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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

因縁の力

2021-10-03
Facebook Yasuda Rizinさん曰く、
1158
皆そうなのです。
憎しみながらも離婚せずにいるのは因縁の力があるからなのです。
夫に感謝する妻なんていうものは一人も居りはしないでしょう。
皆、不平不満をいだいている。
仕方がないと言って続いているのは、因縁の力があるからです。
外国では因縁というものを考えない。
他力ということも分からなかった。
他力の力というのは何を力というのか。
大願業力、増上縁の縁でしょう。

仏教は、人間を大事にするけれども、人間主義ではありません。

2021-10-03
Facebook Yasuda Rizinさん曰く、
1153
釈尊は我々に「仁者(あなた)」と言う。
そこに、教える人と教えを受ける人の区別があるでしょう。
区別はあるけれども、同じ「人」に生まれてきている。
人と人の関係です。
しかし、ただ人と人というだけでは人間主義でしょう。
仏教は人間主義ではない。
仏教は、人間を大事にするけれども、人間主義ではありません。

(T23) 『教行信証』講義

2021-09-08
投稿者: 東方学院 事務局

東方学院設立の経緯と意義

 東方学院は、創立者中村元の東京大学退官とともに、昭和45年11月に文部省より財団設立の認可を受けた財団法人東方研究会(現、公益財団法人中村元東方研究所)を母胎として、昭和48年に設立されました。

 その大きな動機は、当時、大学に吹き荒れた学園紛争にともない、学術的には減退傾向にあり、また精神的な砂漠化のさなかにあって、学術的精神的な拠点となりうる、小さくともしっかりした学院をつくることにありました。そして学問の自由を制約することになる縄張り意識の強いセクショナリズムを廃して、真理探究を目的とする学問本来の姿を回復するためでありました。

大学の外につくることでセクショナリズムを脱し、またカルチャー・センターとも異なる一種の私塾、つまり現代の「寺子屋」として出発しました。真に教えたい一人と真に学びたい一人が集まれば学院は成り立つ―これが創立者・中村元の信念であり、まさに東方学院の原点といえます。
 幸いにも、このような考えに同調し、協力を申し出る人々が集まり、学院は開講されました。狭いビルの一角を間借りし手弁当を持ち寄って、文字どおりの「寺子屋」が始まったのです。

 しかし、財団の基盤を強固にし、学院を発展させていくためには、しっかりとした学問研究の場所を確保する必要がありました。そこで、創立者の私財をもとに、財団設立に協力して下さった篤志家の方々が、昭和57年「財団法人東方研究会強化募金運動」を開始されました。一高時代の同窓生(「昭8文乙クラス会」のメンバー)である中村敏夫弁護士をはじめとして、同じく星埜保雄、宇佐見鉄雄、倉知善一、新井正明氏らが発起人となり、その資金集めから場所の確保にいたるまで実に並々ならぬご尽力を下さいました。そのおかげで、諸方面から多数の賛同者・協力者を得ることができ、現在のこの場所を入手するにいたりました。東方学院は、これらの人々によって築かれた土台の上に、今日成り立っております。

 以来、当学院は、優れた数多くの講師を迎え、多くの方々の善意と学問への熱意によって支えられ発展して参りました。

 今後も創立者の遺志を継承し、初心を忘れることなく、ますます発展していきますことを心より念願しております。

 

公益財団法人中村元東方研究所
故名誉理事長 中村洛子
(1919 ~ 2010)

公益財団法人 中村元東方研究所 東方学院

(T23) 『教行信証』講義

本多 弘之(ほんだ ひろゆき)

親鸞仏教センター所長

レベル 初級
◆第1・3木曜 10:30〜12:00
◆初講2021年4月15日(木) 全14回
◆東京本校 402号室〈オンライン可〉
◆受講料 ¥20,000

親鸞の主著『教行信証』を読みつつ、親鸞の思想信念を明らかにしていく。本年度も、「行巻」をしっかり読みといて行きたい。浄土教はいうまでもなく、大乗の仏教であるが、その浄土のすくいを、煩悩具足の身を生きながら、大悲の本願を聞けば、十分に味得できる道であることを明らかにしたのが、親鸞による革命的な了解であろう。この機会に『教行信証』の言葉を味読してそのことを明らかにしたいと思う。

【テキスト】
・『真宗聖典』東本願寺出版、1978

【参考書】
・講義の中で触れます。


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平澤興

2021-08-31
進むべき 道は一筋

プロフィール


平澤興 ひらさわ・こう
明治33年新潟県生まれ。
京都帝国大学医学部を経て、大正13年京都帝国大学医学部解剖学教室助手。翌年同学部助教授。15年新潟医科大学助教授。昭和3年からスイス・ドイツ等に留学後、5年同大学教授。翌年、日本人腕神経叢の研究により医学博士号を取得。21年京都帝国大学教授。32年から京都大学総長を2期6年間務める。38年同大学名誉教授。
その後、京都市民病院院長、京都芸術短期大学学長などを歴任。45年勲一等瑞宝章受章。平成元年6月17日、心不全のため京都市内で没。

- 『自己に背くもの』 -    唯識に学ぶ・誓喚の折々の記プログより

2020-05-12
八番問答講話  安田理深述

- 『自己に背くもの』 -

         八番問答講話  安田理深述

 (1) 転回点 その(1)

 曇鸞大師は浄土論の解釈が一応終わってからその最後に至って一つの問題を提起しておられる。そこを今回は拝読することになっている。論註をみてみるとたびたび話すように浄土論というものが偈頌-歌、これを印度では伽陀といい、支那では頌といい、日本では歌というーとその解釈が散文で書いてある。その散文を長行といっている。論註は上巻では偈頌の解釈、下巻では長行の解釈ということになっている。そしてこの上下二巻の終りにはそれぞれ重要な問題を掲げておられるのである。下巻では自利利他の問題を掲げて、自利利他速得阿耨多羅三貌三菩提、この速やかにという問題をおさえて曇鸞大師はそこに浄土論を手がかりとして本願他力を摂き、他力という問題を明らかにしておられる。古来これを他利利他の深義といっている。下巻には五念門の因果を広く解釈してあるが、そこでは五念門の行というものが他力であるということを明らかにしていられる。浄土真宗では他力回向をいうが始めてそれを明らかにされたのが曇鸞大師である。それによって浄土論というものが全く新しい解釈即ち浄土論をみる眼が開かれたのである。かくて上巻にも下巻のそれと相応した一貫した問題を掲げられている。

 論註上巻の最後を結ぶこの問題は何かというに、古来から八番問答といわれて問答が八通り繰り返されてある。然しその中心問題は先ず第一の問答で、これが八番問答を一貫する根本問題であろう。では問題はどういうところから起こったかというと、天親菩薩の回向章から起こっている。回向章は願生偈の最後のお言葉で、四句一行の流通文である。流通文は結文をいう。

 我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国

 この偈のなかの 普共諸衆生 往生安楽国 と結んであるが、さたその衆生といっているのは何であるか。いかなる衆生を意味しているのか。ただ衆生というのみでは仏も衆生であり、菩薩も衆生であり、凡夫も衆生である。それ故天親菩薩が願生というものにおける衆生というものが一体菩薩を意味するのか、それとも凡夫を意味するのかはっきりしない。ここに衆生とは何を指して衆生というのか、という問題が提起されたのである。

 今回拝読するところはその前に 以偈頌総説竟(偈頌を以て総説し竟ぬ) というところから出ている。故にこの問題は回向文の問題ではない。解釈はもう終っている。この問題は回向章の問題ではなくその問題を手がかりとして、浄土の機とは一体何であるかを問うのである。これは気のつかぬことであるが、それを曇鸞大師はおさえられたのである。法があっても機がないときには法は生きてこない。活動しない。機というものにおいて法は働く。つまり法の本性は永遠に変わりがないが、その法も機がなければ単なる可能性というものに終わり、現実的にはならない。現実的になるためには機というものを要するのである。そうでなければ法というものはただ本質としてあるのみで、生きて働くところのー法が働くということができない。

 論註の最初に先ず浄土論を解釈するにあたって、

 謹案龍樹菩薩「十住毘婆娑」云。菩薩求阿毘跋致有二種道。一者難行道。二者易行道。(謹んで龍樹菩薩の「十住毘婆娑」」を案ずるに云く。菩薩阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一つには難行道なり。二つには易行道なり。)

 と龍樹の十住毘婆娑論を以てその出発点として解釈しておられる。そこに難行道易行道ということが出ている。次いで 「難行道者謂於五濁世於無仏時」(難行道とは謂く五濁の世無仏の時に於て) といってそこに時が出ている。これは面白いことである。論註の一番最初に時が出ており、その最後には機が出ている。始めに時、終わりに機、時機である。法というものは時を得て始めて現実的なものとなるのである。時機純熟というがこういう問題に触れたわけである。つまり浄土論が天親菩薩の安心を表白されたのであるが、願生偈は普共諸衆生といっている。天親菩薩が浄土論を述べた立場はどこにあるか。即ち天親菩薩が願生といわれたときにはどういうところに自己を置かれたかということである。そういうことを問うのである。更に押してゆけば浄土の機というもの、阿弥陀仏の本願の正機とは何であるか。こういう問題である。 

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