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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

「についての」学問

2020-09-05
771
こんにちの仏教学でもですね、仏教というものを対象として取り扱っておるけれども、学問自身ひとつの経典史学とか、宗教学とか、宗教心理学とか、そんな「材料」として仏教をもちいるなら、これは名前は仏教だけれども、その学問は世間的なものだ。それはまぁ区別すれば、そういう場合の仏教学というのは、仏教「についての」学問でしょう。
770
なにかギリシャにはやっぱり哲学というものがあったんだけど、ご承知のようにソクラテスからまぁ一つのギリシャの哲学というものがはっきりしてくる。それまで、ソクラテスは何から区別するかというと、ソフィストというのから区別しとるですね、ソフィスト。これがつまり言ってみれば「世智」というものでしょう。
772
関する学とアビダルマとの区別。やっぱり、それ自身一つの経典であるというような意味をもっとるのは、厳密な意味の仏教学なんだ。仏教に関する学ではない。「仏道を学する」という意味の学ですね。それがアビダルマという概念でしょう。

現生ということ

2020-08-25
 
760
現成です。現生の益であって、未来というようなものではない。未来ということと区別している。未来というのは願望、理想あるいは要請という。そういうものではない。それはもと(本)を探ると『観無量寿経』の真身観の「光明遍照十方世界 念仏衆生 摂取不捨」に基づく言葉です。念仏する衆生を摂取して捨てないと書いてあります。

願往生心

2020-08-10

746
だから、社会主義というのも共産主義というのも何もないところに出てきたのではない。
根底に願往生心というものがあるのです。
根底に願往生心というものがなければ社会主義とか共産主義が出てくるはずがないのです。
その彼らが宗教を否定するのは、いわゆる反動宗教を否定するのです。
つまり封建制度や資本主義の御用教学を否定しているわけです。

自然(じねん)の道理

2020-07-31

736
(易往)無人という意味は、これは面白いことです。易往の道が無くて人が無いというなら、それは無理もないことです、けれども易往なのです。自然(じねん)の世界の中に、つまり無為自然の本願、自然の道理の中に人間は置かれているのです。ただ、置かれていながら、自然の道理に目覚めない。


737
自然(じねん)の道理が、無いのではない。自然の道理の中にありながら、しかもそれに目覚めない。そういう大きな問題です。そこに信仰問題があるわけです。自然の道理も何も無いのに目覚めないというなら、これはえらい気の毒というようなことになるけれども、そうではない。自然の道理の中におりながら、それに目覚めようとしないのです。そこに固執があるでしょう。目覚めさせないのは我執でしょう。主観を手放そうとしないのです。

「易往而無人」の人が無いということ

2020-08-14

749
親鸞は、「易往而無人」の人が無いということを、真実信心の人は有り難いと言うのです。有ることが難いと。人間は易往の大道の本願の中にいるのだけれども、にもかかわらず目覚める人がないと。救いはあるけれども自覚がない。だからそれは非常に稀だと書いてある。

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