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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

業ということ

2020-07-11
宿業因縁

715
例えば業というようなことも、業で流転しているというのは、無茶苦茶に道理をはずして流転しているのではない。道理がなければ流転もできないのです。流転を支えている道理は業因縁です。流転も宿業因縁の道理に支えられているのです。

 
宿業の道理

716
宿業ということも、だから人間の主観でどうにもならないのを宿業というのでしょう。主観の自由にならないのです。宿業の道理が分からないから宿業を嫌うのです。好き嫌いを入れたら主観でしょう。好き嫌いで人間は自分で悩むのです。

natura

2020-07-07
自然(じねん)という言葉

712
一番だいじなのは横超ということです。そこに自然(じねん)という言葉がある。自然の道理です。道理で貫かれているということです。自然(じねん)という言葉もなかなか翻訳しにくいのですけれども、言葉としては三つも四つもあるものではない。ラテン語ではnaturaです。ギリシャにも中国にも皆あるのでしょう。人類のもっている最も古い言葉がナトゥーアなのです。

714
「自然じねん」の思想的理解です。自然(じねん)という言葉は世界共通で、こういう言葉は他にありません。自然(じねん)をいかに考えるかということが思想的課題です。法爾というのは自然を哲学したのでしょう。因縁の道理というのもみな自然の道理です。自然の道理に触れれば人間の妄想は破られる。

聞ということ

2020-07-05

710
「聞其名号」の聞というのは、人の体験を聞くわけではない。道理を聞くわけです。道理というのがロゴスです。言葉で表わされる道理です。ロゴスという言葉は言葉という意味が元ですけれども、同時に理というような意味をもっているのです。

道理に救われる

711


道理に救われる。つまり言葉で表現されている道理です。道理を失って酔うのも意識ですけれども、酔ったような意識を破って道理に目覚めるのも意識なのです。道理に目覚めた意識を信心というのです。

「ありがとう」で終わる人生

2020-06-24
「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」52

空しく過ぎるひとなし

親鸞仏教センター所長 本多 弘之

 「身独り空しく立ちてまた依るところなし」(『真宗聖典』72頁、東本願寺出版、以下『聖典』)。「空しく立ちて」というのは、周りに頼るべきものがないということ。天親菩薩の『浄土論』では「空過」、空しく過ぎるという言葉があります。この人生はどうやって見ても空しく過ぎるという面をもつ。だから空しく立つというのは、「ああ、この人生は一体なんだったのだろう」と、時には思わされる。これが人生だったのだと頷けるようなものが感じられない。

 ところが、阿弥陀如来の大悲に遇うということの意味を、親鸞聖人は空しく過ぐる者はないと言われる。つまり出遇ったことがもう十分意味を与えてくださっている。それは天親が不虚作住持功徳と名づけている浄土の功徳です。我々は「空しく過ぎているな」と自分の人生を感じたときに、「南無阿弥陀仏」というひと言で、「ああ、空しくなかった」と思えるか。そう教えが聞けているかというと、人前ではこのような偉そうなことを言っているけれど、自分自身は「ああ、空しく過ぎたな」と感じてしまう面もあるのです。しかし、「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(『聖典』490頁)と和讃で親鸞聖人は語っているわけだから、「ああ、そうか、やはりそういう出遇いをしなければいけないのだな」と。

 そういう出遇いをするということは、「現生に十種の益」(『聖典』240頁)、利益を感ずるということでもあり、「願生彼国、即得往生」(『聖典』44頁)、願生すれば即往生すると言える人生なのだと、そういう頂き方をするということなのです。必ず往生するぞと信ずるのではなくて、『無量寿経』で語っている往生するということは、浄土に生まれたら正定聚だと語っているわけですから、正定聚を現生で得るということは、浄土に生まれた功徳を得るということです。そういう出遇いをしなければ、親鸞聖人が言うお言葉にふさわしいとは言えないわけです。それはなかなか大変なことです。それでも親鸞聖人は、やはり煩悩の身、無慚無愧の身であると、そう言うのです。それと何ら矛盾しないはずなのです。そのくらい阿弥陀の光が明るいことを実感しておられるわけです。

 これが若いうちはほとんどわからなかったですね。この歳になってわかるかというと、相変わらず何だかちょっとわからないのですけれども、それでも親鸞聖人がおっしゃる本当の信念の内実というものに近づいてみたいという思いがあるものだから、この人生で満足成就したと言える、そういう思いが本当に与えられるのならば出遇ってみたいと思うのです。金子大榮先生はそれを言っておられました。自分の人生は完全燃焼の人生でしたと。あそこまではなかなか言えませんけれど、少なくとも親鸞聖人は、心は愚かである、そして光は十分に与えられてある、自分の煩悩からは見えないけれど、向こうは見てくださっていると信ずるのだと。願力に遇いぬれば空しく過ぐる者はないと頂かれたということは、こういうことなのです。不思議な言い方だと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
 

真如ということ

2020-07-04

709
真如とは知的直観としての意味なのです。そういうことを失ってしまうと言葉に酔う。ただ文学的ムードに酔ってしまうことになるのです。やはり道理と。意味とか意義にするのは道理なのです。そこに理がある。論理ではないのですけれども道理という。道理が意義なのでしょう。また道理の味なのでしょう。道理を感ずる。こういうものがないと思想にならないと思います。人間が救われるというのは、道理に救われるのです。

706
思想の堕落とは、文学的な、ひとつのムードです。「酔う」のでしょう。言葉の文学的な内容だけに、つまり感性的な内容だけに固執すればムードです。それは言葉を尊敬しているのではない、却って言葉に酔ってしまっているのです。だからロゴスということをやかましく言うのです。感覚的な味でなしにロゴスの味です。ロゴスの意味なのです。

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