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ちょっといい話

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真宗聖典検索 Web site

2020-04-22
東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。
このサイトは、宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃事業の一つとして聖教編纂室にて取り組み、開設したサイトです。東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。使用方法については、このサイトについてをご覧ください。

このサイトについて | 真宗聖典検索 Web site (higashihonganji.or.jp) 

Facebook 大谷派における学事の潮流

2020-05-05

大谷大学

2021-02-14
1949年 - 新制大谷大学を開設。文学部に仏教学科、哲学科、史文学科を設立。
1665年 - 琢如が東本願寺寺内に寺院子弟教育を目的として学寮を創設する。

大谷大学

2021-02-14
新制大谷大学の今
大学報恩講の荘厳

大谷大学の今

2021-02-14
大谷大学尋源館(大谷大学旧本館)
烏丸北大路交差点の一角に校舎を構える大谷大学は東本願寺の学寮に遡る古い歴史を持つ学校です。

烏丸北大路交差点の一角に校舎を構える大谷大学は東本願寺の学寮に遡る古い歴史を持つ学校です。
この大谷大学には大正期に建てられた煉瓦造りの旧本館が今も残り、現役施設として使われています。

コロナ、今、私達に出来る事、最新情報は、"コロナと向き合う”へ!

【Shows at Home】民衆の歌 / Do You Hear The People Sing ? - Les Miserables -

2020-07-30

民衆の歌 The People's Song 「レ・ミゼラブル」より 


https://www.youtube.com/watch?v=MNIyjmd-LwI

◆ジャン・バルジャン/吉原光夫  
◆ジャベール/伊礼彼方
◆ファンテーヌ/濱田めぐみ    
◆エポニーヌ/昆 夏美
◆マリウス/海宝直人       
◆コゼット/生田絵梨花
◆アンジョルラス/小野田龍之介
◆テナルディエ/駒田 一・斎藤 司 
◆マダム・テナルディエ/森公美子
◆コンブフェール/中井智彦 
◆クールフェラック/持木悠
 ◆フイイ/杉浦奎介

非常事態宣言が解除されました。(第一回目)

2020-06-02

非常事態宣言が解除されました。(第一回目)

2020-06-02

東京五輪「中止検討せざるを得ない」組織委顧問の千玄室氏 現状での開催に危機感

2020-06-01
延期された東京五輪・パラリンピックへの思いを語る千玄室前家元(京都市上京区)

新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期された東京五輪・パラリンピックについて、大会組織委員会の顧問を務める茶道裏千家の千玄室前家元(97)が、京都新聞社の取材に応じた。千氏は「来年までに世界各国で収束しないと準備ができない」と話し、現状での五輪開催に危機感を示した。

 延期が発表された3月24日、安倍晋三首相と国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、中止はないと確認。一方で、組織委員会の森喜朗会長は、再延期は「絶対ない」との見方を示し、バッハ会長も今月、英BBC放送のインタビューで、来年開催されなかった場合、中止となる見通しを示している。



https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/263872?fbclid=IwAR0TSMWXC_ZhLFj9e23wDePy029e2OZhPYp_vf4dE9zdsrDcZ4nhIuDg-HY

関西でも宣言解除

2020-05-23
京都新聞 社説

社説:京都も宣言解除 油断せず冷静に行動を

  京都、大阪、兵庫の近畿3府県に発令されていた新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言が解除された。
  基本的対処方針で定められた解除基準の新規感染者数が抑えられ、医療提供体制やモニタリング体制も十分だと政府が判断した。
  安倍晋三首相が宣言の対象地域を全都道府県に拡大したのは4月16日。それから1カ月余り、京都のまちからもすっかりにぎわいが消えた。
解除は、感染拡大や医療崩壊を防ぐために多くの府民が休業や外出自粛などに真摯(しんし)に取り組んだ結果であり、朗報には違いない。
  だがウイルスが消滅したわけではなく、対策は長期化を覚悟する必要がある。安易に以前の生活に戻るのではなく、第2波、第3波への備えも強固にしなくてはならない。
  踏まえておきたいのは、このウイルスについて不明な点がまだ多いということだ。国内感染者数の実態すらはっきりしない。
  爆発的に感染が広がった欧米などと比べると抑えられているように見えるが、理由は分からない。
  政府が実情把握を急ぐべきなのは言うまでもない。そうした中で私たちに求められるのは過剰な楽観や悲観ではなく、まずは冷静な行動だろう。
  「新しい生活様式」も参考にしながら、密閉・密集・密接の「3密」を避ける取り組みを続ける必要がある。「正しく恐れる」ということを改めて思い起こしたい。     政府の宣言解除を受け、京都府はライブハウスなどの施設を除き、休業要請を解除することを決めた。独自の緩和基準を設けて今月16日から一部解除していた。
   政府は軽症者が療養する民間宿泊施設の借り上げなど医療体制強化に取り組んだ。授業再開に向けた環境整備など大学と学生の支援にも乗り出している。
 ただ観光や雇用といった面で、さまざまな困難が顕在化するのはむしろこれからだ。実情に応じて取り組みを柔軟に見直し、必要な対策を追加することが欠かせない。
 休業要請とともに中小企業に20万円、個人事業主に10万円を給付する支援策を打ち出したが、大阪府や東京都の支援とは金額的に大きな差がある。
 政府に対する緊急提言として、全国知事会は自治体向けの臨時交付金を最低でも総額3兆円とするよう増額を求めている。こうした動きとも歩調を合わせ、財源確保に努めるべきだ。

コロナ情報について、最新情報をご覧になりたい方は、"コロナ、そして今"へ! 

コロナに思う♯14 田中耕一氏 02年ノーベル化学賞 島津製作所

2020-05-11

内田樹の研究室   Facebook 桑門 超さんのシェアより  

2020-05-03
『隣組と攻撃性』 市民たちの相互監視が始まっている。

市民たちの相互監視が始まっている。

 GWの外出自粛を受けて、県外の車を煽ったり、傷をつけたりする事例が出ている。休業要請に従わず開業している店舗に落書きをしたり、備品に傷をつけたりする人も出て来た。
「こういうこと」ができるのは、「そういうことをしても許される社会的な空気」を彼らが感知しているからである。いまなら「そういうこと」をしても処罰されない、少なくとも「私は市民として当然の怒りに駆られたやったのだ」という自己正当化ができると知ると「そういうこと」をする人たちがいる。
 私はそういう人たちをこれまで何度も見て来た。前にも書いたが今度も繰り返す。
 私たちの社会は「自分がふるう暴力が正当化できると思うと、攻撃性を抑制できない人間」を一定数含んでいる。彼らがそのような人間であるのは、彼らの責任ではない。一種の病気である。
 人間は「今なら何をしても処罰されない」という条件を与えられたときにどのようにふるまうかで正味の人間性が知れる。これは私の経験的確信である。前に嫌韓言説について書いたときに私はこう書いた。読んだことがある人もいると思うが、大切なことなので再録する。

 嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。
 私たちの親の世代の戦中派の人々は戦争のときにそれを知った。ふだんは気のいいおじさんや内気な若者が「今は何をしても処罰されない」という環境に投じられると、略奪し、強姦し、殺すことをためらわないという実例を見たのである。戦中派の人たちは、人間は時にとてつもなく暴力的で残酷になれるということを経験的に知っていた。
 私も60年代の終わりから70年代の初めに、はるかに小さなスケールだが似たことを経験したことがある。大学当局の管理が及ばない、あるいは警察が入ってこないという保証があるときに、一部の学生たちがどれほど破壊的・暴力的になれるのか、私はこの目で見た。
 最初は三里塚の空港反対闘争に参加したときに、学生たちが無賃乗車したのを見たことである。数百人が一気に改札口を通ったのだから、駅員には阻止しようがない。切符を買っていた私が驚いていたら、年長の活動家が笑いながら、「資本主義企業だから階級的鉄槌を下されて当然だ」という政治的言い訳を口にした。
 しかし、降りた千葉の小さな駅で、屋台のおでん屋のおでんを学生たちが勝手に食べ出したのには驚いた。「やめろよ」と私は制止したが、学生たちはげらげら笑って立ち去った。おでん屋は別に鉄槌を下すべき資本家ではない。ただの貧しい労働者である。その生計を脅かす権利は誰にもない。でも、学生たちは「衆を恃んで」別に食べたくもないおでんを盗んだ。今なら盗みをしても処罰されないという条件が与えられると、盗む人間がいる。それもたくさんいる、ということをそのとき知った。
 学生運動の渦中で多くの者が傷つき、殺されたが、手を下した学生たちにも、その人を傷つけなければならない特段の事情があったわけではない。ただ、政治的な大義名分(「反革命に鉄槌を下す」)があり、今なら処罰されないという保証があったので、見知らぬ学生の頭を鉄パイプで殴りつけたり、太ももに五寸釘を打ち込んだりしたのである。その学生たちはそののち大学を出て、ふつうのサラリーマンになった。今ごろはもう年金生活者だろう。
 私はこういう人たちを心底「怖い」と思っている。こういう人たちを「大義名分があり、何をしても処罰されない」という環境に決して置くべきではないと思っている。だから、できるだけ法律や常識や世間の目が働いていて、「何をしても処罰されない」という環境が出現しないように久しく気配りしてきたのである。(ここまで)

 いま、コロナウィルスの感染が広がる中で、行政が明確な休業指令を出さず、民間の「自粛」の委ねてしまったせいで、「自粛に従わないものには市民が処罰を下してもよい」という口実で暴力行使の正当化をする人たちが出て来た。
 これは嫌韓言説に乗じて、市民生活の中では決して許容されないような卑劣で醜悪な攻撃性を発揮していた人たちと「同類」の人々である。「自粛」というあいまいな行政指導は市民たちの相互監視を督励する。そして、それは単なる監視にとどまらず、「自粛しない市民を攻撃しても処罰されない」という心証をかたちづくった。
 彼らはちゃんと法律が機能し、常識が有効であり、「世間の目」が光っているときなら、そんなことはしない人たちである。でも、少しでもその規制が緩むと、自分の中の攻撃性を抑制することができなくなる。
 そのことは例えばSNSで激しい攻撃的な言葉を書き送る人たちの多くが匿名であることから知れる。彼らは「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・自分の言動が処罰されない保証があると知れると、過剰に暴力的になる人間」である。そして、たぶん彼らは「あらゆる人間はそうだ」と思っている。でも、それは違う。世の中には、「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・処罰されるリスクがない時」でも、「お天道様」が見ているという自制を失わず、常識的に、ジェントルに、節度をもってふるまう人がいるからである。この人たちは「あらゆる人間が自分と同じだ」とはたぶん思っていない。でも、自分はそういう人間であり続けようと思っている。
 この二種類の人たちはいずれも少数派である。おそらくそれぞれ集団の10%内外だと思う(この辺の数字は私の経験知であるので、厳密ではない)。残りの80%はこのどちらが優勢であるかによってふるまい方を変える。
「どんなことがあっても穏やかに、市民的にふるまう人」はいつも同じようにふるまう。平時でも非常時でも変わらない。一方、「処罰するリスクがないときに過剰に暴力的になる人」は「処罰のリスク」という可変的な条件に従って、ふるまい方をがらりと変える。まったく違う人間に見えるほど変える。人が変わったように変わる。それが可視化されるかどうかは「処罰のリスク」というごく散文的な条件によるのである。
「外出自粛」は行政が明確な基準も、それに対するペナルティも示さなかったことによって、この人たちのうちに「今なら人を攻撃しても処罰されない」という確信を醸成した。
 いま、あちこちで罵声が聞こえる。スーパーの店員にどなりつけたり、ATMの列でどなりつけたりしている人たちは全員が「自分は社会的な正義を執行している」と思ってそうしているのである。今なら、どれほど暴力的になっても、それを正当化するロジックがあると思ってそうしているのである。だから、止められない。彼らを止める方法は一つしかない。 法律が機能し、常識が機能し、「世間の目」が機能するようにしておくことである。
 大阪では休業要請に従わない店名を公表するということが行われた。これは「この店に対してはどのような攻撃的なことをしても処罰されない」という保証を間接的に与えるものである。少なくともそういう解釈の余地を与えた。大阪府知事は、人間が条件次第でどれほどでも攻撃的になり得ること、その機会をつねに窺っているということを知らないか、あるいは知っているが知らないふりをしているのだと思う。市民が相互に監視し合い、相互に告発し合い、相互に攻撃し合う社会はおそらくある種の人々にとっては「管理コストが非常に安く上がる」社会に見えるのだろう。
 ゲシュタポはきわめて効率的に反政府的な人々を逮捕していったが、それは彼らの捜査能力が高かったからではない。逮捕者のほとんどは隣人の密告によるものだったからである。
 市民を相互監視させることによって統治コストは劇的に削減される。それは事実である。けれども、その代償として、「大義名分をかかげて隣人を攻撃し、屈辱感を与える」ことに熱中する人々の群れを解き放ってしまう。それがどれほど危険なことなのかについて、人々はあまりに警戒心がないと思う。

内田 樹(うちだ たつる)1950年生まれ。日本の思想家、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。 出典 http://ja.wikipedia.org/wiki/内田樹

郷士望さんんらのメッセージ

2021-01-07
郷士さんは、「銀座の鐘」のプロデューサーです。

銀座の鐘

2020-04-20
新型コロナ 厳しい勤務続く医療関係者に感謝の鐘 東京 銀座

感染拡大が続く新型コロナウイルスに対応するため、厳しい勤務が続く医療関係者に感謝を示そうと、東京 銀座の交差点では時計塔から鐘の音が流されました。

新型コロナウイルスに感染した人たちの治療に当たっている医師や看護師など、医療現場のスタッフに対して、イギリスでは毎週木曜の午後8時に一斉に拍手や口笛を送ったり、フランスではエッフェル塔に「ありがとう」を意味する「MERCI」のメッセージが映し出されたりするなど、感謝の気持ちを示す動きが世界各地で広がっています。

日本でも、感染のリスクにさらされるなど厳しい勤務状況が続く医療スタッフへの感謝の気持ちや感染拡大を防ぐために家で過ごそうというメッセージを伝えようと、20日から東京 銀座のデパートにある時計塔から「命の鐘」と題して、鐘の音が流されることになりました。

鐘の音は午後7時ちょうどから流され、緊急事態宣言が出され、ふだんより格段に人通りが少ない銀座の町なかに鳴り響きました。

鐘の音は、毎晩7時から流され、「YouTube」などでも配信される予定です。

 企画した郷司望さんは、「一日に一度、一緒に医療関係者に感謝の気持ちを示すきっかけになれたらと思います」と話していました。


ダライラマ14世のメッセージ

2020-04-16
ダライ・ラマ法王からの新型コロナウイルスに関する特別メッセージ 2020年3月30日

親愛なる兄弟姉妹の皆様へ

世界中の多くの方々からの度重なる要請に応えて、私の思いを記したいと思います。新型コロナウイルス(COVID-19)の発生により、今、私たちは大変な苦難の最中にあります。

新型コロナウイルスの問題に加え、人類は、極度の気候変動といったさまざまな問題に直面しています。この場をお借りして、インド政府をはじめ、こうした問題に懸命に取り組んでおられる世界中の政府に称賛と感謝の念を表明したいと思います。

古代インドの伝統は、時間の経過にともなう世界の創造、持続、破壊について説明しています。そのような破壊の原因の中には武器や病気があると書かれており、これは、私たちが今まさに経験していることと一致しているように思われます。しかしながら、どれほど大きな脅威に直面しようとも、人間を含めた生きとし生けるものは、生き抜くために素晴らしい能力を発揮してきました。

いかに困難な状況であろうとも、私たちは科学技術と人智を尽くして決断し、勇気をもって、立ちはだかる問題を乗り越えなければなりません。健康と幸福が脅かされているのですから、不安や恐れを感じるのは当然です。とはいえ、目の前の問題をどのように捉えるべきかについては、私は次の賢明な助言に大きな慰めを得ています。「もし、改善策があるならば、心配せずそれを実行しなさい。しかし、何も改善策がなければ、それ以上心配しても何の役にも立ちません」

現在、新型コロナウイルスの拡大を防ぐためにだれもが最善を尽くしています。私は、ウイルスの脅威を最小限に抑えるために国家間で協調した努力がなされていることを、心より称えたいと思います。とりわけ、インドの主導権のもとに南アジア地域協力連合の国々が緊急基金を設立し、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための情報、知識、専門技術を交換するための電子プラットフォームを立ち上げたことは素晴らしい取り組みだと思います。これは、将来、このような危機に対処する際にも良き手本となることでしょう。

私は、世界各地で都市封鎖の必要が生じた結果として、多くの方々が収入を失い、大変な困難に直面しておられることも理解しています。安定した収入のない方々が生きていくには、毎日が闘いです。こうした弱い立場にある方々にできるかぎりの配慮がなされるよう、私はすべての関係者の方々に、切にお願いしたいと思います。

また私は、自らの命を大きな危険に晒しながら、人命救助の最前線で働いておられる医師や看護師、その支援業務に携わるすべての方々に、心より深い感謝の念を捧げます。彼らの奉仕活動は、まさに慈悲の心の実践にほかなりません。

苦難の最中にある世界中の兄弟姉妹の皆様のことを深く心に想い、私は、この世界的な感染症が一刻も早く終息し、平和と幸福が一日も早く戻るよう祈りを捧げたいと思います。

祈りを込めて


ダライ・ラマ

特別メッセージ

仰せを蒙りて

報恩ということ

2020-11-15

藤原正遠先生の揮毫

2021-01-21

親鸞聖人の生涯

2021-01-25
Hp九州教区「よみもの」より

なるほど仏事

2021-01-25
Hp九州教区「よみもの」より

安田理深先生

2021-02-12
Facebook澤村博幸さんより

お釈迦様の話

釈尊の生涯と教え

2020-04-19
仏教の本質 哲学者「中村元」

ブッダ 最期のことば 1.2.3.4.

2020-06-14

釈尊のお説法

2020-04-07

漫画『ブッダ』

2021-02-10
原作は、手塚治虫先生

独自の解釈で描かれた、手塚治虫版ブッダ伝です。

シッダルタは、ヒマラヤ山脈のふもとカピラヴァストウで、シャカ族の王・スッドーダナの長男として生まれました。けれども、生後7日目に母マーヤと死にわかれ、叔母のパジャーパティに育てられました。

その後、16歳でヤショダラと結婚し、一子ラーフラをもうけますが、人生の根底にひそむ生老病死の問題について考えるようになり、29歳のとき、すべてをなげうって出家します。

やがてピッパラの樹の下で悟りを開き、以後、ブッダ(サンスクリット語で目ざめた人という意味)と名乗って、インド各地をめぐる説法の旅を続けるのでした。

王子シッダールタに、富も家族もすべてを捨てる決意をさせたものとは

2021-02-10
のちにブッダとなる男・シッダールタと、彼と出会い、心を通わせた人々の、壮大な<いのちのドラマ>
手塚治虫のブッダ - 赤い砂漠よ!美しく

 2500年前、インド。王国間の争いが絶えないこの地に、世界の王になると予言された男の子が誕生する。シャカ国の王子、ゴータマ・シッダールタだ。思春期を迎えたシッダールタは、盗賊の少女ミゲーラら身分の低い人々と心を通わせ、厳しい階級社会に疑問を抱くようになる。

BUDDHA2 手塚治虫のブッダ-終わりなき旅-

 2500年前のインドの地。シャカ国の世継ぎとして誕生した王子シッダールタ——のちのブッダ。人々の苦しみと死に心を痛める青年に成長したシッダールタは、何不自由ない恵まれた身分を捨て、真実を求める旅へ向かう。
 旅先で出会ったのは、未来を予知でき、自分が死ぬ日をも受け止める不思議な少年・アッサジ。彼が自らの命をオオカミの子供たちに捧げるのを目のあたりにしたシッダールタは、死と隣合せの過酷な苦行に身をゆだねる。
 一方、強大な勢力を誇る大国・コーサラ国では、ルリ王子がシャカ国を侵略すべく、動き出していた。自らの出生に端を発して、シャカ一族に憎しみの炎を燃やすルリ王子。未来を求めて出自を忘れようとするブッダと、過去にこだわって出自にとらわれるルリ王子。国を捨てた男と、その国を滅ぼすために戦う男の相反する思いが交錯した時、彼らに関わる人々すべてが、そしてこの世界が、大きく動き出す!

ちょっといい話

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金閣炎上 Facebook 佐々木信雄さんより

2020-05-03
水上勉と三島由紀夫のアプローチ
1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。
佐々木 信雄                                       2017年5月3日

【金閣炎上 水上勉と三島由紀夫】
 

*1950.7.2 [京都] 金閣寺が放火で全焼する。

 1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。不審火で放火の疑いありと捜索中、同寺徒弟見習い僧侶であり仏教系大学に通う林承賢が、裏山で薬物を飲み自殺を図っているところを発見され逮捕された。

 足利三代将軍義満の創建した鹿苑寺は、その金箔を貼りつめた荘厳な舎利殿から金閣寺として知られている。応仁の乱では西陣側の拠点となり、その多くが焼け落ちたが、江戸時代に舎利殿金閣などが修復再建された。のちに国宝指定されたその時の金閣が、いち学僧の放火によって焼失したのである。

 吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。1956年に、三島由紀夫は『金閣寺』を書く。綿密な取材に基づいた観念小説であり、『仮面の告白』の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であった。
 

 一方、水上勉は1967年に『五番町夕霧楼』で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした。吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局焼失させるより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」は、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子を登場させ、修行僧の唯一の安逸の場をもうけている。

 水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。
 

 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた『雁の寺』で直木賞を受賞し世に認められた。

 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは福井の同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも『金閣炎上』というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。
 

 ちなみに、この年の11月には国鉄京都駅の駅舎が全焼した。もちろん、ともに2歳になる前後の火災なので直接おぼえているはずもない。しかし、のちの両親の話などから火災があったことは記憶に植え付けられている。この3年後に、のちに在学することになる中学校の校舎が焼けた。ちょうど中学に在学していた近所のお兄さんに手をひかれて、焼け跡を見に行った事は記憶は残っている。たぶん、金閣や京都駅舎の火災も、この時の焼け跡の残像と重ね合わされ記憶に残るようになったのであろう。
 

*水上勉 ノンフィクション『金閣炎上』関係のブログ。
http://naoko-mt.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html
 
*三島由紀夫「金閣寺」は、市川崑監督『炎上』(1958)で映画化された。
https://ja.wikipedia.org/…/%E7%82%8E%E4%B8%8A_(%E6%98%A0%E7…
 
*水上勉『五番町夕霧楼』は、1963年東映版と1980年松竹版と二度映画化されている。

・1963東映版 佐久間良子主演
https://ja.wikipedia.org/…/%E4%BA%94%E7%95%AA%E7%94%BA%E5%A…

・1980松竹版 松坂慶子主演
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%AE%E9…/…/B005Z9NQTI
 
*水上勉については、別個にこちらでも書いた。
【水上勉と京都】http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20160605
 

*ブログで読む>http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20170503

「響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)」です。

2020-05-03
Facebook 矢ケ崎浩一さんの投稿より

1945年8月15日以降も、やんごとなき事情で戦闘を継続せざるを得なかった日本軍部隊は複数あり、以前投稿した占守島での第91師団及び第11戦車連隊の戦闘が有名ですが、大陸でも在留邦人の脱出時間を稼ぐため、実に10倍以上の兵力差の中奮戦し、4万名ともいわれる在留邦人の脱出を成し遂げた部隊がありました。

「響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)」です。

 1945年8月9日、突如日ソ不可侵条約を破棄したソ連軍は、日本軍に対する攻勢を開始します。

 日本軍駐蒙軍が守る内蒙地区にも、、ソ連軍及び外蒙軍合わせて4~5万名規模の機械化及び騎兵部隊がなだれ込みました。

 ソ連参戦の情報を受けた現地特務機関は、奥地での治安が急激に悪化する中、一般邦人の撤収を決定、内蒙地区の自治区である張家口には、一般邦人4万人がひしめく状態となっていました。また、満州等ソ連軍占領地での一般市民に対する暴虐が報告されるに従い、張家口自治区の市民の間でも、不安が高まっていました。

 そして8月15日、終戦の詔勅が下り、支那派遣軍司令部は、管下の全部隊に対し「即時停戦・武装解除」を司令、張家口の防衛を担っていた丸一陣地の響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)はそれを受けて、ソ連軍へ軍使を派遣しましたが、ある時は銃撃を受け、また、市民の避難までの時間的猶予も許可されない、という状況下、内蒙軍根本司令は司令部に対し「市民の避難が終了するまで防衛戦闘の実施やむなし」と訴えるも、司令部から再度の「即時停戦・武装解除」の指示が下ります。そして根本司令は8月20日、「八路軍及び外蒙ソ軍侵入は敢然これを阻止する決意なるも、もし、その決心が国家の大方針に反するならば、直ちに本職を免職せられたく、至急何分のご指示を待つ」と司令部に返信、管下部隊に対しては「理由の如何を問わず陣地に侵入するソ連軍は断固これを撃滅すべく、これに対する責任は一切司令官が負う」と断言し、市民脱出のための防衛戦闘を決断します。

 張家口を防衛する響兵団は、丸一陣地に籠る2千5百名、ソ連側は優にその10倍を超える人数と、大量の装甲車などの重装備をもって猛攻を仕掛けますが、辻田参謀の指揮の元、90式75㎝砲等強力な火力を持ち、戦車第3師団の一部も合流していた響兵団の粘り強い防戦の前に、なかなかソ連軍は陣地を制圧できません。最後には数にものを言わせた白兵突撃まで敢行しますが、日本軍の白兵戦での強さはここでもいかんなく発揮され、大損害を受けたソ連軍は遠距離からの制圧射撃と武装解除の交渉(毎回決裂)を繰り返す形となり、響兵団はここで貴重な時間を稼ぐことに成功します。

 また、事務方の活躍もありました、内蒙軍司令部は、鉄道管理者へ指示を出し。終戦前後から、上海から張家口に来た貨物列車の車両を片っ端から張家口の駅構内にとどめ、何度中央からの返却命令を受けても無視する、という挙に出ました。結果的にこの行動により、大量の貨車を使った迅速な避難が可能になっています。

 激しい防衛戦闘と停戦交渉における巧妙かつギリギリの時間稼ぎにより、響兵団は当初市民の避難に必要とされていた2日間を耐えきり、実に4万人の市民の脱出に成功、自らも夜陰に乗じて張家口を脱出、蒋介石率いる国民党軍へ投降し、生き残った全員が無事帰国しています。

 この戦闘で戦死した響兵団の兵士は約80名、この尊い犠牲の元、4万人の一般邦人はほとんどが、上海経由で無事の帰国を果たしています。即時の武装解除・投降を実施した関東軍と満州居留民がたどった悲惨な運命を顧みる時、軍規に背きながらも戦った彼らの判断が正しかったと思わざるを得ません。

 余談ですが、この防戦を決断した根本司令は、戦後台湾に渡り、中国の台湾進攻に対し、金門島での防衛戦を指揮、人民解放軍の上陸部隊を撃退する、という殊勲も挙げています。

辻田参謀
響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)

「史上最悪の大量殺戮兵器」カラシニコフ銃を発明した男は死ぬ直前まで悩み続けた

2020-05-03
https://www.huffingtonpost.jp/kazuhiro-sekine/mikhail-kalashnikov_a_23254725/
カラシニコフ本人と彼の遺した銃

自身最大の発明を悔やんだ6人の科学者

2020-05-03
https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52220710/

ライト兄弟の思い

2020-05-03
ライト兄弟は、徹底した現場観察主義のなかから、鳥が飛ぶときその飛行の安定性を保つためにたえず翼をたわませていることを発見した。
そして彼らはこれをさっそく自作の飛行機に応用した。
そのころの飛行機の翼は、ごく薄いものだったので、主翼の後縁をワイヤーで引っ張ってたわめ左右の安定をとるよう工夫したのである。
この装置ができるとライト兄弟はすぐさま特許を取った。
そしてこの特許をもとに、アメリカ政府やフランス政府に飛行技術の売り込みをはかった。
死の商人と呼ばれる所以
ライト兄弟が発明した飛行機に7・7ミリ機関銃が取り付けられ、史上初の戦闘機がイタリアで誕生した。
ジョバンニ・バッチスタ・カプローニ 「ライト兄弟が発明した飛行機を、わずか10年で罪なき子どもを殺すマシーンに変えた」
ドゥーエとカプローニが史上初の大型爆撃機カプローニCA36を完成させたさせたとき、ライト兄弟の弟、オーヴィル・ライトは自らの航空会社「ライト社」を売り払い、航空ビジネスから手を引いた。

時機相応について  時代と人

本日2月24日は「月光仮面登場の日」! 当時の七五三の画像。 月光仮面の人気が伺えます

2021-02-24
Facebook永井由紀夫さんより
けれども、これはやり過ぎです。 月よりの使者に千歳飴は似合いません。

【おまけ】キハ185の思い出

2021-02-25
お召し編成です。
松浦鉄道たびら平戸口駅
キハ185系 - お召し列車-唐津線

クロ157の思い出

2021-02-25

まもなく引退です。

2021-02-25
185系です。

昭和36年頃 東京タワーと増上寺

2021-02-22
Facebook永井由紀夫さんより

ちょっと気になる歌・唄・音

スピッツ、デヒュー30周年

2021-02-25
11th single 「ロビンソン」 オリジナル発売日:1995年4月5日

スーダラ伝説 植木等

2021-02-24
スーダラ節/無責任一代男/ドント節/だまって俺について来い/ハイ それまでよ/スーダラ節
https://youtu.be/4ZnSzleli54

・スーダラ節 0:00 
・無責任一代男 0:49
・ドント節 1:26 
・だまって俺について来い 2:00
・ハイ それまでよ 2:28 
・スーダラ節 3:34 
スーダラ節 小松政夫

わが人生に悔いなし 加藤登紀子 

2021-02-24
ピアノ 羽田健太郎(1999 OA)
石原裕次郎 三十三回忌 2019 7 17日 BGM 我が人生に悔いなし 唄 石原裕次郎
Web ニュースより引用 
1987年に死去した昭和の大スター・石原裕次郎さん(享年52)の命日にあたる17日、神奈川県横浜市の總持寺で三十三回忌の法要が営まれた。約500人のファンが見守る中、裕次郎さんの妻で石原プロモーション会長・まき子夫人(85)、おいの石原伸晃氏(62)、俳優・舘ひろし(69)、神田正輝(68)、徳重聡(40)らが参列。法要後に会見が行われ、まき子夫人は、今年をもって弔い上げとすることを明らかにした。

https://youtu.be/NO-D0mXjFTI

裕次郎さんから「人生の歌を歌いたい」と直接電話が掛かってきた

2021-02-24
「初めて好きなことを言って、好きなように書いた」という作品
石原裕次郎夫妻(中央)と一緒にハワイでゴルフをした時の記念写真。「出会いはまったくの偶然でした」=本人提供

「初めて好きなことを言って、好きなように書いた」という作品が、裕次郎さんの最後の楽曲「わが人生に悔いなし」(87年)だ。

 晩年、裕次郎さんから「人生の歌を歌いたい」と直接電話が掛かってきた際、「『マイウェイ』のような自分の人生を自慢するような歌じゃなくて、スターのオーラを外した一人の男としての歌にしましょうよ」と提案したのが「わが人生-」といい、「僕が初めて自己主張を通して書いたもので、裕さんは『従ってよかった』と言ってくれました」とほほえんだ。

石原裕次郎 わが人生に悔いなし
不世出の俳優にして歌手の石原裕次郎が52才の若さで惜しくも逝ったのは昭和62年7月17日のこと、この夏、34回忌を迎える。
石原裕次郎は永遠に我が青春のアイドルであり、我が心に永遠に生き続ける。
https://youtu.be/YnhIDLdxzAE

なかにし礼 わが人生に悔いなし なかにし礼さんはシャンソンの訳詞をされている時に 石原裕次郎さんから「歌謡曲を書いて俺の歌を作ってくれ」と ある所で声をかけられたそうです、それ以後、歌謡曲に転向して 人生が変わったとおっしゃっていました 
https://youtu.be/Bb10tI-vZfk

〚さくらのうた〛

2021-02-24
『さくらの唄』は、美空ひばりさんのシングルとして、1976年7月1日に発売された。
『さくらの唄』は、美空ひばりさんのシングルとして、1976年7月1日に発売された。
 作詞家・なかにし礼氏が実兄の借金を背負い込んだ後に歌詞を書き、作曲家・三木たかし氏が詞の内容を気に入り、曲をつけたもので、三木氏自身が歌い、1970年にシングルレコードとして発表された。
 残念ながらヒットとはならずに埋もれていたが、その存在を知った当時のTBSドラマプロデューサーの久世光彦氏が楽曲に惚れこみ、ドラマ化を企画し、その主題歌としてひばりさんにオファー
なかにし礼氏が感じた、美空ひばりと石原裕次郎への壁

ちょっと気になる絵

(色鉛筆描写) *国鉄鹿児島本線・戸畑駅 1976年(昭和51年)頃

2021-02-26
Facebook山元山元剛さんより  現在の制作状況です。

蒲郡の河津桜

2021-02-24
Facebook蒲郡クラシックホテルより



本館裏の駐車場に植えられた数本の河津桜
開花だいぶ進みました 。
先に開花の始まった。
旧 常磐館宴会場跡の河津桜は満開です!
常磐館宴会場跡の河津桜

花見の伝統について

2021-02-24
Facebook畠山 紘さんより

奈良時代の花見は「梅」でした。
桜より梅が人気
現代では、花見で愛でる花といえばもちろん桜のことですよね。桜は日本人に古くから愛されてきた花であり、春を象徴する花です。
それは梅です。奈良時代の花鑑賞といえば、梅をさしていました。貴族たちの間では造園する際、梅を入れることが定番となったようです。
当時、日本は遣唐使を介した中国との交易が盛んでした。中国文化、物品も多く日本に伝わり、その中の1つに梅があったのです。香立つその花は珍重され、桜よりも人気がありました。
その人気ぶりをうかがえるのが、『万葉集』に詠まれた梅の数です。桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首。梅は桜の倍以上詠まれているのです。
花見の始まりは奈良時代にあり
こうして貴族を中心に好まれ、愛されてきた梅。当時の貴族の優雅な風習といえば、「歌を詠む事」でした。中国からやってきた梅を見ながら、歌を詠む会を開きました。これが現在の花見の原型になったといわれています。

両陛下、茨城へ お召し列車が令和初「特別車両」連結で常磐線を走る E655系電車「和」

2021-02-24
天皇皇后両陛下の茨城国体開会式ご出席にあたり、東京から常磐線経由の「お召し列車」が運転されました。使用された車両は、「特別車両」を連結したJR東日本のE655系電車「和」。特別車両を連結したお召し列車の運転は、令和初です

https://trafficnews.jp/post/89983

 お召し列車に使われた車両は、JR東日本のE655系電車「和(なごみ)」。普段はグリーン車だけの5両編成で、団体列車などに使われていますが、今回のお召し列車では、編成の中央に両陛下がご乗車になる「特別車両(TR車)」を連結。「日章旗」と「菊の御紋」を掲出し、6両編成で運転されました。

両陛下、茨城へ お召し列車が令和初「特別車両」連結で常磐線を走る E655系電車「和」

2021-02-24
「日章旗」「菊の御紋」を掲出し、特別車両を組み込んで常磐線を走るお召し列車
今回のお召し列車では、編成の中央に両陛下がご乗車になる「特別車両(TR車)」を連結。「日章旗」と「菊の御紋」を掲出し、6両編成で運転されました。
「特別車両(TR車)」を連結。
特別車両を組み込んで走ったE655系のお召し列車(2019年9月28日、伊藤真悟撮影)。

【Face bookのページ】 味覚嗜好について

味覚嗜好のページ

日田は山紫水明の地です。 それは『原酒をはぐくむ酒の杜』。

2021-02-20
深い自然がもたらす澄んだ空気と清らかな 水の恵みを受けて、ここに新たな考えに基づく 「いいちこ日田蒸留所」を設けました。
また君に恋してる 坂本冬美
https://youtu.be/j4tKh0SAedc

【オリジナルはこちら】
ビリー・バンバン / また君に恋してる(ビリー・バンバン ヴァージョン) - YouTube
2010年の話題の大ヒット曲、オリジナル楽曲!
1988年から続く、ビリー・バンバンの三和酒類株式会社"いいちこ"CMソング。 

#30_渡辺雄一郎​(Nabeno-Ism)

2021-02-16


(OA:2019/12/28,2020/01/18) 
今回、三石寛太(髙嶋政宏)が訪れたのは、江戸の食文化が色濃く残る街・浅草。 日本風情漂うこの街に、フレンチの巨匠たちから薫陶を受け、王道を歩んできた一人のシェフがいる。
レストラン・ナベノイズムの渡辺雄一郎だ。
彼はかつて、フレンチの神様ジョエル・ロブションの店を、9年連続でミシュラン三ツ星に導いた。 2016年に独立後も、2年連続で二ツ星を獲得。 世界の名店を渡り歩き、王道のフレンチと日本の風土を融合させる男・渡辺雄一郎が今回挑戦した未来に遺すべき作品とは? 


2016年 7月7日 東京浅草駒形 隅田川ほとりにて レストラン Nabeno-Ismナベノ-イズムを開業






大きな影響を与えた母、辻静雄氏、ジョエル・ロブション氏

ドンペリと隈研吾の融合

2021-02-06

〈ドン ペリニヨン〉の5代目醸造最高責任者だったリシャール・ジョフロワが生み出した日本酒ブランド〈IWA〉。その初のリリースである《IWA 5》を注目すべき理由は、ブレンドという画期的な手法だけでなく、ボトルデザインをマーク・ニューソンが手掛け、〈IWA〉が生まれる酒蔵〈白岩〉を建築家・隈研吾が設計するなど、日本酒の世界に新しい風を吹き込んでいるからだ。

・隈研吾が酒蔵を設計、ボトルデザインはマーク・ニューソン。 

〈IWA〉が生まれる酒蔵〈白岩〉を建築家・隈研吾が設計

WAKAZE

2021-02-06
https://www.wakaze-sake.com/ja/products/classic?gclid=CjwKCAiA9vOABhBfEiwATCi7GNZQSzljISrctuOEXZSRb5dh_gLqXHCVTg_7M3Ftuo-zPZQ9_IM_ERoCgA8QAvD_BwE


パリ近郊で醸造したSAKE「ザ・クラシック」は、フランスワインのビオ酵母とイル・ド・フランスエリアの硬水を使用して醸造されています。ミネラルをたっぷり含んだこの水は、通常のSAKEとは一線を画した複雑な味わいを生み出します。ミネラルを豊富に含んだこの水は、発酵工程をより複雑にするため、造り手の腕が試され、非常に精密な酒造りが求められます。

パリのSUSHI

2021-02-06
1982年福岡県生まれ。憧れがあり、小学生の時点ですでに料理の世界に入ることを決意。高校卒業後すぐに福岡の鮨屋で修業を始め、技術よりも大切な人間力を磨くため、10年間同店に勤務。途中、日本の外では和食がどのように思われているのかという探究心に駆られ、アムステルダムに一時的に場所を移す。そのときにできた縁を辿り、最終的にはフランス・パリに拠点を置き、ときにはフランス料理店での修業も経験し、海外という制約があるからこその鮨を自ら開発し、ミシュラン・ガイドの一つ星を得るに至る。消費者が成長し、いよいよ海外で「本物」の和食が求められる時代に突入した今、第一線の現場で伝道師としての役割を担っている花田氏に、海外で日本の鮨職人が戦うことの意味をうかがった。
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