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今、願正寺では?

今、願正寺では・・・?

この方を探せ!!

2021-09-22
この絵の中に、いらっしゃいますが・・・、果たして何処に?

本堂中尊前から、この方が、皆様をご覧になっていらっしゃいます。

2021-09-22
160年ぶりのお色直しでした。

彼岸会の立花です。

2021-09-22
中尊前です。
祖師前です。
御代前です。
北余間です。
寂静閣です。

彼岸会の本堂です。

2021-09-22

彼岸会の荘厳

2021-09-22
自然光です。
ライトアップ

当代と家族が歩んだ時代

1953年3月15日特急「かもめ」処女列車

2021-10-02
56年前になってしまったが、この日から東海道・山陽本線に特急「かもめ」が運行を開始した。

早稲田の杜です。

2021-10-01
WASEDA University, Waseda Campus (4K Drone View) /早稲田大学早稲田キャンパス・ドローン撮影

「甦える大隈重信」編【早稲田スポーツBEYOND125プロジェクト動画】


【1分でわかる】大隈重信【人物事典】


佐賀市(sagacity)佐賀が生んだ偉人 大隈重信


歴史的音源 「大正4年、大隈重信の演説」

東京時代の先輩の母校の最寄り駅、鎌高前です。

2021-09-29
Facebook 石川進さん曰く
かの鎌倉高校付近、相模湾を横目に走る江ノ電です。
もちろん向こうに走って行く姿ですよ。
意図した訳ではないのですが、隅っこに当日の撮影の足だった赤い馬が写ってしまいました。
1979. 5. 12  撮影

郷土史散策【09.叡電都市伝説の旅】

2021-09-26
Facebook 佐々木信雄さん曰く
郷土史散策【09.叡電都市伝説の旅】
 日本で最初に京都で走った路面電車は、明治28(1895)年に始まり、その後、京都市電として市民に親しまれたが、昭和53(1978)年に全廃された。しかし現在でも、民営の路面電車は走っている。
 京福電鉄嵐山線と叡山電鉄がそれで、それぞれ「嵐電」と「叡電」と呼ばれ親しまれている。ともにかつては「京福電鉄」が運営していたが、叡電は、京阪本線が出町柳まで延線されたのを契機に、京阪電鉄の完全子会社となっている。もっとも、京福電鉄自体も京阪の系列下に入っているので、京都の人は、嵐電と叡電ともに、京福電鉄と思って区別していないようだ。
 京福電鉄はローカルな電鉄会社だが、その名前から想像されるように、かつては京都と福井に路線を持っていた。とは言っても、京福両方の路線が繋がっているわけではなく、そのうち事故を起こして福井の路線は廃止されたようだ。そのような変な名前の零細電鉄会社が、京都でも、まったく繋がっていない嵐電と叡電を営んでいたという、ローカルかつ不思議な歴史がある。
 そしてその嵐電と叡電にも、ローカル路線ならではの逸話がある。嵐電は京都市内と嵯峨野嵐山を結ぶ観光路線として、現在も繁盛しているが、その路線の駅名が難読駅名として有名である。この駅名については、あらためて触れる機会があるかもしれない。
 今回は叡電を取り上げてみるが、嵐電ほど難読駅名があるわけではなく、叡山電鉄と言うにもかかわらず、支線である鞍馬線の方が路線が長く、駅数も多い。いずれにせよ、叡電の沿線には、昔からいわくのある土地が多く、それらの話題を「叡電都市伝説の旅」と称して取りあげてみる。
★叡電都市伝説の旅 その一、出町柳編
 まずは起点となる出町柳。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」というのは、梶井基次郎の短編の有名な冒頭の一節だが、「出町柳の柳の下には幽霊がデル!」ということにはならない(笑) 
 そもそも地名のもとになった出町柳の柳は、戦前のあの室戸台風で倒れて無くなったそうで、しかも「出町柳」と言う駅名は、鴨川西側の「出町」と東側の「柳(柳の辻)」を合わせて適当に付けただけらしいのである。
 しかし、出町柳から叡電に乗って、叡山線終点の八瀬には、八瀬童子と呼ばれる人々が住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁を務めたとされ、延暦寺開祖 伝教大師最澄が使役した鬼の子孫という伝説も残されている。八瀬童子たちは結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、その姿から童子と呼ばれたり鬼伝説に擬せられたりしたのであろう。
 そして終点八瀬叡山口から、叡山ケーブル・叡山ロープウェイを乗り継ぐと、比叡山山頂に登れるが、ここにはかつて比叡山頂遊園地(2000年閉園)があり、夏場には「納涼お化け屋敷」が開設され、かなり有名だった。ということで、なんとかお化けの話しに結び付けておきます(笑)

京都近代化を遡る【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】

2021-09-23
Facebook 佐々木信雄さん曰く
京都近代化を遡る【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】
 1895(明28)年、民間企業である「京都電気鉄道」により第1期区間が開業し、日本最初の営業用電気鉄道となった。背景には、国内に先駆けて琵琶湖疏水を利用して蹴上水力発電所が建設されたことがあり、その電力の活用に電車が挙げられたのだった。当時は電灯や産業用電力利用もほとんどなく、結果的に京電の路面電車が電力の唯一の使い道となった。
 1895(明28)年2月、京都市南部の伏見から京都駅前付近まで最初の路線が開通し、同年4月、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。これは京都岡崎公園を会場として第4回内国勧業博覧会が開かれ、その開催にあわせての開業であった。京電は琵琶湖疏水の発電によって電力が供給されたため、発電所の機械故障や琵琶湖の増水などによる停電で、たびたび電車の走行が止まった。
 さらに開業当初は運転技術や設備が未熟で、衝突事故や電圧変動による立往生などもよく発生した。当時は停留所の概念がなく、電車は任意の場所で乗降扱いを行っていたので混乱をまねいた。また、事故を防止するため、先導役の少年が電車の前を走りながら告知していたが、不安定な電圧が突発的に上がって電車が急加速、先導役の少年自身が轢かれるという事故もあったという。
 その後、京都市による路線建設も進められ、競合する京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、1918(大7)年に市に買収され「京都市電」に統合された。京都市の路面電車は、琵琶湖疎水の水力発電によって供給される潤沢な電力を基にして始められたが、それに重ね、京都の計画的に建設された碁盤の目状の主要道路が電車の運行に都合が良かったことや、人口が多く観光客も多く見込めることなどがあった。さらには、首都東京移転による危機感と市民の進取の風潮が大きく働いたうえに、1895(明28)年の平安遷都1100周年を記念して、内国勧業博覧会が催される事になったことも、追い風となった。
 京都市が京電を買収し競合区間の路線が統一され、大正中期から昭和初期までは市電の第一期黄金時代となった。路線は戦後に至るまで延長され乗客も増大、1963(昭38)年)には一日平均50万人を超える利用となった。しかし昭和30年代の後半からモータリゼーションが進み、さらに市電と競合する市バスや会社バスが増加すると、市電はむしろ主要道路を占有する邪魔者とされるようになってきた。
 1969(昭44)年)、当時の革新系市長により京都市の新たな交通計画が策定され、「十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網」が決定され、財政再建の名目で市電路線の撤廃が始められた。1976(昭51)年に全面撤去へと計画が変更され、1978(昭53)年には全面廃止された。なお、地下鉄路線網は当初計画から40年以上が経過した現在も未完部分を残したままで、京都市財政は破綻の危機に面している。その主要原因は、地下鉄建設の膨大な費用負担だといわれている。
 京電時代に「伏見ー京都駅間」(伏見線)や「京都駅ー北野間」(堀川線)など幾つもの路線が敷設されたが、走る電車はいわゆる狭軌(Narrow gauge)用であり、のちに京都市電と統合されたとき、京都市電の広い軌道を走る
最大文字数 : 10000車体と区別するため「N電」と呼ばれたという。一般に路面電車をチンチン電車の愛称で呼ぶことが多いようだが、京都ではもっぱら狭軌を走るマッチ箱のようなN電のことを、「チンチン電車」と呼んでいた。
 市営化後、堀川線は1961(昭36)年8月1日に廃止され、その他のN電も順次廃止されたが、私はこのころ中学生になったばかりで、東堀川通りを走るチンチン電車を、堀川通りを並走する市バスの窓から眺めた記憶があるが、結局、一度も乗ることがなかった。チンチン電車が廃止になる当日には、記念して造花で飾られた「花電車」が走ったという。

今日の朝刊

上(じょう)は安全?

2021-10-22
読売新聞の朝刊 2021.10.22

師匠のオオム

2021-10-21
読売新聞の朝刊 2021.10.21

衆議院議員選挙、きょう公示です。

2021-10-19
読売新聞の朝刊 2021.10.19

色彩

2021-10-17
読売新聞の朝刊 2021.10.17

川柳

2021-10-16
読売新聞の朝刊 2021.10.16
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