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東京五輪「中止検討せざるを得ない」組織委顧問の千玄室氏 現状での開催に危機感
新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期された東京五輪・パラリンピックについて、大会組織委員会の顧問を務める茶道裏千家の千玄室前家元(97)が、京都新聞社の取材に応じた。千氏は「来年までに世界各国で収束しないと準備ができない」と話し、現状での五輪開催に危機感を示した。
延期が発表された3月24日、安倍晋三首相と国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、中止はないと確認。一方で、組織委員会の森喜朗会長は、再延期は「絶対ない」との見方を示し、バッハ会長も今月、英BBC放送のインタビューで、来年開催されなかった場合、中止となる見通しを示している。
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/263872?fbclid=IwAR0TSMWXC_ZhLFj9e23wDePy029e2OZhPYp_vf4dE9zdsrDcZ4nhIuDg-HY
関西でも宣言解除
社説:京都も宣言解除 油断せず冷静に行動を
コロナ情報について
政治学者の御厨貴氏(東京大学名誉教授)に、全国の知事の評価を聞いた。
内田樹の研究室 Facebook 桑門 超さんのシェアより
市民たちの相互監視が始まっている。
GWの外出自粛を受けて、県外の車を煽ったり、傷をつけたりする事例が出ている。休業要請に従わず開業している店舗に落書きをしたり、備品に傷をつけたりする人も出て来た。
「こういうこと」ができるのは、「そういうことをしても許される社会的な空気」を彼らが感知しているからである。いまなら「そういうこと」をしても処罰されない、少なくとも「私は市民として当然の怒りに駆られたやったのだ」という自己正当化ができると知ると「そういうこと」をする人たちがいる。
私はそういう人たちをこれまで何度も見て来た。前にも書いたが今度も繰り返す。
私たちの社会は「自分がふるう暴力が正当化できると思うと、攻撃性を抑制できない人間」を一定数含んでいる。彼らがそのような人間であるのは、彼らの責任ではない。一種の病気である。
人間は「今なら何をしても処罰されない」という条件を与えられたときにどのようにふるまうかで正味の人間性が知れる。これは私の経験的確信である。前に嫌韓言説について書いたときに私はこう書いた。読んだことがある人もいると思うが、大切なことなので再録する。
嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。
私たちの親の世代の戦中派の人々は戦争のときにそれを知った。ふだんは気のいいおじさんや内気な若者が「今は何をしても処罰されない」という環境に投じられると、略奪し、強姦し、殺すことをためらわないという実例を見たのである。戦中派の人たちは、人間は時にとてつもなく暴力的で残酷になれるということを経験的に知っていた。
私も60年代の終わりから70年代の初めに、はるかに小さなスケールだが似たことを経験したことがある。大学当局の管理が及ばない、あるいは警察が入ってこないという保証があるときに、一部の学生たちがどれほど破壊的・暴力的になれるのか、私はこの目で見た。
最初は三里塚の空港反対闘争に参加したときに、学生たちが無賃乗車したのを見たことである。数百人が一気に改札口を通ったのだから、駅員には阻止しようがない。切符を買っていた私が驚いていたら、年長の活動家が笑いながら、「資本主義企業だから階級的鉄槌を下されて当然だ」という政治的言い訳を口にした。
しかし、降りた千葉の小さな駅で、屋台のおでん屋のおでんを学生たちが勝手に食べ出したのには驚いた。「やめろよ」と私は制止したが、学生たちはげらげら笑って立ち去った。おでん屋は別に鉄槌を下すべき資本家ではない。ただの貧しい労働者である。その生計を脅かす権利は誰にもない。でも、学生たちは「衆を恃んで」別に食べたくもないおでんを盗んだ。今なら盗みをしても処罰されないという条件が与えられると、盗む人間がいる。それもたくさんいる、ということをそのとき知った。
学生運動の渦中で多くの者が傷つき、殺されたが、手を下した学生たちにも、その人を傷つけなければならない特段の事情があったわけではない。ただ、政治的な大義名分(「反革命に鉄槌を下す」)があり、今なら処罰されないという保証があったので、見知らぬ学生の頭を鉄パイプで殴りつけたり、太ももに五寸釘を打ち込んだりしたのである。その学生たちはそののち大学を出て、ふつうのサラリーマンになった。今ごろはもう年金生活者だろう。
私はこういう人たちを心底「怖い」と思っている。こういう人たちを「大義名分があり、何をしても処罰されない」という環境に決して置くべきではないと思っている。だから、できるだけ法律や常識や世間の目が働いていて、「何をしても処罰されない」という環境が出現しないように久しく気配りしてきたのである。(ここまで)
いま、コロナウィルスの感染が広がる中で、行政が明確な休業指令を出さず、民間の「自粛」の委ねてしまったせいで、「自粛に従わないものには市民が処罰を下してもよい」という口実で暴力行使の正当化をする人たちが出て来た。
これは嫌韓言説に乗じて、市民生活の中では決して許容されないような卑劣で醜悪な攻撃性を発揮していた人たちと「同類」の人々である。「自粛」というあいまいな行政指導は市民たちの相互監視を督励する。そして、それは単なる監視にとどまらず、「自粛しない市民を攻撃しても処罰されない」という心証をかたちづくった。
彼らはちゃんと法律が機能し、常識が有効であり、「世間の目」が光っているときなら、そんなことはしない人たちである。でも、少しでもその規制が緩むと、自分の中の攻撃性を抑制することができなくなる。
そのことは例えばSNSで激しい攻撃的な言葉を書き送る人たちの多くが匿名であることから知れる。彼らは「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・自分の言動が処罰されない保証があると知れると、過剰に暴力的になる人間」である。そして、たぶん彼らは「あらゆる人間はそうだ」と思っている。でも、それは違う。世の中には、「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・処罰されるリスクがない時」でも、「お天道様」が見ているという自制を失わず、常識的に、ジェントルに、節度をもってふるまう人がいるからである。この人たちは「あらゆる人間が自分と同じだ」とはたぶん思っていない。でも、自分はそういう人間であり続けようと思っている。
この二種類の人たちはいずれも少数派である。おそらくそれぞれ集団の10%内外だと思う(この辺の数字は私の経験知であるので、厳密ではない)。残りの80%はこのどちらが優勢であるかによってふるまい方を変える。
「どんなことがあっても穏やかに、市民的にふるまう人」はいつも同じようにふるまう。平時でも非常時でも変わらない。一方、「処罰するリスクがないときに過剰に暴力的になる人」は「処罰のリスク」という可変的な条件に従って、ふるまい方をがらりと変える。まったく違う人間に見えるほど変える。人が変わったように変わる。それが可視化されるかどうかは「処罰のリスク」というごく散文的な条件によるのである。
「外出自粛」は行政が明確な基準も、それに対するペナルティも示さなかったことによって、この人たちのうちに「今なら人を攻撃しても処罰されない」という確信を醸成した。
いま、あちこちで罵声が聞こえる。スーパーの店員にどなりつけたり、ATMの列でどなりつけたりしている人たちは全員が「自分は社会的な正義を執行している」と思ってそうしているのである。今なら、どれほど暴力的になっても、それを正当化するロジックがあると思ってそうしているのである。だから、止められない。彼らを止める方法は一つしかない。 法律が機能し、常識が機能し、「世間の目」が機能するようにしておくことである。
大阪では休業要請に従わない店名を公表するということが行われた。これは「この店に対してはどのような攻撃的なことをしても処罰されない」という保証を間接的に与えるものである。少なくともそういう解釈の余地を与えた。大阪府知事は、人間が条件次第でどれほどでも攻撃的になり得ること、その機会をつねに窺っているということを知らないか、あるいは知っているが知らないふりをしているのだと思う。市民が相互に監視し合い、相互に告発し合い、相互に攻撃し合う社会はおそらくある種の人々にとっては「管理コストが非常に安く上がる」社会に見えるのだろう。
ゲシュタポはきわめて効率的に反政府的な人々を逮捕していったが、それは彼らの捜査能力が高かったからではない。逮捕者のほとんどは隣人の密告によるものだったからである。
市民を相互監視させることによって統治コストは劇的に削減される。それは事実である。けれども、その代償として、「大義名分をかかげて隣人を攻撃し、屈辱感を与える」ことに熱中する人々の群れを解き放ってしまう。それがどれほど危険なことなのかについて、人々はあまりに警戒心がないと思う。
銀座の鐘
感染拡大が続く新型コロナウイルスに対応するため、厳しい勤務が続く医療関係者に感謝を示そうと、東京 銀座の交差点では時計塔から鐘の音が流されました。
新型コロナウイルスに感染した人たちの治療に当たっている医師や看護師など、医療現場のスタッフに対して、イギリスでは毎週木曜の午後8時に一斉に拍手や口笛を送ったり、フランスではエッフェル塔に「ありがとう」を意味する「MERCI」のメッセージが映し出されたりするなど、感謝の気持ちを示す動きが世界各地で広がっています。
日本でも、感染のリスクにさらされるなど厳しい勤務状況が続く医療スタッフへの感謝の気持ちや感染拡大を防ぐために家で過ごそうというメッセージを伝えようと、20日から東京 銀座のデパートにある時計塔から「命の鐘」と題して、鐘の音が流されることになりました。
鐘の音は午後7時ちょうどから流され、緊急事態宣言が出され、ふだんより格段に人通りが少ない銀座の町なかに鳴り響きました。
鐘の音は、毎晩7時から流され、「YouTube」などでも配信される予定です。
企画した郷司望さんは、「一日に一度、一緒に医療関係者に感謝の気持ちを示すきっかけになれたらと思います」と話していました。
仰せを蒙りて
法蔵菩薩
法蔵菩薩というのは文学的表現です。
神話というわけではないけれども神話的な表現になる。
昔話です。
「仏、阿難に告げたまわく、
乃往過去、久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して、
無量の衆生を教化し度脱して、
みな道を得せしめて乃し滅度を取りたまいき」と。
昔々大昔という意味です。
ただこれは如来の昔話だと。
これは信用組合の信用という意味もあり、
また信仰するとか、分からないから信ずるのだとか。
信という概念は非常に広い。
ただ、宗教心という場合の信は、
宗教の本質としての信です。
その場合、その信は二種深信でしょう。
これをはずれると
「宗教としての教団」はなくなるのです。
覚めることではない。
つまり信心が欲しいのではないのです。
田畑先生から
田畑正久先生の投稿
お釈迦様の話
釈尊の生涯と教え
釈尊のお説法
「成道会(じょうどうえ)」―釈尊が悟りを開かれた日
「成道会(じょうどうえ)」―釈尊が悟りを開かれた日
釈尊の生涯に深く関連する日のひとつが、12月8日です。
この日は何の日ですかとお尋ねすると、「太平洋戦争開戦の日=真珠湾攻撃の日」「ジョン・レノンが亡くなった日(今年は40年目を迎えます)」、あるいは地方によっては「針供養の日」という答えが返ってきます。「お釈迦様がお悟り(さとり)を開かれた日でしたね」というお答えは、ご門徒の皆さんからもなかなか出てきません。12月を迎えるとともに、街はクリスマス一色となり、ますます「成道会」の存在は、かき消されてしまうようです。
およそ2500年前、東北インドにあった小国「シャカ国」の王子シッダールタは、地位・財産・名誉など私たちが欲するすべてのものに恵まれ、何不自由なく過ごしていました。しかし、老人や病人さらには死人との出遇いをとおして、人として生まれた以上、老・病・死からまぬがれることができないという「わが身の事実」に気づき、思い悩みながら、真の幸せとは何かと深く考えていました。
その時、出家をし、質素な身なりながらも、心身を制御しながら善につとめ心穏やかな境地を求める生き方に励む「沙門」と出遇いました。29才のとき、意を決してお城を出て、修行生活に入りました。もちろんお城は大騒ぎ。沙門となった王子を見つけたマガダ国王ビンビサーラは、財や軍隊をあげるから国に戻ってはと申し出ましたが、「私はこの生活を楽しんでいます」といって、その申し出を断っています。
シッダールタは、師をみつけて瞑想の方法を学びましたが、その境地には満足せず、5人の仲間とともに断食をはじめとする厳しい苦行を続けましたが、求める境地にはいたることができず、修行を放棄します。ほぼ骨と皮だらけの体を河に入って清め、ふらふらと歩いている苦行者を見た村娘スジャーターは、神様に捧げようとして持っていた乳粥を彼に与えました(この娘の名がコーヒーに入れるミルク製品名になっています)。元気を回復したシッダールタは、近くにある大きな樹(ピッパラ樹)の下に座し、深い瞑想に入りました。
その時、彼の前に悪魔(マーラ)が現れます。武器や雨風で襲いかかり、あるいは美しい女性を登場させて誘惑をしたり、あらゆる手段を用いて邪魔をしました。このマーラの襲来は、内面の様々な欲望との闘いや苦行を棄てたことへのうしろめたさを表しているといわれます。しかし、悪魔の襲来を降伏(降魔)され12月8日の明け方、明けの明星が輝くなか、悟り(बोधि, bodhi:菩提)を得られ、ブッダ(बुद्ध, Buddha)「目覚めたもの」となられました。この出来事を「降魔成道」といいます。お城を出て6年目、シッダールタ35才の時のことです。以後、ブッダ(仏陀)と呼ばれます。
瞑想に入られた大きな樹は後に「菩提樹」と呼ばれるようになりました。また、悟りを得られた場所は、ブッダガヤとよばれ仏教聖地の一つとして世界中から仏教徒がお参りに来られます。現在この地には、52メートルの大塔が建っており、世界遺産となっています。
「さとり」とは何か。どのようなことに「目覚められた」のかは、またいずれ。
ちょっといい話
「医師の知性とは何か」
田畑正久先生発
努力の証
田畑先生のことば
時機相応について 時代と人
ご成婚です。
【20th Century Chronicle 1959年(s34)】
◎皇太子ご成婚
*1959.4.10/ 皇太子明仁親王と正田美智子さんの結婚式が行われる。(皇太子ご成婚)
この日、皇太子明仁親王と正田美智子さんの結婚の儀が、皇居内の賢所で執り行われた。殿下は束帯、美智子さんは十二単に髪をおすべらかしの装束で固めの盃事をなされ、無事、結婚の儀が成就された。その後の、皇居から東宮仮御所までの馬車列によるご成婚パレードでは、50万人の市民が沿道を埋めつくして祝福し、その光景はテレビの実況で日本中に放映された。このご成婚をきっかけに、テレビ受信機の普及は一気に進んだという。
皇太子明仁親王は、避暑で訪れた軽井沢のテニスコートで正田美智子と出会い、テニスを通して交際を深めたとされ、「テニスを通しての愛」と報道された。美智子さんは老舗企業日清製粉(チキンラーメンの日清食品ではない)社長 正田英三郎の長女で、明治以降初めての平民からの皇太子妃として、国民の間では「ミッチーブーム」と呼ばれる社会現象さえ引き起こされた。
しかし一方で、平民の娘として、皇室内外からの猛反対を受けることになる。昭和天皇の香淳皇后をはじめ秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃らの皇族がこぞって反対を訴え、それを取り巻く旧華族の女子など、皇室に隠然たる影響力をもつ女性たちからの反発も強かった。
学習院の女子同窓会「常磐会」の会長「松平信子」は、反対派のボス的存在で、手下同然の「柳原白蓮」などを使って陰湿な反対運動を行った。信子は旧佐賀藩鍋島侯爵家に生まれ、旧会津藩主松平容保の六男恒雄と結婚した旧華族であり、大正天皇妃貞明皇后に仕えて宮廷内に大きな発言力を有していた。美智子妃の入内後も、そのいびり方は凄まじかったようだが、この辺りは宮内庁が表に出したがらないので噂の域を出ない。
さらに柳原白蓮は、柳原前光伯爵が芸者に産ませた妾腹の子であったが、大正三美人の一人に数えられ、また歌人としての才も認められていたが、当代一のスキャンダル「白蓮事件」でも有名となった。NHKの朝ドラ『花子とアン』で、仲間由紀恵演じる葉山蓮子のモデルと言えば、思い当たる人も多いかと思われる。炭鉱王の妻としての立場を振り捨て、一介の若い社会運動家と駆け落ちし華々しく「恋に生きた女」が、皇太子の愛には徹底的に反対するという矛盾を平気でやってのけた分けである。
(この年の出来事)
*1959.1.1/ 尺貫法が廃止され、メートル法が実施される。
*1959.1.14/ 第3次南極観測隊が昭和基地に到着。前年置き去りにされた樺太犬のうち、タロとジロの生存が確認された。
*1959.3.30/ 立川基地拡張問題の裁判で、東京地裁は、米軍の日本駐留は違憲との判断を示す(伊達判決)。12.16最高裁は原判決を棄却。
*1959.6.30/ 米軍ジェット機が、沖縄県うるま市(現)の民家をなぎ倒しながら宮森小学校校舎を直撃炎上。小学生11人を含む死者17人、重軽傷者210人を出す。パイロットは空中で脱出して無事。(宮森小学校米軍機墜落事故)
*1959.8.28/ 福岡の三井三池鉱山が4580人の人員削減案を発表、総評などの支持を受けた三井三池労組は全面ストライキに突入し、戦後最大の炭鉱争議に発展する。
333m、日本一のテレビ塔誕生しました!
【20th Century Chronicle 1958年(s33)】
◎東京タワー完成
*1958.12.23/ 東京都港区芝公園内に東京タワーが完成する。
東京タワーは、東京都港区芝公園にある総合電波塔であり、1958(s33)年当時、自立式鉄塔として333mの世界一高い塔として完成した。2012(h24)年の東京スカイツリーの完成後も、現在日本で二番目の塔である。総合電波塔として建設されたが、この時期に一気に普及したテレビ放送の電波発信塔としての役割が重要であった。その機能は2012年のスカイツリーの完成とともに、地デジ移行と並行して、その役割を委譲した。
スカイツリー完成までの半世紀以上の間、日本一の塔として、富士山と共に日本のシンボル的存在であるとともに、高度成長を続け躍進する日本の精神的支柱の機能も果たしたと考えられる。修学旅行などで東京へ行くというと、東京のイメージとしては真っ先に東京タワーをイメージした。もちろん旅行土産にもタワーのミニ・レプリカやペナントが必ず含まれていたものである。
意外に知られていないが、タワーの建設は、「大阪の新聞王」と呼ばれ、当時は産業経済新聞社などの社主であった前田久吉により進められた。現在でも東京タワーの管理ならびに運営は、独立した日本電波塔株式会社によって行われている。スカイツリーに主要電波塔としての機能を委譲したとはいえ、ラジオや緊急電波など、補完的な電波塔として役割を分担するとともに、いまでも二つの展望台からの眺望は、メガロポリス東京を鳥瞰する最適な場所の一つである。
初代ゴジラの時は、まだ東京タワーはできていなかったので、ゴジラはアンギラスと大阪城で対決した。巨大都市を象徴する建造物を破壊するのは、怪獣映画の最大の醍醐味であり、東京タワー完成後の1961(s36)年に制作された「モスラ」では、さっそくモスラはその幼虫が東京タワーに繭をつむぎ、羽化するときにタワーをへし折るというシーンを見せてくれる。さらに翌年、アメリカからの助っ人キングコングを招聘しての「キングコング対ゴジラ」では、キングコングが美女を抱えて東京タワーに上るという、懐かしのシーンを再現してくれた。
(この年の出来事)
*1958.2.24/ 第2次越冬隊を送るために南極に向った観測船宗谷は、昭和基地に接岸できず。15頭の樺太犬が置き去りにされる。
*1958.5.22/ 2大政党体制下で初の衆議院議員選挙が行われ、自民党が実質的に勝利する。
*1958.11.27/ 皇太子と正田美智子さんの婚約が発表される。
◎学校制度の刷新
【19th Century Chronicle 1872年(m5)】
◎学校制度の刷新
(東京大学の創設)
*1872.旧3.13/東京 明治天皇が、大学東校(現東京大学)に行幸、学校行幸の始めとなった。
東京大学の系譜は、学制の確立していない時期の最初の官学だけに、きわめて錯綜した流れをとった。江戸幕府直轄の教学機関として昌平坂学問所(昌平黌)があり、儒教朱子学を正規の学問とした学問所であった。明治になると「昌平学校」と改称され、さらに高等教育および学校行政を担当する「大学校(本校)」として、高等教育の中枢に据えようとしたが、儒学派・国学派の内紛で廃止されることになる。
神田湯島聖堂に位置した昌平学校は、大学本校として「東京大学」の源流ではあったが、本体としては廃校とされたため、学問的に継承されることはなかった。むしろ、この地に併設された「東京師範学校」や「東京女子師範学校」が、それぞれ後の「東京教育大学(現筑波大学)」と「お茶の水女子大学」の源流となった。「お茶の水」の名称は湯島・お茶の水に由来する。
昌平学校に代って東京大学の実質的源流となったのは、「大学南校」と「大学東校」であった。幕府の蕃書調所に起源をもち、「開成学校」とされたものが「大学南校」となった。その流れから洋書・洋学を扱い、主として外国語と、その内容から文・理にわたる洋学の中心であり、現行の法文理三学部の母体となった。
一方、幕府の医学所に始まる「医学校」は、「大学東校」に改称されるとともに西洋医学にシフトしたが、当初のイギリス医学からドイツ医学中心の医学に変更し、その後の日本医学のドイツ医学重視の流れを決定づけた。南校と東校はそれぞれ「東京開成学校」「東京医学校」と名称変更したあと、明治10(1877)年、法・理・文・医4学部よりなる「旧東京大学」に統合改編された。
東京大学沿革略図 http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/b03_02_j.html
(学制整備)
*1872.旧4.14/京都 京都に「新英学級及女紅場」が開設される。この最初の女紅場は女学校の前身とされ、のち京都府立「京都第一高等女学校」を経て、現在は京都府立「鴨沂(おおき)高等学校」となっている。「女紅場(女工場)」は、女子に対する手芸の教授施設として、以後、全国各地に設置された。
*1872.旧4.15/ 東京芝増上寺内に「開拓使仮学校」が設置された。当初から北海道開拓に当たる人材の育成を目指し、明治8(1875)年、札幌学校として札幌に移転、以後、「札幌農学校」と改称して現「北海道大学」の前身となった。
*1872.旧5.29/東京 教員養成を目的に「師範学校」が創設される。]
*1872.旧8.2/ 国民皆学をめざして「学制」が公布される。「大学・中学・小学」の3段階の学校制度を設け、それぞれ学区が定められた。
「学制」は、明治5(1872)年8月2日に発された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令であり、全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指した。「教育令」の公布により、1879(m12)年9月29日に改変された。
(明治改暦/太陽暦の採用)
*1872.旧11.9/ 太陽暦の採用を布告する。太陰暦明治5年12月3日を明治6(1873)年1月1日とする。
明治5年11月9日、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」とする改暦ノ布告が公布された。それまで「太陰太陽暦(天保暦)」が使用されていたが、「明治5年12月3日をもって明治6年1月1日とする」(グレゴリオ暦1873年1月1日)と定められた。
公布から1カ月の猶予もなく性急な新暦導入が行われたのは、明治政府の財政状況が逼迫していたことが、その理由とされる。旧暦のままだと明治6年は閏月があり、13か月となっていて、月給制に移行した官吏への報酬が年間13回支給となる。そこで、新暦を導入して12か月とし、しかも明治5年12月は2日しかなく支給無しとし、結局月給は11か月分で済ますことになった。新暦導入により新政府は窮地を脱したが、はたしてこれで、給与生活者は損をしたのかどうか(笑)
(この年の出来事)
*1872.旧1.29/ 初めて全国戸籍調査が実施される。この調査で、人口は3311万825人とされた。(壬申戸籍)
*1872.旧3.10/京都 第一回京都博覧会が、本願寺・知恩院・建仁寺を会場として開かれる。13日には余興として、都踊り・鴨川踊り・東山名所踊りの共演があり、都踊りは片山春子(三代目井上八千代)に企画され、祇園歌舞練場で毎年続く行事となった。以後、京都博覧会は毎年開催された。
*1872.旧7.19/東京 参議西郷隆盛が陸軍元帥となり、近衛都督を兼務する。
*1872.旧9.12/ 新橋-横浜間に日本最初の鉄道が開通し、開業式が挙行された。
*1872.旧10.4/群馬 官営富岡製糸工場が開業する。フランス製機械を導入して、機械製糸工場の初めとなった。
◎学校制度の整備
【19th Century Chronicle 1887年(m20)】
◎学校制度の整備
*1887.4.18/宮城・石川 文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決める。
*1887.10.5/ 文部省が図画取調掛を「東京美術学校」、音楽取調掛を「東京音楽学校」と改める。(のちに統合され、現「東京芸術大学」となる)
1887年(明治20年)、文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決め、さらに熊本に第五高等中学校の設立が決まる。前年、東京に第一、京都に第三高等中学校が設立されており、1894年(明治27年)の高等学校令により、それぞれが「高等学校」となる。いわゆる旧制高等学校の「ナンバースクール」の陣容が整った。(別表一覧参照)
同1884年、文部省内に「図画取調掛」が設置され、岡倉覚三(天心)・フェノロサが西欧の図画教育の実態調査を委嘱され、欧州の調査旅行に派遣された。2人の報告に基き、1887年10月、日本最初の美術教員・美術家養成のための機関として「東京美術学校」が設立された。
同時に、文部省の「音楽取調掛」もまた「東京音楽学校」に改組され、日本の音楽教育を担う機関となった。東京美術学校が、伝統的日本美術の保護が学校のルーツであったのに対し、東京音楽学校のルーツは西洋音楽の輸入であったが、以後、両者とも和洋の伝統をふまえた芸術を担うことになった。
旧制専門学校「東京美術学校」と「東京音楽学校」は、日本で最も歴史ある芸術分野の最高学府として位置づけられたが、戦後の学制改革にともない、1949年(昭和24年)、「東京美術学校」と「東京音楽学校」は統合され、新制「東京芸術大学」となった。
(この年の出来事)
*1887.10.3/ 後藤象二郎が丁亥倶楽部を設立し、民権運動諸団体を糾合して「大同団結運動」を起こす。(10.4 各党派の有志が協議)
*1887.10.-/ 高知県の片岡健吉らが、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回の「三大事件建白書」を元老院に提出する。
*1887.12.25/ 保安条例施行。民権運動活動家570名が皇居外3里以遠の地への退去を余儀なくされる。
*1887.6.7/長崎 長崎造船所が三菱に払い下げられる。(のちの三菱造船所)
*1887.6.15/東京 大橋佐平が「博文館」を創業し、「日本大家論集」を出版する。
ついに、本州と繋がりました。
ちょっと気になる歌・唄
作詞家 五木寛之
五木寛之(作詞)作品集
旅の終わりに 冠二郎
青年は荒野を目指す ザフォーク・クルセダーズ
愛の水中花 松坂慶子
二丁目の子守唄 ミルバ
ひとり暮しのワルツ 石黒ケイ
四季・奈津子 チェリッシュ
織江の唄 山崎ハコ
女人高野 田川寿美
夜明けのメロディー ペギー葉山
東京タワー / ミッツ・マングローブ
はいだしょうこ「にじ」- きっと明日はいい天気
花は咲く 山鉄バージョン https://youtu.be/wazwInwECSc
連続テレビ小説「あまちゃん」の舞台の一つとしても知られています。
2019年3月23日、JR東日本から、復旧工事を終えた宮古と釜石の区間が移管され、全長163キロの三陸鉄道「リアス線」として1本のレールで結ばれました。
番組では、旅情を誘う鉄道と沿線地域の風物を織り交ぜ、震災からのさらなる復興を応援します。
また、本番組の制作に際し「花は咲く」の作曲家・菅野よう子のアレンジによる新たな音源で、鉄道ファンとしても知られる二人のデュエットが実現しました。
BSプレミアム「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」でもおなじみ、俳優の六角精児。
そして連続テレビ小説「まんぷく」でもおなじみ、「時刻表」の表紙にも登場した女優の松井玲奈。番組では二人が三陸鉄道に乗り込みます。
https://youtu.be/wazwInwECSc
ちょっと気になる絵
日本武道館は、東京の九段にあります。
国宝
春日大社では、だ太鼓が所蔵されていた宝物殿を平成28年に改修。工事に合わせ、だ太鼓自身の修復も並行で作業。2019年3月、4年に及ぶ修理が完了。だ太鼓が宝物殿に戻り広く一般に公開されるようになりました!
鼉太鼓は屋外の舞楽演奏に用いる左右一対の太鼓です。春日大社のものは源頼朝寄進との伝承がある鎌倉時代の作で、総高6m58cm。日本最大級の大きさを誇り、また鎌倉仏師の手による最高峰の彫刻で飾られています。
本特別展は、4年におよぶ本格修理によって見事復活を果たし本来の伸びやかで繊細かつ荘厳な姿を取り戻した鼉太鼓が4年ぶりに春日大社に戻り、国宝殿にて二基一対で初めて公開されることを記念するものです。
本展示では、鼉太鼓を中心に楽人たちが歴代大切に守り続けてきた重要文化財の舞楽面や国宝の楽器などを合わせて展示します。
この春は春日大社国宝殿で鼉太鼓が生み出す超迫力と春日舞楽が醸し出す優雅な雰囲気とに魅了されましょう。
龍と鳳凰と巴の話
龍と鳳凰と巴の話
[巴]
中国の太極の思想をうけた宇宙観、すなわち虚無が二つの宇宙から構成されており、陰と陽とから成り立っているという見方のもとに構図され、たとえば男女、明暗、肯定と否定など、極限の対立と調和を表す。
中国や朝鮮では二つ巴が用いられるが、日本では平安時代に奇数による日本的統制の和を示した三つ巴が完成した。
[龍]
森や草原、川などに住むさまざまな動物を複合して創造した想像上の霊獣で、水を司るといわれる。
龍が飛龍を生み、その飛龍が鳳凰を生んだことになっている。
中国では古くから龍のモデルの一つとなった蛇への信仰が篤く、脱皮に象徴される『死と再生』のシンボルであり、雨をよび、地下水を招く『水の循環』の象徴とされてきた。
一説によれば龍王には九子がおり、中の一子が啼いたり音を好む性質があるため、音色が良くなるよう梵鐘の竜頭や太鼓などの楽器に龍を配することがあるという。
[鳳凰]
さまざまな鳥類を複合して創造した想像上の霊獣。
体は美しい五彩に輝き、声はこのうえなく音楽的かつ高貴で、龍と同様楽器に縁がある。
四方のうち南を守る神といわれる『朱雀』を雌雄の対としたものといわれる。奈良時代に中国から日本に伝えられた鳳凰は、さらに日本の風土文物に調和する美しい姿に洗練された。
鼉太鼓(だだいこ)
鼉太鼓
朱の胴の太鼓の革面に三つ巴を描き、雲形板の頂上に日輪の飾りを掲げる左方太鼓と、胴を緑に彩色して革面に二つ巴を描き、頂上に月輪の飾りを掲げる右方太鼓があり、左方太鼓は太鼓の左右に金色の二頭の龍、右方太鼓には二羽の鳳凰が刻まれています。
つねに左方・右方一対で用います。