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ちょっといい話

データベース

真宗聖典検索 Web site

2020-04-22
東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。
このサイトは、宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃事業の一つとして聖教編纂室にて取り組み、開設したサイトです。東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。使用方法については、このサイトについてをご覧ください。

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/

Facebook 大谷派における学事の潮流

2020-05-05

真宗聖典(S_JIS 版)検索システム--- 生まれた意義と生きる喜びを見つけよう! ---

2020-04-22
真宗聖典(S_JIS 版 msearch)検索エンジン
  • リンクフリーです。真宗聖典各ページへの直接リンクは、
    http://www5.synapse.ne.jp/syoukakuji/seiten/ページ数.htmlでOKです。
    直接、ページを見たい方は、検索エンジンにページ数を入力して下さい。

     http://cgi5.synapse.ne.jp/~syoukakuji/cgi-bin/perlsearch/perlsearch.cgi

 

『浄土真宗聖典』オンライン検索 浄土真宗聖典・検索システム | 原典版

2020-04-22
http://j-soken.jp/kensaku2.html

聖典電子研究会

2020-04-22
http://seiten.icho.gr.jp/

今、私達に出来る事

【Shows at Home】民衆の歌 / Do You Hear The People Sing ? - Les Miserables -

2020-07-30
https://youtu.be/0Eax4cw6QFA

民衆の歌 The People's Song 「レ・ミゼラブル」より 


https://youtu.be/MNIyjmd-LwI?list=RDMNIyjmd-LwI

◆ジャン・バルジャン/吉原光夫  
◆ジャベール/伊礼彼方
◆ファンテーヌ/濱田めぐみ    
◆エポニーヌ/昆 夏美
◆マリウス/海宝直人       
◆コゼット/生田絵梨花
◆アンジョルラス/小野田龍之介
◆テナルディエ/駒田 一・斎藤 司 
◆マダム・テナルディエ/森公美子
◆コンブフェール/中井智彦 
◆クールフェラック/持木悠
◆フイイ/杉浦奎介 

非常事態宣言が解除されました。

2020-06-02

非常事態宣言が解除されました。

2020-06-02

東京五輪「中止検討せざるを得ない」組織委顧問の千玄室氏 現状での開催に危機感

2020-06-01
延期された東京五輪・パラリンピックへの思いを語る千玄室前家元(京都市上京区)

新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期された東京五輪・パラリンピックについて、大会組織委員会の顧問を務める茶道裏千家の千玄室前家元(97)が、京都新聞社の取材に応じた。千氏は「来年までに世界各国で収束しないと準備ができない」と話し、現状での五輪開催に危機感を示した。

 延期が発表された3月24日、安倍晋三首相と国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、中止はないと確認。一方で、組織委員会の森喜朗会長は、再延期は「絶対ない」との見方を示し、バッハ会長も今月、英BBC放送のインタビューで、来年開催されなかった場合、中止となる見通しを示している。



https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/263872?fbclid=IwAR0TSMWXC_ZhLFj9e23wDePy029e2OZhPYp_vf4dE9zdsrDcZ4nhIuDg-HY

関西でも宣言解除

2020-05-23
京都新聞 社説

社説:京都も宣言解除 油断せず冷静に行動を

  京都、大阪、兵庫の近畿3府県に発令されていた新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言が解除された。
  基本的対処方針で定められた解除基準の新規感染者数が抑えられ、医療提供体制やモニタリング体制も十分だと政府が判断した。
  安倍晋三首相が宣言の対象地域を全都道府県に拡大したのは4月16日。それから1カ月余り、京都のまちからもすっかりにぎわいが消えた。
解除は、感染拡大や医療崩壊を防ぐために多くの府民が休業や外出自粛などに真摯(しんし)に取り組んだ結果であり、朗報には違いない。
  だがウイルスが消滅したわけではなく、対策は長期化を覚悟する必要がある。安易に以前の生活に戻るのではなく、第2波、第3波への備えも強固にしなくてはならない。
  踏まえておきたいのは、このウイルスについて不明な点がまだ多いということだ。国内感染者数の実態すらはっきりしない。
  爆発的に感染が広がった欧米などと比べると抑えられているように見えるが、理由は分からない。
  政府が実情把握を急ぐべきなのは言うまでもない。そうした中で私たちに求められるのは過剰な楽観や悲観ではなく、まずは冷静な行動だろう。
  「新しい生活様式」も参考にしながら、密閉・密集・密接の「3密」を避ける取り組みを続ける必要がある。「正しく恐れる」ということを改めて思い起こしたい。     政府の宣言解除を受け、京都府はライブハウスなどの施設を除き、休業要請を解除することを決めた。独自の緩和基準を設けて今月16日から一部解除していた。
   政府は軽症者が療養する民間宿泊施設の借り上げなど医療体制強化に取り組んだ。授業再開に向けた環境整備など大学と学生の支援にも乗り出している。
 ただ観光や雇用といった面で、さまざまな困難が顕在化するのはむしろこれからだ。実情に応じて取り組みを柔軟に見直し、必要な対策を追加することが欠かせない。
 休業要請とともに中小企業に20万円、個人事業主に10万円を給付する支援策を打ち出したが、大阪府や東京都の支援とは金額的に大きな差がある。
 政府に対する緊急提言として、全国知事会は自治体向けの臨時交付金を最低でも総額3兆円とするよう増額を求めている。こうした動きとも歩調を合わせ、財源確保に努めるべきだ。

コロナ情報について

コロナに思う♯14 田中耕一氏 02年ノーベル化学賞 島津製作所

2020-05-11
https://youtu.be/VCoT2RE_IHI

政治学者の御厨貴氏(東京大学名誉教授)に、全国の知事の評価を聞いた。

2020-05-06
北海道鈴木、愛知大村は○、宮城△、石川、千葉、神奈川×、小池都政は? 政治学者・御厨貴「知事たちの通信簿 東日本編」
北海道の鈴木直道知事(39)
5Ixav9OJ5rAJIed2lDKPEjdThzUWyzRCOuCK0cRJhUzHK1huwcw6IFaCoV57io-_5oKpyPR1WeaN-n2R5tCFvQVF3-l1tGyTIWIS7_yAPVtVNw04G95fvYQHkJ-WAOGy5OH_F4bcn750ZFBQFlxwELygvomiQN_0UifQBmshkxur6TzKguaOmUUGS65Z7xmTUdP141iaXdCdCvQyYy82vKS2CIDVmg1DlCnU_Rxbkhvd0NykHgrnObQXX29ZAvisfX92njoPjqe_H76BFxl33-ykNDQF3zTAZ33hySk3N0wECt7wMPT3ovnZSD2Lyeb9_3CzqDkXsR61Enu_-2zYKu_bh3p-kSF4f3o1EzehO1AETCPM3uqWGYVMvTPPslNsKfnHCAZTyy-0RofSMXAvqzR8p0Q

内田樹の研究室   Facebook 桑門 超さんのシェアより  

2020-05-03
『隣組と攻撃性』 市民たちの相互監視が始まっている。

市民たちの相互監視が始まっている。

 GWの外出自粛を受けて、県外の車を煽ったり、傷をつけたりする事例が出ている。休業要請に従わず開業している店舗に落書きをしたり、備品に傷をつけたりする人も出て来た。
「こういうこと」ができるのは、「そういうことをしても許される社会的な空気」を彼らが感知しているからである。いまなら「そういうこと」をしても処罰されない、少なくとも「私は市民として当然の怒りに駆られたやったのだ」という自己正当化ができると知ると「そういうこと」をする人たちがいる。
 私はそういう人たちをこれまで何度も見て来た。前にも書いたが今度も繰り返す。
 私たちの社会は「自分がふるう暴力が正当化できると思うと、攻撃性を抑制できない人間」を一定数含んでいる。彼らがそのような人間であるのは、彼らの責任ではない。一種の病気である。
 人間は「今なら何をしても処罰されない」という条件を与えられたときにどのようにふるまうかで正味の人間性が知れる。これは私の経験的確信である。前に嫌韓言説について書いたときに私はこう書いた。読んだことがある人もいると思うが、大切なことなので再録する。

 嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。
 私たちの親の世代の戦中派の人々は戦争のときにそれを知った。ふだんは気のいいおじさんや内気な若者が「今は何をしても処罰されない」という環境に投じられると、略奪し、強姦し、殺すことをためらわないという実例を見たのである。戦中派の人たちは、人間は時にとてつもなく暴力的で残酷になれるということを経験的に知っていた。
 私も60年代の終わりから70年代の初めに、はるかに小さなスケールだが似たことを経験したことがある。大学当局の管理が及ばない、あるいは警察が入ってこないという保証があるときに、一部の学生たちがどれほど破壊的・暴力的になれるのか、私はこの目で見た。
 最初は三里塚の空港反対闘争に参加したときに、学生たちが無賃乗車したのを見たことである。数百人が一気に改札口を通ったのだから、駅員には阻止しようがない。切符を買っていた私が驚いていたら、年長の活動家が笑いながら、「資本主義企業だから階級的鉄槌を下されて当然だ」という政治的言い訳を口にした。
 しかし、降りた千葉の小さな駅で、屋台のおでん屋のおでんを学生たちが勝手に食べ出したのには驚いた。「やめろよ」と私は制止したが、学生たちはげらげら笑って立ち去った。おでん屋は別に鉄槌を下すべき資本家ではない。ただの貧しい労働者である。その生計を脅かす権利は誰にもない。でも、学生たちは「衆を恃んで」別に食べたくもないおでんを盗んだ。今なら盗みをしても処罰されないという条件が与えられると、盗む人間がいる。それもたくさんいる、ということをそのとき知った。
 学生運動の渦中で多くの者が傷つき、殺されたが、手を下した学生たちにも、その人を傷つけなければならない特段の事情があったわけではない。ただ、政治的な大義名分(「反革命に鉄槌を下す」)があり、今なら処罰されないという保証があったので、見知らぬ学生の頭を鉄パイプで殴りつけたり、太ももに五寸釘を打ち込んだりしたのである。その学生たちはそののち大学を出て、ふつうのサラリーマンになった。今ごろはもう年金生活者だろう。
 私はこういう人たちを心底「怖い」と思っている。こういう人たちを「大義名分があり、何をしても処罰されない」という環境に決して置くべきではないと思っている。だから、できるだけ法律や常識や世間の目が働いていて、「何をしても処罰されない」という環境が出現しないように久しく気配りしてきたのである。(ここまで)

 いま、コロナウィルスの感染が広がる中で、行政が明確な休業指令を出さず、民間の「自粛」の委ねてしまったせいで、「自粛に従わないものには市民が処罰を下してもよい」という口実で暴力行使の正当化をする人たちが出て来た。
 これは嫌韓言説に乗じて、市民生活の中では決して許容されないような卑劣で醜悪な攻撃性を発揮していた人たちと「同類」の人々である。「自粛」というあいまいな行政指導は市民たちの相互監視を督励する。そして、それは単なる監視にとどまらず、「自粛しない市民を攻撃しても処罰されない」という心証をかたちづくった。
 彼らはちゃんと法律が機能し、常識が有効であり、「世間の目」が光っているときなら、そんなことはしない人たちである。でも、少しでもその規制が緩むと、自分の中の攻撃性を抑制することができなくなる。
 そのことは例えばSNSで激しい攻撃的な言葉を書き送る人たちの多くが匿名であることから知れる。彼らは「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・自分の言動が処罰されない保証があると知れると、過剰に暴力的になる人間」である。そして、たぶん彼らは「あらゆる人間はそうだ」と思っている。でも、それは違う。世の中には、「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・処罰されるリスクがない時」でも、「お天道様」が見ているという自制を失わず、常識的に、ジェントルに、節度をもってふるまう人がいるからである。この人たちは「あらゆる人間が自分と同じだ」とはたぶん思っていない。でも、自分はそういう人間であり続けようと思っている。
 この二種類の人たちはいずれも少数派である。おそらくそれぞれ集団の10%内外だと思う(この辺の数字は私の経験知であるので、厳密ではない)。残りの80%はこのどちらが優勢であるかによってふるまい方を変える。
「どんなことがあっても穏やかに、市民的にふるまう人」はいつも同じようにふるまう。平時でも非常時でも変わらない。一方、「処罰するリスクがないときに過剰に暴力的になる人」は「処罰のリスク」という可変的な条件に従って、ふるまい方をがらりと変える。まったく違う人間に見えるほど変える。人が変わったように変わる。それが可視化されるかどうかは「処罰のリスク」というごく散文的な条件によるのである。
「外出自粛」は行政が明確な基準も、それに対するペナルティも示さなかったことによって、この人たちのうちに「今なら人を攻撃しても処罰されない」という確信を醸成した。
 いま、あちこちで罵声が聞こえる。スーパーの店員にどなりつけたり、ATMの列でどなりつけたりしている人たちは全員が「自分は社会的な正義を執行している」と思ってそうしているのである。今なら、どれほど暴力的になっても、それを正当化するロジックがあると思ってそうしているのである。だから、止められない。彼らを止める方法は一つしかない。 法律が機能し、常識が機能し、「世間の目」が機能するようにしておくことである。
 大阪では休業要請に従わない店名を公表するということが行われた。これは「この店に対してはどのような攻撃的なことをしても処罰されない」という保証を間接的に与えるものである。少なくともそういう解釈の余地を与えた。大阪府知事は、人間が条件次第でどれほどでも攻撃的になり得ること、その機会をつねに窺っているということを知らないか、あるいは知っているが知らないふりをしているのだと思う。市民が相互に監視し合い、相互に告発し合い、相互に攻撃し合う社会はおそらくある種の人々にとっては「管理コストが非常に安く上がる」社会に見えるのだろう。
 ゲシュタポはきわめて効率的に反政府的な人々を逮捕していったが、それは彼らの捜査能力が高かったからではない。逮捕者のほとんどは隣人の密告によるものだったからである。
 市民を相互監視させることによって統治コストは劇的に削減される。それは事実である。けれども、その代償として、「大義名分をかかげて隣人を攻撃し、屈辱感を与える」ことに熱中する人々の群れを解き放ってしまう。それがどれほど危険なことなのかについて、人々はあまりに警戒心がないと思う。

内田 樹(うちだ たつる)1950年生まれ。日本の思想家、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。 出典 http://ja.wikipedia.org/wiki/内田樹

銀座の鐘

2020-04-20
新型コロナ 厳しい勤務続く医療関係者に感謝の鐘 東京 銀座

感染拡大が続く新型コロナウイルスに対応するため、厳しい勤務が続く医療関係者に感謝を示そうと、東京 銀座の交差点では時計塔から鐘の音が流されました。

新型コロナウイルスに感染した人たちの治療に当たっている医師や看護師など、医療現場のスタッフに対して、イギリスでは毎週木曜の午後8時に一斉に拍手や口笛を送ったり、フランスではエッフェル塔に「ありがとう」を意味する「MERCI」のメッセージが映し出されたりするなど、感謝の気持ちを示す動きが世界各地で広がっています。

日本でも、感染のリスクにさらされるなど厳しい勤務状況が続く医療スタッフへの感謝の気持ちや感染拡大を防ぐために家で過ごそうというメッセージを伝えようと、20日から東京 銀座のデパートにある時計塔から「命の鐘」と題して、鐘の音が流されることになりました。

鐘の音は午後7時ちょうどから流され、緊急事態宣言が出され、ふだんより格段に人通りが少ない銀座の町なかに鳴り響きました。

鐘の音は、毎晩7時から流され、「YouTube」などでも配信される予定です。

企画した郷司望さんは、「一日に一度、一緒に医療関係者に感謝の気持ちを示すきっかけになれたらと思います」と話していました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200420/k10012397281000.html

ダライラマ14世のメッセージ

2020-04-16
ダライ・ラマ法王からの新型コロナウイルスに関する特別メッセージ 2020年3月30日

親愛なる兄弟姉妹の皆様へ

世界中の多くの方々からの度重なる要請に応えて、私の思いを記したいと思います。新型コロナウイルス(COVID-19)の発生により、今、私たちは大変な苦難の最中にあります。

新型コロナウイルスの問題に加え、人類は、極度の気候変動といったさまざまな問題に直面しています。この場をお借りして、インド政府をはじめ、こうした問題に懸命に取り組んでおられる世界中の政府に称賛と感謝の念を表明したいと思います。

古代インドの伝統は、時間の経過にともなう世界の創造、持続、破壊について説明しています。そのような破壊の原因の中には武器や病気があると書かれており、これは、私たちが今まさに経験していることと一致しているように思われます。しかしながら、どれほど大きな脅威に直面しようとも、人間を含めた生きとし生けるものは、生き抜くために素晴らしい能力を発揮してきました。

いかに困難な状況であろうとも、私たちは科学技術と人智を尽くして決断し、勇気をもって、立ちはだかる問題を乗り越えなければなりません。健康と幸福が脅かされているのですから、不安や恐れを感じるのは当然です。とはいえ、目の前の問題をどのように捉えるべきかについては、私は次の賢明な助言に大きな慰めを得ています。「もし、改善策があるならば、心配せずそれを実行しなさい。しかし、何も改善策がなければ、それ以上心配しても何の役にも立ちません」

現在、新型コロナウイルスの拡大を防ぐためにだれもが最善を尽くしています。私は、ウイルスの脅威を最小限に抑えるために国家間で協調した努力がなされていることを、心より称えたいと思います。とりわけ、インドの主導権のもとに南アジア地域協力連合の国々が緊急基金を設立し、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための情報、知識、専門技術を交換するための電子プラットフォームを立ち上げたことは素晴らしい取り組みだと思います。これは、将来、このような危機に対処する際にも良き手本となることでしょう。

私は、世界各地で都市封鎖の必要が生じた結果として、多くの方々が収入を失い、大変な困難に直面しておられることも理解しています。安定した収入のない方々が生きていくには、毎日が闘いです。こうした弱い立場にある方々にできるかぎりの配慮がなされるよう、私はすべての関係者の方々に、切にお願いしたいと思います。

また私は、自らの命を大きな危険に晒しながら、人命救助の最前線で働いておられる医師や看護師、その支援業務に携わるすべての方々に、心より深い感謝の念を捧げます。彼らの奉仕活動は、まさに慈悲の心の実践にほかなりません。

苦難の最中にある世界中の兄弟姉妹の皆様のことを深く心に想い、私は、この世界的な感染症が一刻も早く終息し、平和と幸福が一日も早く戻るよう祈りを捧げたいと思います。

祈りを込めて


ダライ・ラマ

特別メッセージ

仰せを蒙りて

Facebook 大谷派における学事の潮流

2020-05-05

近代の学制改革

2020-08-03

【19th Century Chronicle 1872年(m5)】
 

◎学校制度の刷新

(東京大学の創設)
*1872.旧3.13/東京 明治天皇が、大学東校(現東京大学)に行幸、学校行幸の始めとなった。
 

 東京大学の系譜は、学制の確立していない時期の最初の官学だけに、きわめて錯綜した流れをとった。江戸幕府直轄の教学機関として昌平坂学問所(昌平黌)があり、儒教朱子学を正規の学問とした学問所であった。明治になると「昌平学校」と改称され、さらに高等教育および学校行政を担当する「大学校(本校)」として、高等教育の中枢に据えようとしたが、儒学派・国学派の内紛で廃止されることになる。
 

 神田湯島聖堂に位置した昌平学校は、大学本校として「東京大学」の源流ではあったが、本体としては廃校とされたため、学問的に継承されることはなかった。むしろ、この地に併設された「東京師範学校」や「東京女子師範学校」が、それぞれ後の「東京教育大学(現筑波大学)」と「お茶の水女子大学」の源流となった。「お茶の水」の名称は湯島・お茶の水に由来する。
 
 
 昌平学校に代って東京大学の実質的源流となったのは、「大学南校」と「大学東校」であった。幕府の蕃書調所に起源をもち、「開成学校」とされたものが「大学南校」となった。その流れから洋書・洋学を扱い、主として外国語と、その内容から文・理にわたる洋学の中心であり、現行の法文理三学部の母体となった。
 

 一方、幕府の医学所に始まる「医学校」は、「大学東校」に改称されるとともに西洋医学にシフトしたが、当初のイギリス医学からドイツ医学中心の医学に変更し、その後の日本医学のドイツ医学重視の流れを決定づけた。南校と東校はそれぞれ「東京開成学校」「東京医学校」と名称変更したあと、明治10(1877)年、法・理・文・医4学部よりなる「旧東京大学」に統合改編された。

東京大学沿革略図 http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/b03_02_j.html 
 

(学制整備)
*1872.旧4.14/京都 京都に「新英学級及女紅場」が開設される。この最初の女紅場は女学校の前身とされ、のち京都府立「京都第一高等女学校」を経て、現在は京都府立「鴨沂(おおき)高等学校」となっている。「女紅場(女工場)」は、女子に対する手芸の教授施設として、以後、全国各地に設置された。
*1872.旧4.15/ 東京芝増上寺内に「開拓使仮学校」が設置された。当初から北海道開拓に当たる人材の育成を目指し、明治8(1875)年、札幌学校として札幌に移転、以後、「札幌農学校」と改称して現「北海道大学」の前身となった。
*1872.旧5.29/東京 教員養成を目的に「師範学校」が創設される。]
*1872.旧8.2/ 国民皆学をめざして「学制」が公布される。「大学・中学・小学」の3段階の学校制度を設け、それぞれ学区が定められた。
 「学制」は、明治5(1872)年8月2日に発された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令であり、全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指した。「教育令」の公布により、1879(m12)年9月29日に改変された。
 

(明治改暦/太陽暦の採用)
*1872.旧11.9/ 太陽暦の採用を布告する。太陰暦明治5年12月3日を明治6(1873)年1月1日とする。
 

 明治5年11月9日、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」とする改暦ノ布告が公布された。それまで「太陰太陽暦(天保暦)」が使用されていたが、「明治5年12月3日をもって明治6年1月1日とする」(グレゴリオ暦1873年1月1日)と定められた。
 

 公布から1カ月の猶予もなく性急な新暦導入が行われたのは、明治政府の財政状況が逼迫していたことが、その理由とされる。旧暦のままだと明治6年は閏月があり、13か月となっていて、月給制に移行した官吏への報酬が年間13回支給となる。そこで、新暦を導入して12か月とし、しかも明治5年12月は2日しかなく支給無しとし、結局月給は11か月分で済ますことになった。新暦導入により新政府は窮地を脱したが、はたしてこれで、給与生活者は損をしたのかどうか(笑)
 

(この年の出来事)
*1872.旧1.29/ 初めて全国戸籍調査が実施される。この調査で、人口は3311万825人とされた。(壬申戸籍)
*1872.旧3.10/京都 第一回京都博覧会が、本願寺・知恩院・建仁寺を会場として開かれる。13日には余興として、都踊り・鴨川踊り・東山名所踊りの共演があり、都踊りは片山春子(三代目井上八千代)に企画され、祇園歌舞練場で毎年続く行事となった。以後、京都博覧会は毎年開催された。
*1872.旧7.19/東京 参議西郷隆盛が陸軍元帥となり、近衛都督を兼務する。
*1872.旧9.12/ 新橋-横浜間に日本最初の鉄道が開通し、開業式が挙行された。
*1872.旧10.4/群馬 官営富岡製糸工場が開業する。フランス製機械を導入して、機械製糸工場の初めとなった。
 

*ブログで読む>https://ehimosesu2nd.blogspot.com/2020/08/19cm11872m5.html

江戸幕府直轄の教学機関として昌平坂学問所

学制改革

2020-08-18
宮城・石川 文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決める。
図画取調掛を「東京美術学校」と改める。
音楽取調掛を「東京音楽学校」と改める。

【19th Century Chronicle 1887年(m20)】

◎学校制度の整備
*1887.4.18/宮城・石川 文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決める。
*1887.10.5/ 文部省が図画取調掛を「東京美術学校」
音楽取調掛を「東京音楽学校」と改める。(のちに統合され、現「東京芸術大学」となる)

 

 1887年(明治20年)、文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決め、さらに熊本に第五高等中学校の設立が決まる。前年、東京に第一、京都に第三高等中学校が設立されており、1894年(明治27年)の高等学校令により、それぞれが「高等学校」となる。いわゆる旧制高等学校の「ナンバースクール」の陣容が整った。(別表一覧参照)
 

 同1884年、文部省内に「図画取調掛」が設置され、岡倉覚三(天心)・フェノロサが西欧の図画教育の実態調査を委嘱され、欧州の調査旅行に派遣された。2人の報告に基き、1887年10月、日本最初の美術教員・美術家養成のための機関として「東京美術学校」が設立された。
 

 同時に、文部省の「音楽取調掛」もまた「東京音楽学校」に改組され、日本の音楽教育を担う機関となった。東京美術学校が、伝統的日本美術の保護が学校のルーツであったのに対し、東京音楽学校のルーツは西洋音楽の輸入であったが、以後、両者とも和洋の伝統をふまえた芸術を担うことになった。
 

 旧制専門学校「東京美術学校」と「東京音楽学校」は、日本で最も歴史ある芸術分野の最高学府として位置づけられたが、戦後の学制改革にともない、1949年(昭和24年)、「東京美術学校」と「東京音楽学校」は統合され、新制「東京芸術大学」となった。
 

(この年の出来事)
*1887.10.3/ 後藤象二郎が丁亥倶楽部を設立し、民権運動諸団体を糾合して「大同団結運動」を起こす。(10.4 各党派の有志が協議)
*1887.10.-/ 高知県の片岡健吉らが、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回の「三大事件建白書」を元老院に提出する。
*1887.12.25/ 保安条例施行。民権運動活動家570名が皇居外3里以遠の地への退去を余儀なくされる。
*1887.6.7/長崎 長崎造船所が三菱に払い下げられる。(のちの三菱造船所)
*1887.6.15/東京 大橋佐平が「博文館」を創業し、「日本大家論集」を出版する。
 

*ブログで読む>https://ehimosesu2nd.blogspot.com/2020/08/19cm21887m20.html

『香月院語録』 法蔵館

2020-05-05
大谷派の教学は、学寮での宗学をその源流とします。
https://jodo-shinshu.info/2020/02/27/21913/
香月院深励師似影(永臨寺所蔵)

雑行を捨てて、弥陀をたのむ

2020-08-16
憑 ①よる。かかる。よりかかる。類凭(ヒョウ) ②つく。たのむ。とりつく。「憑依」 ③かちわたる。川を徒歩で渡る。「憑河」
揮毫は、池田勇諦先生です。

お釈迦様の話

釈尊の生涯と教え

2020-04-19
https://youtu.be/EvjMcWZGzQg?list=PLERGeJGfknBQ5l6kTs05lLYDa_4FGOlAF
中村元 - ブッダの生涯 【HD】
https://youtu.be/NWZtkxP3eGg
仏教の本質 哲学者「中村元」

ブッダ 最期のことば 1.2.3.4.

2020-06-14
https://youtu.be/Lbw-AnzrjdY

釈尊のお説法

2020-04-07

『スッタニパータ』(原始仏典) 大谷大学HP「きょうのことば」2019年2月より

2020-09-03
 言葉の力は絶大です。言語が文化を形成し、言論が歴史を動かした事実もさることながら、私たちの日常においても、言葉の力はあらゆるところに見受けられます。誰かの言動に深く傷ついた経験のない人はいないでしょう。無作為に放たれた言葉が私に刺さり、生きる気力まで奪われてしまうこともあります。その一方で、確かな言葉に勇気を与えられることもあります。つまり、言葉には言葉以上のものが宿るのです。
 仏教は古来より、言葉の力に細心の注意を払ってきました。言葉が私にもたらす作用を注視し、「行動」や「思考」と並んで、「言葉」が自分を作り上げると考えてきました(身(しん)口(く)意(い)の三業)。なぜなら、この三者は相互に深く結びつき、私が考えること、話すこと、行動することが一体となって、「自分」という存在を練り上げるからです。また、発話行為というものは当人の内的な成熟度を如実に表しますが、言葉は私の内面から表出したものであるにもかかわらず、私にはその力を制御することができません。言葉は、発話者の予想を超えたはたらきをするのです。

 したがって、このことばは「言葉づかいに気をつけよう」という道徳の話に留まるものではありません。同じ経典に「ひとは生まれると口に斧(おの)が生える」とも説かれるように、悪意ある言葉は文字通り他人を傷つけます。そうした言葉は、発言した後に「しまった」と後悔をもたらし舌禍(ぜっか)を招くだけでなく、やがて内側から自己を侵食し(思考と行動に影響を及ぼし)、少しずつ自己を苦しめます。そして何より、悪意ある言葉は人に刺さったまま容易には抜けず(消えず)、人の尊厳を踏みにじり続けるのです。
 特定の人を攻撃することで耳目を引こうとする近年の言論活動を見る限り、この社会には暴言や罵詈雑言(ばりぞうごん)を求める気分があると言えます。また、言葉が次々と消費される流れに比例し、たったひとつの失言からその発言者の人格までを否定しようとする態度も見受けられます。相手の言葉尻をあげつらい、その言葉の背後にいる人間の姿を見ようとしない傾向のことです。何事につけ社会に向けて発言することが容易になると同時に、言葉が軽視され、言葉の重みが見失われつつある状況の只中に、私たちは立っています。
 こうした点から、自身が語ろうとするその言葉に、より一層の注意を払う必要があることは間違いありません。今一度、「私は私が語る言葉の力を完全には制御できない」という事実を思い起こす時が来たのではないでしょうか。

「降魔」とは、

2020-10-07
京都市左京区 一乗寺降魔不動明王
Facebook塚本光榮さんの投稿
「降魔」とは、マ―ラ(悪魔)を降参させる、または、マ―ラ(悪魔)を退け勝利するという意味を持つのだそうです。お釈迦様が悟りを開くのを邪魔するために、マ―ラ(悪魔)の軍勢が攻撃してきた時、お釈迦様は、マ―ラの軍勢を退け、勝利し悟りを開かれたそうです。不動明王様の右手に持っておられる「俱利伽羅剣」は、仏の叡智によって、迷いや邪悪な心を断ち切ることを表す密教の法具だそうです。後光のように彫られている炎は「迦楼羅焔」といい、「迦楼羅天(仏教の守護神)」の吐き出す火炎であり、毒になるものをすべて焼きつくすのだそうです。私の悩みを焼き尽くして救済してくれそうです

ちょっといい話

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10月下旬の掲示板です。

2020-10-21
浄土真宗本願寺派 明導寺(熊本県球磨郡湯前町)

法友があるということ

2020-10-21
Facebook田畑正久先生投稿より
自分の足が大地についていない者には
自分の忙しい生活があることを知らぬ
自分自身の生きて行く事に目覚めた者には
他人のことを言っている暇(ひま)がない
世の中には幽霊のように足のない人間があまりにも多い
頭と手だけがあまりにも大きくて
足の小さい歩けない人間があまりにも多い
自分を見る目がなくて
他人のことばかり見ている人
自分に何もないことに気づかないで
他人の信仰を云々したくなる者
こんな人たちの中に
他人の信仰の批判より
つまらぬ暇な議論よりも
自分自身の生活を持つ法友があるかと思えば嬉しくてたまらない
【住岡夜晃法語】

それは、チャンネル争いから始まった。

2020-10-19

真向兎

2020-09-30
Facebook浩さんの投稿です。
岐阜県の高山市にある『高山陣屋』
館内では釘隠しなどにもその形を使用しているの
が、大きな耳とずんぐりとした体系(他人とは思
えない笑笑)が特徴的なこちらのウサギ

田畑正久先生の話

2020-09-26
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第383回
(令和2年7月6日掲載)医療文化と仏教文化(209)
「お前も死ぬぞ 釈尊」。仏教伝道協会「お寺の掲示板大賞」の一昨年の大賞作品となった標語です。新型コロナウイルス感染が近隣で報告されたとき、高齢者の私も「死」が頭をよぎりました。朝、目が覚めたら「今日の命を頂いた、南無阿弥陀仏」と称えます。風邪症状も倦怠感もない。それなりに元気なのは「有ること難し」と念仏していました。
仏教では「悟りを開いても、病気になる、ならないは関係ない」と前に書きました。それでは、人間の生老病死の四苦を救うことにならないのではないかと思われる人が多いと思います。仏教は老化現象、病、死に関係なく、人間を丸ごと救います。生死(しょうじ)の苦の本(もと)を抜くというのです。
仏教の智慧は物事をあるがままに見ます。人間は多くの「因」や「縁」によって生かされている存在です。「形あるものは必ず壊れる」すなわち「死」の法則を免れることはできません。あるがままとは、死ぬのが必然のところを「有ること難し」で今日を生かされているということです。
自我意識は3歳ぐらいまでに出てくるといわれています。「身」が先にあり、後から出てきた意識は本来、物事を認識する働きをする所です。身についての正しい認識をする「場」なのです。ところが、いつの間にか身の「主(あるじ)」のようになって管理支配するようになっています。身は本来「縁起の法」の沿って動いていて、老い、病む、死ぬということが起こるのです。
仏教標語に「心に従うな、心の主となれ」があります。心は事実を認識する立場を忘れて偉くなって、いつの間にか身の管理者になろうとしているのですが、結果は欲に振り回される奴隷になっています。心も「法」に沿って一瞬一瞬変化していて無常・無我です。心の動きからちょっと距離を置いてクールに見る「主」に成れと教えています。身の置かれている状況をあるがままに見て、老、病、死は私に何を教えよう、目覚めさせよう、演じさせようとしているのかと考える。それが迷いの苦の本を抜くことになるというのです。
冒頭の標語の「死ぬぞ」とは、死を忘れ、考えないようにしているわれわれに「目を覚ませ!」と迫って、死を超える安心(あんじん)を与えようとしているのです。

あの人、この人

堂本印象

2020-09-05
 
平野 めぐみ
おはようございます。9月になって初めての週末です。昨日は福井県での地震があったり、相変わらず暑さは残っていたり、急な雷雨があったりで気持ちがざわつく1日でした。今日も台風10号が北上中です。くれぐれもお気をつけてください。
昨日は、応仁の乱以来、550年ぶりに神仏習合で、京都・北野天満宮に延暦寺の僧侶訪れ「北野御霊会」が開催されました。
明治の神仏分離で、神社と寺院は別々のものとされていましたが、神仏習合の形が復活して、素晴らしい御霊会となりました。
さて、今日は、堂本印象の忌日です。
堂本印象といえば、どのようなイメージをお持ちでしょうか?
京都衣笠の立命館大学衣笠キャンパスの北側に、前衛的な建物の美術館を思い浮かべられる方が多いがと思います。ここが、堂本印象が自ら作り上げた美術館なのです。この美術館のイメージから洋画家、もしくは彫刻家と、小さいころは思っていましたが、日本画家だったと聞いて驚いた記憶があります。
そのくらい、あまり堂本印象に対しての知識もなく、作品にも触れることなく来てしまいました。
堂本印象の絵と出会ったのは、古事記の展覧会で、木花開耶姫の絵で、立ち止まって眺めた絵でした。
木花咲耶姫
図録より
【堂本印象】
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年12月25日 - 1975年9月5日)は京都市生れの日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。
明治43年京都市立美術工芸学校を卒業後、しばらく西陣織の図案描きに従事し、大正7年、日本画家を志し て京都市立絵画専門学校に入学。翌8年、初出品した「深草」が第1回帝展に入選した。第3回展では「調鞠図」で特選、また、第6回展の「華厳」では帝国美術院賞を受賞するなど一躍画壇の花形となった。絵画専門学校の教授として、また私塾東丘社の主宰者としても多くの後進を育成、昭和19年、帝室技芸員となった。
 戦後は、独自の社会風俗画により日本画壇に刺激を与えた。昭和25年、芸術院会員。さらに昭和30年以降は抽象表現の世界に分け入り、その華麗な変遷は世界を驚かせた。多くの国際展にも招かれ、昭和36年には文化勲章を受章した。
 昭和41年、自作を展示する堂本美術館を自らのデザインにより設立。また、様々な技法を駆使しあらゆる画題をこなす画才は、各地の寺社仏閣の障壁画においても発揮され、多くの作品を残した。昭和50年9月逝去、83歳。
 なお、美術館は平成3年8月にその所蔵作品とともに京都府に寄贈され、平成4年4月京都府立堂本印象美術館として開館し今日に至っている。
出典
堂本印象美術館ホームページ
美術館を建てるにあたり、印象は昭和27 年(1952)にヨーロッパで見学した宮殿や邸宅を用いた美術館を参考に独自の美の可能性を追求したといいます。
堂本印象美術館は外観から内装まで、印象自らがデザインをしました。
この美術館の全てが堂本印象の作品といっても過言ではないかと思います。
外壁の浮き彫りも、柱に施されたレリーフも、休憩用に置かれている椅子も、そしてドアノブや階段の手すり、欄間といった細かいところまで、美術館を構成しているありとあらゆるものが、印象自ら設計・デザインしたものです。美術館がまるごと、堂本印象の立体造形となっているのです。
また、印象は建物や造形・装飾などほぼ全てのものに対し、詳細なスケッチや下絵を描いていました。
印象の絵画と共に、美術館の装飾も楽しめます。
*堂本印象美術館
現在の展示
「おしゃべりな絵画 -感じてみよう!作品から聞こえる音・声・会話-
Chatty pictures; Let’s imagine!
- the sound, voice, and conversation of Insho’s works -」
日程~9月22日(祝・火)
時間午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
一般510円(400円)/高校・大学生400円(320円)/小・中学生200円(160円)
( )は20名以上の団体料金
65歳以上の方(要証明)および障害者手帳をお持ちの方(介護者1名を含む)は無
アクセス
市バス立命館大学前下車すぐ
ホームページ

原節子

2020-09-05

 

永井 由紀夫さんのコメント
原節子さん42歳での突然の引退
もうやりたい役がやれなくなった 美しい内に原節子を葬ろう
会田昌江に戻りひっそりと暮らそう 以降50年何処にも出掛けず
本を読みテレビを見て隠遁生活
吉永小百合さんが引退を考えたのが42歳の時
自分の美の衰えは考えるもの
ヴィヴィアンリーもそうだった  恐ろしい事だと
まあみんな自分が美人だとは意識有るんですね笑
家系が長生き 全く無駄使いしないで 海外旅行なんかもされなかった
本日御命日

大谷光瑞

2020-09-05

佐々木 信雄さんコメント

【20th Century Chronicle 1902年(m35)】-2
◎大谷探検隊
*1902.8.15/ 西本願寺の大谷光瑞(27)ら探検隊一行が、ロンドンを出発して中央アジア探検に向かう。
 大谷探検隊は、日本の浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代法主「大谷光瑞」が、中央アジアに派遣した学術探検隊で、シルクロード研究上の貴重な業績を挙げた。1902(明35)年~ 1914(大3)年の間、前後三次にわたって行われた。
 第一次(1902年~1904年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が、ロンドンから日本へ戻る途上で、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄らとともに、ユーラシア大陸を横断する探検を行った。1902(明35)年8月、一行は列車でベルリンからモスクワに移動したあと、パミール高原を越え、カシュガル、ヤルカンド、タシュクルガンを巡り歩いた。
 タシュクルガンに到着後、大谷光瑞・井上弘円・本多恵隆の3人はカシミールとパキスタンを南下し、列車でインドに向かい、仏教遺跡を巡礼し、1903年3月、航路で日本に戻る。大谷光瑞は、父の法主大谷光尊が死去したため、法主継職のため帰国したが、渡辺哲信と崛賢雄の2人は中国新疆に残り、さらに各地の調査と発掘作業にたずさわった後、1904(明37)年5月に日本に帰国した。
 第二次は1908年~1909年、野村栄三郎・橘瑞超、第三次は1910年~1914年、橘瑞超・吉川小一郎によって行われ、仏教東漸の遺跡として、ホータン、クチャ、敦煌など中央アジア各地を調査した。その発見にかかる多量の美術品・文書などは、『西域考古図譜』・『新西域記』・『西域文化研究』に収録されている。
 三度にわたる探検の目的は、仏教東漸の経路を明らかにし、その後のイスラム教化で埋もれてしまった仏教遺跡から、経典や仏像、仏具を収集し、仏教の源流を確認することであった。当時、大谷光瑞が留学していた西欧では、ヨーロッパ列強が国策として、天然資源調査や植民地的侵略の先兵として、競って探検隊を未近代化地域に送り込んでいた。
 しかも当時、考古学は端に就いたばかりで、海外の探検屋たちには、一獲千金を狙って、遺物を略奪して売り払うことしか考えていないあぶれ物も多かった。そのような時期に、国の支援を受けることなく、専門の探検家でもない若い僧が中心の急ごしらえの組織で、広大な西域を探査したのは、それこそ玄奘三蔵の西域仏跡巡礼に匹敵するともいえる。
 大谷光瑞は、第21世法主 大谷光尊の長男として誕生、はやくから次期法主として期待された。9歳で得度すると、上京して学習院や共立学舎で学ぶも続かず、京都に帰り前田慧雲に学んだ。父親の大谷光尊法主の時代は、明治維新の廃仏毀釈で仏教界は混乱の極みで、光尊法主は、教団の改革を進めるとともに、いち早く側近や有望な若手僧侶らを海外留学させて、宗門の近代化に努めた。
 これをうけて若き次期法主 大谷光瑞もロンドンに留学し、当時の敦煌文書発見などの考古学ブームの洗礼を受けた。かくして留学から帰国する途上での西域探索を実行する。さらに法主継職後も続行し、計3回にわたる発掘調査等を行った。法主としては教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣、海外伝道も積極的に進めた。
 大谷光瑞の業績は、大谷探検隊で蒐集発掘した考古学的遺産の学術的価値から見るか、仏教徒として、仏教の淵源を辿り、その後、本願寺派法主としての教団改革、さらには政治的参与を含めた、大谷光瑞その人の事績を評価するかで、かなり異なってくる。
 法主としての光瑞は、六甲山麓の岡本に二楽荘を設け、探検収集品の公開展示とともに、英才教育のための私塾である武庫中学を作ったり、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置して、教育・文化活動の拠点とした。二楽荘の他にも、大連(浴日荘)、上海(無憂園)や台湾の高雄(逍遥園)、インドネシア(環翠山荘、耕雲山荘)などに別荘を設けた。
 しかし1914(大3)年、大谷家が抱えた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため法主を辞任し、大連に隠退した。これらは、大資産家の跡取りが、散財して財を失うのと似ているように見えなくもない。しかも、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任したり、太平洋戦争中の近衞内閣で内閣参議、小磯内閣の顧問を務めるなど、戦前の政治的参与もあり、戦後は公職追放となったまま、1948(昭22)年に没した。
 教団内部では、蓮如上人以来の大改革者とみなす見解もあるが、世間一般的には、大谷探検隊以外の事績に付いての評価は、必ずしも定まっているとは言い難い。これは晩年の戦争協力および公職追放という事実が、大谷光瑞の全体像を扱いづらくしているせいでもあろう。
(この年の出来事)
*1902.1.23/ 青森歩兵第5連隊第2大隊の将兵210名が八甲田山で遭難、死者199名をだす。(八甲田山死の彷徨)
*1902.6.15/ 日本で初の私立図書館 大橋図書館が麹町に開館する。
*1902.9.2/ 東京専門学校が「早稲田大学」と改称し、10/19大学開設および創立20周年記念式典を行う。
*1902.9.-/ 内村鑑三が自宅で聖書研究会を始め、小山内薫・志賀直哉などが出席する。
*1902.10.6/ 横浜でペストが発生、やがて東京へも飛び火する。
*1902./12.17/ 小学校教科書をめぐる贈収賄事件で、各地で一斉検挙が始まり、100人以上が有罪となる。これを機に、国定教科書制度が採用されるようになる。(教科書疑獄事件)

王貞治

2020-09-03

 

巨人軍・王貞治選手が
ハンク・アーロン氏の記録を抜き、
世界記録の756号ホームランを放ったのが
43年前(昭和52年)の今日でした⚾️✨
今では9月3日は
"ホームラン記念日"という
日本記念日協会が制定している
立派な記念日であります✨

三島由紀夫

2020-09-02

ちょっと気になる歌・唄

Superfiy 「フレア」

2020-05-16
https://youtu.be/0vJrBbcsfac

フォークソングの時代

2020-05-15
https://youtu.be/0z62kpBRXPY

「学校の先生」 坂上二郎

2020-05-04
https://youtu.be/Rt8ZS1MQI-E

「修学旅行」 舟木一夫

2020-05-04
https://youtu.be/KybmP4pBYek

『若い人』 裕次郎、ルリ子&小百合

2020-05-04
https://youtu.be/-VKT6btXxfQ

ちょっと気になる絵

天高く馬肥ゆる秋

2020-10-13
名古屋市TV搭    Facebook阪下大介さんの投稿より

大阪万博太陽の塔 建設中 岡本太郎のデザイン 芸術は爆発だ

2020-10-08
3つの顔を持つコンクリート製の292mの塔

ローマ展です。

2020-09-13

1.ローマ日本美術展

 一九三〇(昭和五)年四月二六日から六月一日の間、ローマ、パラッツオ・ナッツィオナーレ・デッラ・エスポジッツィオーネ(Palazzo nazionale della Esposizione)で開催されたローマ展は、大倉喜七郎(1882-1963)が企画、全費用を負担した大規模な展覧会である。一九二八年、大倉がイタリア首相ムッソリー二に、大観が描いた《立葵》を寄贈したのを機に、ローマでの日本美術展開催が決定した。一九三〇年といえば、大倉が帝国ホテルの創業者である父喜八郎の後を継いでその経営にあたり、川奈ホテル、上高地帝国ホテルを準備中であった時期でもある。東京朝日新聞に掲載された「展覧会は明年三月ごろになるでしょうが、その頃は外人客がローマに殺到する時期で、そうした遊覧客に見てもらうことも一つの目的です(略)」という大倉のことばには、イタリアに日本美術を紹介することだけでなく、ローマを訪れている欧米人に日本美術を紹介し、最終的には美術を通じて海外から日本へひとびとを誘致しようという壮大な理想が秘められていたともいわれている。

 一方で、実際の運営と出品作家の選択は大観に一任された。そして、過去に例がないほど大規模なこの海外展において、大倉と大観は、日本画を展示する展示室の在り方に特にこだわりをみせている。この点については、大観が『伊太利政府主催大倉男爵後援 羅馬開催日本美術展覧会に就て』一九三〇年八月)の中で、緒言に続く第一章で「其の内的動機とも申すべきものは、日本画を日本室らしい曾場に於て西洋人に鑑賞されて見たいといふことにありました、即ち、日本画を玩味するに必須なる條件としての、床の間や青畳等の設備、活け花の趣向さへ添へて、日本画の本領をば欧洲へ遺憾なく西洋人へ伝へたいといふ念願を發せられたのであります。」と真っ先にとりあげていることからも、この展覧会の特色のひとつであったことがうかがえる。大工監督六名、表装師二名などがイタリアに同行して会場設営にあたったことや、日本画をそれに適した環境に展示することの重要性など、かなりの頁を割いて力説しており、同書に掲載された展覧会会場の写真をみても、和の設えに徹している様子がうかがえる。ローマ展において、大観をはじめ日本を代表する画家たちの描いた日本画は、既存の西洋展示室内ではなく日本の伝統的な設えの中で異国のひとびとに紹介されたが、このような大規模な試みはもちろん過去に例のないことであった。

 このように、展示環境にも日本を十二分に意識したローマ展に出品された大観の作品は、《寒牡丹》《暁靄》《雙龍双珠》《蜀葵》《梅花》《隼》《春の夜》《飛泉》《富士山》《山四趣》《夕顔》《百合花》《夜桜》《龍胆》の一五点。この出品点数は、帝国美術院の代表としてローマ展にのぞんだ川合玉堂の一〇点、竹内栖鳳の五点に比しても多い。さらに、イタリア全土の汽車内に掲げられたという「富士山」の描かれた展覧会ポスターも大観自らが手掛けており、これらの事実は、この展覧会に占める大観の存在の大きさのみならず、大観自身の意気込みも感じられ非常に興味深い。

夜桜

2020-09-13

2.《夜桜》

 大観が、熱意をもって臨んだローマ展に出品した作品の中の一点が、一九二九(昭和四)年に制作された《夜桜》である。ローマ展のために描かれた新作で、同年一一月一七日に日本美術院で内覧会をおこなっている。翌月一三日には、出品作の中殻優秀な作品三二点が宮中で展覧に供されたが、その中にはもちろん《夜桜》も含まれていた。

 六曲-双という大画面に描かれた《夜桜》は、数多い大観作品のなかでも、華やかな装飾性と、群青、緑青、朱など濃彩や月に用いられた白金の使用による鮮やかさ、迫力という点において抜きん出ており、記念すべきローマ展の出品作であるだけでなく、大観の画業における代表作のひとつに数え得る。背後に連なる山々は墨で描かれており、篝火にうつしだされた山桜が鮮やかに映える。桜花はすべて観者を向いて開き、画面を-層華やかなものにしている。さらに山々に用いられた墨は、画面上部にわずかにのぞく夜空の群青と相俟って重厚な空気を生みだし、松に使用された緑青は、篝火の朱と大胆な色彩の対比をみせる。篝火からまっすぐにたちのぼる烟は、静かに散る花びらと対照的な動きをみせながらも、まっすぐに地面へと向かう花びら同様、この画面が風の動きのない静かな状況であることを暗示し、色彩の対比や画面構成とともに、大観の周到な計算を感じさせる。

 ところで、この《夜桜》は、富田溪仙筆《祇園夜桜》(横山大観記念館蔵)から影響を受けているとしばしば指摘される。《祇園夜桜》は、一九二二(大正一一)年にクリーブランド美術館の要請で開催され、米国を巡回した日本美術院米国展覧会(以下、米国展)の出品作であり、京都祇園の枝垂れ桜が篝火の中から幻想的に浮かび上がる様子を描いている。縦四八.三センチメートル、横七一.〇センチメートルの絹地に、闇に包まれた山々、そして夜桜を取り囲む松が墨の微妙な調子をいかして描かれ、趣ある空間を生み出している。その閣の中に、《祇園夜桜》の主役でもある枝垂れ桜が朱色の篝火によりその優美な姿を浮かび上がらせている。この作品は、キャサリン・M・ボールが、「この展覧会で最も人気を呼んでいる作品の一つは富田溪仙の《祇園夜桜》であるが、画趣に富んだ詩的な作風に鑑みればもっともなことである。下方からの火明かりで陰影を帯びた淡紅色の桜が夜の闇に神秘的に浮き上がるのである(注2)。」と述べているとおり、当時も人気があった作品のひとつと考えていいだろう。そして、大観は、この《祇園夜桜》を非常に気に入り、のちに譲り受けている。長尾政憲氏「富田溪仙と大観-溪仙にあてた手紙からみて-」(『財団法人横山大観記念館館報No.1』)で紹介された大正一五年五月一九日付の溪仙に宛てた大観からの手紙には、《祇園夜桜》に触れた箇所があるので、以下に引用しておきたい。

「此度は御無理願上候処、早速御作品集御恵贈被下難有拝受仕候
 曽て米国御出品の夜桜昨年入手仕居、先般より床間に懸け拝見致候処、恰も御作品集到来、彼是較べ一段の興味を覚え申候」(文中の作品集は溪仙の『近畿柳桜』を指す。)

挿図4. 富田溪仙筆《祇園夜桜》

(註2)『日本美術院百年史 第五巻』(一九九五年 日本美術院百年史編集委員会)p.881/同p.1026に掲載されている原文は次の通り。

One of the most popular paintings of the exhibition is "The cherry of Gion at Night" by Keisen,Tomita,and deservedly so,for its appeal is both picturesque and poetic. The pink blossoms,tinted from beneath by the fire light,glow mysteriously in the darkness of the night.

By KATHERINE M. BALL(JAPAN,MAY 1922.4.1)

 画題の桜については後に詳述するが、二人の画家がともに海外展において同様に夜桜をモティーフとしている事実は興味深い。しかし、同主題を扱っているとはいえ、溪仙の《祇園夜桜》と大観の《夜桜》には大きな逢いもある。

 差違としてあげるまでもないことではあるが、まず第一に、画面形式の違いがある。《祇園夜桜》は、前述のとおり現在は軸装である。米国展出品当時は額装であったが、しかしこれは展覧会の規定であり、基本的には溪仙に画面形式を選択する余地はなかった(註3)。一方、大観の《夜桜》は六曲一双屏風である。《祇園夜桜》に刺激をうけながらも、画面形式において、大観は《祇園夜桜》を踏襲せず、六曲一双屏風という、力強さをより強調することのできる大きな画面を選んでいる。

 続いて、溪仙と大観の夜桜は、その色彩においても大きな違いをみせる。《祇園夜桜》は、墨の濃淡を生かして夜の山々が表現されており、篝火や、その炎に照らされて仄かにうかびあがる桜により、幻想的な京の夜の情景が描き出されている。一方、大観の《夜桜》では、先にも触れたように、群青、緑青、朱など濃彩がもちいられており、溪仙のつくりだした幻想的な世界とは対照的に、鮮麗かつ重厚な世界をつくりだしている。

 続いて、溪仙と大観の夜桜は、その色彩においても大きな違いをみせる。《祇園夜桜》は、墨の濃淡を生かして夜の山々が表現されており、篝火や、その炎に照らされて仄かにうかびあがる桜により、幻想的な京の夜の情景が描き出されている。一方、大観の《夜桜》では、先にも触れたように、群青、緑青、朱など濃彩がもちいられており、溪仙のつくりだした幻想的な世界とは対照的に、鮮麗かつ重厚な世界をつくりだしている。

 最後に、もうひとつ特筆しておくべき差違は、桜の種類である。《祇園夜桜》に枝垂れ桜が描かれていることは既に述べた。溪仙のこの作品に限らず、祇園の桜といえば円山公園の「祇園枝垂れ」が有名である。祇園の初代枝垂れ桜は、江戸時代に八坂神社の境内から移植されており、その後、昭和24年に二代目枝垂れ桜が植えられているため、溪仙が《祇園夜桜》で描いた祇園枝垂れは初代の枝垂れ桜ということになろう。一方、大観の《夜桜》に描かれている桜は枝垂れ桜ではない。大観は《夜桜》を描くにあたって、頻繁に上野に通っている(註4)。たしかに上野の桜は染井吉野や里桜、山桜などが主であり、大観の描いた桜の種類が枝垂れ桜でないことと上野の桜とは無関係でないかもしれないが、「概して實感本位に立脚して視覚対照の効果に重きを置く洋画としては、行詰るのが当然の歸結ではなかろうかとも感じました。然るに日本画は、東洋精神の伝統に根ぎして時代とともに研鑽を進め、高く主観的理想から出發するものでありますから、描寫の根本が洋画と相反し、客観界を寫實的に説明するとちがひ、作者胸憶の世界を不可言的に如實に吐露するものでありますから、日本画の道たるや、實に窮まる所なき永遠の大道なのであります。」とも述べている大観のこと、やはり、意図的に枝垂れ桜から山桜へと変更しているとみるべきであろう(註5)。月夜に浮かぶ背後の山々や、《祇園夜桜》の影響力を考えてみても、大観が祇園の夜桜を意親していた可能性は非常に高い。それゆえに、「祇園=祇園枝垂れ」という-般的な常識を覆してまで山桜を描いたことの持つ意味は大きい。大観は、この作品において、上品ではかなげな美しさをもつ枝垂れ桜ではなく、力強さを感じさせる山桜を選択したのではないだろうか。画面の大きさ、配色のみならず、モティーフの選択においても、大観がある種の迫力を追求した可能性は決して低くないように思われる。

 このように、山桜を選択した大観であるが、この桜というモティーフが、日本人にとって非常に思い入れの深いものであることは、ここで改めて繰り返すまでもないだろう。日本においては、桜花が描かれる絵画、工芸作品は極めて数が多い。しかし、それに反して万葉集で詠まれた歌は、梅が一一八首、桜が四三首、椿が九首と圧倒的に梅が多いのである。桜について、すでに「平安、鎌倉期に国粋主義の発展とともに多く描かれている(註6)」との指摘があるように、中国から伝わった梅の愛玩は、平安時代に入り、日本的な美意識が生まれるにしたがい桜へと移行し、次第に桜をモティーフとした作品が増えていく。

(註3)『日本美術院百年史 第五巻』(一九九五年 日本美術院百年史編集委員会)p.863 「大きさは尺四方物、尺八、尺二、ニ尺五寸の四種でみな額」

(註4)竹越真三夫「″夜桜″″紅葉″両屏風ご製作時のこと」(「財団法人 横山大観紀念館館報No.2 一九八四年 横山大観記念館)p.6「昭和四年の花どき、上野公園へ、夜桜の情趣観察に幾晩も出掛けられ、最初と中間の二回私も供をいたしました。五重の塔を囲んで咲いた山桜が、美しい印象を深く残しました。」

(註5)加藤類子「日本画と桜」においても、大観の《夜桜》について、「紅枝垂の優美さを、躊躇することなく山桜に変えている」と指摘されている。(『日本美術全集二二』 一九九二年 講談社 p.234)

(註6)北村四郎『花鳥画の世界』の植物『花鳥画の世界 花鳥画資料集成』第一一巻 p.130 一九八三年 学習研究社

 このように、桜というモティーフのもつ歴史的な意味を充分に意識し、大観は、ローマ展出品作のモティーフとして、伝統的、日本的な桜を選んだと考えられる。また、大観がこの論説を目にしていたかどうかはわからないが、「櫻花の画」(『繪画叢誌』一三五 明治三一年四月発行)と題した論文の中で、野口勝一が、已に櫻「本邦人花を以て天下第一の花となし之を誇り又本邦画を以て世界の希有の技となして之を貴ふ乃ち希有の技に因りて天下第一の花を画き而して其眞趣を得るに至らさるは是れ大なる?点といはさるへからす盖し其花に誇り其技を貴ふことを知て其花と技とを併せて宇内に誇揚する所以を思はさるに於ては二者分離して花の薦めに技の足らさるを嘆き技の薦めに花を顯はすを得去る惜しますんはあらす故に他の卉木禽獣等の如く櫻花を専修して形意兼ね盡くし櫻花の薦めに一法門を開くあらは畫史の薦めに好模範を垂るるのみならす之に因て名花の光彩を世界に耀かすを得へきならん乃之を勉むるは畫道の一進歩にあらすや」と述べている点も興味深い。

森本草介です。

2020-09-13

【Face bookのページ】 味覚嗜好について

味覚嗜好のページ

あんみつ発祥当時から変わらぬ味の元祖あんみつです。あんこの上には、銀座若松のシンボルである松の羊羹が乗っています。 価格 950円

2020-10-01
あんみつは、「銀座 若松」が発祥の店です。 

月見団子について

2020-10-01
本日は、中秋の名月です。
Facebook平野めぐみさんの投稿です。
お月見団子について調べてみました。
◎お月見団子の由来
お月見の日に団子を供える習慣は、江戸時代からと言われています。
お月見の時に「これからの収穫」を祈るという事で収穫物である米の団子を用意したのが月見団子の由来だと考えられています。
◎お月見だんごの数と並べ方
15個の場合は9個、4個、2個と盛っていきます
十五夜には、十五にちなんで15個お供えします。また、1年の満月の数にあわせて12個(閏年には13個)、15を簡略して5個にする場合もあります。十三夜には、13個または3個です。
【15個の場合】
一段目に9個(3×3)、二段目に4個(2×2)、三段目に2個を盛ります。三段目の2個は、神事では正面からみて縦に2個並べます。横に2個並べると仏事になります。
【13個の場合】
一段目に9個(3×3)、二段目に4個(2×2)並べます。
【12個の場合】
一段目に9個(3×3)、二段目に3個並べます。
【5個の場合】
一段目に4個(2×2)、二段目に1個です。
本来は「三方(さんぽう)」に白い紙を敷いてお供えします。三方は折敷に台がついたお供え用の器で、神事では白木でできた三方を用います。仏事では塗りのものが用いられ、「三宝」と表す場合が多いです。
ただ、三方がある家庭は少ないので、お盆やお皿にお供えすればOK。
白い紙は、奉書紙、半紙、てんぷらの敷紙などを使いましょう。紙の敷き方には、長方形の紙を四辺または二辺に垂らす方法、正方形の紙を対角に敷いて端を垂らす方法などがあります。
月見だんごは、お月様から見えるところか床の間にお供えします。日本古来の考え方は左上位のため、ほかのものと一緒に並べるときは、お月様からみて左側に自然界のもの(ススキや野菜)、右側に人工のもの(月見だんご)を供えたほうが良いとされています。
◎各地のお月見団子
○沖縄 ふちゃぎ
ふちゃぎは、沖縄県で食される菓子の一種。餅粉に水を加え、こねて蒸したものに、塩茹でした小豆をまぶしつけたものである。形は小判型、もしくは俵型をしている。旧暦の8月15日(十五夜)に、豊作を祈願してヒヌカン(火の神)と仏壇、神棚に供えた後に食べる縁起物である。小豆には魔除けの意味合いがあり、小豆をつぶさずにまぶすことで当年の災難避けを祈願する。名前は餅であるが、沖縄県以外では蒸したもち米をついたものが餅であり、もち米の粉を練って蒸したものは団子と呼ばれる。そのため、ふちゃぎは沖縄以外では餅より団子に相当します。
小豆をゆでる際に砂糖で甘味をつけたものは「甘ふちゃぎ」、紅芋の粉を混ぜて芋の風味を持たせたものは「紅芋ふちゃぎ」として市販されています。
○名古屋
江戸時代から、関東は丸型、
関西は里芋型で月見団子を
作ったようです。
里芋の形は十五夜に里芋を
供える収穫祭の風習に
ならったものだといわれています。
名古屋の月見団子は関西よりの地方がら
里芋の形なのです。
ちなみに愛知の日進市(他の地方でも
行っています) では、
「月見泥棒」という習慣があり、お月見の日にお菓子を山盛りし、そのお菓子を子どもたちがこっそり持ってゆくと言うものです。お菓子の山がなくならないと
縁起が悪いとされいるので、
その日だけは泥棒になった方が良いのです
○関西の月見団子
関西では、まず形が里芋をイメージした紡錘形(少し細長い楕円形)で、周りにこし餡がついてる団子です。あるいは黄粉(きなこ)がまぶしてあるパターンもあり、食べて美味しいお月見団子なんですね。
形自体が里芋に似せたという説や、棒状の団子に餡を絡みつければ「衣かつぎ」のような形という説もあります。江戸時代の後期に、味を重視して、白い部分を月、餡の部分を雲に見立て、このお団子ができたという説もあるそうです。
里芋に似せて作られた団子ということからは、関西の紡錘形というのが供物としては正しい気もします。
ただ、何となく赤福のイメージと重なってしまうのは私だけでしょうか?

五十鈴の『四色おはぎ』

2020-09-30
◆ 本 店/ 東京都新宿区神楽坂5-34 TEL:03-3269-0081
http://blog.livedoor.jp/wagashibuyer/archives/55040823.html
お彼岸の『おはぎ』です。
五十鈴の『おはぎ』は、やや細長い俵型をしておりまして、
あまり他では見かけないフォルムであることが、また印象的ですね。
こしあんと粒あんは、内側にやや潰した餅生地を包み、
きな粉と黒胡麻はその逆で、つぶつぶの餅生地であんこを包んでいる。
その餅生地がかなり薄い生地に仕上がっていて、あんこがたっぷり!
きな粉にはこしあんが、黒胡麻には粒あんが入り、
意外にもあんこが溢れ出して来るので、ビックリしちゃうほど。
黒胡麻の風味が強い分、粒あんを合わせている方があんこが負けない。
そのあたりのバランスもまた素敵でございました。

和菓子魂! 全国47都道府県を巡ってきた中で、出会ってきた数え切れぬほどの和菓子。

2020-09-30
http://blog.livedoor.jp/wagashibuyer/archives/32300700.html
季節を彩るさまざまな和菓子たちをご紹介します。

川端道喜の『萩の餅』

2020-09-30
◆ 本 店/ 京都府京都市左京区下鴨南野々神町2-12 TEL:075-781-8117
上生菓子を製造する京都の菓子屋では、『萩の餅』として秋に登場します。
禁裏御用を務め、御朝物を調製して来た川端道喜でも、秋のお彼岸に登場する。
軽くついたご飯粒の残るもち米生地を、いつものさらりとした小豆こしあんで包み、
ひとつ、ひとつ、真ん丸に整えられた美しいフォルム。
しばらく、お皿の上に乗せて、見つめていると、満月のようにも見えて来る。
やや幅のある細長い箱に、交互に収まったその姿。
仕切り紙が間を縫うようにして通っている。それもまた素敵である。
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