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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

2020-06-12

688
言葉は思惟の結果ではない。
原因なのです。
それによって一人ひとりの思惟が、
言葉というものをとおして初めて、
誰にでも通じるようなものになるのです。
つまり妥当性が出てくる。
独り言は他人には通じないでしょう。
それは独り善がりだからです。
だから何でも座談ということが大事なのです。
ディスカッションということをいうでしょう。
やはり胸の中にためていたのでは話にならないのです。

聞思ということ

2020-06-05
命あらん限り、というのが「思」です。

679
聞思と。
つまり言ってみれば、
「思」という字が付かないというと、
信心を獲たらやめてしまう。
やぁ、ありがたいと。
これでもう終わったと、
こういうことになるのです。
ところが
思という字が付くと


終わらせないのです
命あらん限り、というのが「思」です。

聞のほかには、何もないのです。

2020-06-04
「聞即信」ということ
 

677
「聞即信」ということを言います。
聴聞ということをいって
聴は耳で聞くかもしれないけれども、
聞は信心でしょう。
「如是我聞」というように
これは非常に大事なことです。
迷っている人間が覚るようになるには
聞の一字しかないのです。
聞のほかには、何もないのです。

聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。

2020-06-01

676
信を獲(え)るまでは耳に良い加減に聞いていたけれども、
信を獲(え)た時にはわが身に聞いたのです。
わが身にひきかけて聞いたのだから、
聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。
聞ということがそういうように転じてくるでしょう。

信心というものは

2020-05-30

675
信心というものは、

名号にたまわった自覚です。
名号を聞いて自覚の眼がひらけた。
実はその開かれた自覚が聞くのです。
そのように逆を言わないとね。
分からないから聞くというけれども、
それなら分かったら聞かないようになってしまう。
そうではないでしょう。
信を得るために聞くというのなら、
得てしまったらもう聞かなくてもいいということになる。
けれどもそうではないのです。
信を得て初めて、無限に聞きたいと。

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