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ちょっといい話

データベース

真宗聖典検索 Web site

2020-04-22
東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。
このサイトは、宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃事業の一つとして聖教編纂室にて取り組み、開設したサイトです。東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。使用方法については、このサイトについてをご覧ください。

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/

Facebook 大谷派における学事の潮流

2020-05-05

真宗聖典(S_JIS 版)検索システム--- 生まれた意義と生きる喜びを見つけよう! ---

2020-04-22
真宗聖典(S_JIS 版 msearch)検索エンジン
  • リンクフリーです。真宗聖典各ページへの直接リンクは、
    http://www5.synapse.ne.jp/syoukakuji/seiten/ページ数.htmlでOKです。
    直接、ページを見たい方は、検索エンジンにページ数を入力して下さい。

     http://cgi5.synapse.ne.jp/~syoukakuji/cgi-bin/perlsearch/perlsearch.cgi

 

『浄土真宗聖典』オンライン検索 浄土真宗聖典・検索システム | 原典版

2020-04-22
http://j-soken.jp/kensaku2.html

聖典電子研究会

2020-04-22
http://seiten.icho.gr.jp/

今、私達に出来る事

手続きについて

2020-04-21
現金10万円一律給付 対象や手続きは

Facebook 新型コロナウイルス感染症情報センター

2020-05-16
Facebook コロナ情報ページ

関西でも宣言解除

2020-05-23
京都新聞 社説

社説:京都も宣言解除 油断せず冷静に行動を

  京都、大阪、兵庫の近畿3府県に発令されていた新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言が解除された。
  基本的対処方針で定められた解除基準の新規感染者数が抑えられ、医療提供体制やモニタリング体制も十分だと政府が判断した。
  安倍晋三首相が宣言の対象地域を全都道府県に拡大したのは4月16日。それから1カ月余り、京都のまちからもすっかりにぎわいが消えた。
解除は、感染拡大や医療崩壊を防ぐために多くの府民が休業や外出自粛などに真摯(しんし)に取り組んだ結果であり、朗報には違いない。
  だがウイルスが消滅したわけではなく、対策は長期化を覚悟する必要がある。安易に以前の生活に戻るのではなく、第2波、第3波への備えも強固にしなくてはならない。
  踏まえておきたいのは、このウイルスについて不明な点がまだ多いということだ。国内感染者数の実態すらはっきりしない。
  爆発的に感染が広がった欧米などと比べると抑えられているように見えるが、理由は分からない。
  政府が実情把握を急ぐべきなのは言うまでもない。そうした中で私たちに求められるのは過剰な楽観や悲観ではなく、まずは冷静な行動だろう。
  「新しい生活様式」も参考にしながら、密閉・密集・密接の「3密」を避ける取り組みを続ける必要がある。「正しく恐れる」ということを改めて思い起こしたい。     政府の宣言解除を受け、京都府はライブハウスなどの施設を除き、休業要請を解除することを決めた。独自の緩和基準を設けて今月16日から一部解除していた。
   政府は軽症者が療養する民間宿泊施設の借り上げなど医療体制強化に取り組んだ。授業再開に向けた環境整備など大学と学生の支援にも乗り出している。
 ただ観光や雇用といった面で、さまざまな困難が顕在化するのはむしろこれからだ。実情に応じて取り組みを柔軟に見直し、必要な対策を追加することが欠かせない。
 休業要請とともに中小企業に20万円、個人事業主に10万円を給付する支援策を打ち出したが、大阪府や東京都の支援とは金額的に大きな差がある。
 政府に対する緊急提言として、全国知事会は自治体向けの臨時交付金を最低でも総額3兆円とするよう増額を求めている。こうした動きとも歩調を合わせ、財源確保に努めるべきだ。

油断について

2020-05-14

中野博美先生(京都府城陽市 医療法人 啓信会 理事長)のお話

2020-05-14
コロナ禍から学んだこと

さて、
コロナ感染症新規患者数が減少して、
これからどうする?の中期戦略を備える時期になったとき、
改めて国民1人1人が感染症対策を復習してみましょう。

みんな気がついている、
この冬のインフルエンザ患者数が
例年の1/3以下になった事実を思い出しましょう。
コロナ感染症の脅威から、
感染防止のための習慣を
キチンとするようになったことが影響したと考えられています。
分かったことが2つ有ります。
1つは、
感染防止習慣を徹底すると効果があると言うことです。
もう1つは、
これまでは
みんな手を洗っていなかったと言うことですねえ。

これからは、
コロナに付いてはもちろん、
それ以外の感染症に対しても効果を出せる
清潔習慣を実践することが大切です!!!

コロナ情報について

今日のコロナ

2020-04-14

新型コロナウイルス国内感染の状況

日本国内において現在確定している新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の状況を厚生労働省の報道発表資料からビジュアル化した。

制作:荻原 和樹(東洋経済オンライン編集部)



https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/?fbclid=IwAR1FxWbpTtlFGyVQeh5hVjsezpNrKCBc3xAh3Vg4E1zntrYEd1xJx2eTybU

チャートで見る日本の感染状況 新型コロナウイルス

2020-04-16
日本の感染状況

薬剤師・伊東大輝くんの提案

2020-04-19

【アルコールがないとダメなのか?】
「アルコール(消毒剤)がないとダメ」と思う方がいらっしゃるのではないかと思うことがあった為、簡単にまとめます。
不明な点は僕まで問い合わせて頂いても結構です。
(医療・食品業界以外の会社やご家庭を想定しています。)

【手洗いすれば消毒剤不要】1)
手洗いこそ最強!面倒くさがらずに手を洗え!
ちゃんと爪や指の間までしっかり洗え!3)
(アルコール消毒する時も爪や指の間まで擦り込みましょう)

殺菌ハンドソープとかじゃなくても普通の固形石鹸でよいです。
よって、家庭内にてアルコール消毒が必要なシーンはあまり無いと考えます。実際に我が家では手洗いだけでアルコール消毒は行ってないです。

【消毒剤が必要な場面とは?】
●多くの人と関わる仕事●外回りの仕事 等
→その度に手洗いができない場面はアルコールによる消毒を。
●多くの人が触れる箇所
→石鹸で洗えない所は、次亜塩素酸ナトリウムまたはアルコール、または掃除用品等による消毒を!1)2)

【アルコールはワンプッシュ押し切り】
製剤によっても異なりますが、だいたいワンプッシュ押し切ると丁度よい量が出てきます。細かくツープッシュよりワンプッシュ押し切りの方がよい可能性が高いです。しっかり爪や指の間まで擦り込みましょう。

【参考になるページ】
1)厚生労働省・経済産業省「手を洗いましょうポスター」
https://www.meti.go.jp/covid-19/pdf/0327_poster.pdf
家庭用漂白剤による次亜塩素酸ナトリウム消毒液の作り方も書いている。
2)北里大学「医薬部外品および雑貨の新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)不活化効果について」
https://www.kitasato.ac.jp/jp/albums/abm.php…(SARS-CoV-2)不活化効果について.pdf
除菌スプレーや家庭用の掃除用品の消毒効果を検討している。
3)厚生労働省「手洗い方法のポスター」
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000593494.pdf
意外と雑に洗ってないですか?この機会に見直しましょう。

文責:伊東大輝・薬剤師(伊東薬局)

真宗大谷派の指針

2020-04-17
法要(葬儀・法事等)における新型コロナウイルス感染症の感染防止に向けての宗派指針

2020年4月17日更新

法要(葬儀・法事等)における新型コロナウイルス感染症の感染防止に向けての宗派指針

このたび、法要(葬儀・法事等)における新型コロナウイルス感染症の感染防止に向けての宗派指針を取り纏めましたので、感染拡大防止に向けてご門徒や有縁の皆さまと十分にご相談いただき、下記のとおり対応くださるようお願いいたします。


1 法要前には必ず、手洗い・手指の消毒を厳守ください。
  また、参列者にも同様に手洗い・手指の消毒を徹底いただくよう依頼ください。
2 常に咳エチケットを心掛けるとともに、勤行・読経の際にもマスクを着用ください。
  また、参列者にも同様にマスクの着用を徹底いただくよう依頼ください。
3 感染リスクを減らすため、3つの「密」を避けてください。
 ① 「密閉空間」を避けるために、できるだけ換気をしてください。
 ② 「密集場所」を避けるために、参列者にできるだけ間隔をあけて着席するよう促してください。また、お焼香も間隔をあけるよう配慮ください。
 ③ 「密接場面」を避けるために、間近での会話や対面による会話を可能な限り、避けてください。※法話は一定の距離(2メートル以上)をあけてください。
4 法要終了後のお斎(会食)は控えてください。
5 37.5℃以上の発熱や体調の優れない方には、法要への参列を控えていただくよう依頼ください。
6 新型コロナウイルス感染症で亡くなられた方の通夜・葬儀等を執り行うにあたっては、
  国の方針(※厚生労働省が示す「新型コロナウイルスに関するQ&A(関連業種の方向け)令和2年4月15日時点版、3.遺体等を取り扱う方へ」等)を踏まえた上で
  医療機関や葬祭場とも連携をし、感染防止のための衛生対策に努めてください。
7 日常的な自己管理を徹底し、感染症の媒介者とならないように留意ください。
8 新型コロナウイルス感染症への対処法を正しく理解し実行することで、
  差別や風評被害が広がらないように努めてください。

コロナに思う♯14 田中耕一氏 02年ノーベル化学賞 島津製作所

2020-05-11
https://youtu.be/VCoT2RE_IHI

仰せを蒙りて

三明智彰学長の講義 「光明無量の願」

2020-05-08
https://www.youtube.com/watch?v=1od0tq9_3ec&feature=youtu.be
1954年、弘前市に生まれる。
早稲田大学教育学部国語国文学科卒、東京大谷専修学院卒、
大谷大学大学院文学研究科真宗学専攻博士後期課程単位取得満期退学。
大谷大学助教授、愛知新城大谷大学教授・社会福祉学部長、
九州大谷短期大学副学長を経て、九州大谷短期大学学長。
九州大谷真宗研究所所長。
明教寺前住職。
量深学場主宰(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

こころを満たす智慧 『歎異抄』を読む 団塊世代の仏教入門』より 

「行く」ということ

2020-05-08
縁の働き
Yasuda Rizin

652

本願寺の事業としてはいろいろな人が行くわけです。
全国にみな派遣されて、
行って講習会を開くのです。
教団の事業としてはいろいろな人が行くわけです。
そういうことと関係なしに行くのは私と曽我先生だけです。
不思議なことです。
縁がなければ行かないし、
縁があればどこでもどんな遠方でも行くと。
縁がなければどんな近くでも行かない。
こういうように、
縁ということを考えてみなければならないことだと思うのです。

653

考えで行くのではない。
計画で行くのではない。
縁で行くのです。
縁は分別を超えているのです。
本願寺の教団として何か必要があって行くのではない。
そういうような計画を立てて行くのとちがうのです。
考えを超えて行くと。
考えで行くのではない。
まず行くと。
後で考えたらいいのです。


654
はじめから考えて行こうとすると、
行く時は無いのではないかね。
あれもある、これもあると。
あれを整え、これを整え、これを解決して、
それから行くということになると、
それだけでもう済んでしまうのではないかと思うのです。
だから私はいつも言うように、まず行くと。
考えて行くのは心で行くのです。
心で考えて行くのです。
けれども縁があって行くのは体が行くのです。
心はあとでいいのです。


655
だから出かけて行って、
用事があったなと気がついたら、
その時に引き返したらいいのです。
まず行って、
引き返したらいいのです。
初めから引き返さないように考えて行こうとすると、
考えているあいだに済んでしまう。
そうでしょう。
また
考えて考えたとおりになるのなら、
行く必要はない。
そうでしょう。
 
656
だから仏法に「分かって行く」ということを考えるけれども、
分かったなら仏教の会に入る必要がない。
そうでしょう。
けっきょく分かるとか分からないとか言うのは心であって、
分かる分からないのではないのが体です。
それで体というところに存在があるわけです。
私が存在すると考える先に、
まず第一に存在している。
だから
そこに身体というような問題がある。
身体を動かすというようなところに
縁があるのではないでしょうか。

『自己に背くもの』 安田理深述 (19) 変革の成就     プログ唯識に学ぶ・誓喚の折々の記より

2020-05-07
八番問答講話 安田理深

政治や経済をいかに改めても自己は同じであって変わらない。ところが夢から覚めれば必堕無間が必得往生になる。絶対的生産的行為である。社会改造ということは、五逆罪は社会的罪であり、謗法は個人的事件にすぎぬと考えているけれども、実はそれは逆で宗教の世界と社会の世界とは違う。一瞬一瞬に驚天動地がある。社会変革は大事件のようであるが、たかがしれている。結局それは人間がやっていることである。人間のすることは限界がしれている。これは非常にありがたいことであるが、信仰認識が他の認識といかに違うか、即ち夢から覚めたというの偉大な特徴である。そこに認識の確実性、真理性、実在性をともなってくる。明覚知証が同時に遠離の変革をともなう変革の認識である。頭は解ったが腹はふくれないということはない。闇と光とはそういう対立である。こういう点譬が大切で親鸞聖人でもそうであるが、インドでは譬はふつう説得術としてあり、論義学の意義をもっている。譬喩を大前提であらわす、たとい・・・・・何々の如し、全て作られたものは滅するというのを作られたるが如し・・・・・という。譬が非常に大事である。譬を大前提であらわす。 「凡ては死す」 ということは直覚的自明な真理である。直覚性が譬喩をとって、そこでは論理は要らない。正信偈に、譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 といってあるが、あれは親鸞聖人の会心の作である。親鸞聖人の得意なところである。これはここの千歳の闇室と連関がある。信仰認識をいかに捉えたかというと日光である。 「譬えば日光の雲霧に覆わるれども雲霧の下明らかにして闇無きが如し」 こういう譬は信仰を外から模索しているような立場では出てこない。ここで大切なことは信仰の光によって 「雖」 「にもかかわらず」 ということが大事な点である。闇はないけれども雲霧はある。闇が晴れたことは夜の明けたことである。夜が明けておれば必ずしも晴天でなくとも、曇天であってもさしつかえない。もし夜が明けたことが晴天ならば、信心を頂いたことは成仏で凡夫ではない。信心が頂けたからといって貪愛瞋憎雲霧即煩悩がなければ仏になったのである。そうなると 「怪しく候いなまし」 となる。もう腹はたたないという人があるか。煩悩があってもさしつかえない。疑惑があっても無明があってもよいというがそれは逆であり、根本的な誤解である。くもっていることが直ちに夜だと思っているが、実は雲が見えたということは実は夜が明けた証拠である。雲が見えることは自分が見えることである。自分が見えることが夜が明けた証拠である。ここに親鸞聖人の譬は他力廻向の信心においては雲の有無は問題でない。夜が明けたか、明けぬかということが問題である。雲があってもいっこう障りではない。 「悪も恐れなし」 という現生不退の譬喩で語っている。これは親鸞聖人の得意なところであろうと思われる。業というものが暗いということは夜がまだ明けていない証拠である。業というものを実体化し運命化しているからである。本当に深い業というものは夜が明けている。そこに煩悩が頂ける。 「悪も恐るべからず」 というのは既に転悪成善している。転じないのは実体化しているからである。それが十念の念仏によって消えるという。煩悩が頂けるという。だからよく 「信仰を頂けば光は光自身を顕すとともに闇をあらわす。光を頂けば益々深い闇が頂けるという。そんなことはないと思う。知ればなくなるのが闇であると思う。そうでなければ暗いのが信仰の状態であると思うことになる。夜が明けるということは自力我執の心が折れたことである。自力我執の心、頭をあげていると悪作であり、頭を下げないのは悪むものがあるからである。頭は実践理性である。実践理性が五逆罪を悪む。頭を下げれば煩悩自身が頭をさげてくる。人に妨げられるのは人を妨げているからである。自力我執の心が砕かれれば煩悩自身が喜んでくる。煩悩自身が随喜してくる。

 在縁、妄想に依止しては在心という。虚妄顛倒の見である。 「この十念は無上の信心に依止して阿弥陀如来の方便、荘厳、真実、清浄、無量功徳の名号に依りて生ず」 無上の信心は 「善知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるに依りて生ず」 とあるが、その無上の信心は第一の在心をいうのである。 「阿弥陀如来の方便、荘厳、真実、清浄、無量功徳の名号」 を在縁という。在心は信心、在縁は名号である。これは何かといえば、五逆罪は父を殺し、母を殺し・・・・・そういうものは煩悩の虚妄果報、果報であるところの煩悩によって衆生を対象として行われた罪悪というものは父を殺し、母を殺し・・・・・即ち五逆を犯した衆生、煩悩果報の衆生である。衆生を所縁として起こった。罪は誰かを所縁として起こされたものでる。所縁とは対象である。阿闍世が父を殺し、提婆は仏から血を出したというが、仏といっても提婆は仏を見ているのではない。仏というのは身体があったり、いろんなことを行為したりしている。五逆に立てば仏も衆生である。日本人は天皇を神といってきたが、神はご飯を食べないのか、食べなければ天皇も死ぬ。死ぬならば天皇は神でない、というのは愚直である。ああいう飯を食ったりしているものを神といっているのではない。位をいっているのである。人間だけを見ていれば子供もある。煩悩果報の衆生である。しかし仏や天皇は殺されるものではない。だからわれわれの殺すことができるものを衆生というのである。殺すことのできぬ、否定し得ないものを名号という。ここにも譬喩がある。首楞厳経にある名号を聞く功徳を滅除薬の鼓を聞くに譬ている例を出してある。

 此の十念は無上の信心に依止し阿弥陀如来方便・・・・・・名号に依りて生ず 譬ば人有りて毒の箭を被って中る所筋を截り 破骨滅除薬の鼓を聞けば即箭出て毒除こるが如し。あに「彼の箭深く毒厲しからん、鼓の音声を聞くとも箭を抜き毒を去ることあたわじ」と言うことを得べけんや。これを「在縁」と名づく。(真聖p275・信巻)

 名号を聞くと鼓の音を聞いて毒箭が除かれるように、三毒の箭は自然に除こる。例えば薬で病を癒すというが、それは病の征服に薬というのは人間解釈である。世のなかは直す者もなければ癒すものもない。薬品は意志をもっていない。病気も苦しめようとしていない。素直に病気になっている。そうなるべくして成っている。自然に病気の現象があるばかりである。だから癒るのは別に癒すものなくして癒る。それが根本的事実である。癒すとか癒さないとかということは後から加えた解釈である。念仏を聴聞すれば正しい道理が知らされる。正しい道理でわれわれは救われるのである。仏に救われるというのは間違いである。そういうことをいうと判らぬが道理に助けられる。仏という人に助けられるのではない。自然の道理に救われる。道理は癒す意志があるわけでない。本当の絶対現実に帰ってゆく。そこに決定がある。罪の意識というものは有後心、有間心である。後がある心、間の有る心である。間とは間雑である。外のものが交わってくる。念仏の信心とは違う。信心の無後心、無間心である。人間がいかに頑張っても本質的にまが抜けている。空虚がある。弱い心である。ところが念仏の信心はそれ自身最後の心である。自力の最後の心である。自力の最後のところ、自力の終わるところに念仏の信心がある。こういうところに決定ということがいわれている。兎に角、在心・在縁・在決定と三つを通じて質が違うということをいっている。

 念仏とか信心とかいっても一念というところにはっきりする。信行という事実に触れてくるのである。この場合時間でない、のみならず意識的時間でない。ふつう考えられる時間は意識的時間である。空間に翻訳した時間である。存在的時間である。それに対してあるものは現在である。過去としてあるものは記憶である。現在において繋留したものである。永遠の今はまだ意識的時間である。一年は行為的時間である。だから時節を問わぬ内容をもっている。なるほどというとき、多刹那にわたって一つの行事成弁という。一つの事実がそれによって完成するのを一念というのである。一刹那をもって完成するとき一念という。信仰のもっている行為的時間である。空前絶後のときであり、無始以来の自己、曠劫来死んでいる自己が新しく生まれるときである。それが本願のできごとである。十念といってあるが、十という数を知れることが既に反省しているでないか。反省していれば一心一向になっていないでないか。一心一向になったら数えられないであろうと。

 ひぐらしは夏生まれて夏死んでしまう。ひぐらしは春秋を知らず、従って夏も知らない。夏といっているのは人間である。十念もわれわれは知らない。十念は仏の知っていることである。

                                 (完)

『自己に背くもの』      プログ唯識に学ぶ・誓喚の折々の記より

2020-05-07
八番問答講話  安田理深述

    - 『自己に背くもの』 -

     八番問答講話  安田理深述 (3)

 「本願成就」

  答曰案王舎城所説「無量寿経」。「仏告阿難。十方恒沙諸仏如来。皆共称嘆無量寿仏威神功徳不可思議。諸有衆生其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生住不退転唯除五逆誹謗正法」

 (答えて曰く、王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、「仏阿難に告げたまわく、十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを称嘆したまう。諸有の衆生、其の名号を聞て、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまえり。彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せんと、唯五逆と正法を誹謗するをば除くと。)

 と引用してある。これはまあ教行信証をみているとか、法門にいる人にはこの言葉は大無量寿経においていかに重要であるかが判っているけれども、門外にいる人はそうは思わないかもしれないので、どうも面倒なことである。近代人のわれわれは直接経典を見るというようなことはできないのである。歴史を離れてあるものならばとも角、その歴史というものを離れて大無量寿経というものはない。経典は自己の歴史をもっている。歴史を離れて経典というもそれは生命を持たぬ。この語は大経下巻の始めに出る第十八願成就の言葉である。ところが第十八願の言葉は諸有衆生からであるが、その前は第十七願成就の言葉である。これはなかなかやかましいところであるが、ここは第十七願にはさして重要な意義というものはないと思う。そのわけはよく文章を見ると十七願の成就は、句を分ければ十七願成就の文と十八願成就の文と分けれ必要かもしれぬが、生きた文章として見るとき、それと十八願成就の文とははなれたものではない。事実からいってもそうである。因位の本願からは十七・十八願を区別しても、成就するところに即ち信仰体験の上ではばらばらであるわけのものではない。成就は体験であり、体験の上では事実として一つである。

 その因位の本願の上では第十七・第十八の願はそれぞれに独自の原理、意義を持っている。成就では一つ、第二十願をも加えて三願の成就が一つになっている。そういうことは意義の深いことである。しかしここで十七願の成就文が曇鸞の引用中に出ているが、その十七願の意義を始めて明らかにされたのが教行信証である。十八願、二十願、十二願、十三願の大事なことは曇鸞大師を通して見出されていたのであるが、なお十七願の意義は見出されておらぬ。十七願の文章はあってもその意義は見出されておらない。それは頭が悪いというわけではなく時機純熟しないからである。時機が到来しない。その十七願の意義を明かす時機が親鸞において来た。十七願の意義は教行信証の意義の半分を尽くすというも過言ではない。十七願はみたところ、一向に大した願と見えず、何か諸仏がオーケストラをやっているようであり、一向捕らえようのない願である。第十七願は第十八願を讃える補助的願、即ち独自性を持たない願のようである。教行信証に来て始めて十七願は大行の願として、念仏というものを自ら称えしめる原理として、十八願を十方世界に行ぜしめる願という意義を見出して来たのである。かかる実践の行であり、そこに重誓の偈、本願を本願する誓いを十七願の上に見出して来た。本願の念仏は十七願の上に成立する。十七願の意義はどうしても親鸞の教行信証をまたねばならぬ。ここでは十七願の意義ということはいらないと思うのでああるが、ここに諸有衆生聞其名号信心歓喜の「其の」とは前にいってあることを指す代名詞であり、上に出る十七願成就を受けているのである。十七願というものを出さなければ、其のということが判らない。直接には十七願成就文は必要ではないが、必要なのは十八願成就文であるが、それは十七願成就文から不可分に続いている。しかしさしあたりここで必要なのは

 諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至 心回向願生彼国即得往生住不退転唯除五 逆誹謗正法

 という本願成就の言葉であるといわれている。

 大無量寿経は四十八願を説かれた経である。そして単に如来の本願を説いた経であるばかりでなく、その本願の成就を説いてある。もしそうでなければ物語を説いているにすぎない。だから大無量寿経のなかに大無量寿経によって救われた体験があわせて述べられてある。大無量寿経は阿弥陀仏の本願に救われた人がその救いの体験を通して、その救われた体験に即して救いたまう本願を説いた。これが大無量寿経というものである。その因願のなかには十方衆生というたある。それは十方衆生、ただ十方衆生といってあるが、それは誰だか判らない。本願はそれだけであるが、主観的なもの、観念で終わってしまう。それが本願成就文のところでは諸有衆生となっている。法は機をまたぬとただ観念的な存在として終わってしまう。やるせない本願としてあるものである。機をまって始めて本願が行となる。生活となる。行というものが生きている証拠である。救われたか救われぬかの証拠は行である。行があるかないか、行がないと安心も成り立たぬ。行が願である。願というところでは非常に深いが微かなもの、願が行というところに力となる。現実のわれわれの上に願というときはわれわれを離れる。それがわれわれの上に成就する。それを行という。本願が空中に成就するということはない。本願がわれわれの上に成就してわれわれを転廻する。本願がわれわれの上に来ってわれわれを招喚し摂取する。変革する。そこに歴史的、運動というものがある。因位の本願では十方衆生といってあり、成就の文では諸有衆生といってある。十方の衆生ではただの衆生ということと同じであるが、それが機というものをおさえてくるところに諸有衆生と具体化されて来たのである。

人間が完成する

2020-05-04

646
信心の問題といっても宗教の問題といっても
人間と別にそういうものがあるわけではない。
人間が完成するというところに
宗教というものの問題があるのでしょう。
宗教は人間について「付け足し」の問題ではないのです。
宗教というものがなければ人間は完成しないのです。

647
人間だけで人間が完成するものではないと。
宗教問題と人間問題というものは一つだと。
こういうようなことが
基礎になっているのではないかと思うのです。
「いや人間の問題は人間だけで十分だ」と、
そういう考えも一つの考えだけれども、
そうではないでしょう。
人間というものは、
人間では解決できない問題を自己の問題とする。
それが人間なのだと。
こういうわけです。

648
神というものを立てるときに、
神は不思議だというけれどもそうではない。
人間のほうが不思議であると。
この不思議な存在、それが人間であると。
人間というものは、
人間にわからないような問題を持っているのです。
人間以上の問題を持っている。
それが人間である。

649
人間の問題は人間でやる、
人間以外の力は要らないと。
こういう一つの「人間で人間を決めた」考え方です。
しかし人間の持っている問題は、
人間の能力を超えた問題なのです。
それが却って人間の問題であると。
であるからして
宗教問題と人間の問題が一つになってくる。
だから
宗教問題は
人間にとって贅沢な・要らない問題ではない。
隠居した問題ではない。
隠居になると
これはどうなるかというと、
風習になってしまう。
風習です。
習慣になってしまうのです。

お釈迦様の話

釈尊の生涯と教え

2020-04-19
https://youtu.be/EvjMcWZGzQg?list=PLERGeJGfknBQ5l6kTs05lLYDa_4FGOlAF
中村元 - ブッダの生涯 【HD】
https://youtu.be/NWZtkxP3eGg
仏教の本質 哲学者「中村元」

釈尊のお説法

2020-04-07

五戒について

2020-04-25
今月のことば 平成18年8月のことば

今月のことば

4月のことば
実るほど頭を垂れる稲穂かな

4月は学校では入学の、会社では入社の季節です。入学される皆さん、入社される新入社員の皆さんは、新しい世界でいろいろなことを学び、吸収し、成長していく自分や、新しいことにチャレンジする自分への期待と希望に胸をふくらませていらっしゃるのではないでしょうか。これから進まれる新たな環境のなか、皆さんが日々試行錯誤し努力しながら、一歩一歩着実に成長していかれますことを心より念じております。

 

さて今月は、新たな一歩を踏み出される皆さんが今後さまざまなことを学び、経験されていくうえでご参考になればと思い、「人間の知恵」と「仏の知恵」について考えてみたいと思います。

 

まず人間の知恵とはなんでしょうか。広辞苑によると知恵とは、「物事の理を悟り、適切に処理する能力」とあります。人間の知恵には、生きるための知恵、仕事をスムーズに進めるための知恵、成績や結果を出すための知恵などさまざまな知恵があると思いますが、その知恵を得るために私たちは多くの知識を覚え、理解し、学問を深め、教養を身につけようと頑張ります。つまり自らが「賢くなろう」と努力するわけです。

 

これに対し、仏の知恵とは、仏の方から私たちに働きかけ、さまざまなことに執着し、他者と比べて優劣を気にし、他人を妬み嫉む自分の姿に気づかせ、目覚めさせてくれます。この働きを仏教では光と表し、仏の知恵の光に照らされ、私たちは今まで見えなかったことを見えるように、気づかなかったことに気づかされ、目覚めさせていただきます。つまり煩悩まみれの自分の姿に気づき、ただ頭が下がるようになります。

 

このように人間は自ら賢くなるように努力し、知恵をつけようと頑張るのですが、ついてきた知恵を誇り、自分の力で生きていけると思うようになると横柄になります。また、自分の言うことが正しく、自分は善人であると思い込んでしまいます。自分の力で生きていると思っているので、仏の働きに見向きもせず、自分の姿を正しく見ることができなくなり、おのずと頭が上がってしまいます。

 

「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉を皆さん一度はお聞きになられたことがあるのではないでしょうか。この言葉の意味は、「故事・俗信 ことわざ大辞典(小学館)」によりますと、「稲の穂は実が入ると重くなって垂れ下がってくる。学問や徳行が深まるにつれ、その人柄や行為がかえって謙虚になることのたとえ」とあります。頑張って身につけた知識、学問、教養が本当に深まり、身についてくると、おのずと人格も形成され、周囲に対し「お陰様で」と謙虚になり、思いやりの心を持って接することができるようになります。この「深まり」こそが仏の知恵の働きかけであり、「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、すぐ思い上がり、自惚れてしまう私たちに、そうした自分の姿になってないか問いかけてくれる言葉ではないでしょうか。

 

近年、自らの知恵を頼み、高圧的になったり、自分の意見以外は間違っていると固執する人が増え、人間関係や社会がギスギスすることが多くなってきたように感じます。「お陰様で」というこれまで大事にしてきたことが薄れてきたようにも感じてしまいます。これから入学される皆さん、入社される新入社員の皆さんには、知識を覚え、理解し、学問を深め、教養を身につけるプロセスの中で、頭が上がりがちな自分の姿に気づかせてくれる仏の働き(知恵)に素直に耳を傾ける心がけを持っていただきたいと思います。そうした心がけを持って日々精一杯努力することで、皆さんの人生がより実りあるものになるのではと思うのですがいかがでしょうか。(宗教部)

 

https://gakuen.koka.ac.jp/archives/571
 

光華の心

本学園では校訓「真実心」に込められた願いを「光華の心」と表しています。
「光華の心」とは「向上心」「潤いの心」「感謝の心」の3つの心です。
本学で学ぶ全ての方々が「光華の心」の実践者として、常に「向上心」を持って自己を精一杯生き、自我に捉われることなく、
他者をあたたかく思いやる「潤いの心」と、他力により生かされていることへの「感謝の心」を忘れず、他者と共生できる女性、
即ち、社会を照らす「光」となり、社会を潤す「華」となる女性に育って欲しいと願っています。

Facebook 仏教美術の世界 仏像・伽藍の逸品等の情報ページです。

2020-04-26
https://www.facebook.com/groups/766265100476717/

ブッダは80歳の時最後の旅に出た。

2020-05-04
https://youtu.be/7WXzEe8xQvo  その旅でいかに老いを受け入れ、病に耐え、死を迎えたのか。作家の五木寛之が道程をたどる。
http://kintaku3.blog.fc2.com/blog-entry-160.html

ちょっといい話

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失敗について

2020-05-27

iPS細胞研究所山中所長 x 早稲田大学田中総長 スペシャル対談 Part 1

2020-05-27
https://youtu.be/1qooW-fBCGs たくましい知性、失敗を糧として・・・

『紺碧の空』と『栄光の早稲田』

2020-05-26

戦争の世紀の幕開け

2020-05-21
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1914(T3)年】
 

(第一次世界大戦 勃発)
*7.28/墺 オーストリア、セルビアに対して宣戦布告、「第一次世界大戦」勃発!
 

 サラエボ事件で、オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、第一次世界大戦が開始された。当初は、関連諸国に世界戦に拡大するという認識は薄かった。しかしその背景には、一触即発で世界大に広がる複雑な構図があった。
 

 直接はオーストリアとセルビアであったが、オーストリアの後ろにはドイツ帝国があり、セルビアは汎スラブ主義を進めるロシア帝国があった。そしてさらに各国は、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国)と、三国協商を形成していた英・仏・露を中心とする連合国(協商国)と、2つの陣営に分かれ対立した。
 

 さらに日本が日英同盟を理由に参戦し、イタリア、アメリカも連合国側として参戦する。そして、それら列強が世界中に植民地展開していたため、植民地間での戦闘も含めて、またたくまに世界を巻き込む戦争となった。一般では戦争が早期に終結するものと楽観されていた。
 

 しかし、進化した機関銃の組織的運用等により、防御側の優位の状況が生じ、「塹壕戦」による持久戦が主流となり、戦線は膠着し、戦争は長期化した。この結果、大戦参加国は、国民総動員体制をとり、国民経済のすべてを投入する「国家総力戦」を強いられ、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。
 

 協商国側は海上封鎖で、同盟諸国の植民地との連絡を断つ戦略を展開し、経済を疲弊させた。1918年にはオスマン帝国、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解、ドイツでも、キール軍港での水兵の反乱で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争では900万人以上の兵士が戦死し、その人的被害、経済的被害は、史上初の世界大戦として記録された。
 

 第一次大戦の結果、戦敗国であるドイツ、オーストリアは当然のこと、戦勝国側のイギリス、フランスも国力が疲弊し、やがてヨーロッパ諸国に代ってアメリカが世界の中心に登場する原因となった。またロシアでは、大戦末期にロシア革命が起り、内戦状態となり、終戦をまたず離脱することになった。
 

 第一次大戦を舞台にした映画は数多くある。激戦の戦場を描いたものは多いが、これも大戦を背景にしたものだと言うのを挙げてみると、『アラビアのロレンス』"Lawrence of Arabia”、これはイギリスの諜報将校として、アラビア人の世界に入りこみ、アラビアの独立に協力するロレンスを描く。
 

 また、スピルバーグ『戦火の馬』"War Horse" は、第一次大戦に投入された馬の、数奇な運命を描いた、異色の戦争映画。
 

(追補)
 イギリスの「三枚舌外交」は、以下の三つの協定に集約され、それぞれ、アラブ・フランス(+ロシア)・ユダヤの利害に配慮した。その相互矛盾がのちの中東問題の起点となった。

 1. 1915年サイン=マクマホン協定(中東のアラブ独立)
 2. 1916年5月サイクス・ピコ協定(英仏露による中東分割・秘密協定)
 3. 1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設)
 

 オスマントルコが束ねていた地域が、小トルコとそれ以外に分割され(!)、その残余部分が西欧列強によって勝手に分割され(2)、ユダヤ資金と引き換えに、後のイスラエル建設に暗黙の了解を与えた(3)。まさに現在の中東地図に描かれる状態を準備したことになる。
 

 ロレンスは1の実現をタテに工作を進めたが、2・3によって、まったく別の中東世界が形成されることになる。英の「一枚目の舌」に乗っかって暗躍した小物に過ぎなかった。
 

〇この年の出来事
*8.15/パナマ 大西洋から太平洋へ、基線が通り抜けた。苦難30年、パナマ運河開通。
*8.23/日 日本、ドイツに対して宣戦布告。
*10.14/南洋諸島 日本軍、ドイツ領南洋諸島を占領し、同盟国イギリスと「山分け」する。
*11.1/日 少年雑誌『少年倶楽部』創刊。発行元は「大日本雄弁会講談社」
*12.18/日 帝都交通の要「東京駅」が開業、ヨーロッパ風の赤煉瓦3階建て。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170509

フォーディズムの時代

2020-05-20
Facebook 佐々木信雄さんの投稿
ヘンリー・フォード
流れ作業
ベルトコンベア式組み立てライン
量産車 T型フォード

【20世紀の記憶 1913(T2)年】
 

(T型フォード量産)
*4.1/米 大衆車「T型フォード」量産体制に。ベルトコンベヤ方式による分業を導入する。
 

 1908年に発売された「フォード・モデルT」は、この年1913年には世界初のベルトコンベア式組み立てラインを導入した。それまで数人の熟練工の手作業で、数日かけて完成車にしていたが、ベルトコンベアによる流れ作業による分業化にするには、単にコンベアを導入すればよいというものではない。コンベアの流れる時間に合わせて、人員配置から部品の規格化まで、すべて「システム」として同期させなければならない。
 

 部品の簡素化・内製化、流れ作業による未熟練工員の間での分業化により、車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超えた。1908年の初生産から1927年まで、T型フォードは、基本的なモデルチェンジのないまま、通算で1,500万台が生産された。これに相当するのは、2100万台以上を生産されたという、後年のフォルクスワーゲン・タイプ1(通称ビートル)のみである。
 

 ヘンリー・フォードが作り上げた大量生産、大量消費という生産販売システムは、現代の資本主義の象徴するモデルとなり「フォーディズム」と呼ばれる。それは、大量生産できる高効率の工場設備、従業員のモチベーションを高める高給料、一台当たりの生産コストの革新的な低減などを組み合わせた画期的な方式であった。それは単なる工場管理法にとどまらず、フレデリック・テイラーの提唱する「科学的管理法」を採り入れた総合的マネジメント・システムであった。
 

 「フォーディズム」は自動車業界にとどまらず、20世紀における労働、経済、文化、政治などの各方面に多大な影響を及ぼした生産活動であった。しかし、充分な機能の車を低価格で提供すればよいというヘンリー・フォードの考え方は、時代の流れの中で劣化していった。一方、フォード社のライバル、ゼネラルモーターズ社(GM)は、消費者のニーズに合わせた多品種の車種を生産し、割賦販売を導入するなどして、黒色ボディー一色にこだわり続けた実用車T型フォードを圧倒していった。
 

 結局、フォーディズムも科学的管理法も、究極的に効率を追求するシステムであった。そこでは、機械や部品と同様に人間も効率性の下に評価される。機能が優れて低価格ならば顧客は満足する、賃金が高ければ従業員は充足する、しかしこの考え方は、生活に余裕が出始めた消費者には通用しなくなる。また、いかに高賃金であろうとも、長時間を単純作業で過ごす従業員は耐えられなくなる。
 

 さまざまなニーズの消費者に向けて、自動車ディーラーの店頭には多品種のカラフルな車が並び、製造工場でも、ベルトコンベア方式を廃したボルボ社カルマール工場の生産実験が、経営学の話題に上るなど、人間をシステムの一つのモジュールとして扱う側面が批判された。しかし、効率性の追求は資本主義の基本原理であり、その中で、消費者のニーズをいかにつかむか、従業員のモチベーションをいかに高めるかが、マネジメントの世界では追及され続けている。
 

 チャーリー・チャップリンは『モダン・タイムス』で、機械の一部分となる労働者を描くことで、資本主義社会や機械文明を痛烈に風刺している。さすがに現在では、このような状況は解消されたかに見えるが、資本主義社会であるかぎり、人は「効率」という指標にさらされ続けていることに変わりはない。
 

(補記)
 テイラー科学的管理法やフォーディズムのアンチテーゼとして、経営学教科書に必ず出て来るのが、戦前の有名なウェスタン・エレクトリック社「ホーソン工場研究」と、戦後ではボルボ社「カルマール工場実験」だ。これらの実験では、作業に関わる労働者のモチベーションが重要であることが明らかになった。
 

 科学的管理法は、人間を物理的客観的にとらえて作業効率を図ろうとする。ホーソン実験も当初は、作業条件と作業効率の関係を調べる目的で始められた。
 

 しかし作業環境を悪くしても、実験の作業効率は上がり続けた。当初の想定と違って、実験で注目されているという作業者の「モチベーション」が能率を高めているのだという結論を得た。
 

 戦後、スェーデンのボルボ社カルマール工場では、労働者の主体性を尊重するという労使間の合意により、非人間的なベルトコンベア・システムを廃止した。その結果を引用すると、

 >>1970年代、労働条件改善のためにベルトコンベアー生産方式を廃止し、各工程で工員数人から成る作業チームを主体とした生産方式を採用した。これは労働者に歓迎され、生産技術者らの注目を集める一方で、労働コスト高騰によって国際競争力を失い、結果として高級車の生産に移行していかざるを得なくなった。<<
 

 つまり、労働者の意欲は高まって充足されたが、生産効率は、コンベア・オートメーションには劣ったということだ。結果的に、ボルボ社は高級車にシフトし、そのブランド力を獲得した。
 

 これは、T型フォードの時代には成り立たず、戦後の経済が確立して、消費者が豊かになり、品質重視の選択をするという状況が出来てきたからであった。
 

〇この年の出来事
*5.28/仏 ストラビンスキーのバレエ組曲『春の祭典』、パリ初演は不満と嘲笑につつまれる。
*7.1/日 宝塚新温泉の余興に女子唱歌隊が誕生。「清く、正しく、美しく」をモットーに、「宝塚歌劇団」の前身となる。
*9.7/欧州 独・墺・伊「三国同盟」を強化! 英・仏・露の「三国協商」に対抗。
*10.11/台湾 日本統治下の台湾で「独立蜂起計画」発覚。指導者ら20人、死刑に。
*11.16/仏 無意志的回想『失われた時を求めて』、プルーストが自費出版。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170506

ちょっと気になる歌・唄

Face book 時代 唄

2020-04-22
https://www.facebook.com/groups/426829040985103/
今のカバー写真 レ・ガールズです。

「帰らんちゃよか」

2020-05-22
https://youtu.be/DWfHs12pkzY

「アカシヤの雨がやむとき」

2020-05-18
https://youtu.be/ttyL7DcfcJM?t=4

古関裕而の楽曲、それは、この曲から始まった。

2020-05-15
https://youtu.be/fMBHIZU9x28 『ビッグショー古関裕而』

Superfiy 「フレア」

2020-05-16
https://youtu.be/0vJrBbcsfac

ちょっと気になる絵

Facebook 傳燈

2020-04-27
10.年20年ではない、永い永い歴史を経て今日まで伝わったものについて
2020(令和2)年の歌会始

Facebook 逸品の世界

2020-04-26
いろいろな分野の逸品を、お楽しみください。
大木の亰人形

大河ドラマアーカイブス

2020-05-22

路線変更です。

2020-05-14
ロマンから義理と人情の世界、そして・・・。
健さんの世界へ

巨匠の時代

2020-05-14
世界のクロサワです。

【Face bookのページ】 味覚嗜好について

味覚嗜好のページ

『ヒタスタイル』5月号 テイクアウト特集。

2020-05-06
ここから始まりました。
中々よいです!

『ヒタスタイル』5月号 テイクアウト特集。

2020-05-06
イタメシは、いかがですか?
日田やきそばも、テイクアウト可です!

大分県日田市、テイクアウト特集です。

2020-05-06
『ヒタスタイル』5月号 「今できる、あんなことこんなこと100」  そして、このテイクアウト特集。
穴井 優さんからの提案です。

大分県日田市のテイクアウト特集  『ヒタスタイル』5月号

2020-05-06
スイーツは、いかがですか?
プレゼンターは、穴井優さんです!

今が旬です。

2020-05-16
長崎県茂木の枇杷
宮﨑県都城のマンゴーです。
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