆撃したが、至近弾に終わった。
ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネット艦爆隊15機は「利根」と「筑摩」を攻撃したが、全て回避されている。
この他にも「飛龍」と「筑摩」は午後2時30分(17:30)、午後3時15分(18:15)にハワイから飛来したB-17爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった。
炎上した「飛龍」は午後6時23分(21:23)に至るまで機関は無事だったため、離脱と消火につとめた。だが艦橋と機関科間の電話が不通となったため、機関科は全滅と判断された。
「飛龍」はしばらく洋上に浮いていた。
横付けされた駆逐艦が消火に協力したものの、誘爆が發生して消火不能となる。
午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口は南雲に総員退艦させると報告し、加来艦長と共に、駆逐艦「巻雲」の雷撃によって沈む「飛龍」と運命を共にした。
空母「飛龍」が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが、艦底部から脱出した機関科勤務34名が沈みゆく「飛龍」から短艇で脱出したのは、「巻雲」の魚雷が命中してから数時間後の午前6時6-15分だったという。
彼らは15日後に米軍に救助された。
戰死者は、戰斗詳報によれば1416名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名である。
搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戰死した。
ただし417名には脱出後に米軍に救助された飛龍機関科34名が入っている。

ー夜戰の検討ー
軽巡洋艦「長良」に移乗した南雲忠一中将は、日本時間6月5日午前8時28分(現地時間6月4日11:28)に筑摩偵察機から「敵は北東90浬」の報告を受けて水上戰とを決意し、午前8時53分に「今より攻撃に行く、集まれ」と攻撃命令を出した。
日本軍三空母炎上の報告を受けた聯合艦隊旗艦「大和」の艦橋は雰囲気が一變し、黒島亀人先任参謀は涙を浮かべてテーブルを叩いた。
山本五十六長官は渡辺と将棋を指している時に「赤城、被爆大、総員退去」という報告を受け「ほう、またやられたか」「南雲は歸ってくるだろう」とつぶやくと将棋を続けている。
この時、聯合艦隊主隊は濃霧の中で戰艦「長門」が行方不明になるなど混乱しており、焦燥がつのるばかりであったという。
午前9時20分(11:20)、山本五十六長官はGF電令作第133號で輸送船團の一時北西撤退を命じ、同時にアリューシャン方面に投入されていた第二機動部隊(角田覚治少将、空母:隼鷹、龍驤)に対し、第一機動部隊(南雲機動部隊)に合流するよう下令した。
だが両艦隊の距離は遠く合流は9日以降となる見込みであり、宇垣纏聯合艦隊参謀長は空母を分散させたことを後悔している。
日本軍攻略部隊(第二艦隊)の近藤信竹中将は、これを受けて占領隊(日本軍輸送船団)に北西退避を命じ、栗田健男の支援隊(第七戰隊)に合同するよう命じた。
同時刻、南雲も各艦に「昼戰をもって敵を撃滅せんとす」と伝え、第八戰隊(利根、筑摩)は魚雷戰を挑む準備を整える。
午前10時、山本はGF電令作第号、156号にて第二艦隊に以下の命令を伝えた。
1.敵艦隊攻撃C法をとれ(全兵力を集中し、敵を撃滅する)。
2.攻略部隊は一部の兵力を以て、今夜ミッドウェーの陸上軍事施設、航空基地を砲撃破壊せよ。
3.ミッドウェー、アリューシャン群島の攻略を一時延期す。
山本の命令により、近藤信竹中将は第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)にミッドウェー島へ向かうよう命じ、同時に南雲機動部隊と策応して米軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した。
聯合艦隊は、ミッドウェー基地の米軍航空兵力が使用可能かどうか、南雲部隊に尋ねている。
「長良」では空母「飛龍」が米空母2隻を撃破したという聯絡が入り(ヨークタウンを2度攻撃したことを誤認)、草鹿参謀長は希望を抱いた。
夜戦を企図しつつ北上中の午後2時5分(17:05)、「飛龍」の被弾と炎上により、米軍機動部隊とミッドウェー基地航空隊制空権下での水上戰斗は困難と南雲は判断、草鹿によれば「万事休す」であった。
そこで一旦西方に反転し、あらためて夜襲を企図した。
草鹿参謀長は「レーダーもなく、駆逐艦も少なく、望みのない夜戰に一縷の望みをかけて、當てもなくただ走りまわっていた」と回想している。
宇垣は戰艦や重巡洋艦から水上偵察機を發進させて索敵を行わない南雲司令部を「消極的、退廃的」と批判しているが、空母4隻を目前で失ったからには當然の反応だろうと理解も示している。
近藤中将の第二艦隊は軽空母「瑞鳳」を有しており、米艦隊に積極的に戰斗を挑む方針を示した。
炎上日本空母を護衛していた第四駆逐隊司令有賀幸作大佐(後、戰艦大和艦長)に至っては「敵機動部隊接近すれば刺し違えよ」と配下駆逐艦に下令した。
午後2時13分(17:13)、筑摩2號偵察機は、甲板に損傷なく傾斜停止した「エンタープライズ型空母」を發見し、周囲の護衛艦艇が空母をその場に残して東に去ったと報告した。
南雲司令部は、飛龍第一波攻撃隊(小林隊)が爆撃を行った空母(ヨークタウン)は既に沈没・飛龍第二波攻撃隊(友永隊)が雷撃した空母(ヨークタウン)は漂流と判定した。
1時間後、筑摩2號機は米空母1、巡洋艦2、駆逐艦4發見を報告、続いて米空母1隻の存在を報告する。
筑摩2號機は重巡洋艦「筑摩」を通じ、南雲司令部に對し「炎上米空母の後方に、更に米空母4隻を發見」と報告する。
南雲司令部では「まさか」という声があがったが、やがて偵察機の報告を信じた。
プランゲ博士は「南雲は苛立たしさのあまり、頭を壁に叩きつけるか、索敵機パイロットの首をその手で締めたかっただろう」と記述している。
戰斗詳報には「南下中順次にこれ等の敵を發見せるものにして同一部隊ノ重複ナキ事確実ナリ」と記録。
南雲は「敵航空母艦の予想外に優勢なるを始めて知れり」と驚いている。
午後4時15分、山本五十六長官と宇垣纏参謀長は南雲部隊に対し、GF電令第158號として以下の命令を伝えた。
1.敵機動部隊は東方へ避退中にして、空母は概ねこれを撃破せり。
2.當方面聯合艦隊は敵を急追、撃滅すると共にAF(ミッドウェー島)を攻略せんとす。
3.主隊は6日午前零時、地点フメリ32に達す。針路90度速力20ノット。
4.機動部隊、攻略部隊(7戰隊欠)および先攻部隊(潜水艦隊)は速やかに敵を捕捉撃滅すべし。
午後5時30分(20:30)、山本はGF電令159号にて伊168號潜水艦に對し「伊168潜水艦は2300迄AF(イースタン)島航空基地の砲撃破壊に任ずべし。
同時刻以降は第七戰隊(栗田少将)が砲撃の予定」と告げ、ミッドウェー基地を夜間砲撃するよう命じた。
南雲は山本の敵情判断が間違っているとみて、午後6時30分(22:30)、機動部隊機密第560番電に於いて筑摩2号機の「空母5隻」發見とミッドウェー基地航空隊の活動を伝達する。
南雲は続く午後7時50分(22:50)の電信で「GF電令作第158號に関係し敵空母(特空母艦含むやも知れず)は尚4隻あり」と、日本軍空母全滅を報告した。
すると山本より、第二艦隊司令官近藤信竹中将に「赤城」と「飛龍」を除く機動部隊戰力の統一指揮を任すという命令が届いた。
南雲部隊第八戰隊は第二艦隊と合流し、米軍と戰斗を継続したい旨を伝えている。

ー日本軍の撤退―
日本時間6月5日午後9時15分、山本は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に對し、夜戰の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合同を命じた。
午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本は聯合艦隊電令161号で、以下の命令を伝達した。
1.AF(ミッドウェー島)攻略を中止す。
2.主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛竜及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし。
3.警戒部隊、飛竜同警戒艦、及び日進は、右地点に回航すべし。
4.占領部隊は西進し、ミッドウェー飛行圏外に脱出すべし。
ミッドウェー作戰の中止が決定した瞬間であった。
日本軍は撤退を開始する。
6月6日午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、軽空母「鳳翔」の九六式艦上攻撃機が漂流する「飛龍」と甲板上の生存者を發見、聯合艦隊司令部は南雲司令部に飛龍沈没を確認せよと命令した。
「飛龍」の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分(12:45)、「長良」偵察機を発進させ、駆逐艦「谷風」を「飛龍」処分と生存者救助のために分派した。
「谷風」は空母「エンタープライズ」を發進したSBDドーントレス16機の攻撃を受け、4機撃墜を報告して生還した。
「谷風」を攻撃した「ホーネット」隊は香取型練習巡洋艦(駆逐艦谷風)を攻撃したと報告し、1機が撃墜された。
午前中、山本の主隊、近藤の攻略部隊、南雲の残存部隊は合流した
支援隊の第七戰隊(重巡洋艦:旗艦熊野、鈴谷、三隈、最上)は上陸する輸送船團の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた。
その後、夜戦中止に先立って砲撃中止命令が出された。
しかし第七戰隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ってから1時間20分後、亜米利加海軍潜水艦「タンバー」(SS-198)を發見して緊急回頭を行い、その際に三番艦「三隈」と最後尾艦「最上」が衝突事故を起こした。
「三隈」に衝突した「最上」は砲塔前部の艦首を切断、速力は10ノット程度に落ちた。
第七戰隊司令官の栗田健男中将は「最上」の護衛に「三隈」と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、朝潮)をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田は「熊野」と「鈴谷」を率いて「大和」以下主力部隊と合流するため北西に向かった。
一方の米軍では、「飛龍」の攻撃隊により空母「ヨークタウン」が深刻な損害を受けて放棄された。
駆逐艦「ヒューズ」だけが「ヨークタウン」の護衛として残された。
その後「ヨークタウン」ではサルベージ作業が進み、艦隊曳船「ヴィレオ」が救助に向かった。
フレッチャーから指揮権を譲渡されたスプルーアンスの第16任務部隊も、日本艦隊の動向が把握し切れず夜戰に持ちこまれる可能性を考慮したため、一時的に東へ退避する。
翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進を開始した。
日本時間6月6日、潜水艦「タンバー」の報告を受けた米軍は、まずミッドウェー島の航空戰力で「三隈」と「最上」を攻撃した。
SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B-17爆撃機8機が攻撃をおこない、SB2U指揮官機が「三隈」の後部砲塔に體當たりし、「最上」が至近弾で戰死者2名を出した。
米軍機動部隊の追撃を受けていることを知った「三隈」と「最上」はウェーク島に向かい、聯合艦隊主隊と攻略部隊も「三隈」の救援と米機動部隊の捕捉に向けて動き出す。
6月7日、スプルーアンスは『空母1隻、駆逐艦5隻発見』という索敵機の報告を元に、「ホーネット」「エンタープライズ」攻撃隊を發進させた。
米軍攻撃隊は空母のかわりに「戰艦」を發見し、最初は航空母艦、次は戰艦と誤認された重巡洋艦「三隈」は集中攻撃を受けて沈没した。
また「最上」や駆逐艦「朝潮」、「荒潮」も被弾した。
近藤信竹中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて叛転したが、米軍機動部隊の捕捉に失敗している。
翌8日午前中、「最上」は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した。
戰艦「大和」をはじめとした主力部隊は夜戰を企図して東進していたが、「飛龍」を失ったことで再考して翌0時に夜戰を中止し、3時頃には作戰自體の中止も余儀なくされた。
主力部隊はミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戰には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の規模が大きい戰艦に移乗させ、収容と手当てを行ったに留まる。
「赤城」の生存者達は、「大和」以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことを罵っていた。
日本軍輸送船團は、米軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した。
山本は、米軍の追撃部隊をウェーク島の基地航空隊活動圏内に引き込むよう命じたが、米軍はそこまで深追いしなかった。
6月7日、「ヨークタウン」は曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていた。
駆逐艦「ハンマン」に移乗していたバックマスター「ヨークタウン」艦長と161名が再び「ヨークタウン」に乗艦している。
さらに駆逐艦「モナガン」、「グウィン」、「バルチ」、「ベンハム」が護衛に加わった。
その頃、ミッドウェー島を砲撃後同島海域にとどまっていた潜水艦「伊-168」が「ヨークタウン」撃沈の任を受け、同艦に接近していた。
(13:34)、「伊-168」は4本の九五式魚雷を發射し、2本が「ヨークタウン」左舷に命中する。
米軍機動部隊の主力として活躍した「ヨークタウン」は沈没した。
また同空母に同行していた駆逐艦「ハンマン」にも1本が命中して沈没した。
日本軍は「甲板の損傷なき模様」として、「飛龍」が最初に攻撃したのとは別の空母だと考えていた。
6月13日、第16任務部隊の「エンタープライズ」、「ホーネット」は艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に歸港した。
米軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母2隻の沈没を確認し、漂流していた飛龍機関科兵の聴取から「飛龍」沈没を知り、計3隻の撃沈を確信していた。
「赤城」については暗號解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜の情報を分析した後の事である。

ミッドウェイ海戦 両軍の陣立て

2020-06-05
連合艦隊は、航空母艦:赤城267名(澤地の調査記録は航空搭乗員含む)、加賀 811名、蒼龍 711名、飛龍 392名(米軍救助者含まず)の主力部隊を喪失した。

参加兵力」
ー日本軍ー
ーミッドウェー海戰―
第一航空艦隊(第一機動部隊) 司令長官:南雲忠一中将
第一航空戰隊 司令官:南雲忠一中将 航空母艦:赤城(零戰21 九九艦爆21 九七艦攻21)、加賀(零戰21 九九艦爆21 九七艦攻30)
第二航空戰隊 司令官:山口多聞少将 航空母艦:飛龍(零戰21 九九艦爆21 九七艦攻21)、蒼龍(零戰21 九九艦爆21 九七艦攻21)
第八戰隊 司令官:阿部弘毅少将 重巡洋艦:利根、筑摩
第三戰隊第二小隊 戰艦:榛名、霧島
第十戰隊 司令官:木村進少将 軽巡洋艦:長良 第四駆逐隊 司令:有賀幸作大佐 駆逐艦:嵐、野分、萩風、舞風
第十駆逐隊 司令:阿部俊雄大佐 駆逐艦:風雲、夕雲、巻雲、秋雲
第十七駆逐隊 司令:北村昌幸大佐 駆逐艦:磯風、浦風、浜風、谷風
油槽艦:東邦丸、極東丸、日本丸、国洋丸、神国丸、日朗丸、豊光丸、第2共栄丸

ーミッドウェー作戰ー
聯合艦隊(主力部隊) 司令長官:山本五十六大将
第一戰隊 聯合艦隊司令長官直率 戦艦:大和、長門、陸奥
第三水雷戰隊 司令官:橋本信太郎少将 軽巡洋艦:川内 第一一駆逐隊 司令:荘司喜一郎中佐 駆逐艦:吹雪、白雪、初雪、叢雲
第一九駆逐隊 司令:大江覧治大佐 駆逐艦:磯波、浦波、敷波、綾波
空母隊 司令:梅谷薫大佐(鳳翔艦長が兼務) 航空母艦:鳳翔
駆逐艦:夕風 (駆逐艦)
特務隊 司令:原田覚大佐 水上機母艦:千代田、日進
油槽艦:鳴戸丸、東栄丸
第一艦隊(主力部隊) 司令長官:高須四郎中将
第二戰隊 第一艦隊司令長官直率 戦艦:伊勢、日向、扶桑、山城
第九戰隊 司令官:岸福治少将 軽巡洋艦:北上、大井
第二四駆逐隊 司令:平井泰次大佐 駆逐艦:海風、江風
第二七駆逐隊 司令:吉村真武大佐 駆逐艦:夕暮、白露、時雨
第二〇駆逐隊 司令:山田雄二大佐 駆逐艦:天霧、朝霧、夕霧、白雲
油槽艦:さくらめんて丸、東亜丸
第二艦隊(攻略部隊) 司令長官:近藤信竹中将
第四戰隊第一小隊 司令官:近藤信竹中将 重巡洋艦:愛宕、鳥海
第五戰隊 司令官:高木武雄中将 重巡洋艦:妙高、羽黒
第三戰隊第一小隊 司令官:三川軍一中将 戦艦:金剛、比叡
第四水雷戰隊 司令官:西村祥治少将 軽巡洋艦:由良 第二駆逐隊 司令:橘正雄大佐 駆逐艦:五月雨、春雨、村雨、夕立
第九駆逐隊 司令:佐藤康夫大佐 駆逐艦:朝雲、峯雲、夏雲、三日月
航空母艦:瑞鳳
油槽艦:健洋丸、玄洋丸、佐多丸、鶴見丸
第七戰隊(支援隊) 司令官:栗田健男中将 重巡:三隈、最上、熊野、鈴谷
第八駆逐隊 司令:小川莚喜大佐 駆逐艦:朝潮、荒潮
第二水雷戰隊(護衛隊) 司令官:田中頼三少将 軽巡洋艦:神通 第一五駆逐隊 司令:佐藤寅治郎大佐 駆逐艦:親潮、黒潮
第一六駆逐隊 司令:渋谷紫郎大佐 駆逐艦:雪風、時津風、天津風、初風
第一八駆逐隊 司令:宮坂義登大佐 駆逐艦:不知火、霞、陽炎、
哨戒艇:哨戒艇1號、2號、34號
油槽艦:あけぼの丸
第一一航空戰隊 司令官:藤田類太郎少将 水上機母艦:千歳
水上機母艦:神川丸
駆逐艦:早潮
哨戒艇:第35號哨戒艇
工作船:明石
ミッドウェー諸島占領隊 輸送船18隻(清澄丸、ブラジル丸、アルゼンチナ丸、北陸丸、吾妻丸、霧島丸、第2東亜丸、鹿野丸、明陽丸、山福丸、南海丸、善洋丸 )
油槽艦:日栄丸 第二連合特別陸戦隊 司令官:大田実(海軍)大佐 横五特(横須賀第五特別陸戰隊)、呉五特、第一一設営隊、第一二設營隊、第四測量隊
陸軍一木支隊 支隊長:一木清直(陸軍)大
第一航空艦隊(第一機動部隊) 司令長官:南雲忠一中将
第一航空戰隊 司令官:南雲忠一中将 航空母艦:赤城(零戰21 九九艦爆21 九七艦攻21)、加賀(零戰21 九九艦爆21 九七艦攻30)
第二航空戰隊 司令官:山口多聞少将 航空母艦:飛龍(零戰21 九九艦爆21 九七艦攻21)、蒼龍(零戦21 九九艦爆21 九七艦攻21)
第八戰隊 司令官:阿部弘毅少将 重巡洋艦:利根、筑摩
第三戰隊第二小隊 戰艦:榛名、霧島
第十戰隊 司令官:木村進少将 軽巡洋艦:長良 第四駆逐隊 司令:有賀幸作大佐 駆逐艦:嵐、野分、萩風、舞風
第十駆逐隊 司令:阿部俊雄大佐 駆逐艦:風雲、夕雲、巻雲、秋雲
第十七駆逐隊 司令:北村昌幸大佐 駆逐艦:磯風、浦風、浜風、谷風
油槽艦:東邦丸、極東丸、日本丸、国洋丸、神国丸、日朗丸、豊光丸、第2共栄丸
第六艦隊(先遣部隊) 司令長官:小松輝久中将
本隊 軽巡洋艦:香取
第八潜水戰隊(先遣支隊) 潜水母艦:愛国丸、報国丸
潜水艦:伊15、伊17、伊19、伊25、伊26、伊174、伊175、伊122
第三潜水戰隊 潜水母艦:靖国丸
潜水艦:伊168、伊169、伊171、伊172、伊9、伊123
第五潜水戰隊 潜水母艦:りおで志゛やねろ丸
潜水艦:伊156、伊157、伊158、伊159、伊162、伊164、伊165、伊166、伊121

ーアリューシャン攻略作戰ー
第五艦隊(北方部隊) 司令長官:細萱戊子郎中将
本隊 第五艦隊司令長官直率 重巡洋艦:那智
駆逐艦:雷、電
第四航空戰隊(第二機動部隊) 司令官:角田覚治少将 航空母艦:龍驤、隼鷹
第四戰隊第二小隊 重巡洋艦:高雄、摩耶
第七駆逐隊 司令:小西要人中佐 駆逐艦:潮、曙、漣
補給船:帝洋丸
第一水雷戰隊(アッツ攻略部隊) 司令官:大森仙太郎少将 軽巡洋艦:阿武隈 第二一駆逐隊 司令:天野重隆大佐 駆逐艦:若葉、初春、初
輸送船:まがね丸、衣笠丸
アッツ島占領隊 輸送船:1隻 陸軍北海支隊 支隊長:穂積松年(陸軍)少佐
第二一戰隊(キスカ攻略部隊) 司令官:大野竹二大佐 軽巡洋艦:木曾、多摩
第六駆逐隊 司令:山田勇助中佐 駆逐艦:響、暁、帆風
第13駆潜隊:駆潜艇3隻
輸送船:球磨川丸・白鳳丸・秋鳳丸・俊鶴丸・栗田丸
キスカ島占領隊 輸送船:2隻
特務艦:浅香丸、白山丸 舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊 指揮官:向井一二三(海軍)少佐
特設水上機母艦:君川丸
駆逐艦:汐風

ー亜米利加軍ー
第17任務部隊(Task Force 17) 司令官 フランク・J・フレッチャー少将
第2群(Task Group 17.2 Cruiser Group) 司令官:ウィリアム・W・スミス少将 重巡 アストリア - ポートランド
第4群(Task Group 17.4 Destroyer Screen) 司令官:ギルバート・C・フーバー大佐 第2駆逐隊(COMDESRON 2) 駆逐艦 ハンマン - アンダーソン - グウィン - ヒューズ - モリス - ラッセル
第5群(Task Group 17.5 Carrier Group) 司令官:エリオット・バックマスター大佐(兼「ヨークタウン」艦長) 空母 ヨークタウン ヨークタウン飛行隊 第3戰斗機隊(VF-3/F4F-4/25機)、第3爆撃機隊(VB-3/SBD-3/18機)、第5索敵爆撃機隊(VS-5/SBD-3/19機)、第3雷撃機隊(VT-3/TBD-1/15機)
※ヨークタウンの第5飛行隊は珊瑚海海戰で喪失、サラトガの第3飛行隊と残存した第5飛行隊を搭載
第16任務部隊(Task Force 16) 司令官 レイモンド・A・スプルーアンス少将
第2群(Task Group 16.2 Cruiser Group) 司令官:トーマス・C・キンケイド少将 第6巡洋隊(COMCRUDIV 6) 重巡 ミネアポリス - ニューオーリンズ - ノーザンプトン - ペンサコラ - ヴィンセンス
軽巡 アトランタ
第4群(Task Group 16.4 Destroyer Screen) 司令官:アレキサンダー・R・アーリー大佐 第1駆逐隊(COMDESRON 1) 駆逐艦 フェルプス - ウォーデン - モナガン - エイルウィン - バルク - コニンハム - ベンハム - エレット - マウリー
第5群 司令官:ジョージ・D・マーレ大佐(兼「エンタープライズ」艦長) 空母 エンタープライズ エンタープライズ飛行隊 第6戰斗機隊(VF-6/F4F-4/27機)、第6爆撃機隊(VB-6/SBD-2、3/19機)、第6索敵爆撃機隊(VS-6/SBD-2、3/19機)、第6雷撃機隊(VS-6/TBD-1/14機)
空母 ホーネット ホーネット飛行隊 第8戰斗機隊(VF-8/F4F-4/27機)、第8爆撃機隊(VB-8/SBD-3/19機)、第8索敵爆撃機隊(VS-8/SBD-3/19機)、第8雷撃機隊(VT-8/TBD-1/15機)
第16任務部隊 給油群(Oilers Group) 駆逐艦 デウィー - モンセン
艦隊給油艦 シマロン - プラット
潜水艦部隊 司令官:ロバート・H・イングリッシュ少将
潜水艦19隻
ミッドウェー島守備隊
ミッドウェー基地海軍航空部隊 司令:シリル・T・シマード大佐 カタリナ飛行艇31機、TBF6機
第22海兵航空群 司令:イラ・L・キムス海兵中佐 F2A20機、F4F7機 SB2U 11機 SBD 16機
第7陸軍航空軍分遣隊 司令:ウイリス・P・ヘール陸軍少将 B -26 4機、B-17 17機
地上部隊 司令:シマード大佐(兼任) 第2急襲大隊
第6海兵大隊 司令:ハロルド・D・シャノン海兵大佐
第1魚雷艇戰隊

「両軍の損害」
ー日本軍側ー
沈没喪失 重巡洋艦:三隈、700名
大破、のち自沈処分 航空母艦:赤城267名(澤地の調査記録は航空搭乗員含む)、加賀 811名、蒼龍 711名、飛龍 392名(米軍救助者含まず)
大破 駆逐艦:荒潮
中破 重巡洋艦:最上92名
航空機:喪失艦載機289機(内、21機はミッドウェー配備予定の第六航空隊。水偵4機) この中には「十二試艦爆」を含む。
戦死山口多聞少将(戰死後中将に特進)
岡田次作大佐(戰死後少将に特進)
柳本柳作大佐(戰死後少将に特進)
加来止男大佐(戰死後少将に特進)
崎山釈夫大佐(戰死後少将に特進)
上記の沈没・損傷艦の他、筑摩航空搭乗員3名、利根航空搭乗員2名、駆逐艦谷風11名、朝潮21名、荒潮35名、嵐1名、風雲1名、給油艦あけぼの丸10名が戰死した。
総計3,057名を失い、その中には加賀飛行隊長:楠美正少佐(戦死後中佐に一階級特進)、飛龍飛行隊長:友永丈市大尉(戰死後中佐に二階級特進)ら110名の空母艦載機搭乗員を含んでいた。
各母艦別の搭乗員損失は、赤城7名(艦戰4、艦爆1、艦攻2)、加賀21名(艦戰6、艦爆6、艦攻9)、蒼龍10名(艦戰4、艦爆1、艦攻5)、飛龍72名(艦戰11、艦爆27、艦攻34) 。
搭乗員損失率は叛撃を実施した飛龍が最も多い。
空母上で米軍機空襲とその後の誘爆により戰死した搭乗員は、赤城4名、加賀13名、蒼龍4名、飛龍8名である。
なお、文献によっては熟練搭乗員多数を失い、以後の航空作戰に支障をきたしたとする論調で評価するものがあるが、これは上記にもあるように誤解である。
搭乗員の多くは空母が沈没する前に脱出しており、激戰を経た飛龍を除く三空母の搭乗員は大半が健在だった。
6月10日大本營發表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。
日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」、6月18日の大本營發表で「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正發表した。
南雲機動部隊の戦闘詳報では、エンタープライズ型空母2隻撃沈、サンフランシスコ型大巡1隻大破、米軍機173機撃墜である。
米空母2隻撃沈は山口多聞少将(中将)も誤認しており、山口は真実を知ることなく空母「飛龍」と共に戰死した。

ー亜米利加軍側ー
沈没喪失 航空母艦:ヨークタウン
駆逐艦:ハンマン
航空機:基地航空隊を含め、約150機を喪失。
この数字には修理不能の損傷を受けた機も含まれる。
戰死
空母ヨークタウン86名(航空搭乗員含む)、空母ホーネット53名、空母エンタープライズ44名、駆逐艦ハマン84名、駆逐艦ベナム1名、ミッドウェー基地46名。
合計362名(航空搭乗員208名、基地・艦乗組員154名) 。
高級士官の戰死は無かった。

(ウィキペディア参照。)
画像は、B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母飛龍。
真珠湾攻撃直前のミッドウェイ環礁。手前が飛行場のあるイースト島、奥にその他の軍事施設のあったサンド島が見える。

ミッドウェイ島
空母 飛龍の闘い

東京招魂社を靖國神社と改称

2020-06-05
Facebook 英霊の本日の出来事
 
英霊の本日の出来事
 

明治12年6月4日の本日、東京招魂社を靖國神社と改称致しました。
別格官幣社に列す。

正字による表記は「靖國神社(「靖」の旁の「青」の下部が「月」でなく「円」、「国」は舊字體)」。
神社名にある「靖國」は『春秋左氏伝』第6巻僖公23年秋条の「吾以靖國也(吾以つて國を靖んずるなり)」を典拠として明治天皇が命名したもので、明治12年に改称。
當初の東京招魂社の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社號としては妥當を失する」可能性があるために廃されたというが、名称變更後も「招魂祭」は続けられている。
因みに同年6月16日の「社號改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇國をば安國と知食(しろしめ)すが故に靖國神社と改称(あらためとなえ)」とある。
安来が根の国であるということを暗に示したという説もある。
英語圏では「Yasukuni shrine」と表記されるが、それと並んで「war shrine」(戰爭神社)と表記される場合がある。

「祠官・神職」
招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。
例大祭・臨時大祭には卿または将官、招魂式には将官または佐官、その他の祭祀には佐官、尉官が奉仕した。
明治8年以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は舊陸軍と海軍が隔番で務めた。
明治12年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。
同時に宮司1名、禰宜1名、主典4名が法令によって置かれ、昭和13年からは権宮司も置かれることとなった。宮司以下神官の進退は内務省が、増員・増俸は内務省・舊陸海軍の3者協議で行い、実際の管理は主として財政を負担した陸軍省総務局が行った 。
また、社司・社掌は陸軍省第1局の所属であったが、明治20年には閣令第4号により神官を廃して神職(職名)を置き、舊陸海軍が補任することとなった。
昭和21年の官國幣社制(近代社格制度)廃止以後は自主管理なった。

(ウィキペディア参照。)
画像は、東京招魂社。
現靖國神社。

ちょっと気になる歌・唄

Face book 時代 唄

2020-04-22
https://www.facebook.com/groups/426829040985103/
今のカバー写真 レ・ガールズです。

「真っ赤なスカーフ」

2020-07-11
https://www.youtube.com/watch?v=CpQTwB3FxdI&fbclid=IwAR0aPi9TXjlIXVAEjnzs1YTIj2gEbFIllC062bDTl07ZZfLyXRjYrOtE66I

「宇宙戦艦 ヤマト」

2020-07-11

竹内まりやです。

2020-07-05
https://youtu.be/sRWSVC3VUWc
元気を出して 作詞・作曲:竹内まりや
 
涙など見せない 強気なあなたを
そんなに悲しませた 人は誰なの?
終りを告げた恋に
すがるのはやめにして
ふりだしから
また始めればいい

幸せになりたい 気持ちがあるなら
明日を見つけることは
とても簡単
少しやせたそのからだに似合う服を探して
街へ飛び出せばほらみんな振り返る

チャンスは何度でも
訪れてくれるはず
彼だけが男じゃないことに
気付いて

あなたの小さなmistake
いつか想い出に変わる
大人への階段を
ひとつ上ったの

人生はあなたが
思うほど悪くない
早く元気出して
あの笑顔を見せて

ラララ…

こんな技が・・・

2020-06-09
https://youtu.be/oqO6hppP72E 志村けん、スカパラに期間限定で加入 華麗な三味線演奏にバカ殿も釘付け  『キリン氷結』WEBムービー

ちょっと気になる絵

Facebook 傳燈

2020-04-27
10.年20年ではない、永い永い歴史を経て今日まで伝わったものについて
2020(令和2)年の歌会始

Facebook 逸品の世界

2020-04-26
いろいろな分野の逸品を、お楽しみください。
大木の亰人形

Facebook ファイトの足跡

2020-07-12
プロレス・ボクシング、お好きですか?

東京タワーが一番だった頃

2020-07-14
Facebook 永井 由紀夫‎ 昭和パラダイスより
1967年(昭和42年)の東京タワー

プロパガンダ

2020-07-10
Fb早川 佳助‎ さんの投稿より

【Face bookのページ】 味覚嗜好について

味覚嗜好のページ

ビン詰めの牛乳です。

2020-07-07
即位の日の朝、身近な方々へ供されたお品

お腹の異変には・・・。

2020-06-07
Facebook 尚原正展さんの投稿です。
 
尚原正展さん ハッピー ー 場所: 大阪市天王寺区
6月5日 22:09大阪市

【 胃腸薬 】

お腹痛 には 、正露丸は 直ぐ効くけど …

あとの事を考えると

『ヒタスタイル』5月号 テイクアウト特集。

2020-05-06
ここから始まりました。
中々よいです!

『ヒタスタイル』5月号 テイクアウト特集。

2020-05-06
イタメシは、いかがですか?
日田やきそばも、テイクアウト可です!

大分県日田市、テイクアウト特集です。

2020-05-06
『ヒタスタイル』5月号 「今できる、あんなことこんなこと100」  そして、このテイクアウト特集。
穴井 優さんからの提案です。
TOPへ戻る