ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
688
言葉は思惟の結果ではない。
原因なのです。
それによって一人ひとりの思惟が、
言葉というものをとおして初めて、
誰にでも通じるようなものになるのです。
つまり妥当性が出てくる。
独り言は他人には通じないでしょう。
それは独り善がりだからです。
だから何でも座談ということが大事なのです。
ディスカッションということをいうでしょう。
やはり胸の中にためていたのでは話にならないのです。
聞思ということ
679
聞思と。
つまり言ってみれば、
「思」という字が付かないというと、
信心を獲たらやめてしまう。
やぁ、ありがたいと。
これでもう終わったと、
こういうことになるのです。
ところが
思という字が付くと
終わらせないのです
命あらん限り、というのが「思」です。
聞のほかには、何もないのです。
677
「聞即信」ということを言います。
聴聞ということをいって
聴は耳で聞くかもしれないけれども、
聞は信心でしょう。
「如是我聞」というように
これは非常に大事なことです。
迷っている人間が覚るようになるには
聞の一字しかないのです。
聞のほかには、何もないのです。
聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。
676
信を獲(え)るまでは耳に良い加減に聞いていたけれども、
信を獲(え)た時にはわが身に聞いたのです。
わが身にひきかけて聞いたのだから、
聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。
聞ということがそういうように転じてくるでしょう。
信心というものは
675
信心というものは、
名号にたまわった自覚です。
名号を聞いて自覚の眼がひらけた。
実はその開かれた自覚が聞くのです。
そのように逆を言わないとね。
分からないから聞くというけれども、
それなら分かったら聞かないようになってしまう。
そうではないでしょう。
信を得るために聞くというのなら、
得てしまったらもう聞かなくてもいいということになる。
けれどもそうではないのです。
信を得て初めて、無限に聞きたいと。