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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

時機相応

2020-05-30

674
無量寿経に聞くというようなことを言えば、
「に」まで聞いたら「を」まで注意をしなければならない。
そうすればはっきりしてくるでしょう。
つまり聞くのは偶然に聞いたのだが、
聞こうと計画して聞いたのではない。
いろいろな縁に触れて聞いたのだが、
聞いてみたら、
まさしく聞くべき時に聞いたのです。
それが時機到来です。
つまり偶然ではなく必然だったのです。
聞くまでは偶然だけれども、
しかもそこに見出された意味からみると
聞くべき時に聞いたのです。
時が熟したのです。
頭が良かったから聞いたわけではないのです。
頭が良かろうが悪かろうが
善人であろうと悪人であろうと、
そういうことと無関係です。

自己ということ

2020-05-27


673
法によって初めて知られた自己というのは、
いつか地獄に堕ちはしないかというような自己ではない。
すでにして堕ちている自己です。
これを知ったのです。
もうこれは堕ちようがない。
一番底に着いたのです。
そういう自身だけがついに本願に乗托することができるのです。
この、機の深信が無ければ法に乗ることができないのです。
そうでしょう。
機の深信が大事なわけです。
法の深信は無限に展開しても、
その法の深信を信ずる自己は機の深信でしょう。
機の深信というものが大事です。

 


672
親鸞は「自身を深信す」というのですが、
このまとめ方が面白いわね。
善導は「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫云々」と、
自身が主語です。
それを目的語にしてしまうのです。
「自身を深信す」と。
自身は何々であるという、
そういう自身を信ずる。
自己を信ずると。
つまり自己を初めて知ったという意味でしょう。

念仏、そして菩薩とは

2020-05-16

662
念仏というのは、あらゆる人を菩薩的人間たらしめる法である。
如何に罪悪深重といっても、
その罪悪深重に如来を背負って立つ確信を与える法である。
罪悪深重は
いたずらに人間を小さくすることではない。
自己を自己以上にしたり、
自己以下にしたりする妄想が破られる。
自己以上でもなく以下でもない。
それは宿業を背負った衆生である。

 

 

663
「思うことはなんでもやれる」というのは自我から考えた自由。
妄想である。
無責任に、ただ気炎を吐くとか、
理想を語るのではない。
人間は一点一画も崩されぬ限定の中にある。
無限の限定をはらんでいる。
だから、
思うことはなんでもやれるというのは、
自己を抽象化する限りは言える。
宿業は人間が具体的である限定を表わす。
どこまでも限定された人間において、
絶対自由の表現を、になっていく。
ここに菩薩があり、
人間が菩薩として成り立っていくのである。

 

 

 



664

現代に生きている我々として、
共通の問題がある。
迷うのは当たり前のことである。
この時代に生まれていると、
迷わざるを得ぬ。
しかし、
迷いかたが不真面目でなく、
真剣に迷う。
その場所として相応学舎がある。
迷いを逃避せずに、
予定したものから逃げて傍観することなく、まじめに迷う。
個人個人が現代を表現している。
見えるものは顔しか見えないが、
見えないものが
そこに表現されてある。
おおげさな実践を持ち出すまでもなく、一杯の水を飲むということの中にもそれが表現されている。
つまり、
真に現代人になること、
これが菩薩である。

菩薩像としての法蔵

2020-05-15

660
有限は有限に対して有限である。
こういう意味において「分」がある。
有限にだけ永遠の働きが映される。
分をあやまたぬところに
永遠の創造が映されて来る。
平凡な言葉であるが、
「謙譲にして健康」である。
すべてをなして、何ものもなさぬ。
これは有限において
無限が映されるからである。
菩薩は謙譲にして、
有限が有限をまもる。
そういうことにおいて
無限を映す。
そういう菩薩像を
普賢といい、法蔵というのである。

人間像としての菩薩

2020-05-15

659
如来の働きを表わす人間像、
働くものなき働きを表わす人間像を菩薩といい、
その行を不行の行という。
これは
存在の根底の構造を反映する概念である。
菩薩は英雄的なものと考えられるが、
そうでなく、
真に有限なものの面目であろう。
人間像である菩薩は、
有限な限定を持つことによって謙譲である。

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