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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

現世利益が流行るのはね。

2020-09-21

 

786
日本ではだんだん仏教学が要らんようになってきて現世利益の宗教というものがはびこっとるんですが、ああいったものは、いってみれば解脱という問題を忘れるというと、そういう現世利益になるのです。健康とか幸福とかが問題になってくるところに現世利益というものがある。だから本当の意味の、純粋仏道が濁っている結果なんだ、現世利益が流行るのはね。

カルビンについて

2020-09-17
FacebookYasuda Rizinより

 

783
そういう意味で、こんにち皆さん知っておられるように、資本主義社会というようなもの、資本主義社会は「儲け」ですわね。金儲けです。つまり経済的人間の社会ですわね。だからして、それは苦しかった。金を儲けるということは悪やと。それをどうして、金を儲けることをできるようにするかと言えば、それは神への奉仕だというような、そういうようなことをやったのがカルビンですわね。

菩提心

2020-09-08
774
だからして、仏教学といっても全体が世間学なんだ。菩提心に立たんというなら、どういうことになるかというと、名利になる。なぜ世智をきらうかというと名利だからです。つまり、名利でもないし菩提心でもないというような、そういう立場はないのです。
773
それは何かというと、仏教を知らずに、仏教の外から、世間という立場から仏教を取り扱う。こういうのは、取り扱われとるものは仏教だけれど、取り扱っている立場は仏教じゃない。つまり菩提心というもの、宗教心というようなものに立たない学問です。それを世智という。
 
772
関する学とアビダルマとの区別。やっぱり、それ自身一つの経典であるというような意味をもっとるのは、厳密な意味の仏教学なんだ。仏教に関する学ではない。「仏道を学する」という意味の学ですね。それがアビダルマという概念でしょう。
771
こんにちの仏教学でもですね、仏教というものを対象として取り扱っておるけれども、学問自身ひとつの経典史学とか、宗教学とか、宗教心理学とか、そんな「材料」として仏教をもちいるなら、これは名前は仏教だけれども、その学問は世間的なものだ。それはまぁ区別すれば、そういう場合の仏教学というのは、仏教「についての」学問でしょう。
771
こんにちの仏教学でもですね、仏教というものを対象として取り扱っておるけれども、学問自身ひとつの経典史学とか、宗教学とか、宗教心理学とか、そんな「材料」として仏教をもちいるなら、これは名前は仏教だけれども、その学問は世間的なものだ。それはまぁ区別すれば、そういう場合の仏教学というのは、仏教「についての」学問でしょう。

大乗、そして方便

2020-05-21

631
真実ばかりあるのは仏教では小乗仏教というのです。
大乗には方便がある。
方便回向ということがある。
大乗仏教の大という字は方便から出てくるのです。
大乗教学というのは方便教学です。
それが非常に大きな特色ではないかね。
小乗は方便がないのです。
小乗は真実しかないから小乗なのです。

632
方便か無いというと真理が痩せ細ってしまうのです。
真実から方便を生み出して、その方便によって真実を成就すると。
そういうときに真実が広がってくるのです。
方便という思想が大乗仏教だと思うのです。
巧方便回向と。
その方便というものを最も純粋な形で示したのが回向です。
巧方便というのは善巧方便回向です。
善巧方便の働きが回向です。

 

 

 

 


633
『願生偈』のうしろのほうに五念門というものが述べてあるのです。
智慧、慈悲、方便というようなことがあるのです。
智慧と慈悲と方便です。
普通は智慧と慈悲で終わってしまうのでしょう。
あらゆる教学は智慧と慈悲です。
その智慧と慈悲とにもう一つ、方便というものを加えて、智慧、慈悲、方便と。
これが『浄土論』というものの非常に大事な点ではないかと思います。
普通は慈悲と方便とは一つにして智慧と慈悲で二つだと。
こういうのが普通の考え方です。
そうではないのです。
三門に分けてくるのです。

「行く」ということ

2020-05-08
縁の働き
Yasuda Rizin

652

本願寺の事業としてはいろいろな人が行くわけです。
全国にみな派遣されて、
行って講習会を開くのです。
教団の事業としてはいろいろな人が行くわけです。
そういうことと関係なしに行くのは私と曽我先生だけです。
不思議なことです。
縁がなければ行かないし、
縁があればどこでもどんな遠方でも行くと。
縁がなければどんな近くでも行かない。
こういうように、
縁ということを考えてみなければならないことだと思うのです。

653

考えで行くのではない。
計画で行くのではない。
縁で行くのです。
縁は分別を超えているのです。
本願寺の教団として何か必要があって行くのではない。
そういうような計画を立てて行くのとちがうのです。
考えを超えて行くと。
考えで行くのではない。
まず行くと。
後で考えたらいいのです。


654
はじめから考えて行こうとすると、
行く時は無いのではないかね。
あれもある、これもあると。
あれを整え、これを整え、これを解決して、
それから行くということになると、
それだけでもう済んでしまうのではないかと思うのです。
だから私はいつも言うように、まず行くと。
考えて行くのは心で行くのです。
心で考えて行くのです。
けれども縁があって行くのは体が行くのです。
心はあとでいいのです。


655
だから出かけて行って、
用事があったなと気がついたら、
その時に引き返したらいいのです。
まず行って、
引き返したらいいのです。
初めから引き返さないように考えて行こうとすると、
考えているあいだに済んでしまう。
そうでしょう。
また
考えて考えたとおりになるのなら、
行く必要はない。
そうでしょう。
 
656
だから仏法に「分かって行く」ということを考えるけれども、
分かったなら仏教の会に入る必要がない。
そうでしょう。
けっきょく分かるとか分からないとか言うのは心であって、
分かる分からないのではないのが体です。
それで体というところに存在があるわけです。
私が存在すると考える先に、
まず第一に存在している。
だから
そこに身体というような問題がある。
身体を動かすというようなところに
縁があるのではないでしょうか。
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